第17話 ノタバリコ

「ひねりこ、ひねりこ、ひねりこやあ」

 目の前の子供が歌ったそれは間違いなく〈コナサセの唄〉だった。そして……この子の声だ。僕が事件の前後で聞いていた声は。僕はしばし呆然として子供を見た。子供は笑っていた。

「君……君、名前は?」

 僕は訊ねる。この子の出自を。この子自身のことを。

 すると少年はまたニコッと笑った。

「ぼく?」

「ああ、そうだよ君……」

 と、言いかけた時だった。

「飯田!」

 驚いて振り返る。先生の声。どうしたのだろうか。と、すぐさま。

 バタバタっ、と音がしたかと思うと、僕の前にいた男の子が駆け足で階段を上っていってしまった。僕は声を飛ばす。

「ちょっと、君っ」

 しかし少年は上階へと駆け上ってしまった。視界の端、一瞬見えた笑顔が焼きつく。僕がその後姿をボケっと見ていると、背後からも足音がした。

「おい、飯田……飯田!」

 時曽根先生だった。どうやら走ってきたようだ。楓花さんの部屋からここまでなんて五十メートルもないだろうに、先生は息が上がっていた。

「どうしたんですか」

 僕が訊くと、先生は顔を青くしながら……しかし蒸気機関のように上気させながらこう告げた。

「姉さんが……」

 僕の背に水滴が落ちた。

「姉さんが、いなくなった」

 先生がそう発したのと同じタイミングで、後ろから布施さんと、一人の女中とが来た。沈痛な面持ちの布施さんの脇に立つ、おそらく凶報を伝えにきたのであろう、長い髪を三つ編みにした若い女中の顔は、何だか妙にうつろというか、夢を見ているような顔だった。



 先の時曽根宗一郎氏の永眠に伴い、時曽根家当主となった時曽根ゑいかの失踪は、やはりかなりのインパクトを屋敷にもたらした。まず、報告を上げてきたのは時曽根沙也加さんだった。

「地下牢の鍵が開いてた」

 端的な報告はしかし激烈な印象を持って時曽根家に迫った。

「あそこ、いつも鍵かかってるよね?」

「ああ」これに応じたのは利喜弥さんだった。

「でもお前何でそんなことに気が付いた?」

 すると沙也加さんが発作的に答えた。

「静真が死んだことがまだ信じられないのよっ」

 ヒステリックな声だった。

「静真だけじゃない。動真も! 二人の痕跡を辿りたくてまず地下の旧洗濯室に行ったの。あそこに行っても、静真を感じてもただ辛いことは分かってるけど黙ってても辛いの! 兄さんには分からないでしょうね。何十時間も苦しんで、全身ボロボロになって死ぬ気で産んだ子があんなにあっさり死んで、それも、一人だけじゃなくて二人も……」

「姉さん」

 楓花さんだった。

「うるさい。甲高い声」

 見ると楓花さんも涙でボロボロになった顔をしていた。目元の化粧が滲んで、頬には涙の川ができていた。

「地下牢の鍵が開いていたからどうした」

 時曽根先生だった。疲弊しきった声だった。沙也加さんがそれに応えた。

「おかしいって思ったから姉さんに報告しようとしたのよ。でも姉さんがいない。家の人に訊いても誰も分からないって言うし、いよいよみんなで探したけれど、どこにも……」

「姉さんの部屋には」

「最初に行った。もぬけの殻」

 先生が辛そうな目を窓の方に向けた。

「庭には」

「今書生さんたちが総出で探してる」

「俺も探す。来い、飯田」

 先生に命ぜられて僕はすぐさま後についていく。時曽根家の一族の目線が背中に刺さった。

 お前、どうしてこんなところにいるんだ。

 と、言うような……。



 さて、時曽根家の皆さんの怨嗟の目は今更ながらも至極真っ当なものとして。

 僕は冷静に深呼吸をする。先程時曽根家であった喧騒を頭の中から締め出すと、いくらかいつも通りに頭が働く気がした。

 いい意味でも悪い意味でも、僕は空気が読めない。敢えて読まない節があると学生の頃言われたことがあるが、特に意識して外したことはない。

 でもだからだろう。僕は時曽根家を襲っている混乱の中でもいくらか沈着に動けているような気はしていた。まぁ、冷静沈着だからすなわち謎が全て解ける、というわけでもないのが悲しいところなのだが。

