幸福の条件 後

 しあわせになりたい、しあわせにしたい。けれど自分には分からない。

 この顔には笑顔が張り付いた。演じることばかりに馴れて本当のことは言えなくなった。このどうしようもない感情はかつて誰かに『良いご両親を持って幸せね』と言われた時に似ている。

 幸せだったことはあるだろうか。親友との出会いは幸運だった、秋則あきのりとの出会いだって幸運だった。彼女との出会いはどうだろうか。幸運か、幸福か、もうそれすらも分からないでいる。

 沈んでいく。思考の海で溺れそうになる。

「臆病だな、お前は」

「そうかもしれない」

 どうしようもないほどに怯えて、足の一つも踏み出せない。足踏みをして空を見上げて唇を噛んで、悔しいとは思っているはずなのに。

 好きだと告げる時には迷わなかった。言わなければという感情は焦燥に似ていた。今思えば若かったということなのかもしれないが、多分今でもそこは変わらない。

「良いさ、臆病者の方が長生きできるよ」

 落ち着いた秋則の声はそのまま棗の中に浸透してくる。彼は冷静で表情一つ変えなくて、それになつめは甘えすぎてしまう。

 秋則に甘やかしているようなつもりはないのだろう。だからこれは単なる棗の甘ったれた部分だ。

「アキは」

 アイスティーは生ぬるい。氷が融けてしまえばそんなものか。

「アキには、そういう相手はいないのか」

 口にしてしまってから、しまったと思った。これはおそらく聞いてはいけないことだ。

 秋則の顔に表情はない。それは変わりない。けれどもその質問をしてからの彼の顔は、無表情ではなくてごっそりと全ての表情が抜け落ちた顔だった。

 棗のことを秋則は知りすぎるほどに知っていて、けれども棗は秋則のことをまるで知らない。そして昔から聞かれたくないことに答える秋則の顔はいつだって人形のように何もかもがなくて――。

「ごめんアキ、俺……っ!」

「棗は、すごいよな」

 答えなくて良いと言おうとした。けれどそれよりも前に秋則が口を開いて遮った。

「僕は誰も、そういう意味では好きになれない」

 からんと秋則のグラスの中で氷が融けていく。じわじわと浸みだして、そして何も残らない。ごくりと飲み込まれて腹の中、通り過ぎて通り過ぎて忘れ去られるだけ。

「僕は僕の人生に誰も巻き込めない」

 一緒にいて欲しい。できることならこの命が潰えるその瞬間まで傍で笑っていてほしい。それはとても傲慢な願いだけれども、純粋な願いでもあった。

 自分の死の瞬間を考える。相手の死の瞬間も考える。そうして最期に見る顔がお互いのものであれば良いと思うのは、秋則の言うようにということなのだろうか。

「そんな勇気は、僕にはないんだ」

 秋則は棗のことを知りすぎるほどに知っていた。そして棗は秋則のことを全くと言って良いほどに知らなかった。知ろうとすることもなかった。

 彼の両親は、兄弟は、その生き様は、何一つとして棗は知らない。それでも良いと、その方が良いと、そうして秋則が言葉を紡ぐから何も知らないままでいることにした。

 くるくると秋則がストローでアイスココアをかき混ぜる。からからと氷が音を立てている。

 融けて、消えて、それはまるで目の前の彼のよう。

「僕と一緒に地獄の果てまで旅してくれるような人がいるとは思わないからな」

 否定と拒絶と、それから何だろうか。話は終わりだとばかりに、音を立ててグラスは机に置かれる。

「臆病者の方が長生きできるさ」

 ならばアキ、お前には怖いものはあるのか。

「恐怖心とは危機回避能力とほぼ同義だろう?」

 人の目が怖い。何もかもが怖い。だから笑顔を貼り付けてそうして付き合い続けたけれど、それを彼女が壊していった。

 薄気味悪い笑顔ですね。初対面で言われる言葉としては最悪だ。

「お前の家族は破綻していた。上っ面だけの綺麗な家族を演じる両親を見たお前も、演じることを覚えていった」

 幸せそうだと評価されるたびに、何かが死んでいくような気がした。どうしようもない感情だけを抱えて立ち止まって、どこへも行けない。

 秋則はどこまで知っているのだろう。棗は何も知らないのに、彼は何もかもを知っている。

「ただそうしてお前が疑うことは、お前が好きになった人への最大級の侮辱じゃないのか?」

「侮辱……?」

 鸚鵡返しのように言葉を紡げば、秋則は当然だろうとでも言いたげに腕を組む。

「お前は彼女も自分の母親のようになると疑っている」

「そんな、ことは」

「ないと言い切れる? そうやって迷うのに?」

 ごくりと秋則は喉を鳴らしてアイスココアを飲み干した。息苦しいような胸を締め付けられるようなどうしようもない感覚に襲われて、めまいがする。

 棗は彼女を疑ってはいない。ましてや母のようになるなどと思っていない。父と母の間にはもう愛情はなくて、そこにあったのは冷え切った深い溝。父が愛したのは、母が愛したのは――。

