染井一穂

春雷

 テレビに映し出されたまっ平らで黄緑色の日本列島の上を、青く塗り潰された三角形の旗が並んで通り過ぎていく。毎度これを見るたびに、運動会の万国旗のようだなどとぼんやりと考える。

 あれは寒冷前線だと知ったのは、いつだっただろうか。

「寒冷前線の通過により、ところによっては雷雨となるでしょう。雹が降る可能性もありますから、お出かけの際はご注意ください」

 四角い窓の中で告げる気象予報士のことばに、耳を傾けた。

 春の天気は安定しない。大陸からの移動性高気圧が次々とやってきて、数日周期で天気が変わっていくのだと、小学校五年生のときに塾の先生から聞いた。

一穂かずほ、はやくごはん食べちゃってよ」

「あ、うん。ごめんお母さん。すぐ食べる」

 気付けばテレビに意識を向けすぎて、箸が止まっていた。目の前にはまだ、半分以上朝食が残っている。

 意識を天気予報から引きはがして、一穂はいつもより多めに箸で白いご飯を摘まみ、そしてあんぐりと開けた口の中へと放り込んだのだった。


  ※  ※  ※


 三月、出会いと別れの季節である。

 そう言ったところで、一穂の通っている中学は中高一貫校だ。中学から高校へ上がるといっても、そうそう顔ぶれが変わるわけではない。一応高校からの入学者もいるが、最初から同じクラスで授業を受けましょうというわけでもないのだ。

 だから、何の感慨もなく三月の終わりを迎える――はず、だった。

蒼雪そうせつ

 放課後の廊下で行き会った彼は、いつもと同じような、どこかとっつきにくい、冷たい顔をしていた。けれど名前を呼べばきちんと返事をしてくれることを、一穂は知っている。

 蒼雪とは、小学校四年生の二月からの付き合いだ。あまり表情を変えることはなく、けれど他人に対してやさしくないわけではない。多分、その顔から、ことばの選び方から、そういう風に思われるだけ。というのは、一穂の勝手な思い込みだろうか。

「……一穂」

「あのさ、聞いたんだけど。転校するって本当?」

 一穂の問いに、蒼雪がほんの少しだけ口をつぐむ。その目で真っ直ぐに一穂を見た彼は、「ああ」と小さくことばを漏らした。

川辺かわべか」

「あ、うん、そうだよ。よく分かったね」

「昨日散々文句を言われた。人のこと言える状態か、あいつは」

 兼翔けんしょうなら言いそうだと、少しだけ笑った。

「きっと蒼雪がいなくなると寂しいんだよ、兼翔は」

「どうだか」

 いつもと変わらない表情でいる蒼雪が何を考えているのか、一穂は分かったためしがない。蒼雪は一穂の考えていることを読んだようなことを度々言うのに一穂はできなくて、それが妙に悔しい気持ちにさせる。

 元々、負けず嫌いなのだ。だから塾でも一位の席にいたかったし、蒼雪に負けじと勉強を重ねた。勝ったり負けたり、勉強は本当はそういうものではないのだろう。けれど、一穂にとってのモチベーションは「一位になること」と「難しい問題が解けること」だった。

「……あいつも、上がれないんだろ」

「一応まだ、課題全部出せば何とかなるかも、とは」

「無理だな」

「蒼雪」

 言い切った蒼雪を咎めるように名前を呼んだが、一穂もそれは思っている。兼翔がそう言われて耳を揃えて全部出せるかと言えば、そんなものは望み薄だ。塾でも毎回毎回宿題をやってこないことを先生に咎められていた。

「篠目先生や宗方先生に何度言われたって、川辺が宿題を出したことなんてなかっただろう」

「……そう、なんだけどさ」

 小学生のころのことを引き合いに出されて、一穂に反論の余地はない。

 勉強なんて別にしない、それでもテストで点が取れる。天才的だったと言えばその通りで、必死で勉強してようやく一位の席に噛り付いていた一穂にしてみれば、「悔しい」のことばしか出てこなかった。

