父が最期に伝えたかった言葉
Youlife
第1章 僕が進むべき道は
第1話 料亭のひとり息子
二〇〇五年 六月
梅雨入りを間近に控えた、東北の太平洋側にある田舎町——
寂れた街並みを見下ろす高台に建つ高校では授業終了を知らせるチャイムが鳴り響き、沢山の生徒たちが一斉に校舎から外へと吐き出されるかのように散らばっていった。
自転車や徒歩でまっすぐ自宅に帰る者、部活動へ向かう者、図書室で受験勉強に励む者……いつもながらの放課後の光景が繰り広げられていた。
三年生の
早く帰らないとまずい——背後から誰かに脅迫されるかのような気持ちで、弘哉はペダルを漕ぎだし、校門へ向かう白いワイシャツを着た学生たちを押しのけるかのように走っていった。
「よう、政井。ちょっと映画でも見て行かないか?」
背後から突如、誰かが弘哉を呼び止めた。
弘哉が振り向くと、同級生の
「これから映画を見に行かねえか? 『電車男』って知ってるだろ? 一緒に行く予定だった成田が生徒会役員の打ち合わせで急遽行けなくなっちまってさ。お前、部活もやってないし、図書館に行く様子も無いし、どうせこれから暇なんだろ? せっかくチケット一枚余ってるし、一緒に行こうや」
洸太の言葉に、弘哉の心はぐらついた。
「電車男」はインターネットの巨大掲示板から誕生した恋物語で、弘哉は原作本を読んでいたので、映画化されると知った時にはぜひとも見たいと思っていた。
しかし、弘哉は揺らぐ気持ちに必死に歯止めをかけようとした。
「悪いけど……僕、早く帰らなくちゃいけなくてさ。他にも見たい奴がいるだろうから、そいつに譲ってやってくれよ」
「マジかよ……せっかく誘ったのに。つれない奴だな」
洸太はむくれた顔で弘哉を睨むと、辺りを見渡し、たまたま近くにいた別の同級生に声を掛け始めた。
「本当は、行きたいけどさ……」
洸太の背中を見つめながら、弘哉は小さくつぶやいた。そして、再び自転車のサドルにまたがり、生徒たちが群がる歩道の側を一気に走り抜けていった。
今の弘哉は、家路を急がなければならなかった。
夕刻を迎え、南西に傾いた太陽が背後から強烈な光を放つ中、弘哉は汗だくになりながら必死に自転車を漕いだ。
途中まで快調に自転車を飛ばしていたが、神社の裏手から市街地へと続く長い下り坂にさしかかると、次第にペダルが重くなってきた。ペダルを踏む足に力を込めれば、あっという間にこの坂道を下り切ってしまうことができる。しかし、不思議なことに弘哉の足には全く力が入らなかった。別に体が疲れているわけではないが、坂を下っていくうちに気分が次第に重くなり、それにつれて足の動きもだんだん鈍くなっていくように感じた。
やがて自転車は、鬱蒼とした木々で覆われた切通しにさしかかった。ここを越えると、眼下には駅へ続く線路と線路沿いに並ぶマンション、そして駅から南側には古い建物が重なるかのように連なる飲み屋街の街並みが広がっていた。
坂道を下り、低層の建物が多い田舎町でひときわ目立つ十五階建ての再開発ビルが見えてきた。もう少しで自宅にたどり着くものの、弘哉は自転車から降り立つと、再開発ビルの目の前にある公園のベンチに腰を下ろし、何もせずに腕の中に顔をうずめていた。
「帰りたくない……」
弘哉は、ぼそっと独り言を呟いた。
「あれぇ、弘哉君でねえのぉ? そこで何してんのぉ?」
背後から高齢の女性の声がした。弘哉は今の独り言を聞かれたのかと思い、ぎょっとした表情で後ろを振り向いた。そこには、弘哉の近所に住む
「なんだよ、晴子さんか……」
「『なんだ』じゃねえべ? 早ぐ家さ帰って、満さんの手伝いしな。さっき満さんに会ったっけ、『今日も予約でいっぱいで、忙しいんだよね』って言ってたよぉ? 満さんも弘哉君のこと、あてにしてんだがんな」
「わ、わかってるよ」
弘哉は慌てて鞄を手にすると、再び自転車にまたがった。
晴子は「はやぐ行ってやれや」とだけ言い残すと、杖を突きながら自宅のある方向へと歩き去っていった。
自転車に乗った弘哉は賑やかな町のメインストリートから細い小道を抜け、裏通りに出た。この辺りは戦前からの商家が多く、今もかつて栄えた頃の面影を残す建物が通り沿いに並んでいた。弘哉の自宅である「まる福」も、この場所で戦後間もない頃から続く料亭であった。今は亡き祖父・
弘哉は一人っ子で、他には手伝える家族が周囲にいなかったため、子どもの頃から「まる福」の大切な働き手であった。
「ただいま」
弘哉が玄関で声を上げると、「おいっ、弘哉は一体どこで何やってるんだ!」というどすの利いた声が厨房から聞こえてきた。いつもよりほんの少し遅れて帰宅しただけなのに、満の怒りは相当激しい様子だ。
しばらくすると、パートの
「おかえりなさい、弘哉さん。旦那さん、早く厨房に来いって言っていますよ。帰って早々申し訳ないけれど、すぐ着替えてきてくれますか?」
「だって、まだお客さんは誰も来てないですよね? 開店まで時間も十分あるし……」
「そんなこと、パートの私に言われても……とにかく、旦那さんは一度言い出したら聞かないんだから、早く行ってあげてください。ね?」
「わ、わかりましたよ」
