部屋とギターと娘と……
北村瑞樹
第1話
フランス人なギター製作家
平成二十×年夏、日本列島は連日百年に一度といわれる猛暑に覆われていた。
九月に入ってからもその暑さが衰える気配はなく、まだ朝の九時だというのに、太陽の光は容赦なく肌を焼き、アスファルトの照り返しが酷く眩しく感じられる。
既に二ヶ月間関東地方に雨らしい雨は降ってはいない。
街全体が連日の暑さのために干上がってしまったように感じられる中央線御茶ノ水駅の改札を出た竹内豊は、空を見上げて「フー」と声を上げた。
明治通りを歩きながら、ハンカチで何度拭っても顔中に滝のような汗が吹き出してくる。道端の自動販売機で五百ミリのスポーツドリンクを買い、一気に飲み干した。
だらだらと続く上り坂を歩いて五分、竹内が店長を勤めている「T楽器」の看板のついた二階建てのビルが見えてくる。
ビルの裏口に回り、契約している警備会社のセキュリティーを解除してから、ドアを開け中に入り、正面で入り口のシャッターを開け放ち、何時のように店内の清掃を始めた。
壁にかけられたギター、クラリネット等の管楽器が並んでいるガラスケースにはたきをかけ、カウンターテーブルを固く絞った雑巾で拭いている時、カウンターの横に無造作に立てかけられている一本のギターが目に入った。
―何だ、しまい忘れかーギターを手に取り、カウンターの裏手にある倉庫へと運び、中身の入っていない適当なハードケースにしまった。そして、そのまま倉庫の空いているスペースに押し込んだ。
掃除を終え、前日の店の売り上げのチェック等、朝の定時業務をこなし、開店時間となり、身支度を整え、出勤してきた店員と雑談を交わす間に、竹内の頭の中から倉庫にしまったギターのことはいつの間にか消えうせていた。
翌朝、同じように出勤した竹内が店内の照明を点け、カウンターの横を見ると、再びギターが立てかけられていた。
「えっ」声を出しながら近づいて手に取ってみると、それは昨日と同じギターだった。
またしまい忘れか? いや、そんなことはない。店には自分の他に店員が一人、他にアルバイトの店員が一名いるが、昨日の店じまいをしたのは竹内自身だ。このギターを出しっ放しどころか、ケースから出してさえいない。
念のために店内に展示してある楽器、書籍等をざっと見渡してみたが昨日までと同じく、雑然としてはいるが特に異常は見当たらない。店の売上げは自分が必ず持ち帰っているため、現金が閉店後に店内に置かれていることもない。
店員が出勤して来たら、確かめるしかないか、と思いながら、もう一度手にしているギターを見た。それは古びたフラメンコギターだった。
店の中にある唯一本のフラメンコギターのサウンドホールに顔を近づけて、弦越しに中を覗き込んだが。そこにあるはずの製作者を示すラベルは貼られてはいない。
誰、或いは何処の工房で作られたのかが、全く判らない。ケースにもそれらしき名前は書かれてはいなかった。唯全体が茶色い色をした、かなりの年代物であることだけが判る。
竹内はこのギターの入手経路を思い出そうとしていた。
遠くでサイレンの音が聞こえたような気がした。
城島健太郎は楽譜の整理をしていた手を止めて、控え室の窓から差し込む夕日を見上げて目を細めた時、ノックの音がした。
「城島さん、準備が出来ました。お願いします」
ドアが開き、頭の先から抜けるような甲高い女性の声が城島の名前を呼んだ。
「判りました。こちらの準備も大丈夫です」
答えた後に鞄からピルケースを取り出して、中に入っている精神安定剤を一錠ペットボトルの水と共に飲み下す。一時間前にも同じ物を飲んでいる。もう一錠飲むのは演奏前の儀式のようなものだ。
床に置かれているギターケースからギターを取り出して、チューニングの確認をし、シリコンクロスを掛けたギターのネックを左手に、楽譜の挟んである黒い譜面カバーを右手に持った。
出入り口のドアの前にある姿見の鏡で服装を確認する。黒いタートルのシャツに黒のスーツ、そこにはいつもと変わらない姿が映っていた。
控え室代わりの会議室を出て、先程城島を呼びに来た案内係の若い女性の後に付いて目的の部屋に向かった。肩の高さまでは伸ばしているであろうポニーテール、馬の尻尾が目の下で揺れていた。
「こちらでございます」
都内でも有数の名門ホテルの従業員は、マニュアル通りの笑顔で扉を開き、部屋の中に送り込んでくれた。
部屋の中では初老の男女が一組、奥のテーブル席に座り、揃ってアペリティフのグラスを口元に運んでいた。やや薄くなった黒髪を綺麗にオールバックに撫でつけた男はグレイのスーツを着込み、白いワイシャツにダークブルーの細身のネクタイ、殆ど白くなった髪を肩まで垂らした女は、薄い紫色のツーピースにベージュのシャツ、胸元からは白地に小さな薔薇が多数プリントされたスカーフをのぞかせている。
長年連れ添った夫婦らしく、同じように品良く笑い、同じように歳を重ねた皺が眉間に刻まれていた。
夫が長年勤めて会社を定年退職した記念の二人だけの食事会、予め目を通していた資料から得ていたイメージに二人の姿がピタリと重なっていた。
小さく会釈をして窓側のテーブル席から離れた部屋の中央に置かれた椅子に腰を降ろした。
テーブル席の男性がこちらに向かって、グラスを持った右手を慣れた手つきで顔の高さに掲げた。
譜面カバーを開いて譜面台の上に置き、左足を足台の上に乗せてから、小さくAmの和音を全ての弦を使って鳴らした後、ゆっくりと息を吸って一曲目の演奏を始めた。
曲目はスペインの作曲家フランシスコ・タレガ作曲の「アルハンブラ宮殿の思い出」、近代ギターの祖といわれているタレガが、スペインのグラナダ市南部に連なる丘の上にそびえ建つアルハンブラ宮殿の印象を込めた曲である。美しいメロディーが右手によって作り出すトレモロによって奏でられる、クラシックギターの中では最も広く知られている曲の一つだ。
ギター曲の中では中級程度の難易度とされているが、雑音を出さず、ゆったりとしたテンポを維持しながらメロディーと低音のバランスを保つのは高度な技術を要する。
テーブル席の二人の前には前菜のサラダ運ばれて来た。
二人だけの晩餐会、城島の弾くギターの音はその空間に花を添えるBGMとしての役割だ。
通常のコンサートとは違い、BGM、Back Graund Musikは文字通り背景としての音楽である。それ故に耳触りな音、雑音は極力出さないように努めなければならない。
ギターは他の弦楽器とは異なり、指板にフレットがあるために、音程の狂いがない反面、左指の押さえそこない、右指のミスタッチ等が原因のビレ音が出やすく、ミスの目立つ楽器である。
また、ミスとは言えないまでも、左指のポジション移動の際、指が弦を擦る音も雑音となる。それを最小限に抑えるために、城島は左手を移動する際わずかに左手の指を弦から浮かせている。
曲調がマイナーからメジャーへと変わり、荘厳なアルハンブラ宮殿の風情が表される。最後は再びマイナーに戻り、静かな曲調で終曲となる。
二曲目以降もクラシックやジャズのスタンダードナンバーから静かな曲調のものを選び、食事がメインの肉料理からデザートへと進んで行くタイミングで、二人からリクエストされていた「愛のロマンス」(一般的には「禁じられた遊び」という名前で知られているが、それは映画のタイトルであって、こちらが正しい曲の題名)を弾き、最後にロベルト・シューマン作曲「子供の情景」より第七曲「トロイメライ」を情感を込めてゆっくりと弾いた。邦題で「夢」と表記される美しい曲。それは城島から二人に対する祝辞であった。
最後の和音を弾き終わり、四十分の演奏が終了した。
静かに立ち上がり頭を下げた。
「素敵な演奏だったわ」
「そうだな」
BGMとしてのギター演奏に満足していることは、多くの賛辞よりも二人の柔らかな笑顔が物語っている。
無言で閉じた譜面カバーとギターを手に部屋を出た。
控え室に戻り、手早く着替えを済ませ、楽譜の整理をしていると、先程の楽しそうに食事とギター演奏を楽しんでいた老夫婦の様子が甦ってくるが、そつなく演奏がこなせたことについては、特に嬉しいという感情はない。当たり前に出来るはずのことが当たり前に出来た。唯それだけのことだ。
窓の外のビル並木にはすっかり夜の戸張が幕を降ろしていた。
ギターケースを肩に背負い、着替えの入ったスーツケースを片手にエレベーターを降りエントランスに出ると、先程城島を案内した女性が受付のカウンターで微笑んでいた。そちらに向かって軽く頭を下げて、出口へと向かった。
ホテルの入口に面した幹線道路を走る車の熱気が一気に襲いかかって来る。
携帯電話を取りだし、登録されている番号から一つを選び出し通話のボタンを押す。
コール音が四つ鳴ったところで、相手が出た。
「城島さん、演奏は予定通りに終ったのかしら」
電話の相手、KK音楽事務所のマネージャーであり、城島の上司でもある川村亮子のハスキーな声がした。
「はい、問題なく」
「そう、お疲れさま。いいお客さんだったでしょ」
「はい、素晴らしく」
「ああいうお客さんばかりだと苦労はないわね。今日はこのまま帰るでしょう?」
「ええ、そのつもりです」
「じゃあ、マンションのパソコンにメールを入れておくから確認してね」
「分りました」
携帯電話を上着のポケットにしまい、交差点の信号を駅に向かって早足で歩き出した。
京王線を明大前駅で下車し、徒歩で十分、甲州街道沿いにあるマンションに辿りついた時には、時計の針は夜の十時をやや過ぎたあたりだった。
部屋に入ってまずはリビングの座卓の上に置かれたパソコンの起動スイッチを押し、シャワーを浴びるために浴室に入り、服を脱いだ。
浴室から出ると、パソコンがパスワードの入力画面になっている。冷蔵庫から取り出したビールのプルトップを引き上げてから、パスワードを打ち込みエンターキー押し、バスタオルで体を拭きながらビールを思い切り呷った。
渇き切った喉に心地好い刺激が通り過ぎて行く。
ウィンドウズの画面からメールソフトを立ち上げ、着信メールをチェックする。数本のプロバイダからの告知メールに混じってKK音楽事務所からのメールを見つけ、それを開いた。
先程電話で話した川村亮子からのメールだった。
簡単な挨拶の本文にファイルが貼付されている。ダブルクリックして開くと、来月のレッスン予定と題された書類が画面に表れた。
城島のKK音楽事務所での主だった仕事は、カルチャーセンターの講師である。その講座の内容は、楽譜の浄書、つまりはコンピューターによる楽譜の作成であり、ギター演奏は月に数回の臨時の仕事に過ぎない。
プリントアウトした書類をビールを飲みながら眺める。平日に二日間休みを取っているが、それ以外の曜日には昼から夕方六時までの時間帯の七割方にレッスンが組み込まれている。レッスンは午後に限られているが、午前中はレッスンに使用する教材、生徒が講座をステップアップする際の考査のためのテストの作成に追われる。実質的には休みの殆ど取れない日程なのだ。
ビールを片手にキッチンへと移動し、冷蔵庫の冷凍庫から取り出した製氷皿の氷をアイスペールにあけた。
ロックグラスとアイスペール、流し台に置きっ放しになっている飲みかけのバーボンのボトルをトレイに乗せ、冷蔵庫からオイルサーディンの缶詰を開け、タッパに作り置きしてあるザワークラフトを小鉢に取り分ける。一人きりの侘しい晩酌のつまみとしてはこれで充分だ。
再びテーブルに腰を降ろして、氷を浮べた琥珀色の液体をゆっくり口に含んだ。口の中から鼻先へとバーボンウィスキー特有の甘い香りが抜けてゆく。
パソコンの脇に無造作に置かれてあった鞄の中からCDを一枚取り出した。数日前に川村亮子から「若手ナンバーワンの演奏だから聞いておいて」と言われ、手渡されていたものだ。
パソコンと反対側の壁際に置かれたコンポのカバーを開いて、中にセットした。プレイのボタンを押してグラスの中のバーボンをゆっくり飲み下す。
CDのケースを見ると、そこにはアルハンブラ宮殿をバックに一人の若い女が赤いドレスを着て、ギターを弾いている画像がプリントされている。オビには「○○ギターコンクール最年少優勝」「日本人初の快挙」「次世代を担う若き才能」とあらゆる賞賛の言葉が羅列されている。
スピーカーが振動して、ギターの音が流れて来た。ジャケットの中でギターを構えている女の顔をもう一度良く見てみる。
まだあどけなさの残る顔立ち、ノースリーブのドレスから伸びた細い腕、指板が大きく見えてしまう小さな掌の割にはすらりと伸びた指。だが、スピーカーから流れてくる音はそんなジャケットの画像からは想像も出来ないものだった。
曲目はギター弾きにとっては古典的なレパートリーであり、城島が今日弾いた曲「アルハンブラ宮殿の思いで」「愛のロマンス」等聞き憶えのあるものばかりであったが、お世辞にも美しい音とは言い難く、テンポ、リズムの定まっていない、ひたすら極限まで早弾きをしている、そんな印象しかなかった。
