第2話 もっと自由に、もっと素直に

 翌日、授業を終えた弘哉は、いつものように自転車に乗って家路についていた。今日は朝から重い雲が垂れ込め、時々小粒の雨が弘哉の顔や腕の上に落ちてきた。

 傘を持っていなかった弘哉は全身ずぶ濡れになり、濡れた髪の毛が額にべっとりと付着し、ワイシャツとズボンは体に付着するかのように張り付いていた。

 自宅である「まる福」の建物はすぐそこにあるのに、弘哉の足は止まってしまった。雨は容赦なく弘哉の全身を濡らし続けているものの、弘哉は自転車のハンドルに手を添え、その場から動かなかった。まるで金縛りにあったかのように、一歩も前に進めなかった。

 その時、明るい水色の丸みを帯びた車体のシトロエンが、背後からまばゆいライトを照らしながら近づいてきた。車は弘哉の真横で急に停まると、ドアが開き、中年位の男性の叫ぶ声が弘哉の耳に入ってきた。


「おい! そこでなにやってるんだ?」


 男性の声を聞いた弘哉は、顔を真横に向けると、中年の男性が腕組みをしながら心配そうに弘哉を見つめていた。短く刈り込んだ白髪と灰色の髭に覆われた顎、そして細身のブーツカットジーンズを颯爽と穿きこなすモデルのような体型は、田舎町ではあまり見かけない風貌だった。


「あれ? お前……弘哉か?」

「そうですが」

「ひょっとして俺のこと、忘れちゃったのか?」

「すみません、すぐには思い出せなくて」

「篤だよ。お前の親父の弟だよ」

「え、おじさん?」

「そう。まあ、かれこれ三年以上実家に帰っていなかったから、忘れられてもしょうがないか。ハハハハ」


 篤は頭を掻きながら白い歯を見せて笑い出した。

 篤は弘哉が物心着いた頃にはすでに別居しており、国内や世界各地を放浪し、行く先々でアルバイトをしてお金を稼ぎながら生活していた。実家に帰ってくるのは、年に一度あるかないかという感じだった。


「ところでお前、一体どうしたんだよ? こんな雨の中、傘も差さないで突っ立ってるなんて」

「だって……家に帰りたくないから」

「家に? ああ、さては兄貴が原因かな?」


 篤は上目遣いで「図星だろ?」と言いたげな様子で弘哉を見つめていた。


「まあ、その通り……だけど」

「やっぱりなあ。兄貴は事あるごとにお前のことを跡継ぎにしたいって、ずーっと言い続けていたからさ。兄貴のことだから、お前が大きくなったら、立派な跡継ぎにするべく日夜しごいているんだろうなって心配はしていたんだよね」


 篤はずぶ濡れになった弘哉に憐れみの言葉をかけていた。


「でも、このまま雨の中に立っていたら風邪ひいちまうだろ? 俺、ちょうどこれから実家に帰る所だからさ。何なら一緒に家の玄関を開けようか? 俺と一緒なら、少しは心強いだろ?」

