第19話 秘密の部屋

「先生……先生!」

 僕は声を飛ばす。強めの語気を孕んだ言葉は洞窟の中で反響し僕の鼓膜を震えさせた。しかし先生は正気に戻らなかった。

「ひゃあひゃあ……」

 息を吸いながら、しゃくり上げるような引き笑いをしている。目の焦点が合っていない。

 僕は先生の肩を掴んだ。

「気持ちは……気持ちは、分かります」

 僕は自分の本心を告げた。と、その言葉に反応して、先生の目線が、唐突にナイフの切っ先のごとく、鋭く尖った。

 先生は唸った。

「気持ちが分かる?」

 やはり怒気を含んだ言葉だった。

「お前に何が分かる」

 暗い声だった。洞窟内の闇にも負けない、暗黒に染まった、鈍くてグロテスクな……。

「お前に何が分かる」

 獣の唸り声だった。

「想像できるという意味です」

 僕は丁寧に接することにした。

「お気持ち、察します」

「察するだぁ?」

 先生が覚束ない足取りでこっちに体を向けた。

「お前よくもそんな口が利けたなぁ!」

 殴り掛かってくる。僕は素早い身のこなしでそれをかわすと、尚もこちらを攻撃しようと振り向いた、先生の老け込んだ顔を強く張った。殴られた先生の眼鏡が飛んで、暗い洞窟のどこかに落ちた。乾いた音がした。

「気を確かに持ってください」

 僕はハッキリと告げた。

「こういう時だからこそ、しっかりしてください」

 洞窟の冷えた空気の中で、僕の言葉はある程度の説得力を持ったらしい。先生が雫を振り払うように首を横に振った。そうして、目覚めた。

「……わりぃ」

 先生がスマホのライトで足元を照らした。二、三歩離れた場所に見つけた色付き眼鏡を、ひょいと拾い上げまた鼻の上に乗せた。

 僕は先生の背中に手をやった。それからつぶやく。

「ゑいかさんを探しましょう」

 そしてこの頃には、僕の頭の中に漠然と答えがあった。だから先生にそれを訊ねた。

「座敷童の部屋があるとしたらどこにあります?」

 先生がこちらを見る。僕は前を向いたまま続ける。

二戸にのへ市にはそういう風習があるんですよね? 間引いた子供を祀るための部屋を作る。グランデイビーハウスにもありませんか? 知らないなら、そういう秘密の部屋がありそうな場所、心当たりがありませんか?」

「……ない」

 先生は首を横に振った。

「ない」

「じゃあ、僕の心当たりを探します」

 先生が再び僕の顔を見上げた。

「ついてきてください」

 そうして僕たちは屋敷に戻った。



 玄関に入ると、僕は帽子とコートを脱いで手近にあった花瓶の机に乗せ、壁に手を当て伝いながら歩いた。時折、コンコンと壁をノックする。音の変化を見ているのだ。

 グランデイビーハウス、玄関入ってすぐに続く長い廊下。そこをゆっくり、壁を叩きながら進む。やがて変化は訪れた。それは電話室が目前に来た時のことだった。

「電話室のせいで壁の音が変質したのか……いや」

 僕はがちゃりとドアを開け電話室に入った。壁にあったのは話しかけるマイクロフォン部と耳に当てるスピーカー部とが別個になっているタイプのかなり古い……いや、当時にしては最新式の、壁掛けの電話機だった。僕はしばしそれを見つめた。ここに何か……これに何かあるはずだ。そうして少しの間眺めていると、マイクロフォン部の真ん中、妙なでっぱりを見つけた。僕はそれを押した。

 と、途端に。

 何か仕掛けの動くかちゃりという音がした。僕はつぶやいた。

「長い廊下の割に部屋が少ないなとは思っていたんです」

 背後に立つ先生が息を呑んだ。

「秘密の部屋はここにあった」

 壁の一部、右側の縁が、おそらくバネ仕掛けの作用だろう、離脱していた。壁が引き戸になっている。僕はそこに手をかけるとゆっくり開いた。と、すぐにオレンジ色の光が足元を照らした。

「ゑいかさん」

 光の向こう。机に向かう女性の背中があった。おそらく手元を動かすのであろう、細かな作業をしていたその背中がぴたりと動きを止めた。それから彼女は、暗闇に灯る炎の中の……儚く脆い幻のように、ゆっくりとこちらを振り返った。逆光。彼女の顔は暗黒に飲まれていた。



