同感

煙 亜月

同感

 大学の学位授与式の後。

 おそろいの袴姿を着、大学正門の銘板を挟んで撮影した写真はいまゴミ箱にある。生まれてから親元を完全に離れるまで、成長の折々に撮った写真たち。つまり写真アルバムまるごと二冊ほど、燃えるゴミに出すのだ。


 私には女友達がすっかりいなくなっていた。あたり構わずのほかの男をつまみ食いしたツケだ、まあ、仕方ないと思おう。三、四回生になると有名人となった。キャンパスでは孤立し、どこへ行っても貸し切り状態、ただでさえごった煮の混雑でカレーを食う時でさえ、人の吸ったり吐いたりしていない新鮮な空気を味わえた。その当時から髪はプリン、耳はルーズリーフ、爪は経血のようなどす黒い赤だった。化粧が濃いのは、同棲していたニートの殴った痕を隠すため。

 そんなキャンパスにもただひとりの例外がいた。里美という子で、彼女も相当に手が早い女だった。

 

「だって、少し声をかけたら、向こうから誘ってきたんだもの」

 里美は釣りをそう解説した。私からしたらなかなかの太公望なのだが。

「男ってバカよねえ。ごめんで済む程度の女と付き合うなんてさー」


 里美は足をぶらぶらさせながら不満を垂れていた。平日の昼間だった。ドトールには暇を持て余している人々が、皆同じようにiPadをぼんやりと眺めながらいちばん安いブレンドコーヒーを啜っていた。私は二本目のタバコに火をつける。


「良心の呵責ってやつ? ぜんぜん怪しまれていなかったのに、自分から彼女に申告するなんてさ。面倒な奴」

「同感」


 私にも同じような経験があった。どころか、そういうケースの方が多いとすらいえた。


「あたしのバカなカウンセラーとかも身の振り方考えるべきだとか、もっと生きやすい生き方もあるのに、っていうけどさ、なんでわざわざつまんない人生選ぶんか分かんねえわ」

「それも同感」

  

 驚いた方がいいのか教訓とした方がいいのか分からなかったが、私は里美のいうことに間違っている点がひとつもないことに快感を覚えた。はっきりいって結婚したい。


 私はテーブルのトレーを前にだらだらする。

「出る?」

「わりい、待ち合わせ中」

 里美もトレーを置いたままだ(そうでもしないと客扱いされないからだ)。

「ほう。里美もか」

「気が合うね」

 表情一つ変えずにグータッチをする。


 里美も女友達が私しかいないようで、何かあるとすかさずLINEがきた。私は他人の話を、それこそ愚痴でもなんでも聞くのが好きな質で、私も暇なときはいくらでも彼女に付き合っていた。

 里美は遊びのサイクルは早く、少し会わなかっただけで話のネタが増えていた。だからそんな頻繁なLLINEもむしろ楽しみとなっていた。


「一番腹立つのがね、相手の女が『こんなのに浮気された』っつったこと」


 私は吹きだして、里美の顔をまじまじと眺めた。


「『こんなの』かあ。まあ、『こんなの』なんかもなあ」

「あんだよ、あんたもひとのこといえないでしょ」


 悲しいかな私たちは、決して美人と呼ばれる部類ではなかった。里美はどれだけメイクをしても、目の腫れぼったさが隠せない地味顔だ。


「里美、アイプチ何年やってるの?」

「うっさいわデブ。中一の時からだよ」

「ガチだね。あと私のは豊満な肢体っていうの」

「まあ、適度に肉ある方がヤるとき気持ちいいらしいからな」

「そういうこと」


 お互いの貞操観念がどうかしていることを知ったのは、共通の友人宅で初めて会って、泥酔した時だった。私たちは酒癖が悪すぎるところも似ていた。里美は深夜二時に、大声でこう宣言した。


「セックスはスポーツだ!」


 確か私たちは友人を差し置いて、空になった缶ビールで乾杯をした気がする。ひどかった。


 ふたりでラブホに泊まることもある。それ目的ではない。いや、それ目的にでもいいっちゃいいんだけど、今までやったことがないので少々不安だ。

 とりあえずはバカでかいジャグジー風呂もいくらでも使えるアメニティも見放題のAVもぶるぶるマシンもクイーンだかキングだか、とにかく最高にデカいベッドも、すべてがほかの宿を凌駕していたので女子会感覚で使っていたのだ。


「そんなわけで、相手の女から嫌がらせを受けるに至った、と」


 里美はーテーブルの私のJPSを掴み、一本取り出した。いつものことだ。里美にはやや小さいバスローブからは、身長の割に華奢な肉付きの胸が見える。まあ、貧乳であるといえよう。


「嫌がらせって、どんな?」

「店に来たのよ」


 里美はだらしなく紫煙を吐き出した。


 里美はその時、イタリアンでバイトをしていた。まともに就職が見つからず、在学中から世話になっていたその店でフリーター生活を送っていた。今回彼女が手をつけたのは、異動してきた三十代の社員だった。


 店の女の子の中では、里美が最年長だった。何しろ高校生でもバイトできる所だ。三十代の社員を、彼女らはオジサン扱いした。里美だけは違った。年上向けの話題もできたので、気に入られるのに時間はかからなかった。閉店後、その男とカーセックスをするようになった。