「良いんですか?」

「気にすんなよ。俺はいくら兄貴に怒鳴られてもぜーんぜん平気だから。さ、俺の後を付いて来いよ」


 篤は弘哉が自転車を降りると、肩を並べて一緒に玄関の戸を開けた。


「ただいま」


 弘哉が声を上げると、信子がいつものように廊下の奥から顔を出した。


「おかえり弘哉、お父さんがあんたのことを待って……えっ!?」


 信子は弘哉の隣に立つ篤に気づくと、口に手を当てて体をのけぞらせた。


「よう信子さん、久しぶりだなあ。三年ぶりに帰ってきたけど、全然変わらねえな」

「お久しぶりです。今日はどうしたんですか? 弘哉と一緒だなんて」

「こんな土砂降りなのにずーっと外で突っ立ってたんだよ。心配になって、一緒に帰ろうって声をかけたんだよ」

「な、何やってんのよ、弘哉。篤おじさんに心配かけちゃダメでしょ?」

「アハハハ、俺のことは別に気にしないでよ。弘哉はどうやら兄貴のことで悩んでるみたいだからさ」

「兄貴って、満さんのこと?」

「そうだよ。さ、弘哉、早く着替えて来いよ。俺は先に厨房に行ってるから」


 篤は笑いながら弘哉の背中を押すと、弘哉は篤の顔を見つめながら、戸惑いながらもそそくさと自分の部屋へと駆け込んでいった。

 弘哉は着ていたワイシャツとズボンを脱ぎ捨て、濡れた髪や全身をタオルで拭き取っていた。窓を叩きつける雨の音に交じり、ドアの向こうから満が激しく怒鳴り散らす声が聞こえてきた。

 Tシャツとジーンズに着替えた弘哉は、忍び足でおそるおそる厨房に近づいた。さっきまで弘哉の部屋にまで響いていた満の怒鳴り声は、全く耳に入ってこなかった。

 弘哉はそっと厨房のドアを開けると、ガスコンロの前では篤が大鍋を使って何かを煮込んでいた。厨房の隅では、満が顔をしかめて腕組みをし、かかとで床を踏み鳴らしながら篤の様子をじっと見続けていた。


「おじさん、何を作ってるんですか?」


 弘哉が篤の背中越しに尋ねると、篤は手招きし、グツグツと煮立つ音がする大鍋の中を見せてくれた。


「これって……パスタ?」

「そうだ、おいしそうだろ? この麺はイタリアから直輸入したやつだ」


 篤は菜箸を使って、茹でている麺をそっと上に持ち上げた。


「今日はみんなに美味しいイタリアンを振舞うからさ。俺さ、三年前に神奈川県の鎌倉で自分の店を開いたんだよ」

「お店? 篤さん、確かヨーロッパを放浪していたはずじゃ……」

「ああ、その時立ち寄ったイタリアで本場のイタリアンに惚れ込んでね。がっつり修行させてもらって、帰国早々店を開いたんだ。場所が鎌倉の長谷っていう所でね。周囲に観光名所が多いから、開店当時からすごく繁盛して大忙しだった。最近ようやく客足が落ち着いてきて、少しずつ自分の時間が出来てきたんだよ」


 篤は茹で上がったパスタを手早く湯切りし、皿に盛りつけると、その上にタッパーに入れていた様々な種類のソースと絡めた。


「パスタの面白い所はね、ソースと具材次第で色々な味わい方が出来る所なんだよ。さあ、早速食べてみてよ。辛子が載っているのがペペロンチーノ、緑色のソースに絡めてあるのがジェノベーゼ。あ、これはボロネーゼね。ミートソースが載って、日本人にもおなじみのやつだよ」


 篤が一つ一つの皿を指さしながら解説すると、厨房のドアの前に立っていた信子が興味津々に近づき、ボロネーゼというミートソースの載ったパスタを小皿に取って、早速味見し始めた。


「お、美味しい! 初めて食べたよ、こんな美味しいミートソース」

「だろ? ひき肉の味が濃くて、一度食べたら何杯でも食べたくなる一品だよ。ウチのレストランで一番人気なんだよね」

「ほら、弘哉も食べてごらんよ。ほっぺたが落っこちそうになるから」


 信子は口の中にパスタを目いっぱい頬張りながら、弘哉の目の前に立ってボロネーゼの皿を指さした。

 弘哉はおそるおそるパスタを小皿に乗せると、二、三本だけゆっくりとすすり上げた。


「美味しい……」


 濃厚で風味の良いミートソース、そしてちょうどよい硬さの麺……弘哉は目を剝き出しにして驚きながら、小皿の上に載ったバスタを一本、また一本とすすり上げていった。他の小皿に盛られたペペロンチーノやジェノベーゼも食べてみたが、今まで味わったことのない美味しさに、ひたすら感動を覚えていた。