 兼翔が必死になったとき、きっと一穂は負ける。ずっとずっと、そうやって、兼翔には勝てる日が来ないのだと思っていた。

「君、悔しいのか」

「え?」

 言い当てられて、まばたきをひとつ。

「悔しそうな顔をしている」

 蒼雪にこんな心境を吐露したことはなかった。ひとことも、悔しいなんて口にしたことはなかった。

 それでも彼は、一穂の荒れ狂うような内心を言い当てる。

「俺、そんな顔してたか?」

「俺にはそう見えたが、違ったのか」

 多分分かるのは、蒼雪だけだ。他の誰も、一穂がそんなことを考えているなんて思いもしない。

 自分自身への評価は良く知っている。人当たりがよくて、真面目で、何事もきちんとそつなくこなす。ただそれは他人から評価されたいとか、そういう理由でしてきたものではない。

「あ、いや……そうかも」

「……俺には、よく分からないが。君は、川辺に憧れているものな」

「俺、そんなこと言ったことないと思うんだけど」

「ないな」

 また、言い当てられた。

「俺が勝手にそう思っているだけだ」

「あ、そう……」

 兼翔のことが、一穂は羨ましかったのだ。算数の問題に苦心してきたところにやってきて、「こうやったら解けるだろ」と言い残して去っていった彼が、どうしようもなく恰好良かった。一穂にはない発想で問題を解いて、でも特別なことなんてしていないという顔をしている彼が、どうしようもなく羨ましかった。

 激しく鳴り響く雷は、眠っている冬の虫を眠りから覚ます。兼翔はそうやって、一穂の中に眠るというものを煽って去っていく。

「俺の思い違いなら、俺もまだ観察不足だな。篠目ささめ先生に良く見なさいと言われそうだ」

「蒼雪が?」

「そうだが。篠目先生が言ったんだ、相手を良く見て何を考えているのか考えなさいって」

 算数に苦心し続けた一穂は、篠目先生を追い回すようにして質問をしていた。その時に彼が苦笑しながら言った「負けず嫌いだな、良いことだよ」ということばを、一穂は今でも覚えている。

 そう、負けず嫌いなのだ。負けるのは嫌いだ。一番の席に座っていたかったし、解けない問題があるのも悔しかった。

「篠目先生……なら、言いそうだね」

「言ったんだよ」

 この人は生徒をよく見ている。一穂は篠目先生に対して、そんなことを思ったものだ。隠そうとしてもきっと気付かれて、それでも怒らずにさとすのだろうと、そんな風にも。

 篠目先生はいつだって凪いでいた。荒れ狂うことはなく、怒るときだって静かだった。ただ滾々こんこんと、それの何がいけないのか、どうして怒られているのか、そんなことを静かに静かに言い聞かせていた。

 兼翔はそれを、口うるさいと言っていたけれど。

「そっか。俺は、『負けるのが嫌いなら、周りを大事にしなさい』って言われた」

 あれはいつだっただろうか。校舎だけでなくて、全校で初めて総合一位になったときだろうか。なんとなく勉強に身が入らなくなったときに、篠目先生に言われたのだ。

 たくさん褒められたその後、「次は誰かに追い抜かれるかもしれないよ」と、そのことばと共に。追う側から追われる側になることを、篠目先生だけが一穂に教えてくれた。

「競う人がいなくなったとき、どうしようもなく孤独になるから。一緒に走ってくれる人を大事にしなさい、だって。確かにひとりで一番のとこにいたって、何も嬉しくないから」

「そうか」

 山のてっぺんにひとりだけ。そこには何もない。

 そんな一番に意味はないなと、一穂はその時にそう思ったのだ。もう誰も競う相手がいなくなれば、周囲から人がいなくなれば、一番なんてものに意味はない。戦う相手はいなくなり、自分が落ちていっても気付かない。