ーこれは音楽ではない、唯の曲芸だー
やはりこの程度か。それ以上は聴く気になれず、CDをコンポから取り出して、ケースに収納し、鞄の中に放り込んだ。
グラスにバーボンを注ぎ足し、コンポの電源を切って小さく溜息をついた。
テレビの電源を入れ、グラスを口に運びながらチャンネルを回し、ニュース番組を見ていると次第にまぶたが重たくなり、服を脱いでリビングの奥にある寝室のベッドに潜り込み、明日の予定について考えようとしているうちに、何時の間にか眠りに落ちていた。
携帯電話のアラーム音で目が覚めた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
掛けていた布団から手を伸ばして携帯電話のアラーム音を止めた。
ゆっくりと起き上がり、大きく伸びをした。一人でダブルベッドに寝ていても、何時もの癖で左半分の掛け布団に寝乱れはなく、シーツも皺一つなく綺麗なままだ。
ベッドを降り、部屋着にしている黒いポロシャツとコットンパンツを身に付けてから、マグカップに牛乳を入れ、それを電子レンジで温める。
トイレと洗顔を済ませ、その間に温め終わった牛乳にココアとインスタントコーヒーの顆粒を大きめのスプーンで二杯ずつと、少量の蜂蜜を入れて良く掻き回し、もう一度電子レンジで温める。
城島の朝の定番、簡易式カフェオレの出来上がりだ。
パソコンの電源を入れ、WEBで配信されているニュースペーパーを閲覧した。幼児虐待、通り魔等、不景気の世相を反映しているせいか、暗いニュースが多い。新着の記事だけ目を通して、エクスプローラを閉じた。スポーツや芸能ニュースを見ることはしない。何故なら、仮に見たとしても誰が誰だか全く区別がつかないからだ。
マグカップを夕べ使った食器と一緒に流し台で洗い、電動シェーバーで髭を剃り、出勤するための身支度を始めた。
部屋を出て、駅まで十分の距離を歩く。井の頭線に乗り込んで十分ほど揺られると吉祥寺駅に着く。城島の勤めるKK音楽事務所は駅前の吉祥寺パルコの裏手にある一フロア五十坪はある雑居ビルの四階と五階のフロアを賃貸していた。
城島は自分のデスクのある四階まで階段を使って上がって行った。
腕時計の針は二時五十分を差していた。
本日二こま目のレッスンが始まる時間だ。このレッスンの受講者は十人、その内八人が女性である。
浄書とは作曲家やアレンジャーによって手書きされた楽譜を、パソコンを使用してデジタル化する作業だ。したがって、パソコンの知識だけではなく、楽譜を表記できる程度の音楽の知識も必要とされる。
城島の講座の受講者の殆どが音大の出身者だ。
わが国における浄書とは元来、職人がカラス口と呼ばれる製図道具と定規を駆使して五線を書き、その上に音符を型取ったスタンプを押印していく、職人仕事であった。それが二十年程前にパソコンによる浄書用のソフトが開発され、凡そ十年の移行期間を経て、現在では商業用に販売されている楽譜のほぼ百パーセントが、パソコンによって作成されたものとなっている。
手書き浄書の時代、日本のスタンピングに対して、西欧では彫金による浄書が主流であった。具体的には、銅版に彫刻刀のような刃物で五腺を引き、音符や音楽記号の形をした金型をハンマーで打ち付けるというやり方で、日本と同様に職人気質で知られるドイツ製のものが最も精度が高いとされていた。
見た目の美しさ、正確さを求められる浄書の世界で、日本のスタンピング製のものは品質が高く、海外からの注文も珍しいことではなかった。
二一世紀に入り、全ての楽譜がデジタル化された現在でも、日本が世界に誇る職人の技術に追いつき、更にはその上を目指して楽譜浄書のプロを育成すべくコンピューターを使っての楽譜製作の講座は数多く存在する。だが、その殆どの受講生が仕事をするレベルに到達する以前に講座を離脱している。主な理由はその精緻な作業故の煩わしさにある。
楽譜を必要とするのは言うまでもなく楽器を弾く演奏者である。その演奏者がいかに見やすく、美しい楽譜を作るということは、罫線の太さといった簡単なことから音符の符尾の長さの調節といった細部にいたるまで手書き時代からの技を熟知していなければならず、テキスト入力と大した違いがないと思って安易に講座を受けに来る者にとって、ハードルの高い、正にパソコンを使用しての職人仕事なのである。
その一方、高い専門的知識と技術を必要とされる仕事でありながら、その報酬は驚く程に安価である。
勤務形態としては、出版会社にするよりも在宅での賃仕事(出来高払い)が多く、その報酬は難易度によって異なるが、初心者用の音符の少ないものでは、ページ単価が千円を割ることも珍しいことではなく、製作に費やす時間を考えれば、巷のコンビニや弁当屋でパート仕事をするよりも低賃金である。安くない受講料を支払ってまで浄書の技術を習得しようとする理由、それは子育てをしながら在宅でも出来る仕事であること、音楽に携わる仕事が出来る、この二点に尽きる。
したがって、受講生の殆どはさほど高賃金を期待していない主婦となる。音楽大学を卒業した後、結婚をして子供が生まれ、でも何か家庭で出来る仕事、それも音楽に関わることで収入を得たいと考える主婦にとっては、悪くはない仕事である。
城島は人数分のテキストを携え、準備室を出て、レッスン場へ向かった
「城島先生、この後の御予定は?」
全てのレッスンを終え、今後の予定をパソコンに入力していた城島に声を掛けて来たのはヴァイオリン課の講師、岩本富男だった。城島と歳が近いせいもあって、顔を合わせると気軽に声を掛けてくる。弾いている楽器はヴァイオリンだが、声のトーンは低めのバリトン、それも長年熟成を重ねたウィスキーのように芳醇な深みのある、琥珀色という表現がぴったりの艶のある声だ。
「特にないですよ、何も。いつものことです」
「だったら俺と付き合わないか。渋谷にいい店を見つけたんだ。安い割にかわいい娘が揃ってる。今日は臨時の収入があったから奢るぜ」
肩に音楽家のものとは思えない分厚い掌が置かれた。
「いいですけど、あまり遅くまでは付き合えませんよ」
「構わないよ。ちょっと一人じゃあ行きにくい店でなぁ。店に入る時に一緒に来てくれればいい。後は先生に任せる」
城島はパソコンのスイッチを切り、ストライプの入ったグレイのスーツの上着を羽織った。
「ところで茉莉絵さんは帰って来たのかい?」
テーブル席に案内され、腰を降ろしたとたんに岩本が口を開いた。まだオーダーどころか、店の女の子さえ席に来てはいない。
「いきなりですか。相変わらずイントロがないんですね」
「無駄なイントロは嫌いなんだ。で、どうなんだい」
「まだ戻ってはいませんよ。戻っていたら今頃岩本さんと二人でこういう店に来ていませんよ」
「今回は長いな。そろそろ二週間か。いよいよ愛想をつかされたか」
「いや……」
城島が次の言葉を言い掛けたところで、テーブル席にホステスが二人割り込んで来た。
「あら、こちらのお兄さん初めて?」
岩本の脇に座った赤い髪を肩まで伸ばした、二十歳前後の欧州系だろうか、白人の女がたどたどしい日本語で言った。
「そうだ、中々いい男だろ。まぁ、俺ほどじゃあないがな」
岩本が白い歯を見せて笑った。彼の言う通り、百八五センチの長身に、均整のとれたスリムな肉体、彫りの深い端正な顔立ちに、少し癖のある髪を綺麗にオールバックに撫でつけ、男から見ても惚れ惚れするような容姿をしている。
「このお嬢さんが俺のお気に入り、カテリーナ、イタリアンだ」
岩本がカテリーナ背中に手を回した。
「知っての通り、俺は何分の一かはイタリアの血が入ってるからな。祖国を思う、望郷の念というやつだな」
全くの意味不明である上に、岩本の祖先にイタリア人がいたという話は聞いたことがない。
「岩本さん、この前ロシアンパブに行った時に、ロシア人の血が入ってるって言ってませんでしたか」
「しっ、そんな細かいことはどうでもいいんだ」
岩本が一本だけ伸ばした人差し指を唇に当てた。
岩本にとって、世の中の殆どの理論は自分が女性にもてるためだけに存在しているのだろう。それに反論がない訳ではないが、今日のスポンサーに敬意を払い、何も発言はしないでおく。
岩本は店で最も高価と思われるブランデーを、まるでウーロン茶のように口に流し込んでいる。城島は自分も酒好きであるため、多くの酒豪を見て来たが、今目の前にいる男ほどアルコールに強い人間を他に見たことがない。このとてつもない早いペースでのアルコール消費がこれから二時間は続くのだ。その結果として、岩本一人でブランデーのボトルを少なくとも二本は空にする。
「ところで、今日の臨時の収入というのは、本業の方ですか、それともアルバイトの方?」
「本業じゃないよ、アルバイトの方だ。ヴァイオリン一回弾いただけでこの店に来れる程、俺はボッタクリの商売はしてないぜ」
岩本の父親は都内で法律事務所を経営する弁護士である。しかも、かなりのやり手だと業界では有名人であるらしい。
法律事務所の仕事には刑事事件であろうが、民事訴訟であろうが、裁判で勝つための念密な調査を必要とする。岩本の言うアルバイトとはその調査を行う臨時調査員、つまりは探偵のことだ。
「また浮気の調査とかですか」
「まぁ、そんなところだ……。いいだろ、そんなことはどうでも。そのおかげでこうして綺麗なおねえちゃんと一緒に酒が飲めるんだからな」
言いながら、グラスに半分残っていたブランデーを一気に呷った。
岩本の探偵としての技量がどれだけのものかは分らないが、こうして御相伴に預かれるのだから、文句を言える立場ではない。
岩本の探偵としての技量は定かではないが、音楽家としての才能ならば熟知している。
城島の知る限りにおいて、岩本の音楽家としての才能は生半端なものではない。天才と言っても差し支えがない程だ。
高い身長に比例してすらりと伸びた長い指は、柔軟さと力強さを合わせ持ち、不可能な動きなどないかのように、ヴァイオリンの指板の上を、まるでダンスを楽しむかのように華麗にステップする。どんなに難しい曲もこの男の手に掛かれば、初心者用の練習曲のような難易度にしか見えない。
城島も岩本と出合う以前はヴァイオリン独奏曲をギター用にアレンジしたものを何曲かレパートリーに入れていたが、岩本の演奏を聞いて以来、それらの曲の演奏をレパートリーから外してしまった。それは意図してやめたというよりも、感覚的に弾く気が全くなくなってしまった。どんなに頑張ったところで敵うはずがないと思ったのだ。
意外ではあるが、岩本にはその技量に反してコンクールの受賞歴が全くない。受賞歴どころか、コンクールに出場したことさえない。岩本ほどの実力があれば、国内の主だったコンクールの入賞など造作もないことだと思われるのだが。一度そのことについて本人に訊ねたことがある。その答えは「コンクールで入賞することに何の意味がある?」だった。
岩本に言わせれば、世の中で最も非生産的な生き物が評論家と呼ばれる人種だそうだ。創作者にたかる寄生虫にも等しく、役に立たないこと畑の土の中にいるミミズにも劣る。そのような評論家が審査委員を努めているコンクールに出場する気など更々なく、演奏を評価されるなど以ての外だという
その音楽の才能を発揮することなく、カルチャーセンターの講師という立場に甘んじていること自体が、勿体ないを通り越して罪悪のように城島には思えてならないのだが、所詮は金持ちのお坊っちゃんの道楽でしかないのだろうか。それとも城島には伺いしれない秘めた思いがあるのだろうか。何の根拠もないことではあるが、そのようなものは全くないようにというのが、一番可能性が高いような気がする。
「ところで、マエストロ、最近愛器の調子が悪いって言ってたが、その後はどうなんだい」
城島をマエストローイタリア語で巨匠という意味ーと呼ぶのは、酔いが程よく回り、ギアがセカンドに入った証拠だ。
「ええ、そろそろ使い始めて二十年近いですからね。ペグ、指板、その他諸々大幅なリペアが必要な状況ではありますが……」
「時間と金が掛かるってことだな」
「そうです、表面板の塗装を塗り直すだけでも二ヶ月は掛かるでしょう。フレットを打ち直してネックの剃りを直すとなると」
城島の所有しているギターは、スペインで最も広く知られているホセ・ラミレス一本のみである。その一本がリペアのために手元を離れれば、その間演奏の仕事が出来なくなる。
「そうか、替わりのギターが必要になるなぁ。俺にも何か出来ればいいんだが、生憎ギターのことは、まるで分らねぇからな」
ギターに限らず、楽器選びは専門的な知識、楽器を弾く技術を持つ者にとっても、難しいことである。世間では一般的に、優れた演奏家は良い楽器を持っているというイメージが強いが、それは逆だと城島は思っている。良い楽器を持っている者が優れた演奏家になれる資格を持つのだ。
「うちのカルチャーセンターにギターの講座がないからな。管楽器講座の伴奏用のギターではだめなのかい」
