第20話 母さん

「私は覚悟はできています」

「待ってくれ、待ってくれよ!」

「いいえ、なりません」

 ゑいかさんはやはり頑なだった。

「このようなことをした以上、私は死ななければならないのです」

 自らの口元に小瓶を持っていく彼女の声に、硬質な何かを感じたのだろう。先生はまた数歩、よろよろと前に出ると、震える声で……まるで赤子が腹から捻りだすような大きな声で、こう告げた。

「待ってくれ、母さん!」

 その言葉にゑいかさんの表情が凍った。先生は崩れ落ちながら続けた。

「母さん、待ってくれ……待ってくれよ……母さん……」

「母さん……?」

 この時初めてゑいかさんの顔に漆黒の何かが見えた。

 最初、それは目に宿っていたのだが、徐々にまなじりから溢れ出て頬を伝い、口元に溜まり最後に顎から垂れ、そうして顔全体を憎悪に染めた。彼女は、低くそして小さな声で唸った。

「貴様」

 ゑいかさんは僕を見ていた。それからおそろしい形相で……鬼でも夜叉でも閻魔でも、如何なる悪鬼魍魎をも食いちぎってやると言わんばかりの恐ろしい形相で、こう絶叫した。

「貴様っ、恵に何を吹き込んだぁっ」

「何も吹き込んじゃいませんよ」

 僕は冷静に、事実のみを告げた。そして懐から、あの早矢神社で見つけた出産記録帳を取り出すとゑいかさんに見せた。

「ここにあったんですよ。先生の出産記録が。誰が先生を取り上げたのか、誰が出産に立ち会ったのか、も」

 ゑいかさんの表情が、憎悪に歪んだまま凍った。

「おかしいと思ったんだ……」

 こう告げたのは時曽根先生だった。

「俺たちの従妹の素代香そよかちゃんを取り上げた姉さんが、どうして俺を取り上げなかったんだろうって、最初はそう思った。もしかして体調が悪かったのかな。この帳簿を見つけてすぐはそう納得することにした。でもさ、俺その後、祠に行ったんだ。早矢山の麓にある水子供養の祠だよ。姉さんを……母さんを探して祠に行った……いや、本当はあれを探しに行ってたのかもな。そこで見つけたんだ」

 僕はあの時の場面を思い出す。少し前のことなのに、まるで何年も何十年も前のことのように感じられた。

 先生の、発狂。

 そんな先生が小さく続けた。

「俺の石碑があった」

 ゑいかさんがぽろりと目から涙を零した。先程は憎悪に歪んだ悍ましい雫だったそれも、今度ばかりは美しかった。愛しい存在のために流すそれだった。

 先生が涙で枯れた声で続けた。

「俺の石碑があったんだよ。俺、水子だったことにされてた……俺、死んだことにされてたんだよ。もし仮に俺が、正当な血筋の子なら……そめさんの子なら俺は死んだことになんてならないはずだ。でも俺は生まれるべき子じゃなかったと判断された。だから死んだ扱いになった。そこでさっきの情報だ。姉さんは俺を取り上げなかった」

 ぐずり、と先生が鼻を鳴らした。

「俺思ったんだ。俺が産まれる一年前に助産師として一人前だと判断された姉さんが、俺を取り上げないはずがない。何か余程の理由がないとそんなことは起こらない。だからこう思った。姉さんは俺を取り上げなかったんじゃなくて、って。それはつまり他でもない、って。姉さんが俺を産んだんじゃないかって。年齢的にも不可能じゃねぇ。十五で子供を産むことだってある」

 それから先生は……僕の恩師である、あの強面でどんな不良からも恐れられていたあの時曽根恵先生が、泣きじゃくりながらこう続けた。

「けど、ただ十五で産んだってだけじゃ俺が死んだことになんてならねぇ。最悪孕ませた男を捕まえて無理矢理婿養子にしちまえばいいんだから。時曽根家にはそれだけの力があるんだから。でもそれをしなかった……できなかったんだ。だって俺は……俺は、父さんの子だから」