 蹴落とすのではなく、競う。そういうのが良いなというのは、小学生の甘い考えか。

「蒼雪にも感謝してる。お前に負けたりしたおかげで、天狗にならずにすんだ」

 一穂の一位は、長くは続かなかった。同じクラスの女子に奪われることもあったけれど、多くは蒼雪にその座を奪い返された。

 努力し続けなければ、ずっとそこにはいられない。順位をつけることを、成績を見える形にすることを、忌避する人もいるという。競争させることを「可哀想だ」という人もいる。

 けれど競争がなければ、順位がなければ、一穂はきっとここまで勉強したりしなかった。

「そういうものか?」

「そうだよ」

 蒼雪は乏しいながらもよく分からないというような顔をしていて、それがなんとも彼らしくて笑ってしまった。初めて、蒼雪の表情が読めた気がした。

 彼もまた、西山寺せいざんじ男子を去っていく。

「あ……なあ、蒼雪」

「なんだ」

 その理由を、一穂は察せないわけではない。

 中学校二年生の去年、蒼雪はしばらく学校を休んでいた。何かあったのかと聞いた一穂に、特別隠すつもりはなかったのか、蒼雪は何があったのかを教えてくれた。

 聞かれたから答えた、それだけ。普通ならきっと隠したいような事情を、蒼雪は何でもないことのように一穂に告げた。

 母親の浮気、家庭の崩壊、父親の入院、そして――母親の、交通事故死。

「舞台、もう、立たないのか」

 小学生のとき、初めて蒼雪の舞台を見た。「子方こかたの卒業演目なんだ」と言った彼に子方の意味も分からず、見てみたいと一穂は言ったのだ。そうしたら蒼雪の父がわざわざ「ご家族でどうぞ」と、一穂と、一穂の両親の分のチケットを家まで届けに来てくれた。

 能舞台に立つ子供を、子方と言うらしい。子方が演じる役は決まっていて、決して主役ではないのだと聞いた。けれど『烏帽子折えぼしおり』というその演目は蒼雪の演じる源義経みなもとのよしつねが主役のようにも見えて、舞台の上に立っておとなと斬り合いを演じる彼がどうしようもなく恰好良くて、一穂は興奮して食い入るように舞台を見たのだ。

 それから、しばらく。声変わりの後にまた立つと聞いていたから、また見たいと言った。そして再び彼の舞台を見たのは、それこそ彼の家庭が崩壊する寸前のことだった。

「……父が」

 蒼雪と顔立ちは似ている、けれど柔和な笑顔のおじさんだった。そういう感想で正しいのかは分からないが、少なくとも一穂は初めて会った蒼雪の父親に思ったのはそれだった。

「父が退院しないと、俺に稽古をつける人がいない。大師匠筋に頼むにしても、母のしたことは外聞が悪すぎる。今すぐには、無理だ」

「今すぐにはってことは、いつかは戻れるんじゃないのか?」

「さあ、どうだろう」

 何でもないことのように、言うのだ。そうやって。

 休み時間のほんの少しの時間すら惜しむように、本を見ていたくせに。舞台の上で、あれだけのものを演じたくせに。

「何で君がそんな悔しそうな顔をするんだ」

 諦めているわけではないのだろう。けれど蒼雪は、そういうものだと受け入れてしまっている。彼はきっと負けず嫌いな一穂とは対極のところにいて、悔しいとか、そんなことすら思わない。

 けれど一穂は、それがどうしようもなく腹立たしくて悔しかった。

「何でだと思う」

 お前の舞台がすごかったから。

 絶対に言ってやらないと心に決めた。いつかまた見ることがあったら、初めて見たときからすごいと思ったのだと、そう言ってやる。

「ともかく、いつか戻れよ。俺、また見に行くからな!」

「……いつか」

「そう、いつか。何年先でもいい、俺もお前もおっさんになってたとしても、絶対連絡しろ」

「そんな無茶な」

「無茶じゃない。俺は本気」

 蒼雪を黙り込ませることに成功して、なんとなく勝ったような気持ちになる。荒れ狂っていた感情は、少しだけ落ち着いただろうか。

 地面が熱せられると、そこにあった空気は上へと昇っていく。上昇気流は雲を生み、激しい雷雨になることもある。熱とは雷を生むものであると、かつて聞いた。

 寒冷前線の通過により、ところにより雷雨となるでしょう。寒冷前線に沿う上昇気流が、熱による上昇気流が、雷をもたらす。熱界雷――春に鳴るそれの名前を、一穂は知っている。