 背後にいる先生が、この部屋の存在にか、あるいはこんな場所にいたゑいかさんに対してか、震える息を吐いた。僕は言葉を紡いだ。

「あなたですね」

 声は壁に吸われていった。

「五人の孫を殺したのは、ゑいかさん、あなたですね」

 この頃になると僕の目が闇に慣れた。薄い影の中、ゑいかさんの穏やかな顔が見えた。手にはグラスの小さな、品のいい老眼鏡があった。

「ええ、そうですよ」

 静かな声だった。まったく悪びれていない。

「さすが飯田先生ね」

 僕は黙って彼女を見つめた。彼女も黙って僕を見つめた。そうしてしばらく見つめあった後、僕は口を開いた。

「宗一郎氏の死から全ては始まった……あの人の死と、あの遺言とがこの物語を始めた」

 この物語、なんて小説家みたいな言い草だな……僕はそんなことを思いながら、話を続けた。

「殺しの目的は遺産ですね?」

 僕の短い問いに、ゑいかさんは沈黙を以て肯定した。

「疑問に思ったのは殺害順です」

 あまり長い前置きは必要ない気がした。何せ、この現場にいる三人……僕と、先生とゑいかさんは、もう事の真相を深く知っているのだから。

「犯人は宗一郎氏の莫大な遺産が目当てだった。このスタートは間違っていないと僕は確信を持っていました。遺産を狙った大人の犯行だ。それは間違いない。最初、静真くんと動真くんが殺された時は利喜弥さんか楓花さんの犯行ではと、そして瑠香ちゃんが殺された時は沙也加さんの反撃か漁夫の利を狙う楓花さんの犯行ではと思っていました。しかし五人の孫全員が死んだ今、遺産目当ての殺人の容疑は、相続権的にあなたゑいかさん、そして二番目にこちらの時曽根恵先生にかかることになる」

 僕は話を続けた。

「仮にあなたたちのどちらかが孫から遺産を掠め取りたいなら、まず瑠香ちゃんを殺すべきです。何故なら静真くんや動真くんを殺したところで最初に相続権が発生するのは瑠香ちゃんであり、仮に五人を殺す途中で……例えば静真くんと動真くん殺害の時点で事が発覚したら本来の目的を達成できなくなってしまうからです。遺言書には犯罪による相続権の喪失はなかったので刑事訴訟を受けても相続権は残る。普通なら相続権順に殺すのが近道だ。なのに本件の発覚順は静真→動真→瑠香→登也、千花の順だった。犯人は……あなたは何故、この順番で殺したのか」

 僕は冷気で乾燥した唇を舐めてから話を続けた。

「この問題がずっと僕の頭にあった。『何故静真が先に死んだのか?』遺産目的に見えて何か別の目的があったのか? 随分悩みましたよ。でも瑠香ちゃんの死体を見てあることに気づいた。あなたが最初に殺したのは、実は瑠香ちゃんだったんだ」

 僕はポケットからメモ帳を取り出した。そこには以前書いた「昨夜の子供たちの行動順」が書かれていた。


 八時:子供たち入浴

 八時半:瑠香、子供用寝室へ

 九時:静真行方不明

 九時二十分:登也、千花、子供用寝室へ


「八時半に瑠香ちゃんが子供用寝室に行ったと記載があります。何でも子供たち……厳密には瑠香ちゃん、登也くん、千花ちゃんの三人はこの日の夜、食事の席で一緒の部屋に泊まることを決めたそうですね。そしてその取り決めの通り瑠香ちゃんは、八時半に子供用寝室に向かった。これは利喜弥さんの証言を元にまとめたものなので信憑性は高い」

 ゑいかさんが静かに微笑んだ。僕はその笑顔に向かって続けた。

「八時半に子供用寝室に行った瑠香ちゃんの元へあなたは行った。瑠香を一人で置いておけないから、とか、あるいは子供を寝かしつけるとか何とか理由をつけてね」

 僕の言葉に先生がまた震える息を吐いた。

「首を捻る殺し方。ターゲットに背中を向けさせれば殺害には五秒もいらない。おあつらえ向きにも瑠香ちゃんは一時間近く子供用寝室に放置された。やりやすかったことでしょう」

