篠目秋則

幸福の条件 前

 喫茶店の窓からは清々しい秋の空が見えていた。休日の街を行く人は親子連れか恋人同士がほとんどで、ぼんやりと手を繋いで歩くその姿を眺めていた。

 アイスティーに浮かんでいた氷はもうほとんど溶けてしまった。随分と氷は小さくなって、今となっては申し訳程度に表面に浮いているだけだ。

 はあ、とため息を一つ。休日の騒がしくも明るい街にまるで似つかわしくないが仕方ない。最近はこうして一人ため息をこぼす回数が増えてしまっている。

 待ち人は、まだ来ない。そもそも約束した時間よりもかなり早くにここへ来てしまった。それほどまでに自分が弱りきって、そして迷っているのかと嘲笑う。

 道を歩く人は幸せそうで羨ましい。時折背中を丸めてとぼとぼと歩く人もいるけれど、いずれは背筋をまっすぐにして前を見据えて歩き出すのだろうか。

 こうして悩んで俯くなどらしくない。十年以上の付き合いがある友人などは、きっとこの姿を笑うだろう。

 からんからんと入口の鐘が鳴り、喫茶店への来客を告げた。訪れた人物が店員と二言三言会話しているのをぼんやりと眺めていると、視線がかち合う。ようやく来たかと右手を軽く挙げて居場所を示した。

「何だ、早いね。待たされるかと思ってた」

「お前の中で俺はどういう扱いなんだ、アキ」

 さあね、と秋則あきのりは苦笑して肩を竦めた。

 こうして面と向かって会うのは何年振りだろうと思うほどには前に直接会った時から時間が流れている。それでもただ『変わらないな』という感想を抱いた。

 窓の外は清々しい秋の青空。けれどもまだ気温は夏の空気を残していて、どこか蒸し暑いままだった。その中を歩いてきたのだろうに、目の前の秋則は汗一つ書かずに涼しい顔だ。

なつめは棗という扱い。他に何かある?」

 淡々と言葉は紡がれて、けれども嫌な感じはしない。冷静沈着で動じることがない、それが昔から篠目ささめ秋則という人間を表す言葉だった。ほとんど表情を変えることもなく平坦に話す彼は、小学校の頃などは朗読の時間散々な評価を教師から得ていた。曰く『抑揚がなさすぎる』ということらしいが、秋則はそんな評価もどこ吹く風で特に何を変えることもしていなかった。

 別に他人の評価なんてどうでもいい。変人であることは自覚しているからそれでいい。それが何度となく秋則の口から聞かされた言葉だった。

「悪いけど昼ご飯食べさせて」

 棗の了承を得るような言葉を紡ぎながらも、彼は了承を待たずに立てかけてあったメニュー表を手に取った。

「忙しかったのか?」

「いや別に。食べるの面倒になっただけ」

 開かれたメニュー表にはとりどりの写真。けれども喫茶店での食べ物は軽食が中心で、果たしてそれだけで彼は満足できるのだろうか。ここ最近になって変わったということがなければ、彼は見た目に反して大食らいだ。

「あ、すいません」

 秋則が水を運んできた店員を呼び止めて注文するのをぼんやりと眺めた。何年ぶりかも分からないような棗の呼び出しを二つ返事で了承した彼が今何をしているのか、思えば棗はそんなことも知らないままだ。

 付き合いだけで言うのならば、もう相当になる。少なくとも十五年は通り過ぎた。初めて会ったのは小学校の入学式、その頃から秋則は秋則で、言わば『子供らしくない子供』という評価が周囲からされていた。

「何か相談でもしたいの? って聞いた方が良いかな」

 秋則の手の中でゆらゆらと水面が揺れている。冷水の入ったグラスの中で、からんと氷が音を立てる。

「別に仲良くお茶をしようって呼び出しでもないよね」

 棗が秋則の予定を聞いたのは三日前だった。それで別に良いよと返事をしてくれたのは暇だったからなのか、それとも何かを考えたのか。どうしようか迷って携帯電話を触る内、電話帳に彼の名前を見つけた。そこで電話帳を動かす指を止めたのだから、彼に助けて欲しかったのかもしれない。

 携帯電話のアドレスはそれこそ何十人と登録されている。けれどこんな相談をする相手は他に思い浮かばない。心底秋則のアドレスが変わっていなくて安堵した。

 どうしようもない臆病者で猫かぶり。自分のことは自分が一番よく知っている。猫を被らずに話が出来る相手は少なくて、上っ面だけで付き合う人間ばかりが増えていく。

 親友という名称で呼ぶ相手は、初めて会った棗の笑顔を見て『薄ら寒い』と一言告げた。今考えれば何とも失礼な発言ではあるが、気付いたのは彼だけだった。

 秋則と出会ったのはそれよりも前。猫を被って人をやり過ごすことを覚えてしまうよりも前のこと。けれども彼との関係性を表す言葉はよく分からない。

 親友というには遠すぎて、けれどただの友人と呼ぶにも何かが違う。結局それは棗を秋則が知りすぎているからだろう。そして棗が秋則を知らなさすぎるからだろう。

「アキ、笑わずに聞いてくれるか」

 どうしようもなくくだらない発言だ。こんなのは自分でくだらないと思っていることを質問する時のテンプレートのような前置きだ。

「……僕がそんな簡単に笑うと思う?」

「いや、思わないよ。ただの予防線」

 秋則が笑うはずがないというのは分かっていた。むしろこの程度のことで笑うのならば見てみたい。何せこの長い付き合いの中でも彼が笑ったところを見たのは数えるほどしかない。

