第18話 水子供養の祠

 さて。

 僕は思案の渦に身を任せる。

 何が分かった? 何が分からない? 

「分かる」という言葉はそもそもが無知と知を「分ける」行為だからこの表現になった、との言説はある。僕にとっての無知は何か? 僕にとっての知は何か? 考えることで見えてくる。

 屋根裏の廊下から四階に下りる時。

 ふと、脳裏をかすめる。

「瑠香ちゃんの死体……」

 僕のつぶやきに先生が応じた。

「瑠香がどうした」

「いえ」

 反射的にそう答える。思い過ごしかも、しれないし。

 ただ僕の頭の中には、あの子の頭があった。首筋に青い痣ができた死体。両耳まで紫になった死体。それと、死斑。柊木医師の説明によれば、死斑とは心臓の拍動が止まり循環しなくなった血液が死体の一部に溜まり斑点となったもの……とのことだ。

 ふと、目線を上げると、壁の上部に大きな窓が一つあった。ここからの光のおかげで僕は埃をしっかり目視できたのかもしれない。日は既に大分傾いていて、世界は薄闇に包まれていた。窓の外で強い風が一陣吹いた。僕は、あの中にいたら寒いだろうな、と思った。

「ある程度見えてきたかもな」

 僕のつぶやきに、またも先生が応じた。

「お前さっきから独り言うるさいぞ」

「すみません」

 僕は素直に謝る。

 不確かなことは口にするもんじゃない。



 子供たちの謎はさておき、肝心のゑいかさん失踪については何も分からないままだった。先生もそれのせいでだんだん平常心を失ってきているようで、時折拳を握りながら足の先で強く床を叩いていた。

「先生」

 しかし僕は構わず口を開いた。

「屋敷の中に打つべき手はもうないと思います」

 懐かしい。僕はそう思った。

 高校二年生の時だったか。確か総合学習か何かの授業だった。今のように先生に自分の意見をぶつけるような機会があったのだ。先生はきょとんという顔をして、それから、「おう、おもしれぇな」と、そんなことを言った気がする。

「おう」

 先生がじろりと僕を見た。

「おもしれぇな」

 変わらぬ対応に僕は何だかおかしな気持ちになる。

「これだけ使用人の方やご家族が探して手がかりさえつかめないなんてこと、ないですよ。真っ当に考えればこの屋敷にはいないと考えるべきです」

「だが探せていない場所があるかもしれない。瑠香たちの死体みたいに捜索の盲点があってそこに、なんて話も……」

「僕はそれに異を唱えたいです」

 先生のガラの悪い目がまた僕に向けられた。しかし僕は素直に続けた。

「死体は犯人の手によって移動させることができます。探したばかりの部屋にこっそり置いていけば、チェックマークにチェックはつくけど仕事はやり直しになる」

「……瑠香たちは殺された上に、犯人の手によってあっちこっちに運ばれたってことか?」

「子供の死体なので不可能ではないですよね」

 先生は拳を唇に当てて唸った。それから続けた。

「あり得なくはない」

「あの時も屋敷中は探せていたんです。でも犯人の手によって隠蔽されていた。だから見つからなかった」

「何が言いたい」

 先生の、僅かばかり怒気の孕んだ言葉に僕は丁寧に返した。

「屋敷中はもう探し尽くしたんですよ。なのにゑいかさんはいない。大人を隠そうとしても子供のようにはいかない。瑠香ちゃんたちのようにあちこちに移動はさせられない。ということはこの屋敷にはいない」

「もう探し尽くしたという根拠は」

「ありませんが、これだけ何回も家探しをしたんです。使用人の人たちも捜索に手慣れていきますよ。きっと今日になってからだけでも熟練していると思います。入ったばかりの書生さんでも屋敷の隅から隅まで知っていそうですよ」