 僕はゑいかさんが瑠香ちゃんの首を捻り上げる場面を想像した。小さな頭がゑいかさんのしわくちゃな手の中でコキリと鳴る、その場面を。

「そうして殺した瑠香ちゃんを、あなたは屋敷の外に隠した」

 どこに隠したかまでは僕の知識じゃ分かりませんが……僕はゑいかさんに向けてそう続ける。

「この寒さです。瑠香ちゃんの体は腐敗が遅れて冷凍庫に近い状況で保存される。これで死亡推定時刻がずれた。瑠香ちゃんの死体はある意味翌朝を迎えた」

 瑠香ちゃんの次に、同じ夜の九時頃。僕は話を続けた。

「静真くんを殺害した。一晩であなたは二人の子供の命を奪った。しかしここからは工夫が必要になります。静真くんは発見に時間がかかってほしい。その間に残りの三人……動真くん、登也くん、千花ちゃんの殺害プランを練るために。しかしその反面、瑠香ちゃんよりは先に見つかってほしい。何故ならこの順番をコントロールできれば兄妹間でいがみ合いが発生し、事件の捜査を撹乱することができる……。つまり静真くんは見つかってほしいけど見つかってほしくない。この矛盾を片付ける必要がある」

 あなたは。そう、僕はゑいかさんを示す。

「お風呂から出たばかりの静真くんを殺害した。この時動真くんや付き添いの使用人も一緒にいたことが想定されますが、まだ幼い動真くんの目を欺くことは、そしてこの屋敷の最高権力を持つあなたが使用人たちを厄介払いすることはとても簡単なことだったでしょう。とにかくあなたは静真くん一人を捕まえると瑠香ちゃん同様首を捻って殺した」

 僕が一瞬黙るとゑいかさんは先を促すように小首を傾げて見せた。

「夕食の席で子供たちの動向を把握していたあなたにとって、これらの芸当は特段努力を必要としなかった」

 僕は一呼吸おいて続けた。

「あなたは工夫した」

 ゑいかさんは静かにしている。

「静真の発見順は瑠香より先ではなければならないが、易々見つかってはならない。つまり事件の発覚そのものを遅らせたい。日付を跨ぐことも重要だったかもしれませんね。沙也加さんのご夫婦を疲弊させ、動真くんを拉致しやすい環境を作るためにも、沙也加さんに見つけられにくく、尚且つ翌朝には捜査の目が向きやすい場所に静真くんの死体を置かなければならない」

「地下室は打ってつけだったわけでございますね」

 ゑいかさんの問いに僕は答えた。

「『すぐ見つからない』の要件は満たしたのでしょうね」

 僕は目線を伏せた。この床の先にある地下室に意識をやる。

「旧洗濯室は錠前が錆びている上に、屋敷内の旧施設改修のために鍵そのものが一度回収されている。入ろうと思ったら、正規ルートを通るにしても最低限使用人の誰かを使わないといけない。ここに死体を置けたらかなり時間を稼ぐことができる」

「ではどのように」

 ゑいかさんは品よく訊ねてきた。

「ではどのように、わたくしは静真の死体を旧洗濯室に入れたのでございますか」

 それはゑいかさんからの挑戦状のようにも思えた。だから僕は、丁寧に答えた。

「ランドリーシューターです」

 僕の言葉に、ゑいかさんの目が感心したように見開かれた。

「屋敷の各所にある四角い穴。ここに洗濯物を入れると洗濯室まで落ちていく。このランドリーシューターを使ってあなたは静真くんの死体を旧洗濯室に入れた。どのランドリーシューターを使えば旧洗濯室に入れられるかは、屋敷に精通しているあなたなら見分けることは容易い」

 だから、静真くんは……そう、僕は続けた。

「ランドリーシューターの中で何度も壁や角にぶつかったから全身打ち身だらけになった。あの子の死体だけ他の子と違って損傷が激しい。ランドリーシューターを使った確かな証拠だ。シューターから落ちた死体は旧洗濯室に積まれていた廃棄のシーツでできた山の上に着地、斜面を転がって部屋の真ん中まで来た。ここまで計算したかは分かりませんが、静真くんの死体はこうして旧洗濯室の中に入れられた」

 ゑいかさんが微笑んだ。品のいい微笑だった。アルカイック・スマイルという言葉はこの表情のためにあるのかもしれない。

「正直に言うと……」

 僕は話を続けた。

「動真くんに関してはいつ殺したのか分かりません。大人たちの証言が曖昧過ぎる上に、そもそもが静真くん失踪騒動の最中。子供たちの行き来も正確な情報が取れない」

 ですが……と、僕は話を続ける。

「今日のお昼、子供部屋に子供たちをお迎えに行ったのはゑいかさん、あなたです。その時に始末しようと思えばできる。あの時消えたと認識された子供は瑠香ちゃんと動真くんですが、瑠香ちゃんは昨夜の時点で死んでいるのですからそもそも勘定に入らない。今日の昼頃起きた『子供二人の消失』はそもそもことになる」

