Under the Storm

朝吹

Under the Storm(同題異話2024/6)

 

 夕方の五時になると、その家からはヴァイオリンが鳴り始める。中学生の男子が弾いているのだ。幼馴染であることが少し自慢。

 平日は夕方五時から八時まで。休日は朝九時から夕方五時まで。新興住宅地に建ち並ぶ似たり寄ったりの小洒落た家並みの中、きちんと決まった時間、その家は弦を震わせる。

 音楽に多少の心得のある母は通ぶった顔をして隣家の少年について語るが、そこには、ほぼ同時期に電子ピアノを習い始めて小四で放棄したわたしへの厭味も混じっていた。

「天才は努力の積み重ねというけれど本当ね。けいくんは決して練習を休まないのよ」

「公園に行ってきます」

 バドミントンを片手にわたしは家を飛び出した。


 山を切り開いて造成された住宅地。慧くんの家は端っこで、裏手はコンクリートの擁壁になっている。敷地の一部が接しているのは我が家だけだ。 

 子どもの頃に伸ばさないと身につかない運動能力、運指の必要な楽器も、ゴールデンエイジの間に上限まで引き出すのが肝心なのだそうだ。

「慧くん」

 急こう配の階段を上がって高台の公園に行ったら、慧くんがそこにいた。学生服のまま慧くんはイヤホンを耳につけて街を見下ろしながら何かを聴いていた。邪魔をしてはいけない。しかし彼の方からこちらにやって来た。

「なに聴いてたの、慧くん」

「ミルシテイン」

「変わった題名だね」

「奏者だよ」

「ハイフェッツなら知ってる」

「いいね」

 鳩がくしゃみをしているような名前だなと、ハイフェッツだけは憶えていたのだ。

 公園には他に誰もいなかった。慧くんは遊びに誘えない。指を痛めたりしないように特例で体育の授業も見学しているくらいなのだ。



 慧の指がどうなってもいいのか。


 彼女はバドミントンの相手を探していた。ぼくがラケットを手に取ると彼女はひどく愕いていた。

「雑誌に慧くん載ってた。巧いって書いてあった」

「巧さなど邪魔なだけだよ」

「でも偉い先生から褒められるほど巧いじゃん」

 技巧は主体ではない。豊潤な音の世界を伝える為のものなのだ。

「演奏している時は何を考えてるの」

「ミスしないことかな」

 水色の空の下、シャトルが風を切る。ぼくの方がすでに背が高く力もついているので断然有利だ。

「防音していてもそっちに多少は聴こえるよな。悪い」

「ヴァイオリンが嫌いになったりしない?」

 それはない。

 取り出されたナイフ。母の悲鳴。

 幼い頃の僕は芸を仕込まれる猿だった。指と顎が痛い。視線と姿勢を何度も注意される。ピッツィカートだけが好き。

 或る日、ふっと音が昇った。凍れる湖面を半透明の氷片が滑っていくような感触だった。それ以来、ヴァイオリンとぼくは繋がっている。

 


 練習を始める前に、窓を閉めようとすると、帰宅した彼女が母親と喧嘩しているのが聴こえてきた。

「慧くんの方からバドミントンに誘ってきたのに」

「彼の指に怪我をさせたら謝罪は数百万じゃきかないわよ」

 一方の我が家も、母が祖母と電話越しに云い争っている。

「検定料と往復の旅費と宿泊費だけで毎回どれほどかかると想ってるの」

 人の怒鳴り声は頭を重くする。あの男がまた家に押し入って来る気がするのだ。庭に面したリビングの窓越しに眼があったその男は、「慧」とぼくの名を呼んだ。床に落ちた子ども用の分数ヴァイオリン。

「慧を放して。出て行って」

「ようやくお前たちを見つけたぞ」

 男はぼくの手首を抑え、ぼくの指の前に刃物をちらつかせた。大人用と子ども用のヴァイオリンのように、男はぼくとそっくりな手のかたちをしていた。

「相変わらずね、虐待よ」

「挫折した君には一流の演奏者は育てられない。慧は外国へ連れて行く」

 助かったのは隣家の彼女のお陰だ。五時なのに練習の音がしないことを不審に想い、親に告げてくれたのだ。


 ポージング。眼を閉じて呼吸を整え、ぼくは弓を動かす。民族音楽から想起された舞曲。奏で始めるとすぐにそれは広がる。翡翠色をしている原始の大地。羽虫のように雨が降り出す。驟雨に混じる火は、黒雲を率いた雷神が大気に放つ矢だ。

 不気味な嵐奏らんそう

 心が銀の旋風となって荒野に向かう。雨後の夜明け。公園に咲いていたアベリアの花と、笑いながら羽根を追いかけていた女の子。海原では帆桁が怪物の手のように揺れ動き、大空に向かって軋みを上げる。風に翻弄される帆船の上で誰かが波濤に向かって叫んでいる。 

 返せ。

 あの日も夕方の五時だった。ぼくは刃物を握っている男を睨んだ。男がひるんだ隙に母が近所に救けを求める声を上げた。三人が三様に奪い合っていた音の時間。誰にも邪魔をさせるものか。

「慧、夕食にしましょう」

「はい」

 外は暗い。静かな夜。小石のような月が出ている。この眼から嵐はまだ出ていかない。外気を隔てる硝子窓に顔が映っている。ぼくの顔であり、あの男の顔。当時のことは紙面の小記事になった。海外在住の彼には何の影響もないだろう。惨劇の夕方が何度ぶり返そうとも翼に乗ってぼくたちは音楽の天上にまた飛ぶのだ。



[了]

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Under the Storm 朝吹 @asabuki

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