ソラとイロハ
あおきひび
ソラとイロハ
炭酸飲料のボトルが汗をかいている。蝉の声が遠くに聞こえていた。
僕とイロハは夏休みの教室で、何もするでもなく駄弁っていた。教室には僕たち以外誰もいない。開け放した窓からは快晴の空が見える。見ているとなんだかひりひりしてくるような、あまりに青い空だった。
僕は手元の楽譜に目をやる。秋の合唱祭で僕は実行委員を務めていた。
「合唱とかだりぃー。やる必要ないだろ。なぁソラ」
「イロハ、それはお前が音痴だからだろ」
「なはは、バレたか」
イロハは炭酸飲料のふたを開ける。しゅわしゅわと泡の立ち上る液体を、イロハは一気に喉へと流し込んだ。やがて「ぷはぁ」と気持ちよさそうに息を吐く。その一挙一動から、僕は何故だか目を離せないでいる。
「お前部活は。行かなくていいのか」
「ああ、辞めた。バンドも抜けてきた」
「はぁ? 何で、そんな急に」
イロハは窓の外を退屈そうに眺めている。その肩まで伸びた髪が風に揺れた。
「うん、なんか、飽きたわ」
僕はイロハがギターを弾く姿が好きだった。教室の椅子で片足を組んで、半身をすこし屈めながら弦をつまびく様子は中々さまになっていた。僕は少し残念に思って、しかしそれを表には出さずに「そうかよ」とそっけなく返した。
「辞めたんなら暇だろ。学校もあんま来ねぇし。毎日何してるんだ?」
「そのへんブラブラしてるよ。毎日ぼーっと過ごしてる」
「何だそれ。なんか虚しくならね?」
「はは、言えてる」
イロハはどこか他人事のように、乾いた笑いを漏らした。
その時、夕方のチャイムが鳴り響いた。はっとして外を見ると、いつのまにか空は真っ赤な夕焼けだった。見ているとなんだか切なくなるような、そんな赤い空。
「そろそろ帰るか」
僕は席を立つ。しかしイロハは座ったままだった。黙って僕を見つめている。
「なあ、どうしたんだよ、早く行こうぜ」
「ソラ、俺は帰れない。ひとりで行ってくれ」
その瞳はしんと静かで、僕は変に恐ろしくなった。
「なんでだよ、イロハ」
「俺はもう空っぽの体だから。そっちには行けないんだ」
「意味わかんねぇよ。早く来いってば」
僕はイロハの腕を掴みたかった。でも体が金縛りにあったように動かなかった。はくはくと息をしながら、指一本すら出せずに、それを見つめていた。
「じゃあな」
イロハが窓枠に足を掛ける。真っ赤な空に向かって、身を投げ出す。墜落していく。
その光景をスローモーションで凝視している。そこで僕は目を覚ました。
薄暗い自室で、僕は両目を開いてベッドに横たわっている。背中に汗をかいていて気持ちが悪い。じっとりと重苦しい夜が僕を包み込んでいた。
あの時。僕が一言でも何かアイツに声を掛けられていたら。そんな思いに囚われて、早数年が過ぎた。この夢はもう何度見たかも分からない。
空虚でもいい。無為でもいい。ただ生きてさえいてくれれば。伝えたかった言葉は、もはや彼には届かない。
なあ、空っぽなのは僕の方だ。お前がいないこの先を、やっぱり続ける気にはなれないよ。
そんな泣き言も宙に浮いて、ただ暗がりに溶けていくだけだ。
高校二年の夏、屋上から飛び降りたあいつのことを、僕は一生忘れることはないだろう。
あの青く眩しい空とともに、いつまでも。
ソラとイロハ あおきひび @nobelu_hibikito
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