 先生はまた黙った。が、それからすぐに「かもな……」とだけつぶやくと、踵を返した。

「どちらへ?」

 僕が問うと先生は返してきた。

「隼峯村を探す。俺の部屋でコートと長靴を取るんだ。帽子も必要かもしれねぇ。お前も来い。客室まで取りに行くの面倒だろう。俺のを貸してやる」

 かくして僕たちは、寒空の隼峯村へと、繰り出すこととなった。



 先生は僕より身長が高く体格もいいので、借りたコートは何だかぶかぶかで僕が着ると不格好な気がした。しかしまぁ大きいだけあって保温性はバッチリで、ポケットに手を入れて歩いているだけで雪の降る外の温度にもある程度対抗できた。帽子も毛糸のもこもこしたやつ。耳まで覆える。長靴にはスパイクがついていた。先生が白い息を吐きながらつぶやいた。

「屋敷以外で時曽根家に所縁がある土地なんてのは二つしか思い浮かばない」

「どれとどれです?」

 僕が訊くと先生はスマホを示しGoogleMapを見せてきた。

「まず早矢はやや山にある早矢神社。グランデイビーハウスの西にある山の神社だな。んでその山の麓にある祠。これも産婆の家系だった時曽根家に所縁のある場所だ。幸いにも俺は時曽根家の人間だから、男でも祠に入ることはできる」

「この非常時に男だ女だ言ってられないでしょ」

「お前相撲の土俵に女が入るの許せるタイプ?」

「非常時ならやむを得ないかと」

「俺ぁ駄目なんだよな。宗教的理由はナイーブな問題だから守りたい」

「……先生って理系ですよね?」

「一応な」

「らしからぬところありますよね」

「大学の頃も友達にそんなこと言われた」

 雪の中、二人でざくざく足音を鳴らしながら歩いていく。先生に訊ねる。

「早矢神社と祠、どちらもこんな天気の中歩いていけるものなんですか?」

 先生が返す。

「楽勝」

 びゅう、と風が吹いた。横殴りの風。雪の粒が目に入る。

「嘘つけ」

 僕の独り言はやはり、雪風の中に消えた。



 まず、僕たちが向かったのは早矢神社だった。屋敷から早矢山までの道は綺麗に整えられていて、雪で隠れていたから分からないが察するにアスファルトで舗装されていたし、ご丁寧にガードレール兼手すりのようなものまであった。僕と先生はそれに捕まりながら斜面を歩いて早矢山を目指した。日が暮れかけた雪の空は何だか不思議な色をしていて、灰色の鈍い明かりの中、僕たちはゆっくりゆっくり進んでいった。

 やがて神社に着くと、先生は境内に駆け込むようにして入り、鳥居をくぐるや否や「姉さん!」と叫んだ。しかし声は雪に吸われた。先生が再び叫ぶ。

「姉さん!」

「そんな素直に出てくるんじゃわざわざいなくなったりしませんよ」

 僕は先生に追いつくと声を張る。

「それにもし、誰かに攫われたのだとしたら声が出せないようにされている可能性も……」

 僕のその言葉に先生は顔色を変え、正面にある本殿を見た。

「中、入るぞ」

 先生がずかずか足を鳴らしながら前へ進む。雪。境内に足跡はない。雪が降り始めた頃にはまだゑいかさんは屋敷にいた。だからこの境内に誰かがやってきた可能性、つまりゑいかさんがここにいる可能性はとても低いのだが……先生にはそんな事実も見えなくなっているらしい。

「姉さん!」

 五十代らしからぬ健脚で雪を割って本殿に着いた先生は引き戸を開けてそう叫んだ。しかし反応はない。僕は先生の数メートル後ろを歩いていた。お賽銭箱の近くに来た頃になって、先生は「駄目だ、ここにはいねぇ」と首を振って外に出てきた。僕は訊ねた。