 ゑいかさんは固まったままだった。

「そうだろ? 俺は父さんが姉さんを犯して産まれた子だったんだろ?」

 沈黙。

 次に来たのは、ゑいかさんが崩壊する音だった。

 彼女が震える吐息を喉から絞り出す音だった。

 先生は構わず続けた。

「だから親父は俺のことを毛嫌いしてたんだよな。俺が不義の子だって分かっていたから、人生の汚点だって分かっていたから俺が憎かったんだよな。そして姉さんが俺を可愛がってくれたのは俺が姉さんの子だったからだ。そういや姉さんは、昔一度時曽根家を離れたことがあるって言ってたよな。あれ、俺を抱いたまま逃げようとしたんじゃねぇか。かつてグランデイビーハウスの英国人と駆け落ちしたゐねさんみたいに、俺を連れて遠いどこかに逃げようとしたから家を離れたんじゃねぇか」

 ゑいかさんは震える声のまま静かに、しくしくと泣き始めた。それからうんうんと、何度も、まるで自分自身にも噛んで含ませるように頷いた。

「ひどい人でした」

 そう追想したのは、間違いなくあのお父君のことだろう。

「私の体が女らしくなった途端、あんなことをしてきて。挙句妊娠したら、まるで粗大ゴミのように……。でもようやくできた男の子だから、あなたのことはきっと欲しいような欲しくないような子だったのだと思うわ。だからお父さんもあんな態度を」

 僕は想像した。実の父に性の捌け口にされる女の子の気持ちというのを。一方的に犯され、挙句産んだ子供を冷遇される気持ちというのを。

「ごめんね」

 ゑいかさんが引き攣るような声を上げた。

「ごめんね、恵」

 泣き崩れる親子の前で僕は続けた。

「ゑいかさん、あなた僕たちがこの屋敷に来た時言いましたよね。『自分に会いに来た子供を歓迎しない親なんていません』。あなたがあの時僕たちを歓迎したのは、そういうことだったんだ。先生は自分に会いに来た子供だから……自分だけの子供だから……」

 僕はそっと、闇の中のゑいかさんに近寄るとその手から小瓶を奪った。

「酢酸タリウム」

 僕は瓶のラベルを読んだ。

「殺鼠剤に使われる薬品。地下牢から持ってきたんですね」

 ゑいかさんは頷いた。それからつぶやいた。

「私なりのけじめです」

 しかし彼女は手を机に置いた。

「でも使わない方がいいのかしらね」

 それからゑいかさんは静かに立ち上がりそっと先生の肩を抱いた。目からはやはり、綺麗な涙が零れていた。

「立派になって……」

 震える声だった。

「こんなに、立派になって」

 秘密の部屋の中は暖かかった。



 その後、遠野市警がやってくるまでの間に一族、そして関係者会合が開かれた。そこで時曽根家の一族を襲った混乱と言ったら、まるでドライアイスを熱湯に放り込んだかのようだった。

 家族はもちろん、使用人一同でさえ大きなどよめきを上げた。まず真っ先に怒り狂ったのは女性たちだった。

「殺してやるっ!」

 沙也加さんがゑいかさんに掴みかかろうとするのを、しかし夫の一照さんが必死に押さえ込んでいた。沙也加さんはそれでもまるで発狂した獣の如くゑいかさんを噛み殺そうとしていた。と、隣にいた楓花さんが絶叫した。その声で多くの人間がその場に硬直したが、やはり怒り狂った沙也加さんは止めらなかった。次いで、利喜弥さんの妻、里佳子さんがふらふらと立ち上がった。大広間の出口に向かいながら、ゆらりと、まるで陽炎のように振り返って、口を開く。

「もういや」

 そう、つぶやいていた。

「もういやよ。金持ちだから、実家の助けになるからって結婚したけど、義理の家族にはいびられて、挙句子供まで殺されて。もういや。利喜弥さん。私と別れて。私を自由にして」

 後で聞いたところによると、里佳子さんは両親が大病をして介護が必要だったところに、彼女に惚れこんだ利喜弥さんが口説きに口説いて結婚に至ったらしい。そしてこれも女中の一人から聞いた話だが……里佳子さんには当時、将来を誓い合った恋人がいたそうだ。その女中の話では、利喜弥さんはその恋人の前で里佳子さんを奪うような真似をして結婚させた……想い人の目の前で、金と地位に屈する女を見せつける、そんな形で手に入れたのだそうだ。悪趣味だが、家庭環境が複雑な人間は得てして性癖が歪みやすい。そういう意味では、利喜弥さんも里佳子さんも、時曽根宗一郎氏のもたらした害悪の被害者だったのかも、しれない。