 いっそ笑い飛ばしてほしいのかもしれない。秋則が絶対にそんなことをしないと分かっていてそんなことを願ってしまうのは、きっと棗が臆病だからだ。

「……どうすれば良いのか、分からないんだ」

 すっかり氷の融けたアイスティーをストローでくるくるとかき回す。小さな氷でもあれば音を立てるのだろうけれども、もうそれすらもない。

 ずっとずっと悩んでいる。それこそ自分では解決できなくて、自ら迷宮の奥へ奥へと進んでしまう。

「好きなだけじゃ、多分駄目で」

 思考がうまく纏まってくれない。普段どうでも良いようなことではいくらでも回る頭が今はまるで役に立たない。こんなはずじゃないのにとは何度も思った。

 そっと前を窺えば、秋則は目を伏せて音もなく水を飲んでいた。それから言葉を切ってしまった棗を不審に思ったのか、彼は僅かに視線を上げる。

 それで、と聞かれているような気がした。口にはしないままの、彼なりの気遣い。

「俺はきっと幸せにはできないから」

 考えて考えて考えて、けれども何一つこの手の平に残りそうにない。ただ『好き』とか『愛している』とかそんな感情だけで突っ走れるほど愚かになれない。

 いっそ馬鹿になれるのならば気楽だろうか。けれども棗はそうはなれないまま。

「棗が」

 何かを言おうとした秋則は言葉を切って、少し待ってと口にした。そこへ店員がやってきて、秋則の注文をテーブルに並べて去って行く。

 少ししんなりとしたキャベツとフォークでつつけば弾けそうなウインナーを挟んだホットドッグがほかほかと湯気を立てている。皿の上にはそれが二本乗っているけれど、果たして彼はそれで足りるのだろうか。

「棗がそう思うのは、君の両親のことがあるからか」

 どこまで知っているのかと問えば、きっと秋則は『さあどうだろうね』と曖昧に濁すことだろう。明確に問い質したことはないし、その必要もないはずだ。

 あんぐりと口を開けて勢いよく秋則はホットドッグにかじりつく。その見た目に似合わず豪快にかぶりついたかと思えば、ホットドッグはすぐに全て彼の腹に納まってしまった。

 あれは本当に味わっているのだろうかといつも思う。秋則の食事風景というのはまるで罸か拷問を受ける人間のように見えてならない。

「そうだよ」

 秋則はきっとほとんどすべてを知っていて、けれども明確には口にしない。棗がこんなにも悩むのはきっと、あの両親と自分が良く似ていると知っているからだ。

 演じることが巧いのはきっと血筋。どちらかが飽きるまで続く茶番劇。『子供のため』なんて体裁を取り繕うための言い訳でしかない。

 棗がものごころついた頃にはもう両親の中は冷え切っていて、一緒に食事をしていたところも数えるほどしか見ていない。それこそ家の中では会話すらもない。

 けれど外に出れば『幸せそうな夫婦』『幸せそうな家族』を取り繕うのだ。そして誰も、気付かない。

「幸せ、ねえ」

 皿の上のホットドッグはもうなかった。生きていなければならないから無理矢理飲み込んでいるような、そんな食事風景は見ていても楽しいものではない。

 店員を呼び止めた秋則が飲み物を注文した。彼は何かを考え込むように頬杖をついて窓の外を見ている。道を歩く人々は相変わらずで、それが羨ましいのも変わらない。

 アイスココアを秋則の前に置いて、店員はまた去って行った。ストローをグラスに挿してココアを飲み込んで、ぐいと秋則は口元を拭う。

「そんなものは本人にしか分からないと思うけど」

 街を歩くのは様々な人。ここでしかすれ違わないだろう人々はそれぞれに生活があって、それぞれに何かを感じて生きている。

 彼らがどんな道を歩いているのか、知る術などあるはずもない。できることはその姿を見て想像して、ただ憶測するだけだ。

「幸せそうに思える人が本当に幸せかどうか、か」

 からからと秋則の手元でアイスココアの氷が音を立てている。水の入ったグラスは結露して、テーブルに丸い水の輪を作っていた。

「金持ちは幸せそうか?」

 良いなあお金持ちは、きっと幸せだろうなあ。そんなことを言う人がいる。

「けれど持つからこその苦痛もあるかもしれない」

 その苦悩は持たない人間に推し量れるはずもない。つまりは自分ならお金があれば幸せ、だからきっと金持ちは幸せなはずだ。それだけの論法。

「生活苦の人は不幸と言えるか?」

 あんな生活なんて不幸よね。けれどだからといって手を差し伸べるようなこともない。他人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、人は下を見ながら安心している。

「その生活だからこその幸福もあるかもしれない」

 そうして見下す人にはその人たちの幸せなど分かりはしない。あの人たちは可哀想、それよりはマシな自分たちは可哀想ではない。とんだお笑い種だ。

「さて、棗の考える『幸福』は?」

 持論を展開した秋則が首を傾げるようにして棗を見た。それでも彼はにこりとも笑わない。それはとても助かることではあるけれど、同時にどこか落ち着かなさも連れてやってくる。

 幸福とは何か。それが分かるのならば棗はここまで悩んだりしない。自分にとって何が幸せなのだろう、そして彼女にとってはどうなのだろう。

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