第1話 厄剤の"専門家" 前半


 後にも先にもこれ以上怪奇な事件に出会うことはないだろう。そうやって早々に自分をなぐさめてしまえる異質さ。

 交番勤務となったばかりの小方おがたは、そんな空気を初めての現場から嗅ぎ取った。


 非番での招集だった。内容は植物公園の一般人を避難させたあとの穴埋めエキストラだ。


 小方おがたは入園者を真似て目前の花畑を写真に収めた。画角や光の具合にこだわるフリをして何枚も撮る。本当はこの慣れ親しんだ甘い香りがする花の名前も知らないのだが。


 小方おがたの役割は重要ではないが、怪しまれれば作戦を台無しにしてしまう。故に小方おがたは、思わずターゲットへと惹き付けられる視線を戻した。ただ頭では分かっていても無意識の欲求が理性を削る。ついに我慢が効かなくなって、気づけば屈みこんで花畑に身を隠し、女性の様子を窺っていた。


(あれが……)


 花壇を三つ挟んだ向こうの順路を散歩する女性。三十代前半くらいだろうか、彼女が捕縛対象だった。容疑は危険薬物──厄剤やくざいの摂取と所持。


 それは小方おがたが知る中で、ある意味で殺人以上に重たい罪だ。

 そんな禁忌に近しい大罪の容疑者でありながら、緒方の眼に映る女性には摩訶不思議な魅力がある。


 女性の顔立ちはとても整っているとは言えない。顔のパーツが中央に寄っているし、魚眼に似た目と、押しやられて潰れたみたいな低い鼻がまず目に入る。頬骨が発達していて凄みがあり、口紅の赤さがそれを助長させていた。極めつけは赤毛のおかっぱがそれらを覆うように乗っていることだ。


 普通ならば目もくれないだろう。だが彼女に限ってはあのアンバランスさがむしろ魅力的に感じた。もし彼女が寂しげに街中を歩いていたなら、声をかけずにいられなかったに違いないほど。


「綺麗だ……」


「趣味が合いますね。芳醇ほうじゅんな甘い香りにシックな色合いが相まって食用かと思うほど。味見は期待はずれに終わったけど、鑑賞用としてとても綺麗だ」


「っ!?」


 思わず漏れたため息に返事され、小方おがたは驚きに尻餅をついた。振り向くとそこには細身の女性が。


 ひと目で分かる均整の取れた顔立ちだった。立ち居振る舞いに隙きがなく近寄りがたい雰囲気があるが、ほがらか笑みに幼さも残って見える。せいぜい二十代中盤だろう。艶やかな黒髪を後ろで一つにまとめ、薄手のロングコートに身を包んでいる。

 普段なら彼女の微笑につられて花々がほころんだ気さえしただろう。だが今しがた別の女性の魅力に当てられたためか、余計に心動かされることはなかった。


 急に転んだから腰が痛い。容疑者から意識がれて少し冷静になれたのがせめてものなぐさめか。


 立ち上がって、先ほどの言葉が目前に咲き誇る花を指していたのだと遅れて理解する。

 なぜ花の話をと疑問に思ったが、すぐに自分がこの花を眺めるフリをしていたことを思い出した。


「チョコレートコスモスの花言葉は『移り変わらぬ気持ち』。甘味を添えねば愛も伝えられない奥手な日本人とシナジーを感じますね」


 あまりに穏やかな様子で笑いかけてくるから、避難が済んでいない一般客かと思った。だが続く言葉で小方おがたの認識はひっくり返る。


「ところで待機地点はここでしょうか?」


 まるで道を聞くような調子で尋ねてくる。

 その符丁が記憶と結びついた。


「もしかして、あなたが専門家……?」


 集められたエキストラの中で、なぜか小方おがたにだけ下された指令があったはずだ。『専門家』が到着したら準備が整うまで相手をしろ、と。


 女性は華やかに笑って頷く。


「これは申し遅れました。木庭こばサドリと申します。そちらは?」


「あ、小方おがた巡査であります」


 差し出された手をおずおずと握る。女性はそれを大げさなほど上下に振って友好的に笑った。


「ずいぶん若く見受けるが、お幾つですか」


「今年で二十です」


 手の柔らかな感触に今更いまさら照れが出てきて早口になってしまう。

 サドリは微かに目を見開いたあと、大げさにため息をこぼしてみせた。


「……そういうこと。理解したよ、貴方がここに配置された理由も、私が厄対本部からどう認識されているのかも」


「えっと……?」


 サドリは「ツバメをはべらす趣味はないんだけど」と呟きながら頬を膨らませている。今のやりとりだけで彼女は本部の意図を察したらしい。小方おがたにはの意味を含めさっぱりだが。


「思考が前時代で袋小路になっている人間の思いつきそうなことだ。電子的拘束で満足できないとは。今すぐ独房マイルームに取って返したい所だけど国家権力からの要請とあらば良心的な一市民としては当然協力せざるを得ない」


 独り言にしては大きな声でサドリがなげく。容疑者からさほど距離もないのにやめて欲しい。慌てる小方おがたとは対照的に、サドリは手馴れた所作で小型のインカムに手をやった。


「───はい木庭こば。えぇ私はいつでも。……了解。小方おがたさん、一般人の避難が完了したそうです。これから彼女を召し取ります」


「ついに、ですか」


「いやぁお相手頂き助かりました。私って実は黙っているのが苦手な性分でして」


 そんな気はしていた。

 周囲を見渡せば入園者にふんした警官達がそこかしこで警戒態勢に入っている。ここからが大捕物だ。詳細は知らされていないが、ここからが『専門家』と作戦本部との本領発揮となるのだろう。


