振り返らない女(第二話)
*
話の続きを聞いたのはそれから数週間後のことです。Fさんは妙にソワソワして落ち着かない様子でした。またイヤな話題が来るのだろうと、そして避けられないのだろうと半ば諦観の念をいだきながら「どうしました?」とたずねてみました。
「こないだのウザい振り返り女の話。解決法がわかったんだよな」
「どんな方法ですか?」
「発想の転換ってやつ。わざと足音を消して近づいたり、逆に五メートルくらい走って追い抜いたりとかしてみたんだよ。偶然にも肩がぶつかることもないわけじゃない。そうだろ? そしたらさ、わけわかんない悲鳴を上げたり、まじで飛び上がってビビるから面白くなってきちゃって。俺は同じ道通ってるだけで何もしてねえから、警察を呼ばれても平気だし。実際通勤ルートだし、ストーカーでもない」
得意げに語る彼に、語るべき言葉はありません。私が黙っているのを肯定の意に捉えたようでした。
「あのさ、今度やられたら本気で顔面を殴ってやろうと思ってるんだ。どんな顔するのか楽しみで、全然腹も立たなくなったわ」
「冗談でしょう」
私は、本気で止めなかったことを今でも少し後悔しています。
*
「やべえのがいたんだよ」
出勤のタイムカードを切る暇もなく、Fさんは昨日あった出来事を語りはじめました。正直なところ、もう聞きたくもありませんでした。しかし、聞かなければ今日一日ずっと不機嫌になるのは目に見えていたので、不本意ながら付き合うことにしたのです。
「どうしたんですか」
「だから、出たんだって。のっぺらぼう」
「のっぺらぼう?」
「ああ、間違いないね」
のっぺらぼうと聞いて、少し興味が湧いたのも事実でした。
「どうしてまた、のっぺらぼうなんですか」
「こないだ、夜道でふざけた態度を取った女を殴るって話はしただろ。やったんだよ。ひとりで歩いてる女がいたからさ、後ろを付けてったんだ。俺はあくまでも道を歩いてるだけだぜ? ま、誰かいるってわかったんだろうな。すぐに歩きが遅くなったんだよ。で、走っていって殴った」
「殴ったんですか」
聞き返すと、なにやらゴニョゴニョと口の中で言い訳を始め、ついには開き直ってしまいました。非難の色を読み取ったのでしょう。
「自意識過剰な方が悪いんだよ。いつも被害者みてえな顔して、こっちが被害者だっつの。だから、正当防衛になるんだよ」
「なりませんし、のっぺらぼうの話を聞いているんです」
「そう! そいつがのっぺらぼうだったんだよ!」
Fさんは興奮して立ち上がると、べらべらとまくしたて始めました。
「ちんたら歩き始めたから、走って距離を詰めたんだよ。で、ここで大抵の女は振り返るんだけど、そいつはそこで振り返らなかった。実は気づいてないんじゃねえかと思って声をかけてみたんだよ。んで、それも無視。」
「じゃあ殴らなくて良かったじゃないですか」
「そうなんだけどさ。無性に腹が立ったんだよ。どう考えても馬鹿にしてんだろ。だから横っ面を思いっきり殴ったわけよ。グーで。……どうも感触がおかしいんだ。手応えがないっつうのかな。顔面を殴るとさ、ふつうは鼻の骨を折ったなとか、目ぇ潰したなとか、感触で分かるんだけど、あいつにはそれがなかった。」
「ないというのは?」
「なんつうか、頭蓋骨があるとするだろ。鼻には軟骨があって、眼窩のあたりは凹んでる感じ。それ自体は一緒なんだけど、中身だけがない。骨に肉がついていて、そこに皮膚だけが貼り付けてあるみたいな。目や口や鼻の穴なんかは一個もなかったし、皮膚の中に埋め込まれてるってわけでもなさそうだった」
「だからのっぺらぼうだって言うんですか」
「そうじゃなきゃ、なんなんだよ」
「なんでか抵抗しないから、ボコボコにしてやった。全然動かないから、すぐ飽きて帰ったけどな。のっぺらぼうなんて言ってっけど、大したことねえぜ」
すっかり私が黙り込んでしまったのでバツが悪くなったのか、武勇伝を語って満足したのか、彼はさっさと店の外に出ていってしまいました。清掃作業と称して、タバコを吸いにでも行ったのでしょう。私はといえば、出勤予定時刻を十分ほどオーバーした時刻が打ち込まれたタイムカードを見て、ため息をつくのみでした。
*
Fさんから電話がかかってきたのは私が非番の日でした。深夜だったので一度は無視したのですが、何度も何度もかかってくるものですから、ついに根負けして電話を取りました。Fさんの声は逼迫(ひっぱく)していて、また、ひどく怯えている様子でした。
「なあ。俺の後ろに誰かいるんだ。」
「誰かがいるんだけど、誰もいないんだよ」
「後ろから音が聞こえるんだ。何かをずっと叩きつけてるんだよ。俺の後ろで。走っても、ずっとついてくる」
「Fさん。落ち着いてください。どうしたんですか」
「段々近づいてくる」
「Fさん」
「なあ、俺の後ろにいるのは何だ?」
バツン。
一瞬の間をおいて、何かが地面に叩きつけられる音が聞こえました。
耳元に飛び込んできたのは、ぼぼぼ。という雑音でした。例えるなら、マイクのポップ音といったところでしょうか。幾人もの人間が電話口に唇を擦り付けて、ぼぼぼ。ぼぼぼ。と息を吹きかけているような、そんな音です。その音は五分ほど続いていましたが、やがて途切れてしまいました。電話の向こうは、静まり返っています。
通話を切ろうと思い、液晶に表示された終話のアイコンをタッチすると、今度ははっきりと、耳元で声がしました。
「わかんないかなあ」
*
翌朝、Fさんは通勤路で倒れているところを発見されました。通報を受けた警察が彼を見つけたときには、心神喪失状態だったそうです。
あれから二年が経過しましたが、Fさんは今も入院しています。一度だけお見舞いに行った際には「わかんないかなあ」「わかんないかなあ」と繰り返しつぶやくのみで、私のことは見えてすらいないようでした。
Fさんが病院に運ばれた当時は顔面にひどい損傷を受け、顔全体がすりおろされたように潰れていたそうです。皮膚の移植手術を終えた彼の顔は、まるでのっぺらぼうのようでした。
振り返らない女 環境 @lotus_
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