弘哉は諦めた様子で、自室のある二階へ続く階段を昇っていった。ワイシャツとズボンを脱ぎ捨てると、調理用の白衣を着用し、マスクを付けて、いそいそと階段を降りて行った。
厨房の扉を開けると、そこにはまな板の上で一心不乱に魚を捌く満の姿があった。日焼けした精悍な顔、小柄だけどがっしりと引き締まった大きな背中、棍棒のように太い腕は、一見しただけでも十分なほどの威圧感があった。
「ただいま」
弘哉が声を上げると、まな板の上に視線を集中させていた満が突如顔を上げた。
「おう、遅かったじゃねえか。弘哉」
満は野太くてどすの利いた声を上げると、眉間に皺をよせ、丸くギョロっとした目を見開いて弘哉を睨みつけた。
「ごめんね。今日、帰り際に友達に呼び止められてさ。ちょっと雑談していたらこんな時間に……」
「言い訳なんか聞きたくねえよ。ほら、いつまでそこで突っ立ってるんだよ。今日も練習するぞ!」
生気の無い顔で頭を下げ続ける弘哉を尻目に、満は大きなタッパーから三枚に下ろしたカツオの切り身を取り出した。綺麗に切り下ろされた深紅の切り身は、厨房の灯りに照らされてつやつやと輝いていた。満は切り身をまな板の上に置くと、とりわけ大きな包丁を弘哉に手渡した。
「こいつを使って、俺が昨日教えた通りに刺身を仕上げてみろ」
満は太い腕を組みながら、弘哉が包丁を動かす様子を一心不乱にじっと見つめていた。魚の身に向かって真上から下ろされた包丁は軟らかい身の上では全く安定せず、刃がつるりと滑り落ちて切り口が斜めになってしまい、出来上がった刺身は形がいびつなものになってしまった。
「この馬鹿たれが! 昨日俺が手取り足取り教えたことを、もう忘れたのかよ?」
満は弘哉の耳元で野太い声を張り上げると、弘哉は小さな声で何度も「ごめんなさい」という言葉を繰り返した。
「こうやってちゃんと身を押さえるんだ。そして、包丁を使う時は自分の手に全神経を集中させるんだ!」
満はカツオの赤身を手で押さえながら、弘哉の方を向いて大声でまくし立てた。その後も決して気を許すことなく、弘哉の手の動きをじっと見つめ、少しでも教えたことと違うと怒鳴り声をあげた。
「全然出来てねえな……お前、ホントにやる気あんのかよ?」
「や、やる気はあるよ。でも……なかなか上手く行かなくて」
「はあ? 上手く行かないだぁ? ガキみてえな甘ったれたことを言ってんじゃねえよ。もう十七歳だろ、お前は!」
満は全身をいからせ、平手で調理台を叩きつけた。
「いいか、この店は今は俺が切り盛りしているけど、俺だっていつまでもやれるわけじゃないんだ。俺の跡を継ぐのはお前しかいねえんだぞ! もうちょっと自覚を持てや!」
満は弘哉の鼻に突きさすかのように人差し指を向けながら喚き散らすと、不機嫌そうな顔で厨房の外へ出ていった。
弘哉は突っ立ったまま窓の外を見ると、庭の茂みの中から白い煙がふわふわと空中を漂っているのが見えた。
「ゴホッツ、ゴホッツ!」
しばらくすると、煙とともに、激しく咳込む声が何度も聞こえてきた。
数年前、満は初期の肺がんを患い、手術を受けてかろうじて命拾いをしていた。しかし、退院後も時折家族に隠れて煙草を吸っていたのを、弘哉は何度も目撃していた。満が煙草を吸う時は大体ストレスが溜まった時であり、今回は自分が原因だと思うと胸が苦しくなった。
「ちょっと父さん、煙草、止めてくれる? あれほど医者に止められてるじゃない?」
その時、庭から信子の金切り声がした。
いつもは配膳や片づけで忙しいはずだが、医者から止められているにも関わらず煙草を吸う満をこれ以上放置できないと思ったのだろう。
満は「あのバカのせいだよ。あいつがちゃんとやらないから、俺は……」と唸るように言うと、信子は「弘哉のこと責めてもしょうがないじゃない?」と言って、しかめ面をした満の手を強引に引っ張りながら厨房へと戻ってきた。
満は背中を丸めながら時折激しく咳込んでいたが、すぐ目の前で申し訳なさそうに頭を下げる弘哉の前に立つと、顔をしかめ、極まりが悪そうに髪を掻きむしった。
「今日はもういい。母さんの手伝いでもしてろ!」
満はそう言うと再び包丁を握り、今夜の宴会の支度を再開した。
弘哉はうなだれて歩きながら、出来上がった料理を宴会場へ運ぶ信子の後を付いていった。
「ごめんね、母さん……僕が出来損ないだから、こんなことに」
「何言ってんの。昨日今日で父さんの言う通り上手くできるわけなんかないでしょ?」
そう言うと、料理の載った台車を引きながら宴会場へと歩き出した。
弘哉は信子の背中を見送ると、そのまま二階にある自室へ帰っていった。
部屋のドアを閉め、着ていた白衣とマスクを脱ぎ、部屋の隅へ思い切り投げ捨てると、膝を抱えたまま声を上げて泣き崩れた。
「もう嫌だ……料理なんか、大嫌いだっ!」
弘哉は着ていたシャツで涙を拭い取ろうとしたが、辛い気持ちが涙腺を刺激し、再び涙が流れ落ちてきた。
この辛い気持ちを少しでも汲み取ってくれる人がいればいいのだが、今の弘哉の周囲には誰一人いなかった。重く沈んだ気持ちを癒されないまま、泣き疲れた弘哉はそのまま畳の上で眠ってしまった。
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