「お父さんは食べないの? このままだと私たち二人に全部食べられちゃうわよ」


 信子が口いっぱいにパスタを頬張りながら満の肩を叩くと、満は突然顔をしかめ、ドスンと激しい音を立てて握りしめた拳を壁に叩きつけた。


「ふざけんな! 俺は洋食が大っ嫌いなんだ。それにな、店を継がずに無責任に生きてきた奴の作る料理なんて、間違っても食べたかぁねえよ!」


 満は怒り狂うかのような声で叫ぶと、腰に手を当てながら篤の目の前に躍り出た。


「帰れ。これから俺は弘哉に料理を教えなきゃいけねえんだ。邪魔になるから、とっとと失せろ!」

「ふーん……ちなみに、どんな風に教えてるの?」

「俺が隣に付いて、手取り足取り教えてるんだ。うちの親父が俺たちに教えたようにな」

「そうか。だから弘哉は家に帰りたくなかったんだね」

「な、何だと?」

「覚えてるか? それって、昔、親父が俺たち兄弟に料理の教えていた時と同じ手法だよ。俺は親父からそういう教え方をされているうちに料理が嫌いになって、家を出て行ったんだ。兄貴だって、あの頃は『もう料理なんかしたくない。こんな店、どうなったっていい』って言って俺の前で泣きじゃくってたじゃないか?」

「う、うるさい! 弘哉の前で余計なことをしゃべるんじゃねえ!」


 満は全身を震わせながら篤の胸倉をつかんだ。


「出ていけ! 持ってきたもの全部片づけて、とっとと失せろ!」

「はいはい、言われなくても帰りますよ。兄貴も、いい加減に自分に素直になった方がいいと思うけどな」


 篤は呆れ顔で自分の胸倉を掴んでいた満の手を払いのけると、持参してきた麺とタッパーを大きなリュックの中に仕舞い込んだ。

 満は青ざめた顔で激しく呼吸をしながら興奮気味に叫ぶと、大鍋に入っていた残りのパスタをすべてシンクへ投げ捨てた。

 弘哉は両親を厨房に残して、玄関に向かう篤の背中を追いかけた。


「おじさん!」


 弘哉は胸の奥からあふれる思いをぶつけるかのように叫んだ。

 篤は玄関で足を止め、驚いた様子で弘哉の顔を見つめた。


「おじさんの作るパスタ、今まで食べたことが無い位美味しかったです。それに、おじさんがずーっと楽しそうに料理しているのが羨ましくって……。父さんはいつも不機嫌な顔で料理してるし、僕自身、料理していても辛く悲しい気分にしかならなくて」


 弘哉が自分が感じたことを正直に伝えると、篤は突然ズボンのポケットをまさぐり始めた。やがて名刺入れを取り出すと、一枚の名刺を弘哉に手渡した。

 名刺には「レストランテ・ペンディオ 代表 政井篤」と書かれていた。


「いつでも食べにおいで。ただ、俺も生活がかかってるから、身内でもタダというわけにはいかないんだ。ちゃんと自分で稼げるようになってから来るんだぞ。お前が店に来る日まで、俺はずっと待ってるから」


 篤はそう言って弘哉の額を片手で撫でると、玄関前に止めた車にリュックを詰め込んだ。弘哉は名刺を手にしたまま、しばらく玄関の前で茫然と立ち尽くしていた。

 やがて車は激しいエンジン音を立てて弘哉の目の前を駆け抜けていった。車の窓越しに、篤は何か叫んでいるように見えた。弘哉はその言葉を十分聞き取れなかったが、エンジンの音に紛れて所々聞こえてくる言葉をつなぎ合わせると、「素直になれよ」と言っているように感じた。


「素直……か……」


 弘哉は深いため息をつくと、手にしていた名刺をポケットの財布の中にしまい込んだ。


「おい弘哉! いつまでそんな奴を見送ってるんだ。練習の時間だぞ。今すぐこっちに来い!」


 背後から満の怒号が聞こえてきた。満の声を聞いた弘哉は肩を落とすと、篤の車を視界から見えなくなるまで見届けながら、店の中へと戻っていった。

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