またね

 私はいま、どこでもない場所にいる。

 どこでもない、というのは、人の言葉では言い表しようのない、ということで、「いまの私」には、ここがどこなのかよく分かっている。

 いまはまだ「私」として「個」の意識を持っているが、いずれはそれもほどけていくのだろうと思う。

 思えば、長い旅だった。いや、一瞬の旅だったとも言える。あるいは、旅はまだ続いているとも言える。


 最初は……あれはだれだったろうか。

 からからと、音がしていた。

 葦の原で、不格好に揺らいでいた私に声を掛けたのは、あれはだれだったろうか。

 兄たちに面倒を押しつけられて悩む彼は、私に自分のさみしさを映して同情してくれた。彼には私が傷ついた生き物に見えたようだ。怪我を癒やそうと、柔らかい蒲の穂をたくさん敷き詰めてくれた。ほんとうのところはそんな必要はなかったのに。


 私に『妖怪 朝凪』のことを語りかけてくれたのはだれだったろうか。

 庭の雪を集めながら、妹が死んでしまうのだと、運命の理不尽に憤るまなざしをしていた彼は、だれだったろうか。


 私に行き遭った人は、川辺で、雪の積もる庭で、薄暗い土蔵の隅で、みないちように哀しい目をして「オマエモサミシイノカ」と語りかける。

 私に語り掛けてはいけない。私はその言葉を形に結んでしまうから。

 人が「河童」といい「座敷童子」というものの一部は、おそらく私のようなモノが、語り掛けられた言葉を依り代に、「形」になったものなのだ。

 私に語り掛けてはいけない。形を得た私に向き合い続ける限り、そのさみしさはほどけてゆかないから。

 私を友とする限り、人はさみしさから逃れられなくなる。


 私はほどけ、また結び、ここにいる。

 ほどけているときには結んでいるときの記憶は曖昧だし、結んでいるときにはほどけているときの記憶は曇り硝子を通してみる景色のようだ。

 私はきっと人の孤独を映して結ぶものなのだろうと思う。

 「音がね、人とは違って聞こえるんだ。だから群れるのは苦手だ」と言ったあのひともまた、葦の原をひとりで彷徨っていた。


 ほんのすこしまえのことだ。

 深夜二時、窓の外に黄金の道が見えて、私はまたほどけていった。

 結んだ私はあまり覚えていなかったが、摩天楼に呼ばれたあのときから、私はゆっくりとほどけはじめたのだと思う。

 そして、ついにほどけた。

 世界の境界が柔らかく混じり合う、時刻。

 あちらとこちら、今日と昨日の境目が曖昧になって、昔の思い出が黄金に輝くのだ。

 私は黄金の道を辿って、結んだ自分をほどいていった。

 いつだって、そうしてほどいてきたのだ。私はそれをよく知っているけれど、結んでいるときは忘れがちだ。


「オマエモサミシイノカ」


 私に声を掛けてはいけない。

 いや、声を掛けてほしい……のだろうか。

 分からない。

 結んでいるときの私は、たぶんだれかのさみしさの分だけ、充たされている。


 ほどけているときの私はこんなありさまなのだと、あのひとに伝えることができたらと思う。私もあのひとも、そんな研究をしていたのだ。

 伝えられたら、きっと目を輝かせて笑ってくれるだろう。

 でもいまの私にはその手段がない。

 いや、きっと分かるだろう。

 あのひとはたぶん、自分で調べて答えにたどり着くに違いない。

 それがあのひとが私に差し伸べる「手」だ。

 だからもう、私はさみしくはない。

 ほどけたいまの私でも、差し伸べられた手の、指先の温もりの分だけ、充たされている。


 またいつか、私は結ぶことになるだろう。

 そのときには、かつての、幾人もの、さみしい目をした「あのひと」はきっといなくなっているはずだし、私の「個」もほとんどほどけてしまっているけれど、でも、全部ほどけてしまうわけでもない。

 私は「かつてだれかのさみしさに出会った」その残響を奏でながら、きっとさみしいだれかに出会う。

 いつだっておなじだ。

 なんどでも繰り返すのだ。

 だから私の挨拶は「さようなら」ではない。


『またね』


 いつだってそうなのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

当世 妖怪事象辞典 宮田秩早 @takoyakiitigo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