「お前、別に誰かに自分のやってることを吹聴してたわけじゃないだろ。休み時間に読んでたかもしれないけど、舞台に立ってるなんて言わなかったし」

「必要ないだろう?」

 誰にも、何にも、興味のない顔をする。

 けれど蒼雪が冷たい人間ではないことを、いったいどれだけの人が知っているだろう。多分同じ教室にいた兼翔も、知っていた。

「でも、教えてくれたじゃないか」

「聞かれたから答えただけだ」

「それでも俺は嬉しかったんだ」

 ああ言えばこう言う。「あんたは可愛げがなくなったわね」と、いつだったか母が溜息を吐いていた。

「……君、少し篠目先生に似ているよな。そんなに影響を受けたのか?」

「どうだろ。よく質問はしてたし、テスト直しノートは交換日記みたいになってたけど。だって篠目先生、びっしり書いてくれるから、つい」

 確かにこういう受け答えは、篠目先生に似ていたかもしれない。

 篠目先生のことは、好きだった。塾長の先生も。ただ、あとの先生は。別にそれを顔に出したりはしなかったけれど、距離を置いたことは間違いない。

 こういうところは、一穂の悪いところだろうか。

「…‥いつか」

 ぽつりと、蒼雪の声が落ちてくる。

「いつか、舞台に立てる日が来たら。君の家にチケットを送る。それで良いか」

「ああ、約束だ」

「約束」

 もう一度口の中で、蒼雪は「約束」と繰り返す。

「分かった。約束……」

 こう言っておけば、案外律儀な彼は約束を守るだろう。そのとき家に一穂がいなかったとしても、きっと両親はそこにいる。そうすれば絶対に、一穂のところにチケットは届く。

 この話は、これで終わりだ。自分のせいとは言え、すっかり話が逸れてしまった。

「それにしたって兼翔だよ。どうしような」

「どうにもできないんじゃないか」

「言うよね、ほんと。駄目だ、あいつここで留年になったら退学するし、今からじゃ入れる高校なんてほとんどないし。絶対腐るだろ」

 兼翔はいつだって「俺はやればできるんだ」という。

 けれどそれは、やってもできなかったときに折れることばではないかと思うのだ。

「そうだろうな」

「そう思うなら何か智恵をくれよ」

「ない」

「お前がそう言うならそうなんだろうけどさあ」

 蒼雪がそう言うのなら、本当に「ない」のだろう。一穂だって分かっているのだ、そんなことは。ここでぐずぐずと一穂が何を言ったところで、もう兼翔自身がどうにかするしかないのだということも。

 今ここで、一穂が兼翔にしてやれることは何もない。分かっていても、それが悔しいのだ。こんなことで兼翔が折れるなんてと、そう思ってしまうのは一穂の我儘なのだろうけれど。

「気にかけてやったら、良いんじゃないのか。退学になっても、違う学校になっても」

「それはするけど」

 一穂のことばが届かないことも、知っている。

 ならば兼翔に、誰のことばならば届くのだろうか。親でもなく、兄弟でもなく、彼が少なくとも耳に入れようとはしていたことば。その主は。

「本当にあいつが迷って折れかかって腐りかけたら、先生のところに連れて行くかな」

宗方むなかた先生か?」

「……前の宗方先生に戻ってたらね」

 苦笑をして肩を竦めれば、蒼雪も「ああ」と理解したように声を漏らした。

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