「俺、は」

「一つものすごく単純なことを聞いても良いか?」

 氷が融けて、消えてなくなる。棗の臆病なこの気持ちも、氷のように消えてくれないだろうか。

「お前の好きな人は、お前が臆病だと知っているか?」

「……知っている、と、思う」

 明確にそうだと言ったことはないし、言われたこともない。けれど初めて出会った時に棗の演技を見抜いたくらいには聡い女性だ。

 賢い男は秘密を葬ろうとして、賢い女は秘密を暴こうとするという。けれども彼女に限ってはそんなことはないと思っている。

 それはただの願望だろうか。けれど不必要に詮索をすることもなければ暴き立てることもしない彼女を見ていると、自分と彼女では通説の男女が逆転しているように思うことがある。

 自分は賢いのだなどと言うつもりはないけれど、きっと人よりは賢い頭を持って生まれたという自覚はあった。

 それ故に自分が臆病であることにも気づいたし、だからこそ彼女と出会ったのかもしれない。

「そうか」

 グラスの中身はもうからっぽ。秋則の拷問を受けているかのような食事も終わり。

「お悩み相談はこんなところか。答えは出ただろ?」

「ああ、すまない」

 相変わらず彼はにこりともしなかった。他人にどう思われるのかなど、きっと彼は気にもかけない。周りの人間など有象無象、そんなものに気をかけることは彼には似合わないような気がした。

 秋則は目の前にいてこうして話しているはずなのに、どこか遠くに行きそうだった。手を伸ばして彼を繋ぎ止められるのは一体誰だろう。少なくとも棗はそれではない。

「こういう時は謝罪じゃなくて謝礼だろう、棗」

 淡々と言葉が紡がれていく。喫茶店に流れる幽かな音楽すらも、今はうるさい。

「ああでも、そう思うのなら」

 世間話でもするかのような、何でもないことを言うかのような、そんな口調だった。そんな口調で秋則は言葉を紡ぎながら伝票を手にする。

 支払いをするべきなのは棗だろうか。彼は棗にここへ呼びつけられた形なのだから。

「式、呼んでくれ。他は何にもいいや」

 秋則は伝票を返してくれなかった。

「アキ」

 棗ができることは何だろうか。

 結婚とは自分の人生に他人を巻き込むことであると彼は言った。ならば彼がいつかそれを選択する日は来るのだろうか。

「もしも。もしも、お前が……」

 この言葉を口にすることは、きっと無意味だ。棗は秋則のことなど何も知らなくて、結局上滑りするだけのとんでもなく軽い言葉だ。

「ああそうだな、呼んでやるよ」

 音もなく彼は立ち上がる。

「しあわせになれよ、棗。それだけは、約束だ」

 そうしてあの無表情が、僅かに相好を崩した気がした。それは秋則の見間違いであったのか、それとも。

「悩めばいい、迷えばいい。多分それが、人間らしい」

 ならばお前はどうなのかと、それすらも聞けなかった。伝票を手にして彼は行ってしまって、棗はただその背中を見送った。

 なあ、何がしてやれる。俺はお前のことを何も知らない。お前は俺のことを知っているのに。

 自然と手はポケットに伸びて、携帯電話を取り出した。電話をかけようとして躊躇いを覚えて、けれども『答えは出たか』という秋則の残響に背中を押される。

 コールは数回。深呼吸。

『もしもし、どうかした?』

 電話の向こう、きみの声。

「あのさ」

 取り繕うことばかり上手くなった俺の、精一杯の本当の顔。どうしようもないと呆れられるものかもしれないけれども、きっと演技よりはこれが良い。

「聞いて欲しい、話があるんだ」

 しあわせになれよと秋則は言った。

 だからこれが、その約束を果たすための第一歩。聞いてほしい話は俺のこと。それから――あのどうしようもなく曖昧でやさしい、ふるいふるいともだちのこと。

「だから――」

 そうしてきみに次逢った時、俺はこう言うのだ。

 俺と一緒に、生きてください。


  ※  ※  ※


 俺の話としては、これは幸福な結末ハッピーエンドであったのかもしれない。

 ただ俺はこの時、こうして背中を押してくれた友に呼ばれる『式の日』が、永久に来ないのだとは知らなかった。


 なあ、アキ。篠目ささめ秋則。俺が何の躊躇いもなく友と呼べるひと。

 どうしてお前があんな寂しい終わり方をしなければならなかったのか、そんなくだらない問いをするつもりはない。

 お前はきっとお前の信念で以て、己を葬ったのだろう。


 けれど、俺は。

 お前に生きていて欲しかった。

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春告花は咲く 千崎 翔鶴 @tsuruumedo

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