 僕はひとつ息を吸ってから続けた。

「僕もまだ解決できていない問題があります。それはあなたが子供たちを起こすために子供用寝室に使用人を送っていることです。今朝の時点で子供用寝室には登也と千花しかいないことになる。動真くんは沙也加さんご夫婦と一緒に寝たわけですからね。つまり少なくとも瑠香ちゃんの失踪については勘付かれる恐れがある。なのにあなたは一体何を思って使用人を使ったのか。あなたほどの立場の人間なら、使用人を自分の手足のように使える。逆に言えば使わないこともできる。なのにどうして使用人を使ったのか」

 ゑいかさんが静かに、僕を見透かすような遠い目でこちらを見てくる。僕はその、掴みようのない幻みたいな姿に、言葉を投げ続けた。

「さっきから言っていますが、瑠香ちゃんは静真くんより後に見つかってほしい。静真くんの死体が見つかるのより先に瑠香ちゃんが行方不明になったことがバレれば、状況はやりにくく……」

「あるいは」

 いきなり声を発したのはゑいかさんだった。

「順番は、どうでもよかったのではございませんこと」

 僕は言葉に困る。

「そんなはずは……」

 何だ? どういうことだ? 静真と瑠香の順序による兄妹の啀み合いは計算になかったということか? 僕が混乱しているとゑいかさんが微笑した。

「先生、ごめんあそばせ。お話を続けて?」

 僕はゑいかさんを見つめたまま、しばし黙った後、話を続けた。

「動真くんを殺したタイミングについてはボヤけた理解しかできていません。死亡推定時刻が正しければ今朝方。おそらく子供部屋に行ってすぐか。このあたりは分かりませんが、しかし彼を屋根裏の密室に運び込んだ方法については明確に分かっています」

 ゑいかさんは俯いて話を催促した。僕は話すことにした。

「動真くんを他の子どもたち同様首を捻って殺したあなたは、彼の手の中に屋根裏二号室の鍵を握らせると、ある場所へ向かった……地下室、食料備蓄庫」

 ゑいかさんは微笑み続けていた。

「あの部屋にはエレベーターがありますね? 荷物用の、小さなエレベーター。そして現場となった屋根裏二号の部屋の中には『乾パン』と書かれた箱がありました。その側には小さなシャッター」

 荷物用の小さなエレベーター。それは各フロアに止まることができるという。屋根裏も……例外ではなかろう。

 僕は壁に灯ったランプを思い出した。思えば最初、つまり静真くんの一件を調査した時は地下の備蓄庫で点灯していたエレベーターのランプが、動真くんの捜索時は屋根裏の二号室で点灯していた。あの時既に、手がかりはあったのだ。あの地下備蓄庫に止まっていたリフトは事件後屋根裏部屋に止まっていたのだ。移動していたのだ。

「あのシャッターの中、荷物台であるパレットがあった。手前側の足だけ壊れたパレット。シャッター内部の奥から手前に向かって傾斜がつくようになっていたパレット」

 ゑいかさんは相変わらず微笑み続けている。

「パレットの傾きにより、床に傾斜の付いたエレベーターは、目的地に到着してドアが開いたと同時に中にある荷物を自動で吐き出すものに変容していました。リフトの奥からドアの方に向かって傾斜がついている訳ですからね。リフトの中身が自然と外に転がり出る仕組みになっていた。あなたはこれに動真くんの死体を乗せた。そうして屋根裏二号まで送り届けた」

 ドアが開いた瞬間……僕はそう続けた。

「パレットの傾斜によって吐き出された死体は、無事に屋根裏二号の部屋の中へと転がっていった。エレベーター出口の足元には麻袋が段差を作っていてこの上を転がれば部屋の中央近くに死体は転がる。もっとも麻袋まで計算にあったかは謎ですがね。まぁとにかく、これで第二の密室の完成です」

 するとゑいかさんはゆっくりと頷きながら訊ねてきた。

「瑠香は」

「瑠香ちゃんは……」

 僕は被せるようにして応じた。

「先程も言った通り、前の晩に殺害したものを屋敷の外に置いておくことで冷凍したのでしょう。根拠となる点がひとつ、あります」

 僕は指を一本立てると、そっと耳たぶの方に持っていった。

「耳です。紫色に変色していた」

 ゑいかさんが小首を傾げた。

「最初は死斑だと思ったんです。でもそれじゃ説明がつかない。何故なら、死斑は脈動しなくなった血液が体の一か所に固まってできるものです。これが左半身に生じるのは分かります。瑠香ちゃんの死体は左側を下にして寝かされていたのですからね。しかしこの斑点と思しき紫色の変色がのはおかしい」