岩本にとって、城島の所有しているギターと、カルチャーセンターの貸しギターの違いなどは、イタリアとロシアと比べれば、全く気にするほどのことではないのだろう。
城島は苦笑するしかなかった。
城島の所有しているギターは一般に楽器店で販売されているものとは、外見からして違う、「エリート」と名付けられた、特別なものである。
外見の大きな違いは、そのヘッド部分にある。通常のラミレスには何の模様も施されていない。それに対して「エリート」は金色の楓の葉のマークが埋め込まれている。そして、サウンドホールの中を覗くと、ホセ・ラミレスと印字されたラベルの下にシリアルナンバー、そして[CLASS ELITE」と書かれたもう一枚のラベルが貼られている。使用されている木の材質、塗装の方法、製作に掛けられた時間、価格、全てが一般のものとは違う、文字通りの「エリート」なのだ。
「ヴァイオリンの場合、そんな心配はないんですか」
「俺のヴァイオリンは我が家の専用楽器管理室でお休み中だからな、そんな心配はまずないね。ギターとは違って、三百年くらいは平気で使える楽器だからな」
しなければ良かった質問だった。城島は再び苦笑した。ギターとは違い、ヴァイオリン族(ヴィオラやチェロを含める)は数十年に一度のリペアと、日常的に適切な管理(湿度、温度等)を行えば、人間の寿命よりも遥かに長い期間の使用に耐えることが出来る。現に世界最高の名器とされるヴァイオリンのストラディヴァリウスは、作成されてから二百年以上の月日を経ている。
「でも、何とかなりますよ。ギター製作家の知り合いもいない訳じゃないし。代替えのギターくらい大丈夫でしょう」
「ふーん、ならいいんだけどな」
岩本がカテリーナの肩を抱き寄せ、ブランデーのボトルから最後の一滴をグラスに注いだ。
黒服の若い男がすかさず新しいボトルを手にテーブル席に表れた。城島は既に帰るタイミングを逸していることを悟った。
古びたギターを手に取って表面板、裏板、側面と時間を掛けて観察しながら、竹内は困惑していた。
傍らには、刊行されたばかりのクラシックギターの専門誌が置かれている。開かれたページには、フラメンコギターのカタログが掲載されているが、今自分が手にしているものとは、あまりにも見た目が違うのだ。
カタログの中の写真で見るフラメンコギターは、全体が黄色みを帯びた色であり、木の厚さが薄く、軽いのだという。材質は糸杉という木を使用し、艶やかな塗装が施されている。
竹内の手にしているギターは全体が茶色い色をした、如何にも古ぼけたクラシックギターである。只、表面板の右手が当たりそうな部分にゴルペ板という透明なアクリル板が貼られていることだけが、このギターをフラメンコギターたらしめている、そうとしか考えられなかった。
表面板のサウンドホールの中を覗いても、手工製のギターだけに限らず、一本数千円の量産品のギターにも必ず貼られているはずの製作者、もしくはメーカーを示すラベルがないことも解せないことの一つだ。
何処のメーカーが作ったのか、作られた時期は何時なのか、全く見当がつかない。唯、全体に古びていることから、十年以上前に作られたのではないのか、と推察することは出来る。
このギターがこの店に来た経緯について、楽器の下取りの記録を調べてみると、およそ一月前に三千円で買い取ったギターの記録があった。店内で他に中古のギターがないところを見ると、該当するのはこのギターなのだろう。
アルバイトの店員に確認をすると、売りに来たのは、暗い感じの学生風の男で、いくらでもいいから引き取って欲しいとの要望だったので、試しに「三千円でどうですか」と言ってみたところ、それでも構わないとのことで、金を受け取りと、そそくさと足早に店を出て行ったという。
二日も連続して、ケースから勝手に外に出ていたという事実を、どう判断すべきなのだろうか。
いずれにしても、こんな気持ちの悪い楽器とはいち早くさよならしたい。竹内は考えられる一番良い方策として、このギターが店からなくなる状況、つまりはギターが売れてしまう状況を作ることにした。それには安い値段を付けるだけではなく、少しでも価値のあるギターに見せなければならない。
古くなった弦を新しいものに交換する、寂びついたフレットを錆び落とし落としの溶剤のしみ込んだ布で磨く(これは管楽器を普段取り扱っている知識が役に立ちそうだ)、ペグには器械油を付け、動きをスムーズにする。
竹内は半日を掛けて、ギターの「掃除」に専念した。弦の張り替えに関しては、全く経験がないため、趣味でギターを弾いたことのあるアルバイト店員に任せた。
チューナーを使って調弦を済ませ、水洗いしてシリコンを洗い流して良く乾かした楽器専用のクロスで磨くと、古い品だけに心なしか高級感が少しは出てきたような気がした。
これならば、少し値段を上乗せしても売れそうだ。
値札に一万円と書き込み、管楽器の棚の隅に立て掛けて置くことにした。
酷い喉の渇きで目が覚めた。頭の芯が痺れ、ズキズキと痛む。最悪の目覚めだ。
水を飲もうと起き上がり、自分が普段着のまま、着替えもせずに寝ていたことに気付いた。シャツもズボンも皺だらけになっている。冷蔵庫から中身が半分残っていた五百ミリのペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干す。
夕べはとうとう岩本に最後まで付き合い、部屋に帰って来たのは明け方に近かった。寝室を出て、テレビのリモコンを拾い上げ、スイッチをいれると、既に昼のニュースの時間帯となっていた。
風呂場の脱衣所でシャツのボタンを外し、ズボンを脱ぐ。下着も脱いで浴室に入り、頭からシャワーを浴びた。
暫く椅子に腰を降ろして頭から熱めのシャワーを浴びた後、シャンプーとボディーソープを使って全身を隈なくこすり上げ、再び熱いシャワーを浴びると、少し生き返ったような気分になった。
浴槽を出て脱衣所でバスタオルを使って体を拭いていると、リビングからテレビの音が聞こえて来た。
風呂に入る前に消したはずだが、とパンツを履いて脱衣所を出ると、やはりかなりの音量でテレビの音が聞こえる。おかしいな、と中を覗くとテレビの前に、おかっぱ頭の少女が座って、ポテトチップの袋を片手にテレビに見入っていた。
髪の毛を拭いていたバスタオルが床に落ちた。
「おまえ、何やってる」
ポテトチップの袋に手を入れたまま、目をしばたたせて顔を上げたのは、城島の五歳になる一人娘、加菜子だった。
「テレビ見ながらポテトチップ食べてた」
「そうじゃなくて、何時ここに来たんだ」
「さっき」
「一人で来たのか」
「ううん、お母さんが下まで一緒に来た。部屋には一人で入ったの」
小さな手でテーブルの上を指差した。そこには白い兎のストラップの付いたこの部屋の鍵が置いてあった。テーブルの脇には見覚えのある、幼児用のピンク色のリュックサックが転がっている。
「お母さんはどうした」
「お母さんは買い物に出かけたの。ロンドンって所、暫く帰れないからって言ってた」
城島の妻、茉莉絵は現在家出中である。二週間前に「ちょっと買い物に出かけてくる」というメールを城島の携帯電話に送信して以来、加菜子共々に長期の外出中で、この部屋に戻って来てはいない。
城島は携帯電話を操作して、茉莉絵の携帯電話に発信した。数回のコールの後、流れて来たのは「この電話はお客様の都合により電源が切られている、もしくは……」という抑揚のないメッセージだった。
「今日まで何処にいたんだ」
「じいじいの所」
城島の予想通りの答えだった。城島と五歳年下の妻、茉莉絵は決して不仲ではないが、茉莉絵はことあるごとに加菜子を連れて実家に帰ってしまう。台所にゴキブリが出た、スーパーの特売のプリンが売り切れていた、朝のゴミ出しを忘れた等、理由は城島には全く理解の及ばないことばかりだ。
「お母さんは他に何か言ってなかったか」
「パパに愛してるって言っといてって」
「それだけか」
「うん、それだけ」
これも予想通りのことだ。小さく溜息を付いて、タオルを拾い上げようとした時「パパ、そのパンツの柄、貧乏くさいよ」紅葉のような手が城島のパンツを指差した。
「そんな言葉を何処で憶えてきたんだ。又あの爺さんか、それともおつきの者共か」
茉莉絵の実家は資産家で知られる、御子柴家だ。
城島も結婚を前提とした付き合いをするようになって初めて知ったのだが、都内だけでも複数のビルを所有する会社のオーナー一族なのだ。そして、「じいじい」こと御子柴大蔵は、茉莉絵の祖父にして会長、今尚御子柴コンツェルンの総帥として傘下の子会社を統治する、城島の最も会いたくない人間の一人だ。
八十歳を越しているとは思えない程にかくしゃくとした身のこなし、猛禽類のような鋭い眼差し、世間では威厳に満ち溢れたでイメージで通っているが、城島には不遜の塊としか思えない。なんせ、初めて会いに御子柴の本家に行った時に、会長室に入る前に数人のボディーガードによって全身を隈なくボディーチェックをされてのだから。
そんな御子柴大蔵だが、孫娘にはからきし甘く、ねだられると、どんな高価なものでもホイホいと買い与えてしまう。
その大蔵が、一般家庭に育ち、資産と呼べるものを持たない城島と茉莉絵の結婚を赦すはずもなく、結婚の話を切り出したとたんに、烈火の如く怒り出し、屋敷からつまみ出されるところだった。
「こんな奴放り出して来い」
大蔵の下命に待ったをかけたのは、茉莉絵のぐちゃぐちゃになる程に泣きじゃくった顔と「まぁ、お父さん話だけでも聞いてあげて下さい」という父親の言葉だった。父親が婿養子であったことも幸いしていたのかもしれない。
茉莉絵は泣きながら、城島が如何に才能のあるギター弾きで、将来を嘱望されているかを話した。間もなく国際的なコンクールに出場し、必ず入賞するであろうことを必死に訴えた。
その時の大蔵の答えは「だったら、そのコンクールとやらに優勝したら結婚すればいいじゃないか」だった。しかし、コンクールに入賞することはおろか、決勝に出場することさえなかった。
それでも二人が結婚出来たのは、茉莉絵が妊娠したのを機に、駆け落ち同然に出奔したからだ。
半年、東京の郊外でひっそりとアパートを借りて暮らしていたところを、御子柴家の雇った興信所の探偵に居場所を突き止められ、連れ戻された時、茉莉絵は既に妊娠八ケ月の身重な体で、子供を産む以外の選択肢はなく。御子柴家のリビングで茉莉絵の両親を初めとする親族の前にソファーに座らされた城島に対し、大蔵は苦りきった顔をしながらも、しぶしぶ二人の結婚を承諾したのだった。
その時、城島に素早く近づき、他の誰にも聞こえないように「次は殺す」と小声で耳打ちした声を城島は未だに忘れることが出来ない。低く微かに聞こえる程度、しかし聞いた者を凍りつかせるに十分な、背中に冷たい汗をかかせる威圧感を持っていた。
「爺さんは元気だったか」
「うん、とっても」
そうだろう。恐らくは城島よりも長生きするに違いない。それどころか、何かの理由で人類が滅亡しようとも、大蔵一人だけは絶対に生き残るような気さえする。
「今度婆ちゃん会があるから、ギター弾いてくれって」
「婆ちゃん会? 年寄の会合でもあるのか」
「違うよ、人がいっぱい集まるの」
「年寄の集まりか」
「ううん、色んな人が集まるパーティーみたいなの」
吹き出しそうになった。
「それは晩餐会のことだろう」
「えっ、婆ちゃん会じゃないの」
五歳児にとって、晩餐会も婆ちゃん会もどちらも無縁なものには違いない。
それにしても、あの大蔵が自分に晩餐会の演奏を頼むとは……嫌がらせだ、唯の嫌がらせに決まっている。
城島がコンクールに出られなかったのは、偶々都合が悪かったからではない。まして、ギターの演奏技術が拙いからでもない。
城島がコンクールの予選に勝ち残れなかった理由、それは彼が極度の上がり症だったためだ。
御子柴の家に連れ戻されてから、三ケ月経ち、加奈子が生まれて間もない頃、城島と茉莉絵は漸く都心のマンションに三人で住むことを許されていた。
予定通りにコンクールの予選に出場した城島は、会場である新宿G会館の小ホールで演奏の順番が近づき、そろそろ精神を集中させようとしている時、気が付くと何時の間にか城島の座る椅子の脇に、スーツ姿の御子柴大蔵が立っていた。相変わらず後ろには数名のボディガードを引き連れ、冷ややかな目つきで城島を見下ろしていた。
大蔵は静かに城島の傍らに近づくとやおら口を開いた。
「城島君、大変だな」
口元には笑みさえ浮かべていた。
「イメージ出来るかね。成功している君、それとも失敗している君、いずれにしても、すぐに結果は出る。楽しみにしているよ。皆が君を見ているからね。いいね、皆が見ている、頑張りたまえ」
小さく、しかし威厳に満ちた声でそう告げて城島の肩をポンと叩き、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
