まぼろしの鈍色

朝吹

まぼろしの鈍色

 

 車からサバイバルナイフを持ち出したのは咄嗟の判断だった。周りの車からも次々と人が降りていた。近くの建物の上階から人々が叫ぶ。

 早く逃げて。

 後に生きて再会した妹によれば、自宅の二階の窓から見えた幅広の灰色、空との境を区切るその線を、妹は雨を降らせる降水帯だと想っていたそうだ。迫りくるそれが雲ではないと分かった時には、鈍色は陸地を越えていた。

 海鳥が鳴いている。

 死んだ人の魂が鳥になる。そんな伝説を、生き残った者は実感をこめて信じることが出来る。


 数日の間、雪が降っていた。縦にも横にも斜めにも。細かな雪が風に舞い、羽虫のように空一面を飛んでいた。

 小学校の音楽室で過ごした。避難者が不安げに何かを話しており、わたしもそれに返事をしたはずなのだが、その頃のことは記憶に残っていない。生存者が口を揃えるところの身を切る夜の寒さすら、回想からは抜け落ちている。

 昨日まで街があった陸地。曇天の下、濡れた荒野を徘徊する人間は誰もがおかしな顔をしていたものだ。平常時では見られない、土で固めたお面のような顔。

 小学校は漬かってないから。

 すれ違う人にわたしはそれだけを伝えて歩いた。校庭にはヘリが着陸できる。派遣されてくる救援部隊は学校に本部を作るかもしれない。被害が局地的なものだとまだ誰もが想っていた頃だ。

 そのうち、親をさがす子熊のように同じ処ばかりを歩いている若い男に逢った。

「この辺りに父の店があったはずです」

 黒いダウンジャケットの襟を立て、若い男は途方に暮れていた。

 ご家族は高台に避難しているかも。

 そんな気休めを云った。この瓦礫の真下に彼の探している人が埋もれているかもしれないというのに。

 若い彼は頷いて、薄暮の中に立ち去った。


 町は完全に消えていた。隕石が落ちた跡のようだ。映画でもドラマでも、悲劇の現場に落ちている家族写真がよく出てくるが、そんなに都合よく、いい写真が無造作に落ちているものだろうか。

 俯いて歩いていたわたしの口は緩んだ。まさにその陳腐な一枚が足許にへばりついていたからだ。見知らぬ家族の記念写真。入園おめでとう。

 咲いた咲いたチューリップの花が。廃墟にのぞく僅かな色彩は折紙のお花に見えないこともない。

 あかしろきいろ。

「あの男と逢っていたんだな!」

 いきなり襟首を掴まれた。



 自分を傷つけないようにしなければ。そればかりを考えていた。病院も水没したこんな状況だ。怪我でもしたら破傷風になってしまう。

 やっぱりあの若い男と浮気をしていたんだな。

 横手の暗がりにわたしを引きずり込んだ男は問答無用でわたしの首を絞めてきた。人違いだと騒ぐことも出来なかった。

 目覚めると、シャッターの壊れた何処かのガレージの中にいて、身体の上から男の姿は消えていた。サバイバルナイフを振り回したお陰だろう。

 流れ込んだ土砂と瓦礫の上にわたしは倒れており、身動きすると首と後頭部に強い痛みを覚えた。

 逃げなければ。傾いた電柱が空に突き刺さっている薄闇に這い出した。男のことはもう考えもしなかった。

 横転している原付バイクの割れ残った鏡に映っている土偶。その顔が自分のものだと分かるまでにしばらくかかった。

 汚れた手で顔を擦った。その時はじめて「冷たい」という感覚を取り戻した。口に出してはこう云った。熱い。

 立ち上がり、のろのろとわたしは歩き出した。水の退いた後の泥と、雪と、形容しがたいこの世の終わりの沈黙の中を。

 壁のような大波が全てを呑み込んで流し尽くしていった混沌。わたしが殺した男の死体がガレージの奥で見つかったとしても、回収される頃には腐っているだろう。

 

 

「おじさん、お話をありがとうございました」

 ぼくは語り部のボランティアをやっている。報道番組の中でしか観ることのなかった『生き証人』、あのような存在として、ぼくは子どもたちの前にいる。

 児童たちは退屈を隠さない。分かるよ。面白くも何ともないよな。

 慰霊碑に児童代表が大きな花束を供える。ぼくは乾いた眼でそれを見ている。どれほど言葉を尽くしても、日常が一瞬にして消滅するなど、まだ生まれてもいなかった君たちには信じられないことだろうね。

 妻を殺したのかどうか、真実を確かめる術はない。結局、妻は戻っては来なかったのだから。

 抗う女の手から取り上げたサバイバルナイフ。錆びついたあれがぼくの手許にある限り、あの日のことが甦る。我を忘れて女の頭を何度か瓦礫に打ち付けた。

 そして動かなくなった彼女を置き去りにした。

 ずっと後になって若い女の死体が税理士事務所のガレージから見つかったという一報を聴いた気がするのだが、数々の遺体発見の報道の濁流に紛れてしまい、定かではない。

 水平線には実体がない。空の色、海の色でもない。

 しかし、やはりその線は存在しているのだろう。幾度となく反芻するあの日のように。

 海岸からはるか沖合にぼくは眼を向ける。

 陽がさしていても、弥生はまだ真冬といってもいいほどに寒い。



[了]

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