チュパカブラの狂気血色

狐木花ナイリ

 フライパンの上でひよこが躍る。白い毛に付着した透明の液体が段々と固まっていって、コップ一杯分の糊をぶっかけた後みたいにひよこの肢体は動かなくなる。

 自らの悪趣味な想像に苦笑いしつつ、キッチンから見える壁掛け時計を見てため息を吐く。トースターから食パンを回収して、それに目玉焼きを挟んで頬張ると勝手に頭が回り始めた。

 今日も大学に行けなかった。一般教養の授業をまた逃した。結局は俺が悪いのだ。授業に出なかった俺が悪い。家に引き篭ってインターネットに依存する俺は最悪だ。

 俺は未だに学んでいないのだ。

 楽しいことばかりやっていればいつか辛いことがやってくる。ツケを払っていく毎日が続く。それは俺でさえ分かっていた。

 ──しかし。何よりも授業がつまらない。

 勉強についていけないというよりは、授業に興味を持てない。イヤ、興味が持てなくとも、出席するのが授業なのだろうが、それでも……行けていないのだ。

 ドイツ語?好きなやつだけ学んだらいいじゃないか。俺は翻訳されたのを読むから。──などと言い訳ばっかりの俺が留年するのは当然だった。同じく「大学生」という肩書を持つ彼らに、俺は顔向けできない。

 分かっている。

 俺は即席の朝食を噛みちぎりながら窓に近づいた。

 足元の大東京には、カラフルな看板と同じように様々な色の人間が今日も歩いている。俺がこの窓を突き破り、あいつらに向かって飛び込めば総てが終わりになる。

「いい気味やな」

 悪趣味な想像をしたけれど。

 自分の責任でがんじがらめになったというのに、自殺してしまうというのは──説明し難いが、卑怯な行為のように思える。それに、最後の食事がエッグサンドというのも物悲しい。


 死の淵で唸る俺を救うのは、やっぱり先輩だった。

 インターホンが鳴って、モニターに先輩の姿が現れる。背中にはスタイリッシュな一階のロビーの景色があって。その中心で場違いな浮浪者みたいな服装の彼は莞爾と笑って。

「会いに来てやったで」

 いつ聞いても変わらない抑揚のない先輩の声。瞼を抑えながら、俺は彼を迎えた。


 浮足立ちながら、あたふたと部屋を片付ける。先輩を迎える準備をするのだ。

 どうせ妙な物を持ってくるはずだから、例の部屋を確認しなければならない。もしも汚れていたりすれば先輩に幻滅されてしまうかもしれないからだ。

 世界を放浪する先輩の趣味の部屋。世界中の得体の知れないもの、トーテムポールなどのザ・民芸品から呪われた鉄剣まで。奇形の石にどこかの国の王冠に諸々──スチールラックに積んで並べた驚異の部屋ヴンダーカンマー。あるいは単なるガラクタの掃き溜め。

 俺は部屋に未だスペースがあることを確認して、それから玄関にスタンバイした。

瑞久みずひさ。ただいま。これお土産。そんで飯食わせろ」

 不躾な態度で玄関に入り込んできた先輩に俺は思わず抱きつく。

「先輩ぁいッ!」

「放せ!」

 そして地球投げされた。

 床から立ち上がって俺は涙目で叫んだ。


「暴力的だ!」

「急に抱きついてきたお前の方が暴力的だったけどな。知ってるか?ハグには加減ってのがあってな。時と場合で調整せなあかんねん。せっかくの愛が、勿体ない」

「うっさいですよ。こちとら滅茶苦茶に心配してたんですから。毎度毎度、連絡なく失踪する先輩を!」

「半年くらい、失踪に入らんねん」

「入る!」

 叫び、立ち上がりながら俺は、先輩を見下ろした。

 俺の胸くらいの高さにある丸顔を眺める。前髪はバンドで括っていて、綺麗なおでこが顕になっている。

 毛羽だちまくったジャケットは彼の身長に合っていなくて、その上馬鹿でかいから、ショートパンツが隠れて、何も履いていないようにも一瞬見えた。

 それに。

 風呂に入っていないらしい。さっき抱きしめた時に、汗と自然の匂いが凝縮した酸っぱい匂いが鼻に刺さった。俺は先輩の為に風呂の準備をすることにする。シャワーでバスタブを空流しして給湯のボタンを押しながら、

「そういえば、どこに行ってたんですか?」

 いつの間にか脱衣所に来ていた先輩に聞いてみた。彼は服をばさりと脱ぎ捨てながら笑った。

「えっと、南米っつかブラジルやな。メキシコ戦は熱かった。マジ」

「そう、すか」

 生まれたままの姿になった先輩から俺は咄嗟に目を離す。

 分厚いジャケットを脱いで、達磨から小さな少年に変わった先輩の──骨の浮いた白い体に遺った痣や傷。

 何度見ても、俺は委縮してしまうのだ。


 温かくなってきたシャワーヘッドを先輩に手渡してから、俺は先輩の服を洗濯機に突っ込み始める。とはいっても量は少ない。ジャケットとパンツ、それと下着だけだ。

 衣服が放つ異臭に顔を顰めながら俺はバスルームに言葉を投げかけた。

「先輩、服、変えませんか?こりゃ、無理です」

 すると、反響してくぐもった先輩の声が返ってきた。

「別にいけるやろ」

「駄目です」

「じゃ、新しいのおねだりする。お前のよこせ」

「数週間前に買っておいたのがあります」

「やるやん」

「じゃあ、きちんと風呂入ってくださいね」

「俺が水嫌いなん知ってんやろうが」

「正直、あれです。臭いです」

 先輩の服の匂いを再度確認してから、異臭物の廃棄処理を決めた。

「じゃあ、洗濯回すのもあれなんで、捨てときます。先輩は風呂にちゃんと入ってくださいね」

「オーケイ。捨てといてくれ。──でもさぁ、でもさぁ でもさぁ、風呂にたった一度入ったぐらいじゃ私の薫香は消えないんだぜ。一度きりじゃ無駄。何事も継続が大切なんよ」

 先輩が戯言を宣い始めたのを無視して、俺は脱衣所を出た。








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