 社員には二十代の彼女がいたという。これが妻なら里美も遠慮も保身もしただろうが、たかが同棲だ、まるで気に留めなかった。それでも車に痕跡を残さぬよう、お互いの体液のシミなど細心の注意を払った。浮気者なりの礼儀というものである。


 5ナンバーのレクサスとはいえ、二人が車内で活動するのには随分骨が折れた。結局、服を着た後は、社員の膝に里美が乗る体制に落ち着いた。社員は里美を抱きしめながら、つらつらと囁くのが常だった。


「里美は、このままでいいのか?」

「このままって、どのまま?」

「——このまま」


 里美は回りくどい言葉を嫌った。その度にうんざり、後ろから抱かれていて表情はバレないから、里美は思いっきり嫌な顔をした。何も答えない里美のことを思慮深く、罪の意識すら感じるかわいい子程度に社員は思っていたのだろう。

 店で二人の関係に気づいた者はいなかった。社員が彼女を連れてこの地に越してきたことが広まっていたし、里美は決して敬語を崩さなかった。


 ところが社員は、ある日彼女に里美のことを明かした。関係を持ってしまったのだと。なぜそれを告白したのかは、社員にもわからなかった。彼女は社員を平手で引っ叩くと、里美の容姿と苗字を教えるよう迫った。それで、社員がおらず里美が出勤している日に、店に乗り込んできた。


「あんた、うちの男たぶらかしたでしょ?」


 彼女は金髪をうねらせ、ピンヒールを履いていた。それでも動きやすいローファーを履いた里美の方が背は高かった。何しろ一七〇㎝近くあるのだ。里美は彼女を、呆然とした表情で見下ろした。


「とぼけんじゃないわよ! 全部、知ってるんだからね!」


 彼女は今にも掴みかかりそうな勢いだった。いやな香水の匂いが里美の鼻孔に充満する。口呼吸する里美がなにかいうのかと彼女は一応待った。が、それを継ぐ言葉が里美の癇に障った。


「こんなのに浮気されたなんて、この——くそが!」


 もう一歩、彼女が踏み込もうとしたときに、奥から店長が駆けてきた。


「お客様、どうされましたか?」


 この店長、常に笑顔を絶やさない優れたサービス業者であるが、その風貌はチャイニーズマフィアみたい、とは里美談。彼女はそれでもキッと店長を睨むと、この女は他人の男を寝取ったのだと叫びだした。


 店長は彼女を事務所に通し、里美にはフロアに戻るように言った。里美は他のバイト仲間に、変なことに巻き込まれてしまったと泣き顔で訴えた。


 そういう日に限って店は暇だった。仕方がないので、里美が窓ガラスを掃除していると、社員の車が見えた。呼び出されたのだ。三人の話が終わるまで待っていられず、里美はシフト通り退勤した。後に店長が、事の顛末を里美に話した。


 社員は里美のことを弁護した。浮気は狂言、最近冷たくなった彼女に構ってもらいたいがためのポーズだったと。当然、その彼女は噛みついてきたが、店長の里美に対する信頼が篤すぎた。明るく真面目な里美が、そんなことをするはずはないと思い込んでいた。


 あの社員と彼女、それと里美自身がどうなるかなんてもはやそれはどうでもよくなった。ただただ面倒くさかった。店長は店にトラブルを持ち込んだことをサビ残しして叱責した。少なくとも、他の客に迷惑をかけた。経営者として当然の振る舞いだった。そんな偏執狂的チャイニーズマフィアに怯えたのだろう、彼女は後半の三〇分間、じっと下を向いて押し黙っていたという。


「でも」と店長はクリーニングした後のドリンクサーバーからなっちゃんオレンジをコップに注ぎ、里美に手渡す。「君はあくまで被害者だし、これまで通り出勤してほしい。他のスタッフにはちゃんと説明しておく。正直、君が今抜けると、困るし」

 

 店長はサーバーをきれいに掃除しなおしてから帰ったという。


 皆が里美の味方だった。年長者だったし、異動してすぐさま悶着を起こした社員に同情する者はいなかった。


「じゃあ、完全にあんたの一人勝ちってわけ?」

「まあね。そいつ、今も働いてるけど、そろそろメンタル限界じゃないかな」


 里美は、とっくに火が消えたタバコを、灰皿にぐりぐりと押し付けだした。ストローの口を押さえ、少量の水を灰皿に落とす。

「ちまっ」里美は嬉し気にいった。「でも、惜しいことしたな。カーセックスって案外楽しかったもの。同年代じゃ自分の車持ってる子少ないし、常習的にするならやっぱり年上となんだよね。あとできればセダンよりもっとデカい車がいい」

「あれって身体痛くならないの?」

「なるよ」


 わたしはふうん、と鼻を鳴らした。


「それにしても、『こんなの』なんかねえ」


 例の彼女は、里美のどこを見てそういったのだろう。里美はカバンからお直し用パクトを取り出し、何度か表情を決めた。


「あたしら捨てたもんじゃなくね?」と里美

「それは最高に同感」私は答える。

「ポッキー、落ちたよ」

「うん」

「つぎはトッポにしようかねえ」

「トッポと煙草とちんちん、どれがいい?」

「プリッツ」と、彼女は即答した。

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