やがて城島の演奏順となり、チューニングをしている最中に大蔵の「皆がお前を見ている」という言葉が再び甦って来た。
人前で演奏をする者にとっては最悪のプレッシャーだった。
居並ぶ審査委員を前にして、彼にとって取るに足らない課題曲を引いている最中も、皆がお前を見ている、という言葉のプレッシャーから右手に力が入らなくなり、左手が微かに震えていた、このままではいけない、気分を整えてようと審査委員の顔をまじまじと見てしまったのが更に悪かった。
十人の審査委員の目線が気になるあまりに、鼓動が速くなり、気が付くと右手までが震えていた。ギターを弾き始めて二十年以上になるが、初めての経験だった。その場から逃げ出したい、少しでも速く終らせたい、それが更なる焦りとなって音がうわずった。鼓動に合せてこめかみが引き吊り、視界さえもぼやけた。
あの時の感覚を忘れはしない。いや、忘れたくとも一生忘れることなど出来はしないのだろう。
それが城島の最初で最後のコンクール出場となった。結果は発表を待つまでもなく、あえなく予選落ち、最悪の結末だった。
子供の頃から人前でギターを弾くことは、どちらかといえば苦手だった。緊張するタイプだった。それを練習量と演奏前に音楽に集中することで補っていた。それが、あの、集中することを邪魔された上に人の目が恐ろしいということを認識させられてしまった。人の目が気になってギターをまともに弾くことが出来ない、という呪詛を大蔵より与えられたのだった。
自分で自分をコントロールすることが出来ないことに限界を感じ、メンタルクリニックに救いを求めたのはそれから一月後のことだった、詳細な診察を終えた医師が城島に下された病名はパニック障害だった。
竹内が古びたフラメンコギターをショーケースに並べた翌日、その客は店に訪れた。
そろそろ閉店の準備をしようかという時間、その男はふらりと入口から入って来た。
「いらっしゃいませ」
儀礼的に声を掛けたが、それに対する反応は何もなく、ひたすら陳列されている楽器を入口の方から順番に眺めていた。
通常、楽器店に入ってくる客は目当ての楽器、例えばクラリネットならばクラリネットしか見ないものだが、その男は端から全ての楽器をゆっくりと、時間を掛けて眺めていた。
三十歳を少しばかり越えた辺りだろうか、身長が高い。恐らくは百八十センチを軽く越えているだろう。一見してオーダーメイドと分るグレイのスーツに黒のタートルネックのシャツを着込み、癖のある短めの髪を綺麗にオールバックに撫でつけた、並の容姿の者がすると気障としか思えない格好が、嫌味なほどに似合う端正な顔立ちをしていた。
普段ならば「早く帰れよ」もしくは「何か買って行けよな」と心の内で思うことを忘れさせてしまう、それほどに「様」になっていた。
猫科の動物を思わせるしなやかな歩き方、両手をズボンのポケットに入れながらじっと楽器に見入っている様は、それだけで充分に鑑賞に耐えられる絵画のようだ。
「このギターを見せてくれるかい」
何時の間にか頬杖を付いていた竹内に、男が声をかけて来た。それは低めの艶のある声だった。竹内はショーケースの鍵を持って行くと、男が指さしていたのは例のケースから何度も出ていたフラメンコギターだった。
「このギター、この値段でいいのかい。一桁違うんじゃないのか」
馴れ馴れしい口調で話しかけられて「はい、間違いないです。一万円です。ケースも付きますよ」と答えた竹内に「ふーん、ならいいんだけどな。念のために聞いただけだ」と男は小声で返した。
ギターを手渡された男は表面板に目を近づけ、天井の蛍光灯に色々な角度からギターを向け、先程までとは打って変わった鋭い眼差しで、たっぷりと時間をかけて眺めていた。
「あの、弾いてみますか」
竹内の問いかけに「あいにくとギターは弾けなくてね。友人のために買って行こうと思ってるだけだ」男は笑って返した。何とも言えない人なつっこい、もう一度見たくなるような堪らなくいい笑顔だ。
「じゃあ、これ頼むよ」
「はい、ありがとうございます」
もしかすると、もっと価値のあるギターだったのだろうか。しかし、今となってはそれを確かめる術はない。男に言われるままにギターを売るしかなかった。当たり前のことだ、値段を付けたのは竹内に他ならないのだから。
ケースに入れられたギターを手に、男は現金で支払を済ませ、足早に店を出て行った。
今起こったことが現実のことなのだろうか、暫くボォーっとしていたが、ふと我に返り、あのギターがショーケースからなくなっていることを確認すると、ゆっくりと閉店の準備を始めた。後には微かにコロンの甘酸っぱい香が漂っていた。
「ちょっとギターを買ってみたんだけど、弾いてみてくれないか」
一日の講習を終えて、講師用の事務室でパソコンにデータを入力している城島の肩越しに琥珀色のバリトンが響いた。
「買って来たって、岩本さんが?」
キーボードを叩いていた手を止めて、振り返った。
「そうだよ。中々の掘り出しものだと思うんだがね。どうだ、弾いてみないか」
岩本が大きな体を折り曲げるようにして、城島の方に屈み込んでいた。
どう考えても岩本にギターの目利きが出来るとは思えない。しかし、ヴァイオリン弾きとしての彼の腕前を考えれば、良いギターを選ぶことなど造作もないことなのかも知れない、そう思わせる何かを持っていることだけは間違いがないのだ。
「今日、俺のレッスン場に持って来ている。ちょっくら弾いてみてくれや」
岩本が白い歯を見せて笑った。この男にこんな顔をされて断れる者など、女は勿論、男にだっているはずがない。
「分りました。今から伺ってもよろしいですね」
「ああ、今日はもうレッスンが入ってない。ゆっくり試し弾きしてくれ」
はい、と答えて、大きな背中の後に続いて事務室の扉をくぐった。
「岩本さん、そのギターはどちらでお買いになったんですか」
「ああ、昨日ふらっと立ち寄った楽器屋で見つけた。楽器屋の名前なんか憶えちゃいない。そんなことは、どうでもいいことだ」
確かに岩本にとっては、楽器屋の名前など、どうでも良いことなのだろう。
大きな背中に続いて事務室の扉を出た。廊下を左に曲がると拘置所の独房を思わせる(勿論、そんな所を見たことはない。あくまでもイメージだ)レッスン室が並んでいる。
その中の一つの扉を開けて中に入った。まず目に入るのは、真正面の本棚にぎっしりと並んでいるヴァイオリンの教則本、曲集の類だ。
その本棚の脇に黒い色の古いギターケースが立てかけられていた。
岩本がケースを床に置き、蓋を開いて城島の顔を見上げた。
「このギターの塗装を良く見てくれ」
城島も屈み込んでギターに顔を近づけた。全体から受ける印象が量産品とは明らかに違う、艶消しの様にくすんだ色合いである。
「この塗装はもしかすると……」
「そうだ、これはセラックニスだ。間違いない。こんな塗装のギターが只同然で売ってたんだ。信じられるか?」
木材が原料のギターには、当然のことだが塗装が施されている。楽器の塗装には大気から楽器を保護し、湿気から木材の腐食を防ぐという役割がある。しかし、楽器に施された塗装の役割は、木材を保護する、美しく見せるだけではない。塗装はギターの音に大きな影響を及ぼす。
ギターの塗装には主にラッカー、カシュー、ウレタン、セラックの四種類があり、その中でラッカー、カシュー、ウレタンは原料が樹脂の塗料で、装膜が丈夫で耐用年数が長く、安価で作業性も良いことから、量産品のギターに施されている。
それに対しセラック塗装は、ラック虫と呼ばれるカイガラムシの分泌液を原料とし、それをエタノールに溶かし、刷毛ではなくタンポンを使って三百回程塗り重ねる原価も手間のかかる塗装技術である。しかし。その厚みは二十ミクロン~三十ミクロンで、他の塗装方と比較して十分の一程度と薄く、材料の木材が「呼吸」出来る塗装として、ギターの音質を最高のものとし、また楽器の寿命を長くする塗装とされている。しかし、その薄さと樹脂系のニスに比べて柔らかいが故に、水滴のシミが消えない、湿った手で触ると指紋がそのまま残ってしまう、高温多湿な条件下に長時間おかれていると、溶けてしまう等、その塗装が施されている楽器は、非常に取り扱いが難しいものとなってしまうのだ。
「でも、このギター、ゴルペ板が付いてますね」
城島がギターのボディに貼られた透明の板を指差した。
「ああ、この板のことか。こいつは何のための板なんだ?」
「ええ、普通はフラメンコギターに貼ってある板ですね。ラスギャード奏法から表面版を守るための板です。でも、普通のフラメンコギターとは何か違うような……」
「フラメンコギターって、あのジャカジャカやるやつか。それじゃあ城島先生が弾いてるギターとは、大分違うのかい」
「いや、フラメンコギターの中には、クラシックギターと区別のつかないものもありますからね。それに、このギターに張ってある弦はフラメンコ用のもののようだし」
フラメンコ用ギターとクラシックギターの弦の違いを、城島は詳しくは知らないが、クラシックギター用の弦が一~三(ギターを構えて下側から一、二、三となり上に行くにしたがって音程が低くなる)がナイロンの透明な弦が張られているが、今目にしているギターには、三弦にナイロン製だが白い巻き弦(クラシックギターの四~六弦のように糸やナイロン製の芯の回りに細いナイロンを巻き付けてある弦で、フラメンコ特有の軽い、乾いた音を出すための弦)が張られている。
「このギター、ラベルがないですよ」
城島がサウンドホールを覗いたまま言った。
「そうだな、俺もそれは気が付いていた。つまりそいつは名なしのなんとかだ」
「そうですね。ラベルがないということは、まず有り得ませんからね。ここを見ても貼ってあった形跡もない」
通常のギターのラベルが貼ってある場所には、糊の跡等のラベルが貼られていた形跡すらない。
「何か考えられることはあるか」
「ええ、ラベルを貼るようなプロではない、つまりはアマチュアが作った楽器にはラベルがないでしょうが、このギターの塗装からして、それはないでしょう。次に考えられるのは、ラベルを貼る前に売りに出された、つまりは完成前ということですが、これも有り得ませんね。ラベルだけを貼らずに売りに出すことは絶対にないと思いますよ、いくらこのギターの出来が悪いにしろ」
城島がそう言い放った時、左手に微かに振動が伝わって来た。慌てて左手を見たが、他人の視線がない現在、自分の左手自体が震えることはない。では何故震えたように感じたのだろうか。少し考えたが答えは出そうにない、こういう時真面目に考えても仕方がない。いつものように気のせいだということにして、深く考えないことにした。
「それじゃあ、ちょっと音でも出してみるかい」
「そうですね」
城島がギターを手に取り、足を組んでからいつものように構えた。左手には湿気った木材を触るような感触がある。取り敢えずチューニングをするために、Amのコードを鳴らし、チューニングを整えて、簡単な練習曲を弾いてみる。弦は張り替えたばかりのようだが、鳴りが悪く、音程が酷く狂っている。長い期間、弾かれていなかった楽器の特徴が表れていた。練習曲を弾いていた左右の手を止めて、サウンドホールの中を覗き込んだ。
「作られてから大分年数は経っていそうですね」
「どれくらいだ」
「二十年から三十年の間といった所でしょうか」
「何だ、そんなもんか。それじゃあ、昨日今日じゃねえか。年代物の内に入らねえな」
ヴァイオリンは現在の形に確定してから、凡そ三百年の月日が経っている。それに対し、ギターの歴史は浅く、十九世紀から二十世紀にかけて、楽器の根本的な形、大きさを変えることが起こった。それは、ギターの神様と呼ばれた二十世紀最高のプロギタリスト、アンドレス・セゴビアの存在が大きく影響している。
十九世紀以前のギターは、歌や他の楽器の伴奏という用途での使用が多かった。それをセゴビアは独奏用の楽器としての地くらいを確立するために、ギター製作家に進言をして、大きな芯の有る音の出せる楽器を作らせ、それが現代では一般的に言う、ガットギターとなった。
そのため、ギターは現在の姿形に成ってから百年に満たない「若い」楽器なのだ。
現に博物館等に陳列されている十九世紀ギターは、ボディも指板も現代のものと比べて、一回り小さく、出せる音も半分程度である。
「ギターではかなりの年代物ですよ。人間で言えば、中年はとっくに過ぎてます」
「そうなのか、もう爺さんか。なら、買わない方がよかったか」
「いえ、そんなことはないですよ。弾き込めば、少しは鳴るようになるかもしれないし、預からせて貰いますよ」
「ああ、そうしてくれ、そうすれば俺の労力も無駄にならなかったことになるからな」
天から与えられた素晴らしい才能を碌に使うこともなく、カルチャーセンターの講師という立場に甘んじている男に「無駄」という言葉は言われたくはない。しかし、いつもの通りに何も言わず、唯「ありがとうございます」と礼を述べるだけに留めた。