 しかし僕には考えがあった。だから時曽根先生に告げた。

「屋根裏二号室に行きませんか?」

 先生が振り返る。

「どうして?」

 そこに姉さんがいるのか? というような目。僕は応じる。

「ゑいかさんがそこにいるかは分かりませんが、あそこに行けば何か手がかりがあるような気がするんです。というのも、旧洗濯室と屋根裏二号室とを比べると、僕たちは圧倒的に屋根裏二号室の捜査が手薄だな、と思ったので……」

 先生はちょっと考えるような顔になった。

 それから、頷く。

「急がば回れって言うしな」

 先生が進路を変えた。

「ついてこい。屋根裏に行くぞ」

 かくして僕は先生の後ろについて最上階を目指すこととなった。

 屋根裏部屋の一つ下の階、四階に行くためにエレベーターに乗る。人が乗れるエレベーターは四階まで。耐荷重的な問題だろう。

 すると先生が、ため息をつく。

「どうしてこうなっちまったかな」

 そうつぶやいた先生に、かけるべきであろう答えは、やはり先生の嫌いな、お父君についての言及になりそうだったので、僕は下唇をそっと歯で押さえた。沈黙が慰めだと思った。

 リフトはすぐに四階に着いた。屋根裏に行く道の途中、やはり空気の読めない僕は、先生にこう訊ねた。

「座敷童について、ここに来る前に調べてみたんですけどね」

 先生は黙っている。

 僕の脳裏には、あの綺麗に脚を組み替える、編集者の与謝野くんの姿が浮かんでいた。

 それは二人で調べた資料の中にあった記述だった。僕はこの旅に出る直前、東京駅に行くまでの道中でそのメモに目を通していたのだ。

〈色々な名前があるから間違えないでくださいね!〉

 与謝野くんのそんなポストイットが貼られていたのを覚えている。

〈くらっこ 蔵ぼっこ 座敷ぼっこ ウスツキコ ノタバリコ 蔵童くらわらし……〉

 それらの名前を思い浮かべながら僕は口を開いた。

「座敷童には様々な別名がありますよね。例えば『ウスツキコ』。これは、先生にうすごろについて聞いた時にピンときました。『臼で(つき)殺す子』だから『ウスツキコ』。うすごろは、実際のところは臼の下敷きにして殺す行為なんですよね? でも臼という名詞に『突く』という動詞が連なるのは不自然ではない。他にもいくつかネーミングがありましたが、僕が気になった名称は……」

 僕は唇を舐めてから続けた。

「ノタバリコ」

 先生が僅かに歩調を弱めた。目の前には屋根裏に続く階段があったが、それを上る前に話は深まり始めた。

「『ノタバリコ』。これだけ名前の由来が分かりません。いえ、今このタイミングで座敷童がどうとか訊いても仕方ないかもしれませんが、産婆の家系で起こった子供ばかりが死ぬ事件、どこか座敷童の伝説を彷彿とさせる気がしてなりません」

 先生の足が止まった。

 それからため息と共に、先生は始めた。

「ノタバリコ、は『ノタ』『バリ』『コ』だ。『コ』は言うまでもなく『子』だな」

 僕は訊ねる。

「では『ノタ』と『バリ』は?」

「『ノタ』はおそらく『野田』だ。野原、田んぼ。本来田んぼは整備されていて、とても野原とは思えないはずなんだが、野原のように見える田んぼ。荒れた田んぼ。田んぼが荒れる理由は……」

「色々ありますが」

「人間の努力では防ぎ難い現象に限れば?」

「……例えば、自然災害?」

 先生は頷く。

「じゃあ自然災害に続く現象は?」

 僕は少し考えた。それから続ける。

「飢饉?」

「子供を間引く理由には持ってこいだよな」

 先生は鼻を啜った。

「東北は寒い」

 先生は続ける。

「災害が起こった後も、作物の環境を元通りにするのに時間がかかる。一度作物の収穫リズムが崩れると、飢饉も長引きやすい」

 そして……と、先生は話す。

「飢饉が長引き、人が飢えにさらされ続けると、人が人じゃいられなくなる。空腹は人を鬼に変える。何でも食べただろうさ……人を殺して食べたかもしれないし、そうでなくても、人を殺せない臆病さを持った人間でも、墓を荒らして死肉を喰らうぐらいのことはしたかもしれない。それだけ荒れた環境だったら。それだけ荒廃した世界に産まれた子どもだったら」

 僕は想像した。当時の人たちの置かれた環境を。

 先生の解説は続く。

「『バリ』はこっちの言葉で『ばかり』のニュアンスだ。つまり『ノタバリコ』は『野田ばかりの子』。どこもかしこも田が荒れた時に産まれた子、というような意味合いなんじゃないかな」