「俺は条件付きで相続権を放棄する」

 座敷の上座、ゑいかさんの隣に座った時曽根先生がそう、一喝するように告げた。

「羽賀弁護士にも来てもらった。急ぎで作成した文書だから、手短に要点だけを説明してもらう」

 そう、先生が示す先……先生の右隣にはやはり長めの髪を七三に分けた小柄な男がいた。彼は手にしていた条文を静かに読み上げた。

「私、時曽根恵は父宗一郎、そして姉ゑいかから相続した遺産を、以下の配分で弟妹及び関係者に分配すると同時に、その相続権を放棄する」

 一、時曽根利喜弥に三割。

 二、時曽根沙也加に三割。

 三、時曽根楓花に三割。

 四、残った一割はあるじを失ったこのグランデイビーハウスの保守運営に用いる。

「以上」

 羽賀弁護士がそう締め括ると、先生の三人の弟妹が、まるで魂を抜かれたように脱力した。先生が告げた。

「事業や土地の一切も、この条文で言う『遺産』に含まれる。分配についてはこれから細かく詰めていく。誰にとっても損にならないよう気を配る」

 先生は誰に目を向けるでもなく、ただただ伏せていた。

「兄妹仲良く手を取り合って、とは言わない」

 まぁ、言えるはずがないだろうなというのが第三者的意見だが、それはさておき。

 先生は続けた。

「だが、これっきりにしよう。姉さんは逮捕される。俺も……この地を去る。残されたお前らで、この家を回してくれ。無責任ですまない。でも俺は、もうこの家にはいられない」

 それは確固たる宣言だった。そして、先生の呪いが解かれた瞬間でもあった。

「世話になった」

 先生が、深々頭を下げる。

「みんな、幸せになってくれ。頼む」

 そんな先生の横で、ゑいかさんはただただ気配を消しているだけ……のように見えた。

 だが僕は気づいていた。

 彼女の目が……そして手が、震えて、でも愛おしそうに、先生の方を捉えて、今にも握り締めたそうにしていたことを。



 かくして、時曽根家を襲った事件は幕を閉じた。

 ゑいかさん含め事件に関与した僕たちは遠野市警に連行された。一通り聴取と証言を終えた後、僕と時曽根先生とは、神奈川県に帰ることとなった。残った面々もそれぞれ居住地へと帰ることになった。予定していた十日を過ぎた、実に二週間以上に渡る滞在だった。

 グランデイビーハウスを去る日。

 僕は荷物をまとめながら、自分が巻き込まれたこの事件を、冬の入り口に見た幻、という風に捉えることにした。実際のところ、警察に記録も残るし僕もこうして事の顛末を書き記しているわけだが、自分の生活圏から遠く離れた東北の土地で体験したこの物語は、日常生活の延長線上にある出来事だと捉えるにはあまりに突飛でそして……イカれていた。だが同時にそれは、もしかしたら僕が一生感じることのないであろう「母性」の象徴なのかもしれないと僕は思った。いつか愛する人もできるだろう。親になり、子もできるだろう。だが母性というやつは……いや、これを男性側が女性に対し勝手に抱く幻想だとする向きは確かにあるが、命懸けで産んだ存在に対するどうしようもなく深くてあり得ないほど強い感情というのは、確かにこの世にある気がした。ゑいかさんの場合、それは自分が親であると明言することを抑圧された分だけ、強烈で過激で、それこそ人を殺すのも厭わないくらい……例え幼い命でも、我が子の邪魔になる存在なら躊躇いなく消せるくらいには、大きな感情に育っていたのかもしれない。

 まるで十カ月近くの間、お腹の中で育てて育てて世に吐き出すように。

 ゑいかさんが過ごしたあの一夜、そしてあの一日というのは、痛くて辛い、でも確かに大切な、そんな時間だったのかもしれない。

 予定より長い滞在をしたため、着替えの類は全てグランデイビーハウスで洗濯、そして最低限のものを残し後は宅配便で送ってもらうことにした。

 最終日、布施さんが玄関まで見送ってくれるとのことだった。時曽根先生も一緒に帰ることになっていたが、しかし先生は相続問題で羽賀弁護士と話さねばならないことがあるとかでギリギリまでこのグランデイビーハウスに滞在することにしたらしかった。

