その手は離さない

香坂 壱霧

🌇

 中学からの帰り道、夕焼け小焼けの音楽が鳴り響く。夕方五時の音。時を知らせる日常の音。空の色が夕焼け色にならない夏でも、夕焼け小焼けは鳴り響いていた。

 小学生の頃は、それが流れると家に帰る合図。夕方五時を越えた世界にいる私を想像しながら、友達に手を振っていたっけ。


 中学三年の夏、早足で公園に向かった。水曜日の夕方五時は、塾で知り合ったアキ君と合う約束をしている。

 アキ君が公園に現れる。そのとき流れた夕焼け小焼けは、私の心を淡く染めている気がした。

 夏の夕方五時は明るすぎて、お互いに顔を赤くしているのがわかった。  

 でもそれを直視できない。目を合わせられないけど、あさってのほうを見ながら、手は繋いでいた。

 それが精一杯。恥ずかしくても触れていたかった。緊張で汗ばむ掌も、お互い様だから。


 季節が変わり、冬の夕方五時。

 アキくんが来なかったその年の冬のその日は、小さな町で大きな事件が起きた日だった。

 待ち合わせ場所に、アキくんが来ない。公園の時計が七時を過ぎた頃、私のケータイにメッセージが届いた。

 アキくんはケータイを持っていなかった。だから、塾の共通の友達が知らせてくれた。


 ――中学の昼休み、誰かがカッターで人を刺したらしい。誰がやったのか情報が混乱しているから、アキくんが無事なのかわからない。誰が関わっているのか口止めされてる。とりあえず落ち着いて、家に帰って……


 中学が違うことで、理由のわからないまま、私たちは離ればなれになってしまった。


 テレビや新聞で事件の内容を知ろうとしても、被害者も加害者も名前が出ていない。

 お母さんに聞いても、わからないと誤魔化されてばかりだった。


 何があったのか知らされないまま、私はアキくんと約束していた、一緒に通う予定だった高校を受験せず、県外の寮のある女子校に入学した。


 その町の夕方には、夕方六時にはサイレンが鳴る。

 三年間の高校生活でアキくんを忘れたりはしなかったし、新しく誰かを好きになろうともしなかった。

 大学で思春期の子どもの心理学を学ぼうと、受験勉強をしていたから…… 

 


 

 大学生になって一人暮らしを始めた。夕方五時の音楽が鳴らない都会の一角で、何も鳴らない夕方が日常になってきた頃、インターホンが鳴った。


「どちら様ですか」


「俺だよ。アキ」

 扉越しに聴こえた声は、低い声だった。

 知らない声? 

 誰だろう?

 アキくんなの? 声変わりしたから?


「約束したのに守れなかったから、会いに来たよ」


 ドアを隔てた向こう側から、夕焼け小焼けが聞こえてくる。どうして?

 ここはあの町じゃないのに。


 アキくんの行方を誰も教えてくれなかったけど、事件に巻き込まれてはいなかったんだよね。

 こうして会いに来てくれたんだから!


「今、開けるね」


 鍵をあける。ドアチェーンを外す。

 ドアノブを回して、扉を開けた。


「ようやく会えた」

 夕焼け小焼けがひどくうるさい。

 どこから聞こえているんだろう。


「約束のあの日の前の日の夜に、母さんに付き合うのやめなさいって言われてムカついた。水曜の朝、学校行く前に親は文句言えないようにしてやったよ。だから親は問題ない。それから学校で、俺に難癖つけてくる奴らを……」


 アキくんは、こんな顔をしていたかな。わからない。だって恥ずかしくて顔をちゃんと見ていなかったんだもん。知ってるのは優しい言葉と汗ばんだ掌。


「そんな目で、見るんだ? 君までそんな風に……」


 アキくんの身体が震えている。目を血走らせ、私を睨みつけて、ブツブツ何かを囁いて、


「ほら、この手。よく繋いでいた手はわかるよね。手を繋いでいるとき、安心したよなあ? ねえ、そうだろ!?」


 アキくんが、私の手を握った。

 

 違う、こんなに大きな手じゃなかった。


「あなた、誰? アキくんじゃないよね?」


 私は力の限り、手を振り払い突き飛ばし、部屋の鍵を締めた。

 ドアノブを何度もガチャガチャと回している。

 私はドアにもたれかかりながら警察に通報し、玄関に蹲る。

 西日で部屋が赤く染まった頃、警察が男を連れていった。


 それから女性の刑事から、当時の事件をきいた。


 アキくんを好きだった男子生徒は、受験のノイローゼがひどくなっていたが、アキくんから優しくされて持ち直し始めていた。それから彼はアキくんに対し、特別な感情を抱いてしまい……

 彼女がいると知り、教室でカッターを振り回し複数人の死傷者を出してしまった――


 カウンセリングなどを経て出所したあと、真面目に働いていたようだったが、ある日姿をくらませて探していたところだったらしい。


「アキくんとうまくいかなかったことを、私のせいだと?」


 アキくんがこの世にいなくなっているという現実を信じたくはない。でも信じなきゃ…… 





 部屋の壁を真っ赤に塗った。そこは永遠の五時。それから夕焼け小焼けをずっと聴きながら私は、アキくんと手を繋ぐ夢の中で生きることにした。



〈了〉

 

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