 俺さ……そう、先生は続けた。

「うすごろってさ、何で臼で殺すのか、考えたことあるんだよ。うすごろが行われるのは障害児、奇形児、未熟児が産まれた場合。その他にも、今言ったように貧困問題でとても子供を育てられないような状態の時ってのも考えられるよな。産まれて苦労する前にさっさと殺しちまう。死産だったということにしちまう」

 先生の、低く響く声。

「『日本人に宗教はないが、代わりに強烈な先祖信仰がある』なんて言ったのは誰だったっけな。まぁとにかく、そんな根強い先祖信仰において、出来損ないの子を墓に入れるのは躊躇われる。産まれなかったことにした子供は墓にも入れられないんだ。あるいは、今話したようにどうしようもないほど貧乏で、墓の土地もなく、あったとしても埋めた傍から掘り返されて死肉が喰われるほどの飢饉の中だとしよう。どっちの場合でも、子供を埋める場所がなくなる。そんな行き先のなくなった子供の死体を安置するのに、家の中の土間はちょうどいいし、安全だったんじゃないかな。そんで土間にあるものの代表格だった臼は石でできているし、墓標として使うのには都合がよかった。最初は臼を墓石の代わりに置いていたはずの行為が、だんだん嬰児を臼の下敷きにして殺すという行為に転化していったのだとしたら。本来は子供の死後を思う、痛切な親の感情だったものが子供を殺す行為に繋がってしまったのだとしたら。皮肉なもんだよなって」

 いずれにしてもさ。

 先生は続けた。

「親の子を思う気持ちはとてつもなく強いんだ」

 先生は胸の底からため息をついた。

「俺には分からねぇけどさ。さっきの弟や妹たちの態度見てたら、ふとそんなことを思っちまった」

 それから少し、沈黙して。

「行くぞ」

 僕と先生は、屋根裏部屋に続く階段を上り始めた。



 屋根裏部屋の廊下にある足跡は、やはり僕たちのものだけだった。サイズがどう考えても成人男性のそれだった。僕の足のサイズは成人男性にしては小さめの二十六センチ程度だが、それでも女性の平均からしたら大きい。僕の足跡は他二つの足跡に比べ顕著に小さかったが、しかし男のそれであることは特定できた。足跡は三パターン。行きも帰りもある。左右も揃っている(稀にだが、ミステリーの世界では靴を片方だけ持って手でわざとらしくスタンプを押していくことで足跡を偽装することがある。この場合、残る足跡は右側だけや左側だけなど、片足しか残らないことが多い)。

 とりあえずのところで不自然なポイントはなかった。僕たちは新しい足跡をつけながら屋根裏二号室へと向かった。

 静かな部屋だった。何に使っている部屋なのか訊ねたが先生は知らないようだった。察するに、物置だろう。いくつかの木箱、「乾パン」や「毛布」と書かれたものが僕の目を引いた。

「地下にも備蓄庫がありましたよね」

 僕の問いに先生は応じた。

「あるな」

 そういえば、と先生は続けた。

「屋根裏に第二備蓄庫があるような話は聞いたことがある。ここがそれなのかもな」

 僕は部屋を横切った。途中、動真くんが倒れていた場所も通り過ぎたが、僕は彼が倒れていた場所をなるべく踏まないように用心しながら向こう側の壁まで歩いた。足元には麻袋が積まれていて、壁に向かって高くなる傾斜を……まるで麻袋でできた階段のような足場を、作っていた。

 そんな麻袋の階段の、最上段にある壁。

 そこにはシャッターがあった。そしてその横には基板。ボタンがあることから何かの操作盤であることは明らかである。

 その横にあるランプは常に点灯しているものなのだろうか、オレンジ色の光が仄かに灯っていた。僕は操作盤のボタンを押してみた。

 低い機械音がして、シャッターが静かに開いた。中は少し変だった。貨物を置く用のパレット荷台があるのだが、その荷台が大きくこちらに向かって傾いていた。どうもパレットの足の、手前側のものが壊れているらしく、中から出口に向かって勾配の急な斜面ができていた。壁の内側には〈耐荷重:30kg〉と書かれたステッカーが貼ってあった。壁に貼られているということは、このパレットに対しての表記ではないな。僕は鼻を擦った。どこかかび臭い気がした。

「古いんですね」

 僕がつぶやくと先生が返してきた。

「俺がいた頃からあったからな」

 僕は先生の方を振り向くと、少し考えてからつぶやいた。

「ゑいかさんを探しに行きましょうか」

 僕の声を聴いて、先生は呆れたように笑った。

「何か分かったのかよ」

「ええ、まぁ」

「教えろ」

「まだ確証がないので……」

 すると先生はさらに笑った。

「本当にそんなセリフあるんだな」

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