 仕方ないので僕は、例によって客室用談話室で……瑠香ちゃんの死体が見つかったあの部屋で少し、時間を過ごすことにした。死体が見つかったという精神的瑕疵よりも、時曽根先生と一緒にアイラミストを一杯やった、あの思い出が麗しすぎて、僕はこの部屋で余韻を味わうことにしたのだった。

 客室用談話室の窓からは、グランデイビーハウスのプライベートガーデンが見える。

 小さな庭。その中で一人の子供が遊んでいた。髪の長さ的に男の子……いや、女の子の可能性もあるな。小さな子の性別というのはイマイチ分からない。だがその子供は雪玉を作ると誰にともなくぽいっと投げつけ、きゃっきゃと遊んでいた。僕はその様子を微笑ましく思ってみていた。

「わりぃ」

 僕がしばらくその子の戯れる姿に見入っていると、唐突に先生が現れた。先生は低くつぶやいた。

「お前こんなところで待たなくても……」

 やはり先生も精神的瑕疵を気にしているようだ。

「いえ、ここが良かったんです」

 僕が静かにつぶやくと先生は上着の襟を正した。

「悪いな。こんなことに巻き込んで」

 今更ながらの謝罪だ。僕は笑った。

「もう済んだことですから」

 それより……と、僕は思った。

 前に先生と飲んだ時のように。

 庭で遊ぶ子供の姿を見ながら、こうして大人同士の話をするのは何だか嬉しかった。自分の成長を実感できるようで。自分が人生の山道をここまで登ってきたぞと確認できるようで。

「お屋敷には使用人のお子さんもいるんですか」

 僕が窓の外を眺めながら……庭で遊んでいる子供を見ながらつぶやいた。すると先生が答えた。

「昔は……それこそ俺が子供の頃は使用人用の寮に一家全員、なんてこともあったがな。鉄ちゃんやミヨちゃんなんかはそれで仲良くなったもんだ。だが今じゃないらしい。使用人には使用人の人生を歩ませているようだ」

「え、じゃあ……」

 僕は先生の方を振り返った。

「時曽根家には他にも子供が?」

「子供?」

 時曽根先生が眉をひそめた。僕は頭に浮かんだ光景を口にした。

「そうだ、ゑいかさん。僕たちがここに来た時……車から降りてすぐの時、ゑいかさんの後ろに子供が一人いましたよね。あれ、ゑいかさんが連れている子供ですか? 親戚の子、とか?」

 先生がぽかんとする。まるで「何を言っているんだ」とでも言いたいように。

 どうも噛み合っていないな。僕は説明をする。背後を、立てた親指でくいっと示しながら。

「いや、あの庭で遊んでいる子、いるじゃないですか。あの子ちらほら見かけていたんですが……思えばあの子、誰の子なのかなって。先生の弟妹さんの子ではなさそうだったので、使用人の子か、そうじゃなければゑいかさんと親しい方の子供なのかなって、勝手に」

「……お前、何を言っているんだ?」

 先生が真剣なまなざしで僕を見てくる。

 僕は返す。

「何って、あの子……」

 と、言いかけた僕に先生の言葉が被る。

「姉さんは子供なんて連れていないが……? それに、この屋敷に瑠香たち以外の子供なんて……」

 背筋を何かが撫でた気がして、振り返る。

 グランデイビーハウスの中庭。

 さっきまで子供が遊んでいた中庭。

 そこはもぬけの殻だった……いや、蛻の殻どころか、誰かが踏み入った跡さえ……もちろん、誰かが雪で遊んだ跡さえなかった。雪で覆われた真っ白な庭。ただそれだけがあった。

 と、思い当たる。

 どこからか聞こえる子供の笑い声。

 小さな子の足音……そう言えば、楓花さんの部屋の近くで「ぼく」と話した時も足音はばたばたしていたっけ。

 それから、そうだ。

 動真くんと瑠香ちゃんが失踪した時のあの混乱。

 子供の頭の数が合わない。いつの間にか二人消えている。

 僕の推理が正しければ、あの時消えたのは動真一人のはずだったのに。

 でも二人消えた。いや、一人増えた? その増えた一人は、いつの間にか姿をくらまし……。

 まさにかくあるべしといった現象じゃないか。

 だから、あのコナサセの唄は……。

「寂しくないの?」訊きそびれたな。でもさっきのあの子は楽しそうだった。

 僕は思い出す。


 ――遠野は、座敷童の聖地。


 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コナサセ唄いて童泣く 飯田太朗 @taroIda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