第1章 呪われた仮面公爵に嫁ぐ⑤
ゆっくりと、髪を撫でられているような感覚がして目を覚ます。
「すまない、起こしてしまったか……」
リフィアのまどろむ眼差しが、申し訳なさそうに放たれた声の主を捉える。
その瞬間、一気に覚醒した。
「はっ! 私、眠ってしまっていたようで、申し訳ありません!」
慌てて声の主であるオルフェンに謝罪する。外からは鳥のさえずりが聞こえ、窓からは明るい光が差している。どうやら朝を迎えているようだ。
「ずっとそばに付いていてくれたんだな」
「はい! あの、公爵様、お加減はいかがですか?」
「熱は引いたようだ。それにいつもより身体が軽く感じる。君が看病してくれたおかげだ。ありがとう」
「お役に立てて嬉しいです!」
テーブルに並べられた手付かずの料理を見て、「食事もとらずに、看病してくれていたのか?」とオルフェンが申し訳なさそうに尋ねてくる。
「公爵様と一緒にいただこうと思っていたら、私も寝てしまったようです」
「お腹が空いただろう? すぐに新しい食事を用意させよう」
「いえ! 私はこちらをいただきます」
「冷めて美味しくないだろう。そちらは処分して新しいものを……」
(こんなに豪華な食事を捨てるなんて、もったいないわ!)
セピアのおかげで温かい食事をとることができたけれど、それまでは冷めた食事が当たり前だった。
食事を用意してくれた料理人や丁寧に給仕してくれたジョセフに感謝しながら両手を組み、目を閉じてリフィアは祈りの言葉を口にした。
「天におられる我らが守護女神、ヘスティア様に感謝の祈りを。貴重なお恵みをありがとうございます」
次の瞬間、オルフェンが驚愕の声を上げた。
「こ、これは……君が温めたのか!?」
目を開けると、冷めて固くなった料理はいつものように温かな湯気を放っており、まるでできたてのように美味しそうな香りが鼻腔をくすぐる。
「え、どういうことでしょう!?」
「君が祈った後、こうなったように見えた」
「いつもは妹が、温める魔法を施してくれていたんです。こうして祈ったら、冷めた料理も温かくして食べることができて……」
「僕は火魔法も扱えるが、このように料理を新鮮な状態に戻せる魔法なんて使えないよ。表面を熱して温めることはできるが、水分が失われ丸焦げになるだけだ」
「それはつまり……」
「君の祈りが起こした奇跡だと、僕は思う」
(魔法のお礼を言うと、セピアは意味のわからないことを言わないでくださいとそっぽを向いていた。それは照れ隠しではなくて、本当に意味がわからなくて怒っていたの!?)
困惑していたら、オルフェンが悲しみに満ちた眼差しでこちらを見ていた。
「君はずっとそうして、生きてきたのか? 伯爵家に生まれながら、まともな食事すら出してもらえなかったのか?」
左手を強く握りしめ、憤りを露わにしながらオルフェンが問いかけてくる。
「この髪をご覧いただければわかるとおり、私には魔力がありません。貴族としての務めも果たせませんし、食事を与えてもらっていただけでも感謝しないといけません。家族のために、何も返すことができなかったのですから……」
ここへ来る途中に立ち寄った農村の平民たちは、度重なる魔物襲来の被害で十分な食事がとれていないようだった。子どもたちも朝から親の手伝いをして働いていた。
税収をもらって生活する貴族には、彼等が安全に生活できるよう守る義務がある。世界樹の防衛機能がきちんと働いていれば、彼等はもっと余裕のある生活ができたはずだ。
人々の生活を守る世界樹を延命させるために、魔力結晶を奉納するのも務めの一つであり、リフィアにはそれができなかった。
貴族の務めも果たせずに、平民の子どもたちのように働きもせずに、彼等が普段食べている食事より豪華なものを食べさせてもらって、感謝をしなければ罰が当たってしまう。
