虫ピンに胸を貫かれて

こばやし あき

虫ピンに胸を貫かれて

 言葉とはあやふやなもので、同じ言葉でも人によってまたは時によって、その言葉が意味することや指すものが違う時がある。


 例えば、君が『きれい』だと言った俺の髪は、俺にとっては少し硬めの日本人にとってはごくありふれた黒髪で、君がいくらきれいだと言っても俺にはきれいだとは認識できない。ただそれを聞いて君が俺の髪をきれいだと思っていてくれていることが伝わるだけ。


 逆に俺が君の髪―光の加減によって銀糸のように光るプラチナブロンド―の方がきれいだと応えても、君は「こんなの、何処がきれいなの?」と不思議そうに小首を傾げるだけ。


 そんなあやふやな言葉でもそうしなければ伝わらないことがあるから、自分の定義に当てはまる言葉を探し出し表現したい物事に名付け、言葉にして伝える。


 これが物質に対する言葉なら簡単で、ワインについて言いたいなら『ワイン』と言えばいい。


 難しいのは目に見えないこと、特に気持ちをぴったりとした言葉にすること。

『嬉しい』『腹が立つ』『悲しい』『楽しい』、そんなありふれた言葉を言った後でも、この気持ちが相手にちゃんと伝わっているのか、ぴったりとくる言葉を使っているんだろうかと不安になる時がある。

 俺は自分のこれこれこういう気持ちを『嬉しい』と表しているけど、実は俺が感じているような気持ちは他の人にとっては『楽しい』表現するような気持ちなんじゃないかと。


 大切な気持ちを言葉にしようとする時、思い浮かぶ映像がある。


―― 標本台の上、ぴんと伸ばされた羽も鮮やかに、

                胸に虫ピンを刺され固定された蝶 ――



「ヒロー、何考えてるのー?」


 小さく眠たげな声に蝶の映像が掻き消され、猫のように丸くなって寝っ転がっているケイシーの顔を見た。声の通り眠たそうで、片目を薄く開くのがやっとという感じだ。


「んー、蝶について」


「蝶々でもいたのー? 春だねー」

 ケイシーはそう言うと安心したように、薄く開けていた方の目も閉じた。


 今日は友達と五人で、エルダーパークに来ている。

 季節毎に行われる野外コンサートを聴きながら、ピクニックをしようと言うことで。


 エルダーパークには多目的野外ステージがあり、生演奏の音楽をたまにただで聴くことができる。

 それほど音楽に興味のないケイシーや俺でもただなら聴いてみようかと、半ばピクニックの口実のように何度かエルダーパークのコンサートを聴きに来ている。


 公園の側を川が流れ、いつもなら黒鳥やペリカンを見ることができるのだけれど、今日はこの人集りと音楽にうんざりなのだろう、どこかに姿を隠しているようだ。

 友達三人は黒鳥を探しに行ったきりまだ帰らない。


 川を後ろにステージがあり、それを中心に囲むように傾斜のついた芝生が続いている。


 そんな芝生に聴衆はめいめいレジャーシートや椅子を置き、ワインやビール、軽い食事などを広げ好きなようにくつろいでいる。


 俺たちのレジャーシートの上にも、中身の無くなったワインの瓶三本と食い散らかされた何種類のチーズとクラッカーなどが転がっている。


 春を感じさせるさわやかな陽気とワインやらビールやらの混ざったアルコールの香り。コンサートだからある程度大きな音が出ているのにうるさく感じない心地よい音楽。


 春風にそよぐ金糸のような髪、安心しきったように軽く閉じられた目、時折小鼻がぴくりと動くすっとした高い鼻、大きめな口を縁取る薄い唇。

 すぐ側で寝そべる人のそんな全てが、気持ちを落ち着かなくさせる。


 今胸にある気持ちを言葉に表すとしたら、どんな言葉を使えばいいのだろう。


 この胸の奥から絶えず湧き出るような熱い喜び。

 肉体の重さを忘れるような多幸感。


 逆に、もう二度とこんな幸せな気持ちになることは無いんじゃないかという冷たい予感。


 他にもなんと言葉にしたらいいか分からないような何種類もの感情が温度の違う波のように押し寄せ、体の中で渦を巻いているようだ。


 この感情をなんと表せばいいんだろう。


 そもそも言葉にして表す必要があるんだろうか、他人に、ケイシーにさえもこの気持ちを伝える気はないのに。


 どうせ俺は後数か月でこの地を去り、二人の人生が再び交差することなどないのだから。


 感情を表す言葉というのは、人の体の中を動き回る感情に、これは『嬉しい』と言う気持ち、これは『悲しい』と言う気持ちと刺さしていく、虫ピンのようなものなのではないか。


 言葉の虫ピンで刺された気持ちは例えそれが無意識でも定義が定められ、混沌とした動きを止められる。

 そしてそれは他人に伝えられるもの、共感出来得るものとなる。


 この感情は恋愛感情の『好き』にとてもよく似ている気がする。

 今からそう認めるにはもう遅すぎるし、認めたくもないけれど。


 でも、この気持ちをたった一言、『好き』だと片付けてしまえば、混沌から解放され楽になれるのだろうか。

 こんな訳の分からないぐねぐねとのたうち回る感情に、ただ一本『好き』という虫ピンを刺しただけで、この気持ちをなだめることができるのだろうか。

 なだめたところで、すぐに粉々にし、消してしまわなければならないのに。



 さわりと強めの風が吹き、クラッカーの欠片がふわふわ揺れるケイシー髪にくっつく。

 それを取り除こうと俺の手がケイシーの髪を一房掬う。

 髪を掬っただけで欠片はするりとレジャーシートの上に落ち、手の中にはきらきら光るケイシーの髪だけが残る。


 あぁ、こんなにきれいな髪って見たことがない。

 温かいお湯で体中が満たされたような、そんな気持ちが湧いてくる。


 動く度に反射される金の光がきれいで、掌に載せた髪を親指で軽く擦る。


 ざわりとさっきより強めの風が吹き、手の中に残った髪がふわりと逃げていく。


 手から逃げていったのを追うように、指が自然と髪の中に埋まり、二、三度ゆっくりと梳く。


 緩く閉じられていた目が驚いたように見開かれ、緑がかった金褐色の瞳が俺の目を真っ直ぐ捕らえた。

あまりに真っ直ぐすぎて、見ているうちに瞳に飲み込まれるようなそんな錯覚。


 ケイシーが上半身を起こすのと同時に、俺は髪の中に入れた指をそっと抜くと何事もなかったかのように腕を組み、視線をコンサートの行われているステージへと移した。


 目の端に眠たげな表情に戻った柔らかい微笑みが映り、安心した時のため息のような囁きが聞こえた。


「ねぇヒロ。――好きだよ」

 そう言うとケイシーはまたころっと横になり、気持ちよさそうに目を閉じた。


 あぁ――灼けるように熱い虫ピンが、ゆっくりと胸を貫いていく。


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