黒いギターケースを背負ってマンションに帰り着き、解錠して扉を開けると「パパお帰り」と言って、加菜子が駈け寄って来た。両手で城島の足に抱き付いている。
茉莉絵と二人で家出をする以前は、二人は常に一緒に居たために、保育所、託児所とは全くの無縁だった。それが急に城島との父子家庭になってしまったため、加菜子を預かって貰える所を見つけることが出来なかった。
本来であるならば、五歳児を一人部屋に残して、仕事に出かけるなど、常識では考えられないことなのだが、「ガスは絶対に使わない」インターフォンが鳴っても出ない」「ドアを開けない」等をきつく言いつけて仕事に出るしかなかった。
幸い、今はガスを使わずに電子レンジだけで調理できる食材が抱負にあり、冷蔵庫や冷凍庫に食材さえ居れて置けば、五歳児にも容易に食事を作ることが出来るのはありがたかった。
「お昼はちゃんと食べたのか」
「うん、カレーと野菜ジュース」
「そうか、じゃあ晩御叛の用意をしようか」
「それも加菜子がやってある。テーブルの上見て」
小さな手が指差す先には、電子レンジで温めるだけのパックの御飯、「コアラのマーチ」が並んでいた。そして、向かいの席には城島用のつもりなのか、ビールグラスの脇にポッキーが箱ごと置かれていた。
「お前、お菓子で御飯を食べるつもりか」
「これは、お通しです。おかずはこの後お持ちします」
この様子では家出以前に茉莉絵と二人でどんな店に行っていたのか、想像に難くない。
加菜子が冷蔵庫からビン入りのふりかけを取り出してテーブルに置いた。
「これが今日のメインディッシュです」
「俺のつまみはポッキーかだけか」
「贅沢を言わないの。うちは貧乏なんだから」
そうだった「うちは貧乏なんだから、これが茉莉絵の口癖だった。
貧乏の基準が世間の標準にあるのか、茉莉絵の実家である御子柴家にあるのかは別にして(茉莉絵にとっての世間一般が御子柴家であるということだってある。なにしろ世間知らずのお嬢様なのだから)、夕飯のおかずに、もう少しまともなものを食べるだけの余裕はあるはずだ。
冷蔵庫からビールを取り出し、グラスに注いで喉を鳴らしながら呷った。試しにポッキーを一本口に放り込んで見たが、流石にビールにはまるで合わなかった。
目の前では加菜子が電子レンジで温めた御飯を茶碗によそい、ふりかけをかけて食べていた。
「御飯を食べたらお風呂に入ろう。お父さんと一緒に入るか」
「うん、一緒に入る」
笑った顔はドキッとするほど茉莉絵に似ていた。こまっしゃくれた物言いは母親と御子柴家の影響だろう。
その夜、城島は加奈子を風呂に入れた後、早々に寝かしつけ。岩本から預かったギターの弦をクラシックのものに張り替え。小さな音でチューニングを確かめただけで、ベッドに潜り込んだ。
思ったよりも早く眠りにつくことが出来たが、今まで見たことのない、不思議な夢を見た、グレーのスーツに臙脂色の蝶ネクタイを締めた白人の老人が、城島に向かって、どうもありがとうと流暢な日本語で話しながら、頭を下げている。何度も、何度も。
目を見開いて周りを見回しても、白い何もない世界である、
老人は頭を下げながら、傍らに置いてあるケースに入ったままのギターを指差した。
もう一度声を出そうとして、不意に目が覚めた。目は覚めたが、暫くは夢の余韻で体を動かすことが出来なかった。
午前の部の講習が終り、岩本が講師をしているヴァイオリン教室の扉を開くと、岩本が楽器をシリコンクロスで拭いているところだった。
「よお、どうだい、調子は」
岩本の言っている調子が具体的に何を差しているのか、細かいことは分らない。恐らくは言っている本人も唯口にしただけなのだろう。
「お蔭様で、ところで昨日のギターですが、弦をクラシック用のものに張り替えました。やはりフラメンコではなく、クラシック用のような気がしますね」
昨晩、夕食の後、弦を張り変えたギターは、心なしか鳴りが良くなった。夜中であり防音の施されていない部屋で、大きな音を出すことは出来なかったが、ギターと弦がしっくり合っている気がしたのだ。
「そうかい、そいつぁ良かった。あとは城島先生の腕次第だな」
岩本が城島の肩をポンと叩いて、笑いながら部屋を出て行った。
ガットギターの弦は主にクラシック用、フラメンコ用、フォーク用の三種類がある。その大きな違いは一~三弦でフォーク用のものが鉄であるのに対し、クラシック、フラメンコ用のものはナイロン性である。フラメンコ用の中には、数は少ないが、岩本の購入してきたギターに張られていたようなナイロン性の巻き弦もある。
弦を張り替える際、ペグ(弦を張る時やチューニングをする時に回す糸巻きのこと)に楽器用のジェル状のオイルを付け、ドライバーを使ってネジの緩みも直した。
ゴルペ板に関しては、四隅を両面テープで貼り付けているだけのように見えたので、試しに端の内側にそっと爪を入れて持ち上げてみると、思った通り簡単に剥がすことが出来て、テープの跡がほんの微かに残っただけだった
テープの跡はそのままにして、全体をクロスで拭いて壁に立てかけると、初めて見た時の違和感が消えたように思えた。
その後ベッドに入る前にケースにしまい、今朝も部屋を出る前に取り出してチューニングを直して来た。ひと晩経つと弦とギターが更に馴染んだのか、音の立ち上がりが良くなったように感じた。弦を右手で弾いた後の音の出るタイミング、それをギター弾きは「音の立ち上がり」と呼ぶが、これはあくまでも弾く者の感覚であって、数値で表せるようなものではない。恐らくは百分の一秒にも満たない時間差なのだろうが、楽器弾きにとっては大きな違いなのだ。例えば、ゆっくりとした曲を弾く場合は殆ど影響は出なくとも、早いパッセージを弾く時に感覚と音の出るタイミングのずれが少しづつ、深海にプランクトンの死骸が堆積するように徐々に降り重なって、大きなフラストレーションとなるのだ。
弾き手にとってフラストレーションの少ない楽器、これが名器の条件の一つである。
岩本に続いて城島も部屋を出た。
ー今日の昼食は何にしようかー考えながら、今日の帰りには加菜子の昼食用の食材を買い足しておかないといけないな、と思った
コンビニで買った弁当で昼食を済ませた後、講師控え室の自席で休んでいると、ドアが開いて、川村亮子が顔を出して「城島さん、ちょっと私の部屋に来て」
と小声で言った。講師控え室の隣が亮子の部屋だ。講師と違い、マネージャーである亮子には個室が与えられている。
亮子の後に付いて部屋に入った。
「コーヒーでいいかしら」
訊ねながら既にコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いでいた。
「ありがとうございます」亮子に促されてソファーに腰を降ろした「ところで、何かお話しがあるのでは」
亮子が城島の前にマグカップを置き、自分の分のコーヒーカップを持って向かい側に座った。
「何か連絡事項がなければ、あなたを呼んではいけないのかしら……と言いたいところだけど、茉莉絵さんのことよ。どうなの、戻って来たの」
「いえ、茉莉絵は戻ってきません。買い物に行ったそうです、ロンドンまで。娘だけ戻ってきました」
「まぁ、加奈子ちゃんだけ? どうしてるの昼間は、何処かに預けてるの」
「いいえ、預かってくれる所がすぐにはみつからないもので、今日のところは一人で留守番させてます」
「危ないじゃない、あんな小さな子を一人で留守番なんて。他に見つかる迄ここに連れて来ても大丈夫よ。私の部屋で遊ばせておくわよ」
城島がコーヒーを一口飲んで、小さくうなずいた。
「御好意はありがたく思います。でも、大丈夫ですよ。もう一人で何でも出来ますから。何と言っても、母親が母親ですから、子供は嫌でもしっかりします。心配ないですよ」
茉莉絵は城島と出会う以前は、モデルとしてKKオフィスに所属していた。その時の彼女のマネージャーが亮子で、茉莉絵の性格は城島以上に熟知いている。なんせ、仕事の集合時間を守らない、用意された服に文句を付ける、ロケ弁は○○屋の弁当じゃなきゃ食べない等、業界でもわがままなモデルとして有名で、マネージャーの亮子は彼女一人のために、相当な苦労を強いられたという業界内でのもっぱらの噂だ。それでも数年間モデルの仕事を続けていられたのは、御子柴家の威光と亮子の苦労によるところが大きいのだろう。
「あの茉莉絵さんが、今ではお母さんだからね。人は分らないものね」
今では亮子の替わりに城島が苦労をしているのだが。
「子供を放ってロンドンに買い物に行く女を母親と呼べればですが」
「もうすぐ帰ってくるわよ、帰る場所は他にないんだから」
亮子の言う帰る場所とは、物理的なものではない。どんなに放蕩をしても、最後は城島の所に帰ってくると言っているのだ。
「そういえば、岩本さんがギターを見つけてきたそうね」
「はい、そうなんです。殆ど只同然で買った来たらしいんです。でも、もしかすると掘り出し物かもしれません」
亮子に話したのは、岩本以外には考えられない。
「もしそうなら、今使ってるギターをリペアに出せそうね」
「ええ、そうなるといいんですが」
コーヒーの残りを飲み干すと、もう話すことがなくなってしまった。亮子から何か話しかけてくれないか、と思ってると、亮子の携帯電話がなった。
亮子が携帯電話を上着のポケットから取り出しながら、立ち上がって窓際に移動した。城島は小さく会釈をして、部屋を出た。
部屋を出てほっと息をついた。
城島は亮子が苦手という訳ではない。唯仕事のこと以外の共通の話題がないのだ。
城島はカルチャーセンターの講師という仕事の性質上、女性と話す機会が少なくはない。生徒の七割方は女性が占めている。ソフトの操作や楽譜のことについて色々と質問をされて、それに答えることは何の問題もない。唯仕事を離れた状況、例えば酒の席などで女性を相手に何を話して良いのかが、さっぱり分らない。
茉莉絵と結婚する以前から、亮子のことは嫌いではない。恋愛感情こそ持ってはいないが、寧ろ好意的な思いの方が強いくらいだ。だが、二人きりになると全く会話にならない。
特に「あなたはどう思う」等と訊かれると、しどろもどろとなり、話がそこから進まなくなる。
その点、茉莉絵と一緒にいる時は楽だ。なにせ、相手の話しを聞くという気持ちが全くないのだ。一方的に自分の気持ちや近状を喋りまくり、城島は「へぇー」「それで」等と相槌を打っていれば良いので、精神的な負担が何もなくて済む。
人前で演奏をすることが苦手になった理由も、その辺りにあるのかもしれない。精神科の医師の下した病名がパニック障害なのだ。不測の事態に対する対応力の欠如、プレッシャーに対する弱さ、ということなのだろう。しかし、これは知識では分っていても、どうにもならない。現在のところは薬に頼らざるを得ない、如何ともし難いが、致し方のないところだ。
午後の講習を終えて、足早に帰宅した。流石に今日は岩本からの誘いもなかった。途中、マンションの近くのスーパーに寄り一人で留守番をしている娘のために、食材を買い入れること忘れなかった。
食材の詰った大きなビニール袋を片手に部屋の扉を開けると、飛び出してくるはずの加菜子の姿がなかった。替わりにリビングの方から話し声が聞こえる。
テレビの音が大きいのかと思ったが、確かに加菜子の話し声だ。御子柴家の者が来た様子もない、根拠は玄関に見覚えのない靴がないからだ。
「加菜子、誰か来てるのか」
スーパーの袋を台所のテーブルの上に置き、リビングの扉を開けると、加菜子が床に座り、壁に向かってしきりに話しかけていた。
「加菜子、誰と喋ってるんだ」
「あっ、パパお帰り、このお爺ちゃんと話してた」
加菜子が壁の方を指差した。じっと目を凝らしてみたが、何も見えなかった。
「ほら、ここにいるでしょ」
加菜子がもう一度指を差すと、そこに灰色のもやっとした空気の塊が表れたように見えた。
「パパ、見えないの」
もう一度じっと見つめると、灰色の塊がぐるぐるとうごめいた。
「何だ、君には私の姿が見えんのかね」
少し皺枯れた声が聞こえたと思ったとたんに灰色の塊は背の高い、年老いた白人の姿に変わっていた。
「ひっ」城島は声を出しながら後ずさった。
今まで見えていなかったということは、勿論城島の目に見えていなかっただけではない。いないはずの者が見えているということだ。いないはずの者とは……。
ー何だ、俺は何を見ているんだ。誰の声を聞いているんだー
背筋に悪寒がゆっくりと這った。
「な、な、何だ、お前は」
漸くと出た声は酷く上擦っていた。
「君にお前呼ばわりされる憶えはないがね。まぁ、私をギターの中から開放してくれた一応の恩人だ。その礼はしないとね。」
老人が右手を胸に当て、お辞儀をした。
「私の名前はロベルト・ブーシェという。そのギターを作った本人じゃな」
言い終わった老人が、ケースに入れたまま部屋の隅に置かれているギターを指差した。