 僕の説明が伝わったのだろう。ゑいかさんは「ああ」と手を打って息を呑んだ。

「あの紫色の変色はおそらく凍傷だったんだ。死んですぐ極寒の外に放置された死体は急激に冷やされて末端が……毛細血管以外に血管がない耳がまず、冷やされ過ぎて壊死した。そうして冷やした死体を、今度は瑠香ちゃん捜索時に客室用談話室の暖炉で……時曽根先生が言うには、でかくて暖か過ぎる暖炉ですね、これで解凍した。直腸温度から調べる死亡推定時刻は体温に大きく依存します。解凍された死体はさらに温められたことでさもに変貌した。こうして殺害順の錯誤は実行された」

 後は……と、僕は続けた。

「登也くんと千花ちゃんですね。ここまで来るといちいち一人ずつ殺すのは手間です。目的は遺産の相続権を持つ孫たちの殺害なので、まとめて殺せる分にはありがたい。あなたはここで一計を案じた。ココア、ですね」

 ゑいかさんはやはり微笑んだ。きっと……僕が思うにきっと、こうして自分を理解してもらえたことが、とにもかくにも嬉しい、のだろう。

「あなたは用意したココアに薬を盛った。そしてそれを楓花さんのご家族に飲ませた。途中ミスが起こり千花ちゃんに飲ませるはずだったココアが使用人に回る事態が発生しましたが、千花ちゃん自身、お昼寝の時間だったのかな。あなたの計画に大きな狂いはなかった」

 僕は話を続けた。

「楓花さんの部屋。床ですね。僕と先生がドアを調べた時に見つけたのですが、床にタイヤが擦ったような細い線がありました。これが手がかりでした」

 背後で先生がごほんと喉を鳴らした。

「楓花さんの部屋の近くにあるトイレ。その傍にあった階段の裏手には、台車がいくつかまとめて置いてありました。おそらくあれを使ったのでしょう。如何に小さい子供でも二人まとめて担ぐのは難しい。あるいは、台車ならば『乗って遊ぼう?』なんて誘い方もできます。あなたは登也くんと千花ちゃんを台車に乗せて部屋から連れ出した。そうしてそれまでの三人同様殺害すると、庭に運んで安置した」

「ほほ」

 ゑいかさんが、今度は声に出して笑った。

「さすがですわ、先生。そこまで見抜かれていらっしゃるとは」

 それからゑいかさんはすっと振り返り、背後にある机から文書を取った。たったそれだけの手つきなのにいやに優雅で繊細だった。彼女はまた、手にしていた老眼鏡を所作美しく鼻に乗せ、口を開いた。

「私、時曽根ゑいかは父宗一郎の遺産の相続権を放棄し、時曽根恵に譲るものとする」

 その先にどんな文章が続いていたのか……あるいはどんな文章の末尾にその言葉が続いていたのかは分からない。だがそれは相続権の放棄を意味する内容だった。

「相続権を持つ孫たちが死ねば遺産は私に。そして私が相続権を放棄すれば遺産は恵に」

 鼻にかけた老眼鏡、その上からしたたかな目線を投げてくる。それからすっと、袖を払ってから手を持ち上げた。その手にきらりと光るものがあった。

 小瓶だった。茶色いガラス。おそらく中の薬品が変質しないようその色になったガラスの中で、何か液体が小さく揺れていた。彼女はそれを掲げてみせた。やはり、美しい所作で。

「かくなる上は命を使わねばなりません」

 恵。そう、ゑいかさんは告げた。

「最後にあなたに会えてよかったわ」

 僕の背後で先生が言葉にならない声を発した。数歩、先生が前に出た。それから叫んだ。

「待ってくれ!」

「駄目よ、恵」

 ゑいかさんが瓶を自分の口に持っていった。

「私は覚悟はできています」

 彼女の声に硬質な何かを感じたのだろう。先生はまた数歩、よろよろと前に出ると、震える声で……まるで赤子が腹から捻りだすような大きな声で、こう告げた。

「待ってくれ、母さん!」

 その言葉にゑいかさんの表情が凍った。

「母さん、待ってくれ……待ってくれよ……」

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