「君はあの日、自身の成人を祝う舞踏会にさえ、参加させてもらえなかったのではないか? 寒空の下、あんなところに主役がいたのが何よりの証拠だ」
「仰る、通りです……」
リフィアの成人を祝う体裁を保つためだけに開かれた、エヴァン伯爵家主催の舞踏会。
開催前から、主役の病欠は決定事項だった。
もちろんそこに舞踏会に出たいという本人の意思が反映されることはなかった。
「君が嫁いでくるにあたり、母上は多額の支度金を伯爵家に払っている。今までの恩はそれで十分返せたはずだ。君を虐げてきた者たちに、それ以上の感謝は必要ないと僕は思う」
出戻りは決して許されないと言っていた冷たい目のセルジオスと、臨時収入でドレスを新調しようとしていたアマリアの機嫌のよさそうな声を思い出す。
(家族への恩が返せたというのなら、今度は……)
「私のような者のために多額の支度金をご用意していただき、ありがとうございます。その分しっかりと、これからは公爵様に感謝を捧げてお仕えしたいと思っております」
よろしくお願いしますと、誠心誠意頭を下げると、なぜか頭上からオルフェンの慌てた声が聞こえてくる。
「き、君は僕の妻として、来てくれたのだろう!? 仕えるって、なぜそうなるんだい!?」
「憧れの公爵様の妻になるなど、私には分不相応なことだときちんと把握しております。掃除でも洗濯でも何でもします! だからどうか……」
そんなことをする必要はないと、オルフェンは静かに首を左右に振った。
「リフィア。君さえよければ妻として、これからも僕のそばにいてほしい」
(私が妻として、公爵様のそばに……?)
人違いではない。オルフェンの紫色の瞳は真っ直ぐにこちらを捉えている。
誰かに必要とされたのは、それが初めてだった。
言葉の意味を理解して、リフィアの頬がみるみる赤く染まる。しかしオルフェンの瞳に映る自身の髪を見て、さっと血の気が引いた。
「魔力を持たない私が妻としてそばにいたら、公爵様を不快にさせたりしませんか?」
恐る恐る尋ねると、仮面の奥で優しく目を細めて、オルフェンが答えてくれた。
「この髪を見たらわかるとは思うのだけど、僕は生まれつき多大な魔力を持っている。だから心配しなくていい。足りないものは、補い合えばいいと思うんだ」
「補い合えるほど、私は公爵様のお役に立てるのでしょうか……」
ここでの生活は至れり尽くせりで、一方的に与えてもらってばかりだ。
その恩に報いるほど今の自分に何ができるのか、考えても答えが出ない。
「好きなことをして、笑って僕のそばにいてくれると嬉しい。君の存在が、僕の心を温めてくれるから。少しだけ、昔話をしてもいいかい?」
「はい、お聞かせください」
「妻として、ここに女性が送られたのは君で三人目なんだ。一人目は、恐怖に震えて泣いていた。二人目は、すごい剣幕で『化物、こっちに来るな』と怒っていた。手切れ金を渡すと、彼女たちはすぐに出ていったよ。だからまさかこんな僕に、寄り添って看病をしてくれる女性がいるなんて思いもしなかった。君に不快な思いをしてほしくなくて、僕は君の手を振り払ってしまったんだ。昨日は本当にすまなかった」
「滅相もございません! あれは公爵様の優しさだと、きちんとわかっておりますから」
「リフィア、君が僕の手を臆せず握ってくれて、あの時本当はとても嬉しかった。こんな身だから僕はいつまで生きられるかもわからない。君の幸せを願うなら、本当は縛り付けるべきじゃないのもわかっている……けれど残りの人生を、できることなら僕は君と共に歩んでいきたい」
仮面の奥から注がれる熱の籠った真っ直ぐな眼差しに、胸が大きく高鳴る。
人に好意を寄せられるのが初めてのリフィアにとって、それはとても甘美で蕩けるようなふわふわした気持ちだった。
(これが、幸せっていうのかしら……)
差し出されたオルフェンの震える手を、リフィアは両手で優しく包み込んだ。
「とても嬉しいです! ありがとうございます、公爵様」