ロベルト・ブーシェと名乗った老人に挨拶をされながら、城島には目の前で起こっていることが全く理解出来ないでいた。
(これは夢ではないのか)城島は思った
「これは夢ではないからのぉ、覚めることはないよ」
老人が再び皺枯れた声で喋った。
城島は今、夢ではないのかと思っただけで、口を開いて言葉にしてはいない。
試しに爪を伸ばしている右手の指を掌に強く押し当ててみた。爪が掌に食い込む感覚、夢にしてはリアル過ぎた。やはりこれは夢ではないのか、もう一度と思ったその時「だから夢ではないとさっきから言っているじゃろう」また皺枯れた声が聞こえた。目の前には城島よりもやや小柄な痩せた、八十歳は過ぎているであろう老人が、穏やかな、ちょっと人を小馬鹿にしたような顔つきで立っている。チャコールグレーのスーツに臙脂色の蝶ネクタイを身に付けていることは分るのだが、全体の輪郭がぼやけている。
それに城島が口にしていない、頭の中で思っただけのことに答えている。ということは……。
「そうじゃよ、私は君たちの言うところの幽霊という奴だな」
やはりそうか、その言葉を聞いて、再び背筋に悪寒が走……ることはなかった。何故だろうか。相手は自分が幽霊だと告げているというのに。
城島は元々霊感の類は持っていないらしく、これまで霊というものを見たことがなかった。しかし、霊の存在を完全に否定している訳ではない。「いるかもしれないが、自分には係わりがない」程度に考えていた。それが、よもや自分は幽霊だと言う者と遭遇するとは思ってもいなかったし、それを拒否せずに現実として受け入れようとしている自分自身にも驚いていた。
そして、何よりも驚愕せざるを得ないのが「ロベルト・ブーシェ」という名前だ。
ロベルト・ブーシェ、プロのクラシックギター奏者ならばこの名前を知らぬ者はいない。
「あなたがロベルト・ブーシェさん、本当に、ギター製作家の?」
「ほぅ、この日本でも私の名前は知られていたのかね。そうじゃよ、私がギター作りのロベルト・ブーシェじゃ」
ロベルト・ブーシェ……一八九八年生れのフランス人ギター製作家である。世界的なギター製作家ではあるが、ギター製作を始める四八歳までは新印象派の画家であり、長年パリの美術学校で教鞭を取っており、アマチュアのギター奏者であった。四八歳の時に自らが弾くためのギターを製作し、その後はギター製作家となったという異色の経歴の持ち主である。
生涯師を持たず、十九世紀スペインのグラダナ地方のギター製作家ホセ・ぺルナスの弟子であり、現代ギター製作の始祖であるアントニオ・トーレスの作品を模倣をしながら独自の技術を高め、八八歳で亡くなるまでの四十年間で一五四本しか作品を残さなかった、寡作でも知られる作家でもある。
その作品の外見はシンプルにして優美であり、奏でられる音は太く芯のある艶やかな伸びのある音で、それはギター界の至宝とさえ呼ばれている。
常に新しい技術に挑戦し続けたブーシェは晩年「人の命は短いが、私の作ったギターはヴァイオリンのストラディバリウスのように三百年後まで美しく鳴り響く」と語っている。
プロ、アマを問わず、ブーシェのギターを求める声は世界中から数多く聞かれるが、その寡作の故にそのギターが市場に出回ることはなく、極稀に中古楽器としてギター専門店で売られていても、その値段は一千万円近くしてしまう(ドイツの世界的な名器「ハウザー一世でさえ、歴史的な価値を含めての値段が凡そ四百万円であることから、その価値の高さが伺い知れる)、ギター関係者垂涎の的となっているのだ。
「では、このギターは……」
「勿論、私の作品じゃよ。それも後はラベルを貼るだけという、れっきとした完成品じゃな」
ロベルト・ブーシェの霊に促されてギターをケースから取り出し、しげしげと眺めてみると、サウンドホールの周りにあるモザイクの模様に、ブーシェ独特の品の良さが伺えるような気がした。
「現金なものだな。昨日までは貧相な安物と思っておったくせに。まぁいい、こうして元に戻ったのじゃからな。さてと……」
「さて、どうするんです。それにこのギターシリアルナンバーは何番なんですか」
「君は私が何本のギターを作ったかは、知っているかね」
「はい、確か一五四本だと記憶していますが」
城島が詳しい本数まで記憶しているのは、手に入れられないまでも、ネットでロベルト・ブーシェの生涯の記録を見たことがあるからだ。
「そうじゃな、君のその記憶は正しい。或いは間違っている。後世に残ったギターが一五四本というのならば、それは正しい。なんせ、このギターは世間には知られていない一五五本目のギターじゃからな」
ロベルト・ブーシェは一五四本目のギターの作成中に亡くなり、そのギターを弟子が塗装を施して完成させ、偉大なるギター製作家の遺作とした、という記事を目にした記憶があった。
「その通り、だがな、その記事には間違い、というよりも足りない部分がある。その時私は二本のギターを同時に作っていた。一本は遺作となったナンバー一五四番、そして、もう一本がこのギター、世に出ておらん、幻のナンバー一五五番じゃよ」
ロベルト・ブーシェが、またしても城島の声にしていない言葉に答えた。
「では、あなたは亡くなってから、ずーっとこのギターに取り憑いていたんですか」
「取り憑いていたというのは、酷いのぅ。一緒にいたと言って貰いたいな。それに私は好き好んでこのギターを一緒にいた訳ではない。気が付いたら一緒にいただけのことじゃ」
「お爺ちゃん、はい、これ」
何時の間にか加菜子が、立ち上がってチョコレート味のポッキーの中身を数本差し出していた。
「おお、済まんなぁ。この子は君の娘かね」
ロベルト・ブーシェが頬を緩ませてポッキーを手に取った。幽霊がポッキーを手にして、にこやかに微笑んでいる。何とも美しい光景だ。
「それと、もう一つ、ブーシェさん」
城島は先程から頭の片隅にチラリと浮んでいた疑問を口に出すことにした。
「ロベルトで構わんよ」
「ではロベルトさん、あなたはフランス人ですよね」
「如何にも、生粋のパリ生れじゃよ」
「そのフランス人のあなたが、どうしてそんなに日本語が上手なんですか」
「君には私が日本語を話しているように聞こえるのかね」
普通に喋っているにしては、言葉に揺らぎが大きいように思われる。やはり、生身の人間との違いなのだろうか。
「それは城島君の主観じゃよ。」
また心の中を覗かれたようだ。
「えっ、どういうことなんですか」
「つまりは……」
ロベルト・ブーシェがポッキーを一本カリカリと音を立てて齧った。
「私は今、言葉を発してはいない。思っているだけだ、いや、思っているというのも、少し違うかな。君達の心に送っていると言った方が正しいのかもしれない。それを君達が受信しているのさ」
「では、言葉の違いというのは」
「心の中に発信しているのは、言葉ではない。感覚を伝えているだけだ。分るかね。例えば、このお菓子は美味しい。それを言葉としてではなく、美味しいという味覚そのものを君達の心に伝えているのだよ」
ロベルト・ブーシェが、ポッキーを城島の目の前に差し出した。
「何となくしか分りませんが、要は思ったことを言葉という媒体を使わずに、感覚的に伝えているということですか」
「その通り、分っているじゃないか。その時私の口が動いているように見えるのは、喋っている人の口は動く、という錯覚だし、もし、私の喋っている日本語が年寄りじみていたとするならば、それは君の『年寄りかくあるべし』という、これまた錯覚じゃな」
確かに城島に聞こえているロベルト・ブーシェの話し方は、城島にとっての老人の喋り方そのものである。そして、その話し方は城島のある身近な老人にそっくりなのだ。
「それで、その爺いというのは、君にとって、あまり好ましくない人物ということかな」
ロベルト・ブーシェの言葉が正しいとするならば、城島はその人物を爺いと思っていることになる。そして、それは正しい。
城島が爺いと心の中で呼んでいる人物、それは世界中で唯一人しかいない。勿論、その唯一人の人物とは御子柴大蔵である。
「その者は君にとって好ましくない人物のようだな」
「ええ、好ましくないというよりも、大嫌いといった方が適切ですね」
徐々に輪郭がはっきりとして来たロベルト・ブーシェの顔をマジマジと見た。薄くなった髪を綺麗に後に撫でつけ、黒ぶちのメガネをかけた小美麗な老人、どう見ても御子柴大蔵とイメージが重なるところはない。
「そろそろ君の娘の夕飯の時間ではないのかね。食事を与えるのは親の役目だからね。しっかりと果したまえ」
ロベルト・ブーシェの印象が、爺いから歳の離れた上司といった印象に変わっていた。それに伴い城島の耳に入ってくる話し方も微妙に変化し始めている。
「パパ、お腹空いた」
加菜子が先程までポッキーを握っていた手で、城島の足に抱きついた。
「そうか、何が食べたい」
「オムライス」
加菜子が嬉しそうに答えた。
「オムライスか、久し振りだな、私もそれにしよう」
「えっ、ロベルトさんも食べるんですか」
「いけないのかね、私は幽霊だから腹が減ることはない。だが、食事というものは唯のカロリー摂取ではないよ。食欲とは興味、好奇心だな。違うかね」
ロベルト・ブーシェの言葉には逆らえないものがあった。言葉に威圧感があるわけではないが、城島よりも百二十年以上も長く生きている(生きてはいないか)重みがあった。
「分りました。すぐに用意します」
台所に入って、夕食の準備を始めた。まずは玉葱、マッシュルーム、鶏肉を包丁で刻み、オリーブオイルで炒めてからジャーの御飯を加えようとして、ふと(幽霊の食事ならば、本当に作らなくとも、頭の中で考えるだけでいいのではないのか)と思った途端に「思うだけじゃなくて、ちゃんと作ってくれよ」と後から声がかかった。
苦笑いをしながら、城島は炊飯器にあるだけの御飯をフライパンによそい入れ、チキンライスを作り始めた。
ここで不意に思い出した。夕べ眠っていた城島の夢の中に現れ、何度も礼を言っていたのは、娘と二人でオムライスの出来上がりを待っている老人、ロベルト・ブーシェだったのだ。
朝、甘ったるい匂いで目が覚めた。いつものように頭の芯が痺れているような感覚、今朝も軽い二日酔いだ。
ベッドから起き出すと、台所で加菜子の話し声が聞こえる。話し相手はロベルト・ブーシェだろうか、とすると夜だけではなく、昼間も表れる幽霊ということなのだろうか。
夕べ、加菜子とロベルト・ブーシェは城島の作ったオムライスを二人揃って「美味い、美味い」と完食し、後には二人のデザートにアイスクリームが食べたいという我がままを聞いて、コンビニまで行かされる羽目になったのだ。
台所に入ると、流しの傍に置いた椅子の上に立った加菜子が振り向いて「パパ、おはよう」と明るい声で言った。辺りを見まわしたが、ロベルト・ブーシェの姿は何処にもなかった。やはり幽霊だけあって、昼間は表れないのかと思っていると「お爺ちゃん、ここにいるよ」加菜子が指を差した先の流し台には、食器を洗うためのスポンジが置いてあった。
何のことかと思っていると、スポンジが立ち上がって、真中辺りからクネッと折れ曲がり、そこから「おはよう城島君」という声がした。どうやら、スポンジが折れ曲がったのは、お辞儀をしたつもりのようだ。
「おはようございますロベルトさん。今朝はスポンジになってるんですか」
「ああ、加菜子が洗いものが苦手と言うのでね、手伝っていたのだよ。中々便利だろ」
便利か便利ではないかと聞かれれば、便利に決まっているが、生きているスポンジ、出来れば朝から見たくはない光景だ。
スポンジがぎゅっと絞られて、泡が流し台に滴り落ちた。金属を磨くための固い面が城島の顔を覗き込むように上を向く。
「城島君、君は少しばかりアルコールを飲み方が良くないようだ。毎晩のようにあれでは、そのうち体を壊す、気をつけたまえよ」
朝からスポンジに説教をされてしまった。
夕べはコンビニに二人分のアイスクリームを買いに行かされた後、いつものようにビールから始まり、バーボンのロックをボトルの半分程飲んだ。
「アルコールを飲むこと自体は悪い事ではない。量の問題でもない。楽しく飲めているかどうか、それだけのことだな」
城島の晩酌は眠るための儀式であって、楽しむために飲んでいる訳ではない。
アルコール、それは城島にとって生きていく上でなくてはならない、夕方になると毎日会いに来る相棒のようなものだ。それのない人生など考えることなど出来はしない。
「しかし、アルコールしか生き甲斐のない人生とは、随分とつまらない生き方をしておるのう」
ロベルト・ブーシェの話し方が、少し年寄じみた。
アルコールに関しては多少のいい訳もあるが、朝からスポンジと論議をする気にはなれない、ここは軽く受け流すことにした。
「ロベルトさんは昼間でも姿を表せるんですか」
スポンジに向かって話しかけた。
「勿論、ほら、この通り」
スポンジがパタリと横に倒れ、城島の脇に昨日と同じ老人が表れた。但し、昼間に見る姿はうっすらと半透明で、昨夜よりもよほど幽霊に相応しい姿だ。
