第3話 僕の下した決断は
梅雨の合間の晴れ間の日。
教室のカーテンの隙間から、まぶしいほどの陽光が差し込んでいた。
ほとんどの生徒が下校し、閑散とした教室で、弘哉と母親の信子は教壇の前に置かれた椅子に座っていた。これから二人は、担任を交えて高校卒業後の進路について話し合う三者面談に臨む予定だ。
面談の予定時間である午後三時半には何とか間に合ったものの、担任の
「遅れてごめんなさい。顧問をしているバスケ部でけが人が出たんで、ちょっと様子を見に行ってたら、今の時間になってしまいまして」
岡田は申し訳なさそうな声で頭を下げると、素早くファイルをめくり、「えーと、と、政井弘哉……あった、このページかな」と言いながら、二人の前に広げた。
「早速ですが、まず、弘哉さんの今後の進路をどうするかについて、意思の確認をしたいのですが……」
岡田は頬杖を付きながら、「どうするんですか?」と言わんばかりに上目遣いで二人の顔を見つめていた。
「先生、うちの子は大丈夫ですから」
信子は、弘哉が話そうとするのを制するかのように真っ先に口を開いた。
「『大丈夫』とは、一体どういう意味で言っているのでしょうか?」
「うちの子は進学させません。この子は、夫が経営する料亭のたった一人の貴重な跡継ぎですから。卒業後は、いずれ跡を継ぐために店の仕事を手伝ってもらうつもりです」
「あれ? 進学しない予定でしたっけ? 弘哉さんの事前の進路希望調査には、『大学に進学する』と書いてありますが」
担任の岡田はファイルをめくりながら、弘哉は京都市内や東京都内にある中堅レベルの私立大学を志望していると話した。
「ほ、本当ですか? 先生」
「本当ですよ。ちゃんと書いてありますよ、ここにね」
岡田はファイルを広げ、弘哉の進路希望調査のページを二人の目の前に差し出すと、信子は額に手を当てながら、首を何度も振っていた。
「今、私が名前を挙げた大学は、弘哉さんの学力ならば一応合格の可能性があります。まあ、絶対受かるとは安易に断言はできませんが、我々としては、多少無理であっても抑えつけるようなことはしませんから。お母さんにも、本人の希望を一番優先してあげてもらいたいですね」
「そんな……」
岡田の言葉を聞き、信子は急に押し黙ってしまった。
「弘哉君、今も君の気持ちは変わらないんだろう?」
「はい……」
弘哉の力強い言葉に岡田は目じりを下げて微笑みながら「そうか」と言って何度もうなずくと、開いていたファイルを閉じ、席から立ち上がった。
「がんばるんだぞ。この夏休みに追い込めば、志望校には十分受かると思うから」
「はい」
岡田は満面の笑顔で弘哉の頭を撫でると、ドアを開け、二人を面談室の出口で見送った。信子は岡田に頭を下げつつも、首を何度も傾げていまいち納得していない表情を見せていた。
面談を終えた弘哉は、信子の運転する車に乗りこんで家路についた。
信子は最初、何も言わずまっすぐ前を見て運転していたが、しばらくするとハンドルを握りながら横目で弘哉を睨み、口を開いた。
「あんた、本気で大学を目指すつもり? 何か勉強したいものがあるの?」
「特にないよ。でも……とりあえず、大学には行きたいんだ」
「一応? まさかそんな甘い考えで進学するの? それにそんな話、私も父さんも全然聞いてないよ。もし大学に出たら、私たちの店はどうするつもりなの?」
「悪いけど……今の僕は、店を継ぐ気はないんだ。僕にとっては、単に苦痛としか思えなくて」
「苦痛? ひょっとして料理の練習のこと?」
「うん」
「あのね弘哉。父さんはね、あんたのことを立派な跡継ぎにしたい一心で、全く料理が出来ないあんたのために、わざわざ時間を割いて料理を教えてくれてるんだよ。本当は宴会の仕込みとかにもっと時間を掛けたいのにさ……あんたももう少し父さんの気持ちを分かってほしいよ」
信子は、車のハンドルを握りながらため息をついた。
「とりあえず、漠然と大学に行くくらいならうちの店を継いでちょうだい。我が家にはあんたしか、父さんの跡を継げる人間はいないんだからさ」
信子がたしなめると、弘哉はうつろな表情で頷いた。