硬鱗化したオルフェンの右手はザラザラしていてとても硬い。それでも自分を必要としてくれるその手が、リフィアにはとても愛おしく感じられた。
「オルフェンだ。その、名前で呼んでくれないだろうか?」
「はい、オルフェン様。貴方に出会えて、私は今とても幸せです。この幸せを少しでも長く貴方と共有したい。だから少しだけ、このまま祈らせてください」
「僕のために、ありがとう」
リフィアは心を込めて祈った。この出会いに感謝し、共に歩んでいきたいと強く願った。
「オルフェン様との出会いに、心から感謝いたします」
その時──繋がれた手に温かな光が宿り、奇跡が起きた。
リフィアが異変を感じてオルフェンの手を放すと、手首から先が元に戻っていた。
「手が、自由に動く!」
オルフェンは自身の曲がらなくなっていた指を握ったり開いたりして、その奇跡に感嘆の声を上げた。
「すごいよ、リフィア! 君はもしかすると、神聖力を持っているのかもしれない」
「神聖力、ですか?」
馴染みのない言葉にリフィアは首を傾げる。
「かつて聖女だけが持っていた奇跡の力だよ。枯れた大地を緑に変えたり、酷い怪我や病気を治したりできたと言われているんだ。魔力を持つ者は、神聖力を扱えない。君にはもしかすると、聖女としての素質があるのかもしれない」
「酷い怪我をしても、一晩休めば綺麗に治っていました。妹が治療してくれたおかげだと思っていたのですが、神聖力も影響していたのでしょうか?」
「酷い怪我って、まさか虐待までされていたの!?」
心配そうに尋ねてくるオルフェンを見て、疑問をそのまま口にしてしまったことを後悔し、慌てて理由を述べた。
「い、いえ、私がお母様を怒らせてしまったせいです! 魔力のない子を産んだことで、お母様は周囲から責められていたようで……それが爆発してしまった時に、少しだけ……」
「つらいことを思い出させてしまって、すまない」
しゅんと項垂れてしまったオルフェンに慌てて否定する。
「私、嬉しいんです! 手を戻せたということは、いつかは呪いを完全に解くことができるかもしれません。そうすれば少しでも長く、オルフェン様のおそばにいられますから」
今まで不遇だった人生があったからこそ気付けた力だと思うと、これまでのつらい人生も報われた気がした。
(大切な人の役に立てるかもしれない、これほど嬉しいことはないわ!)
「リフィア……どうして君はそんなに可愛いんだ」
こちらに伸びてきたオルフェンの左手が、愛でるように頭を撫でてくれた。
「頭を撫でられるのって、意外とくすぐったいのですね」
「す、すまない!」
慌てて手を引っ込めようとしたオルフェンに、「どうかやめないでください」とリフィアは訴えた。
「この白い髪にそうして笑顔で触れてくださるのは、オルフェン様だけです。『頑張ったね』って頭を撫でてもらえる妹が、子どもの頃はとても羨ましかったんです。だから魔法以外のお勉強を必死に頑張ったんですが、見向きもされませんでした。この年になって、諦めていた夢が叶うなんて思いもしませんでした」
昔のことを思い出していると、オルフェンが慰めるように優しく頭を撫でてくれた。
最初は恥ずかしくてくすぐったいと感じたものの、それが次第に心地のよいものへと変わっていく。
「僕でよければ、これからいくらでも撫でるよ。だからリフィア、これからは遠慮なく君のやりたいことや、僕にしてほしいことを教えてね。これは約束だよ」
「はい、オルフェン様。ありがとうございます」
誰かに心配されることがこんなに嬉しいことだったんだと、リフィアは初めて知った。
呪われた仮面公爵との新婚生活は、こうして幸せいっぱいに包まれて始まった。
呪われた仮面公爵に嫁いだ薄幸令嬢の掴んだ幸せ 花宵/角川ビーンズ文庫 @beans
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