「昼間でも姿が見えるというのは驚きですね」
「そうかね。別に明るいところが嫌いな訳ではないからね、どうということはないよ」
「でも、普通幽霊って昼間は出ないものじゃないですか」
「私に普通の幽霊のことは分らないよ。見た事がないからね。自分が死ぬまで霊というものを信じていなかったしね」
「生前はクリスチャンでしたか」
「ああ、確かそうだったような気がするな、しかし、忘れたよ。憶えているのはギターを作っていた、唯それだけだな」
ロベルト・ブーシェからは幽霊という言葉から連想される、おどろおどろしたものが全く感じられない。それが霊との対話という普通では起こり得ないことを、普通のことにしてしまっている要因なのだろう。城島は勿論、娘の加菜子までもが異常な事態という認識を持たずに、起こり得る現実として受け入れてしまっている。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出してグラスに注ぎ、一気に呷る。二日酔いの朝の習慣だ。そして、こめかみの辺りがぎゅっと痛くなる。これも毎朝のことだ。
「そろそろ朝食にしよう。加菜子、準備はいいかな」
「うん、大丈夫」
テーブルの上を見ると、茶碗に盛られた御飯、味噌汁の脇に赤いゼリー状の物が入った小皿が置かれている。
椅子に腰を降ろして小皿を手に取り、匂いを嗅ぐと甘酸っぱい匂いがする。さっき起きがけに嗅いだ匂いの正体はこれだったのだ。
他のおかずは生卵と沢庵を細かく刻んだ物だけだった。
「何を行儀の悪いことをしている。さあ、頂くとしよう」
ロベルト・ブーシェは城島の向かい側の椅子に座ると、赤い物が入った小皿を手に取り御飯にかけて、美味そうに目を細めていた。しかし、城島はそれを御飯にかけることはしなかった。その物が何であるかに気がついていたからだ。
「ロベルトさん、美味しいですか」
ロベルト・ブーシェが小首を傾げた。
「何を言っているのだね。美味しいに決まっているだろう」
「御飯にイチゴジャムが合うとは思えませんが」
「何故かね。君はパンにジャムを塗るだろう」
「ええ、嫌いではありませんよ」
「だったら同じことさ」
いや、絶対に同じではない。やはりフランス人だ。やはりフランス人、世界一のグルメを自認しながら、日本人から見ればまともな味覚の持ち主とは思えない異常な程バターやクリームを愛する狂った食生活の人種だ。幽霊だろうが生身の人間だろうが、食べ物の嗜好は変わらないようだ。
イチゴジャムの入った小皿をそっとテーブルの端に押しやり、生卵とたくあんだけで朝食を済ませることにした。
ロベルト・ブーシェの隣では、加菜子が御飯にイチゴジャムをかけて美味しそうにそれを頬張っていた。このままでは娘の味覚に悪い影響が出ることは必至だ。
ロベルト・ブーシェは何時までここに留まるつもりなのだろうか。言葉には出せないが、思っただけで伝わってしまうはずなのに、彼は今イチゴジャムかけの御飯を食べることに専念しているようだ。敢えて口にしたくない話題ということなのか、ロベルト・ブーシェにも先のことは分らないということなのだろうか。
朝食を済ませて身支度を整えていると「城島君、ジャムを食べていないじゃないか。もったいないは日本人の専売特許だと思っていたが違うのかね」と声がかかった。流し台から食器を洗う音が聞こえる。またスポンジにロベルト・ブーシェが入っているのだろう。
「もし、よろしかったらお昼にでもお食べ下さい」
流し台に向かって声をかけた。
食器を洗っている加菜子に向かって、戸締りや火の元等の注意をしてから頭を一度撫で、部屋を出てから、そういえば、あのギターがロベルト・ブーシェの作だと分ってから一度も手に触れていないことに気がついた。
夕方、本日最後の講座を終え、教材を整理していると「よぉ、城島先生、どうだ軽く」岩本がいる入口の扉を開き、覗かせた顔の前でグラスを呷る仕草をした。
「いや、今日は娘が一人で待っているもので」
「そうか、娘が一人で留守番か。それじゃあ、お父さんは早く帰らないといけねえなぁ」
と言いながら閉めかけた扉を再び開き「この前のギター弾いてみたかい」再び顔を覗かせて言った。
「ええ、弦を張り替えて弾いてみました」
「どうだい、使いものになりそうかい」
「ええ、それどころか、岩本さんの見立て通りの掘り出し物かもしれませんよ」
まさか、ギターに幽霊が付いて来ていて、それが製作者だとは言えない。現実主義者の岩本が、そんな話を信じるとは思えないからだ。
「そうか、ならいいんだけどな」
「今日もこれからスペイン人になるんですか」
「いや、今日はウズベキスタン人だ」
そう言い残して扉が閉まった。どうやら城島が思っているよりも岩本の交友関係の国際化は進んでいるようだった。
スーパーで買い物をして、両手に大きな袋を下げて部屋の扉を開けると、リビングから加菜子の笑い声が聞こえて来た。相手は勿論ロベルト・ブーシェだろう。
食材を冷蔵庫に入れながら、例え相手がこの世の者ではないにしろ、子供の笑い声程心を癒してくれるものはない、としみじみと思った。
リビングの扉を開けると、加菜子がパソコンの画面に見入っていた。傍らには昨日と変わらないロベルト・ブーシェの姿があった。
画面を横から覗くと往年のアニメの動画が映っていた。「あっ、パパお帰り」
「何だ、俺の帰りが分らない程熱中してたのか」
「うん、だってこれ面白いんだもん」
それは昭和四十年代の後半に放映されていた国民的なスポ根アニメだった。
「城島君、このアニメは本当に昔日本で放送されていたものかね」
ロベルト・ブーシェが苦味走った声で言った。
「ええ、そうですよ。私も子供の頃再放送で見たことがあります。恐らく、今の三十歳以上の年代で知らない人はいないでしょう。それほど有名な作品ですよ」
「そうか、知らなかったな。日本は子供の見るアニメでこんな思想教育をしていたとは」
「思想教育だなんてオーバーな。唯の子供向けのアニメですよ」
「いや、これは唯のアニメなどではない。親父が果せなかった野球の夢を子供に強制し、しかも入団するチームまで指定している。これは思想教育以外の何ものでもないよ。おまけに、父親程には才能に恵まれなかった子供は、無理を重ねて最後には利き腕を壊して破滅の運命だ。こんな鬱屈した話は世界を見渡しても、他にロシア文学くらいしか思いつかないね」
「初めから全部見たんですか」
「まさか、途中の投げた球が消えるあたりからかな、中々笑えたからね」
日本では感動の代名詞のようなアニメなのだが、フランス人の視点で見ると、そうはならないらしい。所詮フランス人に日本のスポ恨の精神は、分らないのだろう。
パソコンの画面は最終回の動画の再生を始めるところだった。
「加菜子、あまりパソコンの画面ばかり見ていると、目を悪くするぞ。そろそろ晩飯の仕度をするからな」
「はーい、後三十分だけです」
リビングを出て台所に入り、夕食の準備に取りかかった。今晩のメニューは予めリクエストのあったハンバーグだ。この分で行くと明日はハヤシライスで、昨晩のオムライスと合わせてお子様ランチが完成しそうだ。
玉葱と人参をミジン切りにして豚の挽肉に混ぜ、良くこねる。人参を入れるのは野菜を少しでも加菜子に食べさせるための方法だ。
下ごしらえの終った材料を油を敷いたフライパンで炒めながら、付け合わせのポテトサラダを皿に盛った。これはスーパーで出来合いの惣菜を買って来たものだ。焼き上がったハンバーグを皿に移していると、何時の間にか後にロベルト・ブーシェが立っていた。流石に幽霊だけあって、気配がまるで感じられない。
「ロベルトさんは、御飯ですか? パンもありますが」
「そうだな、ライスいや御飯にしよう。郷に入れば郷に従う、日本の諺にあるからね」
今時そんな諺を口にする者は、日本人にもいないのではないだろうか。
ロベルト・ブーシェと加菜子が椅子に座り、ハンバーグに御飯、インスタントの味噌汁という夕飯にしては、やや質素な食事を食べ始めた。
フォークとナイフを用意しようとした城島に対し「箸で構わんよと」とロベルト・ブーシェは言って、右手で日本人のように器用に箸を使い出した。隣では加菜子が鷲掴み視した箸を使って、ハンバーグを頬張り、口の周りをソースだらけにしていた。
「ロベルトさん、箸の使い方が上手ですね」
ロベルト・ブーシェは右手を止めて、少し得意そうな顔で、「ギター製作に比べればこんなことは大したことではない。ところで、今日はこれからあのギターを弾くのかね」と言った。
ハンバーグをつまみにビールを飲んでいた城島は首を振った。
「いえ、ここでは夜音を出すことが出来ません。明日は休みです。昼間は弾けます」
「そうかね、ならば一つ言っておくが、あのギターはかなり湿っておる。ギターに直接はまずいが、ケースにドライヤーをかけておきなさい。それだけでかなり鳴りが変わるはずだ」
なるほどと思い、酔いが回らぬうちにドライヤーを探した。城島はドライヤーという物を持ってはいない。後は茉莉絵の物となるのだが、妻の物となると何が何処にあるのかが、皆目見当もつかない。もしかすると鞄に入れて持って出た可能性もある。
リビングの押し入れの中ををゴソゴソとドライヤーを探している城島に「パパ、何やってるの」背中から声がかかった。振り返ると、ソースで口の周りを真っ黒にした加菜子が、右手に箸を持ったまま立っていた。
「ちょっとドライヤーを探しているんだ」
「ドライヤーはそんな所にないよ。ちょっと待ってて」
加菜子の間もなく手にして来た物は、ネジを締める時に使うドライバーだった。
「それはドライバーだ、俺が言ってるのは髪の毛を乾かす時に使うドライヤーだ」
「あっ、だったらあそこだ」
加菜子が茉莉絵の化粧台の引き出しから女性用のドライヤーを持ち出して来た。
「パパ、これでしょう」
得意そうな顔は御子柴大蔵を連想させたが、今はあの爺いの顔は思い浮かべたくはなかった。
「おお、そうだ、これだ」
ギュッと抱きしめようとしたが、服にソースが付きそうなのでそれは止めることにした。
ギターをケースから取り出し、ケースにドライヤーの温風を当てた。三十分程時間をかけてケースの全体にドライヤーをかけると、かなり乾燥したようだ。後は蓋を開けっぱなしにして、熱が冷めてからギターをしまえば、今日出来ることは終わりだ。
「もう少し上等なケースに入れて貰いたいな。あの楽器屋の店長、こんな薄汚れたケースに入れおった。私のギターの価値も分らんで良く楽器屋が勤まるもんだ」
「そうですね、ラミレスをリペアに出す時に新しいケースを見て来ますよ」
「ほぅ、城島君はラミレス、それもエリートを使っているのかね。あれはいいギターだ。スペインの伝統を踏襲した素晴らしいギターだ」
エリートという言葉は一言も言っていない、また心を読まれたようだ。
「しかし、あれは楽器としての完成度に欠けるな。音質は素晴らしいが、深みがない。まぁ、頑張ってはいるんだがね」
初めて聞くロベルト・ブーシェの楽器製作者らしい言葉だった。彼にとっては、ラミレスなどは、それが例えエリートであったとしても未完成品ということなのだろうか。
再び台所のテーブル席に座って少し温くなったビールを飲み出した。ビールが空になり、ウイスキーのオンザロックを飲むために冷凍庫から氷を取り出す頃には、加菜子とロベルト・ブーシェがハンバーグを食べ終え、流しに食器を運んでいた。
「城島君、私も明日はアルコールが飲みたいな。ワインでいいんだが、用意してくれるかね」
「ええ、構いませんよ。ロマネコンティという訳にはいきませんが、安くてそれなりの味の物を用意しておきます」
「そうかね、明日が楽しみになってきたな」
「それならば、今このウイスキーを飲みますか」
「いや、それは遠慮しておこう、ウイスキーは体に悪いからね。私はワインしか飲まないのだよ」
既に死んでいる幽霊にとって、体に悪も何も関係ないと思うのだが……。
「体にいい悪いは気持ちの問題だよ。体にいいと思って食べれば多少の悪い物でも害がなくなる、そういうものだよ」
そうなのだろうか、絶対に違うような気がするが、反論はしないでおいた。
「分りました。では、今日は私一人で飲むことにします」
加菜子が椅子を流し台の前に運び、その上に立って洗いものを始めた。ロベルト・ブーシェの姿が見えない。またスポンジの中に入っているのだろう。
明日は平日だが城島にとっては貴重な休日だった。カルチャーセンターの講師という職業柄、土日に休みを取ることは出来ない。それは言うまでもなく、土日にしか受講出来ない生徒は数多くいるからだ。
一日加菜子の相手が出来るが、同時にロベルト・ブーシェの相手もしなければならない。ギターも弾かなければならない。買い物も必要だ。かなり忙しい休日になりそうだった。
今日も酷い喉の渇きで目が覚めた。横を向いていた体を上向きにして天井を眺めた。台所から加菜子の話し声が聞こえる。