やがて、車のフロントガラスから「まる福」の看板が見えてきた。
店の前に着くや否や、信子は車のドアを開けた。
「ほら、早く行きなさい。父さんが待ってるかもしれないよ。最近、あんたが早く帰ってこないってイライラしてるからさ」
信子に半ば脅されるかのような言葉を掛けられて車を降りた弘哉は、怖い気持ちを抱えながら、勢いよく店のドアを開けた。
「ただいま」
弘哉が声を上げると、満が調理室から突如現れ、腰に手を当てて弘哉を睨みつけた。
「おい、遅かったじゃねえか」
満は野太くてどすの利いた声を上げると、眉間に皺をよせ、丸くギョロっとした目を見開いて弘哉を睨みつけた。
「ごめん……今日、三者面談があったんだけど、始まる時間が予定より遅くなっちゃって」
「また言い訳するのか? 男らしくねえな。これ以上お前のくだらない言い訳なんか聞いてたまるかよ!」
弘哉が理由を説明すればするほど満の怒りが倍増し、ただでさえどすの利いた声は次第に凄みを増してきた。
「旦那さん」
二人の背後から、パートの早紀子が声をかけた。
「何だ? 今は忙しいんだ。後にしろや」
「違います。今日は宴会の予約が入っているのに、奥様と弘哉さんが一緒に学校に行かれたじゃないですか? 私たちパートだけじゃ準備が全然間に合わなくて……。宴会の開始時間までそんなに時間が無いし、出来れば旦那さんにも手を貸してほしいんですよ」
早紀子の話を聞いて、満は舌打ちしながら「仕方ねえな」とつぶやいた。
「おい弘哉、今日の刺身はお前が作れ」
「ぼ、僕が?」
「そうだ。俺はこれから、他にやらなくちゃいけねえことがあるんだ。お前の面倒を見てる時間は取れねえんだよ。俺がこないだ教えた通りに刺身を作っとけ!」
満はまくしたてるようにそう言うと、弘哉に背を向けて厨房の奥の方へ行ってしまった。一人取り残された弘哉は、室内灯に照らされて光る包丁の刃先を見ながら、どうしたらいいか考え込んでしまった。
「とりあえず、やるしかないか……」
弘哉はあきらめた様子でまな板に魚を載せると、包丁をゆっくりと動かしながら身を切り刻んでいった。
「おい、出来たのか? そろそろ予約の時間だ。早くしろ!」
厨房の奥から、満の鋭いうなり声が聞こえてきた。弘哉は「すぐ出来るから、もうちょっと待って!」と叫び、包丁を動かす速度を上げた。しかし、焦れば焦るほど包丁の動かし方が雑になり、刺身の形がいびつになったり、厚さが一定でなかったりと、散々な出来になってしまった。時計の針は宴会の開始時間の六時に刻一刻と近づいていた。
「お客さんが入ってきてるぞ! まだ出来ねえのか?」
満が腕組みをしながら厨房に入ってきたのとほぼ同時に、弘哉は人数分の刺身を切り、盛り付けまで終えることができた。
「ほう、何とか間に合ったのか。もう時間がねえから、とっとと宴会場へ持っていけや」
「は、はい」
満は掌を左右に振り、盛り付けたばかりの刺身を宴会場へ持っていくよう指示した。
宴会場の各席にはすでに赤魚の煮つけに鶏のから揚げ、そして鱈と野菜の入った鍋が並べられていた。弘哉は、刺身の載った赤く丸い皿をテーブルの中央に置いた。皿を持つ弘哉の手は、緊張のあまり、かすかに震えていた。
厨房に戻ると、弘哉は何もせずに胸の辺りを押さえながらずっと立ち尽くしていた。自分の切った刺身に対し、客からどんな反応が返ってくるのか、怖くて仕方が無かった。
「おい、弘哉」
野太く唸るような声が、弘哉の背後から聞こえてきた。振り向くと、そこには腕組みをした満の姿があった。
「今日の夕食の刺身……こないだ教えた通りに切ったのか?」
「うん、そうだけど」
「本当か?」
「ど、どうしたの? 一体……」
「客から言われたんだ。今日の刺身は形がいびつ過ぎて、食べられたもんじゃないって」
弘哉は、一気に顔面が青ざめた。途中から慌てて包丁を動かしたため、刺身の形がいびつになっていたのを客はしっかりと見抜き、指摘してきたようだ。
何とか見過ごしてくれたらと心の中で願っていたが、やはり世間は甘くはなかった。
「俺が必死に教えたことを、もう忘れたのか?」