 小方おがたは期待に胸を膨らませたが、サドリはなぜかえりに隠したマイクだけ残し、イヤホンを外して小方おがたに投げ渡してくる。


「ではミメイ君が到着したらよしなに」


 誰だそれは。

 聞き返す間もなく、サドリはターゲットへ向かって行った。


 警官達が緊張の面持ちで見守る中、サドリの足取りに迷いはない。むしろ散歩の続きといった調子ですらある。彼女は偶然を装って、人待ちでもするように花畑を眺めていた容疑者に声をかけた。


「こんにちはお姉さん。お一人ですか?」


 爽やかさに幾分かの胡散臭さが混ざった感はあるものの、その笑みも、声の調子も、優麗さを感じさせる所作さえも、人の心を開くに値するものだった。


 だが容疑者にとっては望んだ相手でなかったようだ。愛想よく振り向いたその顔が途端に渋面へと変わる。


「はぁ? 誰よ」


木庭こばサドリと申します。ご一緒しても?」


 あからさまな拒絶の声を意に介さずサドリはさらに距離を詰める。

 容疑者は案の定、警戒の色を強めた。


「何なのよあんた」


「もう一度名乗りを上げろと?」


「そういう意味じゃないって分かるでしょ普通。それともしつこいナンパなの? あるいは嫌味? 悪いけど、昔からツラの良い女って嫌いなの」


「おっと友好の道が絶たれたね。ではさっそく本題と参りましょう。貴女、このままではむごたらしい死にかたをしますよ」


 その歯切れの良い口調が小方おがたの中で見慣れたアナウンサーと重なった。『今朝の降水確率は三十パーセントですよ』と。サドリの言葉と態度の落差が大き過ぎる。容疑者は呆気あっけに取られて声も出ない様子だ。


 対するサドリは調子よく続ける。


厄剤やくざいとはまさしく災害──人の身に余る薬災やくさいだ。私としては服用後の経過観察をしたいからどんどん摂取してもらって構わないのだけど、残念なことに人体実験に分類されてしまうのです。なにより薬効の進行した身体を調べる機会を失うのは惜しい。というわけで投降をお勧めしますよ。ついでに売人の情報も頂戴ちょうだいできれば、私の全霊をかけて命くらいは救って差し上げましょう」


 エスコートのように手を差し出すが、容疑者はそれがしゃくに障ったらしい。


「ペラペラ五月蝿うるさいわね。結局なに? アタシを捕まえに来ただけでしょ? ふざっけんじゃないわよ! あの惨めな扱いに戻れっての? アタシはのおかげでやっと相応ふさわしい人生を始められたの! この幸福を奪われる筋合いはないわ!」


「あぁ。すでに心を巣食すくわれてしまった後だったか」


「災害? 惨めな死にかた? 余計なお世話よ。あの薬がどれだけアタシに人としての幸せを教えてくれたか。アンタみたいに最初から全部持ってる人間にアタシの何が分かるってのよ!」


「確かに貴女のことは大して知らないけど……人間は誰しも過不足を抱えて生きているものです。たとえ貴女の目から見て『完成』されていたとしてもね」


「な、なによっ。持ってる側の説教なんて何も響かないわよ」


「私からすれば不足なんて見当たらないのだがね」


「っていうか待って……アンタ何での?」


 尊大だった容疑者の態度が一転、声に怯えが混じった。対するサドリは細めた目に称賛すら浮かんでいる。


「それはもちろん──っ」


 瞬間、終始にこやかだったサドリの表情がさっと変わる。止まった言葉が環境音を浮き彫りにし、小方おがたは違和感を覚えた。草の擦れ合う音で気づく。さっきから風の流れが不自然だ。


 園内の風がすべて容疑者に向かって吹いている。


 回れ右に迷いなく。サドリが駆け出した。


「うげぇっ手遅れ。総員退避ー」


 緊張感の無い警告がインカムに届いた直後、異常は起きた。


 容疑者の身体が中心からひずんだ。


「はっ? やっ、ああああ!? いっ、嫌あああ!」


 驚きの表情が激痛によって破壊される。


 まるで腹の中に産まれた何かに内側から食われていくかのようだった。肉も脂肪も内臓も、例外なく中心に向かって吸い込まれていく。引力が骨すら折り畳み、のべつまくなしに消してしまうのだ。


「痛いっ、痛いのぉ! 助けっ!! いや、いぎゃぁ、ぁあああああああああっ!!」


 悲痛な叫びに、しかし手を差し伸べられる者はいない。みな強風に引き込まれないようこらえるので精一杯だ。小方おがたもまた、この世のものと思えない光景を這いつくばって見ていることしかできない。


 女の断末魔だんまつまが収束するのに十秒もかからなかった。胴が消え頭部が消え、最後に四肢が宙の黒点へと消え。

 絞り出されて舞った血飛沫ちしぶきすら地に逃れることを許されず吸い込まれ、女を構成していたすべてが呑まれ切った瞬間、黒点は唐突に消失した。


 風が止み、一番近いポールにしがみついていたサドリが女の居た現場へ近づく。キョロキョロと辺りを見渡して大きなため息をついた。


「さすがは悪名高きコラプサー。なんとむごい……。検体の一つも残してくれないなんて」


 残念と肩を落とす声に悲嘆の色はない。


 小方おがたは身を起こし、信じられない気持ちで静まり返った光景を見ていた。


 ものの数秒で容疑者がこの世から消えた。

 微かにえぐれた石畳と未だ身を揺らす花々だけが、つい今しがた起こった異常現象の痕跡と余韻とを残すのだった。


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