第1話 厄剤の"専門家" 後半


 小方おがたは容疑者の消えた虚空を茫然と見つめていた。

 やがて周囲が騒がしくなって、我に返って女性に駆け寄る。


木庭こばさん! いったい何が起こって?」


「うん? ……あぁさっきの子か。結末に直面するのは初めてかな? あれこそ軽視されがちな厄剤やくざいの面目躍如といったところです」


「厄剤……いまのが本当に?」


 警察学校で習った覚えがある。厄剤やくざいの定義は確か。


『事実上は科学による産物であるにもかかわらず、科学によって証明できない超常的な現象を引き起こす、摂取した個人に影響する形態の薬剤』


 特定の薬品を指す名称ではなく、国連が設けたいくつかの判定基準に照らして当てはまった薬に与えられる称号。日本国では二種の薬剤が指定を受けている。その一つ目が──


「日本国厄剤やくざい指定してい第〇一号だいいちごう『フェロモン・コラプサー』」


サドリの弾むような声が、知識を現実と結びつける。


「服用者に他者を惹きつける魅惑の引力を発揮させますが、徐々に求心力が重力すら生み、最期はその引力で文字通り自滅する禁薬だ」


 滔々とうとうたる解説で記憶が補完されていく。だが、教科書の文字列を追うのと実際に目にするのとは訳が違う。


「ブラックホールが彼女の身体を呑み込んだように見えました。どうしてあんな現象が」


厄剤やくざいの研究は世界規模で禁止されている。専門家としての立場からしても……貴方へ説明するのは難しいでしょう」


 遠回しな『貴方程度では触れられない機密情報ですよ』という線引きだったが、言葉の裏を読む習慣のない小方おがたの耳を素通りしていく。視線はまだ彼女の消えた空間から離せずにいる。まるであの黒点が小方おがたの胸にまで穴を開けていったようだ。


「説明も出来ないほどの禁薬……。あんな代物に人生を狂わされるなんて。可哀そうに」


 容疑者の流した涙がまぶたから消えてくれず、小方は唇を噛む。


「んーそうでしょうか」

 女の軽妙な口調がその感傷を台無しにした。


 穿うがたれた穴を同じように見ていたはずのサドリが、請われもしないのに己が考えを披露し始める。


「狂わされるどころか計算通りだったのでは? 警察あなたがたの調べでは彼女は厄剤コラプサーを服用してから日陰者人生が一転、職場で重用されるようになり取引先ではちやほやされプライベートでもずいぶんと楽しげだったそうじゃない。いかに厄剤やくざいに情報規制があれど致命的な副作用がある事実は広く知られている。先ほどの問答から察するに彼女は薬の正体を承知の上で服用したはず。つまり彼女は結末と欲求を天秤にかけて自ら後者を選択したんだ。最期も織り込み済みでなければおかしい。全ては彼女の欲した通りになったのです。であれば幸福と呼ばず何とする」


 心からそう思っているようで、ニコニコと微笑ましさすらたたえて笑っている。


 あの悲痛な絶叫を目にして平然とそんな感想を言えるとは。思考回路に欠陥があるのか、それともよほど人間の理性を過信しているのか。何にせよこの女がまともな神経をしていないのは確かに思えた。


「ところで先ほどから私を観察しているそちらは」


「しょ、署長!?」


 サドリの視線を追うと、そこに立っていたのは紳士然とした初老の男性だった。

 いかに新人の小方おがただろうと見間違えるわけがない。


 驚き固まってしまった小方おがたからサドリの視線が動き、署長と、その周囲の人間を巡る。観察するような目だ。周遊する視線がまた戻ってきて、サドリは何やら得心がいったらしく笑みを深めた。


蝶布ちょうふ警察署長さんか。お久しぶりです。久々の要請だと期待に胸を膨らませて来てみれば、ふたを開ければ〇一号いちごう案件ではないですか。それも私ですら手の施しようのないほど末期の」


「こちらも管轄内で久々の厄剤やくざい案件だった。勇み足になったのは事実だな」


「私の専門は〇三号さんごうだといつも其処そこ此処ここで繰り返し言っているのだけどねぇ」


「嫌味な奴だ。厄剤事件の解決に勤しむ、それこそがお前の刑務だろうが犯罪者め」


「え? は、犯罪者……?」


 聞き捨てならない単語が混じっていて、小方おがたは思わず口を挟んでしまった。眉をひそめる署長がふむとあごに手をやる。サドリへ目配せしようとして、すでに彼女は口を開いていた。


「少し前まで警察学校に通っていたんです、厄剤の定義はご存じだろう。では厄剤の製造や研究が禁止された経緯は覚えておいでかな?」


「はい。二十年くらい前にアメリカで起きた薬災を皮切りに、下手すれば人類を滅ぼしかねない薬が厄剤やくざいと定義されました。国連が全会一致で研究の禁止を採択して、日本国も批准してた……かと」