「わ、忘れたわけじゃないよ。でも、時間が無かったから、包丁を出来るだけ手早く動かしたんだ」
「馬鹿か、お前は!」
満は激しい音を立てて厨房の調理台を拳で叩きつけると、廊下にまで響くほどの声で怒鳴りつけた。
「うちの刺身はな、評判が良くてわざわざ遠くから食べに来る客も多いんだ。それなのに、適当に切って並べた刺身を出されたら、客が裏切られた気持ちになるのは当たり前じゃねえか! 客がもうここには来ないって言いだしたら、どうするんだ! 料理人としてあまりにも無責任だぞ、お前は!」
満は息を荒げながら、弘哉に殴りかかりそうな勢いでまくし立てた。
弘哉は満の顔を見るのが怖くて、頭を下げたまま黙って聞き続けていた。
がなり立てる声で一方的に責められていた弘哉は、精神的に疲弊し、これ以上は我慢の限界だった。
弘哉は意を決すると、小言を続ける満を遮るかのように大きな声で言葉を発した。
「父さん!」
弘哉が声を上げた瞬間、満は目を剥き出しにして睨みつけてきた。鬼のような恐ろしい形相に弘哉は思わず気持ちがひるんだが、胸を手で撫でながら心を落ち着かせ、大きく頷き、口を開いた。
「僕の話、ちょっとだけでもいいから聞いてくれるかな」
「何だ? 俺がしゃべってるのに、生意気に口答えする気か!?」
「僕……もうこれ以上、こんな修行なんかしたくない」
「何だと? おい、今の言葉、もういっぺん言ってみろ!」
「もうこんな修行、止めたいんだ。これは今の僕の素直な気持ちなんだ」
「ほう、修行を止めてどうするんだ? お前は今まで料理以外のことなんて何もしてこなかったじゃねえか。他に選べる道なんかあるのかよ?」
「僕、決めたんだ。高校卒業したら、この家に残らず、他所の土地の大学へ進学するつもりだから」
その時満は突然押し黙り、両手を握りしめながら殺気立った目で弘哉を睨みつけた。
「今日の三者面談で、先生にも自分の意思を伝えたんだ。もうこの店を継ごうとは思わない。自由に生きていきたいんだ」
「この野郎……!」
満は顔をしわくちゃにして、握りしめた両手を震わせながら、勝手口から外へ駆け出していった。
「待ってよ、父さん!」
暗闇の中、弘哉は庭を必死に探し回ったが、外は灯りがなく、なかなか満の姿を見つけ出せなかった。その時、物置の陰の茂みから、ゲホゲホと激しい咳の音が聞こえてきた。弘哉は物置にそっと近づくと、満がしゃがみこみながら、ひたすら煙草を吸い続けていた。時々煙にむせって激しくせき込んでいたが、その後も煙草を吸うことを止めなかった。
「やめてよ、父さん。僕のことを怒るのはともかく、煙草だけはやめてくれよ」
「う、うるさい……ゴホッ。おまえとは……もう二度と話……したくねえんだ! グホッ!」
満の様子を弘哉は遠目で見届けると、うなだれたまま厨房へと戻っていった。
弘哉が部屋に戻る途中、宴会の席で食べ終えた皿を回収していた信子が心配そうに見つめ、声を掛けてきた。
「どうしたの、元気ないけど」
「父さん、また煙草吸ってたよ」
「ふーん、今度は一体何が原因なの?」
「……この店を継ぎたくない、進学したいって伝えたんだ」
「ちょっと、何でそんなこと言ったの?」
「何でって……これが今の僕の素直な気持ちだから」
すると信子はまるで「信じられない」と言わんばかりに両方の掌を天にかざし、首を左右に振った。
「……父さんも大概だけど、あんたももう少し父さんの気持ちを考えなさい!」
信子は呆れた顔でそう言うと、そそくさと弘哉の脇を通り過ぎて庭に入り、煙草を吸い続ける満の背中を介抱していた。
弘哉の気持ちは満には理解してもらえず、感情を逆撫でし、溝を深める結果になってしまった。激しく咳き込む満の背中をさする信子の姿を見届けながら、弘哉はとぼとぼと自分の部屋へと戻っていった。
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父が最期に伝えたかった言葉 Youlife @youlifebaby
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