2.取捨

 滔々とうとうと、水が走っていく。ただ橋の上から、その水を眺めていた。乱反射した光がちらちらと白く輝いて、網膜もうまくを焼くような気がした。

 吸い込まれそうな光だった。

 別に、生きている理由なんてない。死ぬ理由がないから、ここに立っているだけだ。あの水に飛び込んだところで確実に死ねるようなものではなく、飛び込む理由もないから飛び込まないだけ。

 こんな水量のない、川底が見えている川に飛び込んだところで、骨を折るのが関の山だ。打ち所が悪ければ死ねるのかもしれないけれど、本当に、それだけ。

 人の世の水は、南へと流れていくのだという。南は一体どちらだっただろうかと、天を振り仰いで太陽の位置を確認した。

 じっとりと湿度は高いのに、雨はまだ降りそうにもない。

 けれどふと太陽を見ていた頬に、ぽたりと一滴何かが落ちてきた。それは水滴のような気がしたけれど、やはり雨は降っていない。

 手の甲でこすってみたほほは、それでも少しだけ濡れていた。空気中に含まれていたはずの水蒸気が、はぐれもののように押し出されたのか。

 じとりと湿ったおりの中に、冷たい水がほんの一滴。

 ふらりと足を動かして、それでも川に飛び込んでしまうようなことはない。ただここから頭から落ちて、ざんぶと沈めば海まで流れていけるだろうか。海は、どうしようもないほどに遠いというのに。

 もう一度、水滴が落ちてこないだろうか。たった一滴、それだけでも、きっと。

 生物は進化して陸地に上がり、それでも水にがれることを捨てられない。人類とてその体内にどれだけの水を内包しているのか。しかも、かつての海に恋焦がれるように、塩分を含んだ水を。生まれる前は羊水ようすいの海に揺蕩たゆたって、涙すらも塩っ辛くて、いつまで経っても海にしがみついて離れない。

 それなら陸地で呼吸ができなくなって、当然だろう。元は水の中にいて、えらで呼吸をしていたのだから。

 排気ガスを吐き出した車が、間近を通り過ぎていく。ずっと空を見ていても水滴は落ちてきそうになくて、また足を動かした。

 けれどまた、足を止める。

 足元を見れば、小さな小さな雨蛙アマガエルが、ぴょこりぴょこりとへたくそながらに跳ねていった。えら呼吸を捨てて肺呼吸になって、それでも体を湿らせて。それを成長と呼ぶのだろうか。肺呼吸を選んで、えら呼吸を捨てたのだとしても。

 また、耳の奥でさざなみが音を立てていた。ざざぁんざざぁんと寄せては返して、水際へと足を向けさせるかのように。

 けれど、近寄る気にはなれなかった。まだ、どこにも、行こうとは思えない。どこかへ行くような理由もない。

 流されていく先もないのなら、沈む理由はどこにもない。ただこうして乾いた陸地で、じっとりとまとわり付く湿気に気持ち悪さを感じているだけ。

 へたくそなカエルの鳴き声がした。あの声が雨を呼ぶのなら、ぽたりぽつりと天からいくつもしずくを降り注ぐようにしてくれないか。そうしたら傘もささずにおりから空を眺めて、その水をただ享受きょうじゅするのに。

 とはいえそんなものは、ないものねだりというものだ。待っていたところで降り注ぐものはきっと泥水で、自らがこいねがったようなものにはなりそうもない。

 おりに降るものを待ったところで、それはきっと誰かが捨てたもの。自分が望むものは、口を開けて空を眺めていたところで、誰もそこに放り込んではくれない。


 水中にいた生物は、陸地を選んで水中を捨てた。どれだけそこに名残があろうとも、もう戻れるはずもない。

 それを、選んだのだろう。

 選び取ることが進化であるのならば、なるほど確かにそういうものなのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

檻に降る 千崎 翔鶴 @tsuruumedo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説