「細部が怪しいがおおかたその通りです。厄剤やくざいは国際的に存在を禁忌とされた薬ということだね。ちなみにこの禁を犯した者は問答無用で最も重い刑を科されます。事情をかんがみた減刑とか情状酌量とか余地なかった。そんなの考慮されない一種の略式裁判だから。いやぁ、あんな負け戦は初めてだったよ」


 やれやれとサドリが大げさに肩をすくめる。話について行けず首を傾げる小方おがたに、署長がため息をついた。


「まだ分からんか。いいや、本当は薄々勘付いてはいるのだろう? 厄剤の情報は最上位の機密扱いだ。こんな若い一介の研究者が警察組織以上に詳しい? どころか専門家だと? あり得ん。であれば、答えは一つだろう」


「それって……」


 木庭こばサドリを振り返る。目元の青い化粧が映える吊り目の女性。誰もが美人と称するだろう見目に、品の良いコート。本来ならば好印象を抱いて当然の外見をしている。なのに。


 光の無い目で親しげに笑いかけてくる得体の知れない女に、厄剤の異質な印象が重なる。


 ぞわりと、背筋に悪寒が走った。


「まさか、〇二号にごう関係者?」


と一緒にしないで頂きたい。私の薬はもっとです」


 サドリが意味ありげに笑う。小方おがたは流れる冷や汗を尻目に思考を回した。


 〇一号いちごう〇二号にごうも、製作陣は檻の中だ。関係者がこうも自由に歩き回っているはずがない。


 新たな危険薬物が出現すれば少なくとも警察関係者の耳には入るはずだ。ましてや〇三号さんごうが認定されたなど、そんな話は噂すら立っていなかった。


「その辺りは事情があってな」


 署長が咳払いして小方おがたの肩を掴む。


木庭こばサドリは受刑者だが、警察とは協力関係にある。いわゆる特別措置だ。故にこの女は厄剤やくざいの関与が疑われる現場には遅かれ早かれ必ず現れる。警官ならばこいつの顔と名前くらいは覚えておけ。それと木庭こばよ」


「はいはいなんです?」


「区内で厄剤絡みと思しき事件が発生した。至急、調査に向かえとの指令だ」


「承知つかまつりです。ところで署長さん、ミメイ君が見当たらないのだがご存じありませんか?」


「……彼ならレポートに追われて来れんそうだ。貴様を一人で行動はさせられんな。小方おがた巡査」


「っは!」


「彼女の相棒が不在の間、君がしばらく助手をやりたまえ」


「じ、自分がですか!?」


 嫌だ! と小方おがたは口の中でうめいた。こんな得体の知れない奴と行動を共にしたくない。だが署長直々の推薦を断るなど新人の自分に許されるだろうか。


 サドリを見やれば意味深な笑みをたたえて黙したままだ。まるでクイズの正解を確信している回答者のように。


「じ、自分は……」


 さっきの悪寒が骨身にまとわりついて未だ取れずにいる。言うべき言葉は分かるのに、それを選ぶことを喉が許容できない。そんな葛藤の最中、予期せぬ方向から肩を叩かれた。


「その必要はねぇ。どこの誰かは知らねえがお前にゃ荷が重い」


 小方おがたは今度こそ悲鳴を上げそうになった。


 横からぬっと現れたのは、小汚いダッフルコートを羽織った、くせ毛の跳ねが目立つ青年だった。野暮やぼったい眼鏡と長い前髪のせいで目元の情報が何一つ入って来ない。ただ息を切らせて下唇を突き上げた口の形で、彼が不機嫌だということだけは分かる。


「手に負えねぇだろあのクソ女。おもりは俺が代わってやる」


 甘やかさすら感じる低い声で苛立ち混じりに頭上から囁かれ、小方おがたの頭は真っ白になる。その思考の空白は、厄剤やくざいの効用に心惹かれた時と似ている気がした。


「遅かったじゃないミメイ君。とっくに終わってしまったよ」


 満面の笑みで迎えられ、青年は苦虫を噛み潰したような渋い顔でサドリと並ぶ。


「これでも急いで来てやったんだっつの。お前こそ他所よそ様にご迷惑かけてんじゃねぇ。そいつ怯えてんじゃねぇか」


「ミメイ君こそレポート一つを厄剤事件と天秤てんびんにかけるとは」


「……動きが変なのに気付くのが遅れたんだよ。単位が足りなくなるとこだったのは本当だが」


「別にいいじゃない。なんだっけ、もう一年遊べるぞいだっけ」


「混じってんな、いろいろと。つかまだその呼びかた続けんのかよ。じゃなくてすえだっての。漢字で錯視さくし起こしてんじゃねぇよ。それと、そこの偉そうなおっさん」


 青年が署長をめ付ける気配がした。


サドリこいつにこれ以上首輪は必要ねぇんだよカスが」


 署長の眉が一瞬歪む。だが年長者の矜持きょうじだろうか、小さく鼻を鳴らして彼らに背を向け、そのまま小方おがた巡査を伴って去っていった。


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厄剤指定第〇三号 〜言の葉を孕む錠剤〜 まじりモコ @maziri-moco

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