「何も手がかりはなかったんですか?」

「姉さんはいねぇ!」

 頭の中はゑいかさんでいっぱいなようだ。

「先生、落ち着いてください。こういう時こそ冷静に」

「冷静になんてなってられるかっ!」

 初めて聞いた先生の怒鳴り声に、僕は思わず身を縮めた。

 すると僕のリアクションを見て頭が冷えたのか、先生は首を横に振ると「すまん」と謝ってきた。僕は応じた。

「慌てるのは分かります」

 静かに、続ける。

「しかしだからこそ、丁寧にやりましょう。本殿の中を捜索します。何か手がかりがあるかもしれない」

「……ああ……ああ、そうだな」

 先生が眼鏡を外して目頭を押さえた。どうもかなり、疲れているらしい。



 本殿の中に明かりはなかった。が、スイッチがあるだろう。現に天井には光を失った蛍光灯があった。壁や柱を撫でるとすぐにそれは見つかった。僕はスイッチを入れた。

 白色の光が灯る。薄暗い中、本殿の中には祭壇と小さな棚が二つ、あった。部屋奥の祭壇、そして神主か誰かが座るのであろう小さな椅子。その右手側に腰くらいの高さの棚が並んでいた。僕はそれに近づくと戸を開けた。いくつかの引き出しは空っぽだった。

 が、四つ目の戸を開けた時、だった。

 一冊の帳簿がしまわれていた。装丁からして古いが、和綴じじゃない。古くはあるがそこまでじゃない。そう思った僕はパラパラとページをめくってみた。先生も僕の後ろからそれを覗いた。四つ目の戸は一番下の段だったので、僕も先生もしゃがみこみながらそれを読んだ。

 どうも出産記録らしかった。

 いついつにどこどこの家で子供が産まれ、それを取り上げたのは時曽根家の誰であったか、が丁寧にまとめてあった。ふと気になり最新の記録を辿ってみる。令和六年。この年に産まれた新生児は二人。四月に高間たかま家の女性が男児を出産、取り上げたのは時曽根沙也加。六月に清水しみず家で女児が誕生、取り上げたのは時曽根楓花……この人たち、県外に住居があるとかなのに仕事のためにわざわざ帰ってきてたんだな。それだけこの村での信頼が厚い、ということなのだろうか……。

「姉さんの仕事も記録されているのかな」

 先生は僕の後ろから白い息を吐いた。暖められていない本殿の空気は外に負けないほど冷たかった。

 気になったので、ゑいかさんの一番古い仕事を見てみようとページをめくった。

 昭和四十八年。それがゑいかさんの初仕事だった。取り上げた赤子は時曽根素代香そよか。どうも時曽根一族の子の助産に関わったらしい。

 この頃隼峯村はベビーブームだったのか、同じ年に産まれた子供は七人。いずれも当時就職したばかりであろうゑいかさんが関与していた。時曽根京香きょうか、時曽根知花ちかなどなど、熟練の助産師らしき人間も関与していたので、きっと新人のゑいかさんも心強かったことだろう。

 そして昭和四十九年。

 年数からして時曽根先生が産まれた年だ。この年、村では時曽根先生含め子供は三人。少ない年だったようだ。桐野きりの鉄志てつじ山田やまだ美代みよ。先生、時曽根恵。

 察するに鉄ちゃんとミヨちゃんだな。一番遅く生まれたのがミヨちゃん。ゑいかさんが取り上げている。鉄ちゃんこと鉄志さんと時曽根先生の産まれた日は近く、三日違い。鉄ちゃん、先生、いずれも時曽根涼香りょうかさんが取り上げている。

「涼香伯母さんか」

 先生が背後でつぶやいた。

「俺を取り上げたのは」

「みたいですね」

 そう応じてからページをぱらぱらめくったのだが、時間にして数秒も経たない内に、いきなり、先生が立ち上がった。

 ふらふらと、歩き始める。

「先生?」

 声をかけてみたが、ぼんやりとした目は遠いどこかを見つめていて全く応答しない。僕は再び声をかけた。

「先生?」

「……いや、まさかな」

 そう、小声でつぶやく先生。僕も立ち上がって先生の肩で溶け始めた雪を眺めた。

「ここにはこれ以上手がかりはないかもですね」

 僕は冊子を懐にしまう。

「これは念のため。何かに使えるかもしれませんし」

「ああ」

 先生が頷いた。

「次、行くか。この山の麓の祠だ……」

 先生が気を取り直したようにテキパキ案内を始める。

 その整った挙動がどうにも心許なく僕には感じられた。先生が、何かで揺らいでいるような……芯から、根っこから何かに揺さぶられているような、そんな気がした。



 日が落ち、いよいよ真っ暗になった。

 とはいえ、雪が月明かりを反射するので視界そのものは良好だった。むしろまぶしいくらいだ。場合によっては目を傷める人も出てくるだろう。僕と先生は大股で雪を跨ぎながら先へと進んだ。やがて祠は……山の崖の下、まるで耳の穴みたいに複雑な形に窪んだその場所に、姿を見せた。

 白い鳥居。

 大分古いもので、少しかしいでいる気がした。木製。積もった雪がまるで屋根を作っているかのようで、そういう意味では豪華なものに見えた。先生はザクザクと進んでその鳥居の方に向かった。僕も後に続いた。

 先生が言うには、確か……。

 ここは水子供養の祠。その洞窟。

 二人ともスマホのライトを点けた。体に積もった雪をパタパタと払うと洞窟の中に入る。冷たい空気がさらに研ぎ澄まされた気がして、僕は思わず息を呑む。頬がピリピリ凍てつくのを感じた。あまり長居はしたくないな。本能的にそう思った。

 路面の雪がない分、この中は本当に真っ暗だった。スマホのライトが闇を僅かに削るのだが、削った傍から光が吸い込まれ、闇を駆逐することはできなかった。それでも僕と先生は進んだ。

 やがて、足場の両サイドに墓石のような縦長の石が並び始めた。僕はその内の一つをライトで照らした。


〈昭和十二年十月 西山にしやま家〉


 そう、あった。

 他の石碑も見てみる。


〈昭和二十年二月 北森きたもり 多嘉恵たきえ


 こちらには下の名前がある。


〈昭和二十一年 福永ふくなが まこと


 ここにも。

 水子の石碑か。続く昭和二十年代のものにはいずれも名前があった。逆に最初に照らした〈昭和十二年十月 西山家〉の石碑辺り、さらにそれよりも古い年数が彫られている石碑には家の名前しかなかった。もしかして、昭和二十年頃からはお腹の中の子に前以て名前をつけることが流行っていたのか? などと考える。

 いや、理由は他にも……。

 前にも話したかもしれないが、水子、という言葉には乳児期に死んでしまった子供も含まれる。

 名前が彫られた子は、もしかしたら何らかの理由で(それこそ飢饉だの災害だので)産まれてからある程度日数が経って死んでしまったのかもしれない。そんなことを思うとやるせなかった。親たちの悲しみ、絶望、苦しみ、全て石に彫られているような気がした。

 ゆっくりと、洞窟の中を進む。しかし前を行く先生の足は速かった。まるで何かを探しているかのように、左右を照らし、あれでもない、これでもないと一心不乱に前へと進んでいた。足場の悪い洞窟の中。僕は追いつくのもやっとだった。

 先生の背中が、震えていた。

 寒さ故、だろうか。あるいはこの場の空気がそうさせているのか。僕には分からなかった。分からなかったが、先生の中の何かが危険な状態にあることは一目瞭然だった。僕は声を飛ばした。

「先生!」

 しかし先生は応じない。

「先生!」

 が、この時。

 先生は足を止めた。まるでその場に射竦いすくめられたかのように、ぴたりと、硬直した。それから少しして、僕はようやく追いついた。先生はスマホのライトで、足元の石碑を照らしていた。そこにもやはり、水子の石碑があった。僕は先生が照らしている石碑を見つめた。

 そこにはこうあった。


〈昭和四十九年 時曽根 恵〉


「はは、ははは……」

 先生が笑い出したのはその瞬間だった。

「ははは……はははは! はは、はっはっは!」

 夜。雪。洞窟。水子。その中での発狂。僕は硬直した。

「ひゃっ、ひゃひゃっ、ひゃっ、はははっ!」

「先生……」

「うわあはははははっ!」

 咆哮だった。

 先生は笑いながら咆哮した。

「あはははっ! あーっはっはっはっ!」

 先生の気が触れた……残された僕はそう思った。

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