水を飲もう思いベッドから抜け出して台所に入ると、加菜子が包丁を使ってキャベツを刻んでいるようにみえたが、もう一度良く見ると、包丁は俎板の上を勝手に動いている。加菜子はその前に立って、その様子を眺めているだけだ。
「おはようございます、ロベルトさん。今朝は包丁になっているんですね」
包丁の動きが止まり、俎板の上で刃の方を上にしてまっすぐに立ち、そして城島に向かって少し傾いた。又朝の挨拶をされたようだ。
「おはよう、城島君、加菜子にナイフを使わせるのは、危ないからね」
「パパ、おはよう、もうすぐ御飯出来るから、待っててね」
「ああ、ところで、今朝は何を作っているんだい」
流し台の周りでキャベツ以外の食材は見当たらない。普通に考えればキャベツの千切りは焼き物、揚げ物の付け合わせなのだが、加菜子にはガスの使用を固く禁じている。後は電子レンジで作れる物なのだが、今電子レンジを使っている様子はない。
「今朝のおかずはやばい一番」
やばい一番という言葉の意味は分らないが、加菜子が一番に好きな物といえば、思い浮かぶのはアイス、チョコレートといったお菓子の類ばかりだ。でも、もしも昨日のように甘い物が置かずとして出てきた場合は、最悪ふりかけをおかずに食べればいい、と思い椅子に腰を降ろしていると「はい、出来ました」と城島の前に置かれた皿には、見事な程に均一に細く切られたキャベツの千切りの脇に、何かの合え物が乗っていた。
「これは何の合え物だ」
「食べれば分ります」
皿の横に御飯が盛られた茶碗も置かれた。
「頂きまーす」
加菜子が楽しそうに食べ始めたのを見て、城島も合え物を箸の先で摘まんで口に入れた。
先ず、口の中に広がったのは、ピーナツバターの香だった。
目の前で加菜子の横で何時の間にかロベルト・ブーシェが食事を始めていた。
「うーん、これは美味しい。加菜子は料理の天才じゃな」
お世辞とは思えない、満面の笑みを浮べている。本気で美味しいと思っているようだ。
ピーナツバターの風味の中に、何時も食べている魚の匂いが微かにする。風味の元は間違いなく鰹風味のふりかけだ。
「これは、ピーナツバターとふりかけを混ぜたのか」
「うん、そう。加菜子の一番好きな物とパパの一番好きな物を混ぜたから、やばい一番」
娘に一番好きな物がふりかけと思われているらしい。そう言われて考えてみると、今まで家族の前で一番多く食べたのは、ふりかけ御飯だったような気もする。
城島はふりかけ御飯が大好物という訳ではない。妻の茉莉絵が料理を全くしないために、朝食等調理に時間をかけられない時に、已むなく一つの選択肢として食べているに過ぎない。
「あのなぁ、俺はふりかけが大好きという訳ではないぞ」
「えっ、違うの、だって何時も美味しそうに食べてるから」
確かに最近のふりかけは味に色々な種類があり、毎日日替わりで食べても飽きが来ない。
「もうふりかけは、ないのか」
「全部使っちゃった」
「そうか」
城島はがっくりとうなだれた。冷蔵庫の中には、思い廻らせてみたが、そのままおかずになりそうな物はない。卵も切らせているはずだ。
仕方なく目の前の合え物をもう一度箸で摘まんで口に入れた。ピーナツバターの甘さ、油っこさが鰹風味のふりかけと合いまって、なんともいえない気持ちの悪さを醸し出している。醤油を垂らしてみれば、少しはましになるかと思って試してみたが、結果は更に悪くなった。醤油とピーナツバターの相性は最悪だった。
「城島君はオムライスやハンバーグは上手く作れるくせに、こういった独創的な料理の味は分らんのかね。発想が貧困だねぇ」
ロベルト・ブーシェが早くも「独創的な」料理を食べ終わり、コップに入った水を飲みながら言った。
フランス人に味覚についての教示を受ける憶えはないのだが、朝から口論は煩わしいので、ここはさらっと受け流すことにした。
「ええ、全くお恥ずかしいことですが、ロベルトさんのように、美味しい物を食べなれていないもので」
「そうかね、ならば仕方がないな」
ロベルト・ブーシェは年齢(およそ百二十歳)の割には淡白な性格のようで、それ以上の追求はなかった。
加菜子もおかずを食べ切り、城島の醤油をかけた分だけが残った。
「パパ、残った分は夕飯にしてね」
加菜子が口を尖らせた。城島にとって、夕飯=アルコールとの再会、一日で一番楽しい一時なのだが、今日は罰ゲームとなりそうな気配だ。
キャベツの千切りにソースをかけたものをおかずにして、何とか一膳の御飯を食べ、残ったおかずはラップをかけて冷蔵庫に入れた。
小さくゲップをすると、ソースの香が口の中にこみ上げて来る。
「今日は仕事は休みのようだな。ギターを弾くのかね」
「ええ、そのつもりです。元の音が出るようになるまで、時間がかかるかもしれませんが」
「まあ、城島君なら、そこそこは弾けるようになるだろう。人前でなければね」
やはりロベルト・ブーシェは城島の楽器奏者としての致命的な欠点を分っていた。
「だが、腕は悪くはないんだから、後は心の持ちよう、それしかないからね」
その心の持ちようが問題なのだ。あの日、御子柴大蔵にかけられた「皆がお前を見ている」「皆が見ている」という言葉は、未だに呪文のように脳裏に刻み込まれているのだ。
「誰も見てはおらんよ」
不意にロベルト・ブーシェが天井を見上げて言った。
「皆に見られているなんて、自意識過剰もいいところさ。誰も見てはいない、唯眺めているだけさ」
「見ていると眺めている、そんなに違いますか」
「ああ、違うね。そうだな、例えばここにある若くて美しい女性がいるとしよう」
「ええ、いるとします」
「その女性がミニスカートを履いて街中を歩いていた場合、周りの男たちはその女性をじっと見るだろう」
日本人の場合、そういった状況で露骨に相手を凝視するようなことはしないのだが、話の流れを止めてまで反論をすることはしたくはない。
「ええ、そういう男性も多いでしょうね」
「しかしだね、同じ女性が足が隠れるズボンを履いて歩いている場合、皆じっとは見ないね。ぼんやりと見るだけだ。そういう状況を眺めるというのだよ」
状況設定が正しいかどうかは別にして、「見る」と「眺める」の違いという説明においては、かなり核心を突いているような気がした。
「では、私の演奏がそのズボンを履いた女性だということですか」
「それを決めるのは君ではない。君の演奏を聞く者達だ。演奏者に限らず表現者は、見る者がいて初めて存在価値がある。違うかね」
反論が出来なかった。言葉に岩本や川村亮子に言われた時とは違う、重みがあった。
「いずれにしても、皆が自分を見ている等という錯覚は捨てることだな」
それが出来ればとっくにプロギタリストとして名を成している。メンタルクリニックに通うこともなければ、日々カルチャーセンターの講師の仕事で糊口を凌ぐ必要もない。
「さて、そろそろギターの調子を見てもらうとしようか」
ロベルト・ブーシェが背中を向けてリビングへと入って行った。城島もその後について部屋に入り、ギターケースを床に置き、蓋を開けた。
「今日のように天気の良い日は、ケースを日陰に干して欲しいな。楽器の湿り気がぐっと少なくなる。
城島の借りている部屋のベランダは狭いが、ギターのケースを干す程度の場所は何とか確保出来そうだ。さっそくケースをベランダの日の当たらない場所に置き、蓋を開いた。
電子チューナーを使って調弦を始めると、昨日までとは違って、弦が指にまとわりつくような感覚がなくなっている。指で弦を弾くと軽く「ポーン」と音が出る。反応の早さが明らかに早くなっている。
「どうかね、大分良くなったろう。だが、こんな物ではないよ、私が精魂込めて作ったギターだからね」
優れた楽器には、高性能の車のように、使用者のニーズに応えられるだけの高いポテンシャルがある。音質、音量、反応速度といった物理的なものだけではなく、楽器自体の持つ品格に楽器弾きがくらい負けしてしまうことがある。その場合、演奏者が楽器をコントロールすることが出来ずに、安い楽器を弾いた時以上に音がまともに出ないことになる。
果して、自分はこのギターを鳴らすことが出来るのだろうか。城島は心の中で一人ごちた。
フレットを押さえていた左手に自然と力が入った。
「ギリギリかな」
ロベルト・ブーシェが少しだけ首を傾げて言った。
「私の作ったギターは世界の名だたるギタリストたちに使われて来た。古くはプレスティ、ラゴヤ、ジュリアン・ブリーム。日本にも何本かはあるはずだ。君はギターを唯の道具と思っているようだが、それは間違いだ。優れたギターはギタリストを育てる先生でもあるのだよ」
確かに城島はロベルト・ブーシェの指摘したように、楽器は所詮音を出すための道具に過ぎないと思っている。しかし、腕の良い職人が精緻な作業を精巧な道具に頼るように、良い楽器は楽器弾きにとって手の一部とも言える大事な物だと思ってもいる。
床に胡座を組んで座り、左足の太股にギターのボディを乗せた。この姿勢が普段の城島の練習のスタイルだ。椅子に座るよりも楽で、自然にギターを手にすることが出来る。
いくつかのコードを鳴らしてみた。和音、アルページオ、そして、試しに「アルハンブラ宮殿の思い出」の出だしをゆっくりと弾いた。
「まだまだだな」
手を止めてロベルト・ブーシェを見上げた。
「まだまだですか」
「このギターも君も潜在能力の半分も出せてはおらんよ。もっとも、能力の全てを出し切れている者など、滅多におらんがね」
元々人間には優れた能力が備わっているが、表面に表れている能力は十%程度だと何かの本で読んだ記憶があったが、それが何という本なのかはまるで思い出せなかった。
「でも、半分も出せていれば充分じゃないですかね」
「君は私の言ったことをきちんと聞いているのかね。半分出せていると言ったのではない。半分も出せていないと言ったのだよ。分るかね、この違いは大きいよ」
まるで言葉の遊びだと城島は思った。が、それに対するロベルト・ブーシェの返事はなかった。そろそろ城島との会話が面倒になったのかもしれない。
「君はそのギターで練習をしなければならない。当面はそのギターに習うことになる。分らなければそれでもいい。とにかく続けることだ、いいかね。私は加菜子の相手をしている。あのパソコンとかいう箱は中々面白いからね」
目の前にいたロベルト・ブーシェがパソコンの横に瞬時に移動し、何時の間にかパソコンの前に座っていた加菜子の頭を撫でていた。
ロベルト・ブーシェとの同居で一つだけ助かったことがある。それは彼が加菜子の相手をしてくれることだ。それも相当の子供好きらしく、本当の孫のように可愛がってくれている。
城島は昼近く迄、音階、アルページオといった基礎練習の他、レパートリーである曲を何曲か練習することが出来た。三時間近く練習に専念したことになる。
ギターを床に置いて、まだパソコンの画面に向かっている加菜子に「何時までも画面を見ていると目を悪くするぞ。そろそろ買い物に行く。一緒に行くだろう」と声をかけた。
加菜子は「もう少し待ってて、すぐ終るから」と言って画面から目を放そうとはしなかった。
城島も屈み込んで画面に目を凝らした。
そこに映っていたのは、またしても古いアニメの無料動画だった。
「これは、絵が綺麗だ。話はつまらんがね」
ロベルト・ブーシェはギター製作家になる前は、画家と絵の教師を職業としていた。その彼が日本のアニメの絵の上手さを誉めるとは以外だった。
「絵はそれなりに綺麗だが、話が稚拙過ぎるな。唯強ければいいというものではないだろう。人が空を飛んだり、光線を発射したりと、まぁ、加菜子ぐらいの年頃の子供には面白いかもしれんがね」
それは星の入った七つの「龍の球」を集めると、何でも願いが叶うという、恐らくは現在日本でもっとも広く知られているアニメだ。加菜子くらいの子供だけではなく、大人にも絶大な人気があるのだが、それは言わない方が良さそうだ。
「大体、素手で闘った時の強さが偉さの基準というのは、おかしいと思わんかね。そうだろう」
言われてみれば確かにそうだが、あのアニメには強さだけではなく、命の尊厳や家族愛といったテーマも含まれていたのではなかったか。
画面は主人公が地球から遠く離れた惑星で、最強、最悪の宇宙人と、武器等は使わずに、あくまでも素手同士で闘っているシーンだった。
「アニメはそれくらいにして、買い物に出かけるぞ」
加菜子はしぶしぶパソコンの電源を落とした。教えた憶えがないのに、パソコンの起動、インターネットの閲覧等の操作を普通に行えるのは、御子柴の家の誰かに教わったのか、それとも……。
「私が教えたのではないよ。それどころか、この子は誰からも教わってはいない。自分で考え、憶えたのだよ」
遊びながらハードやソフトの操作を習得してしまう、子供ならではの憶えの良さなのだろうか。
「それもあるだろうが、この子の頭の良さだろうね。父親には似なかった、幸いだね、母親の血かな」
こういう年寄り特有の遠慮のない喋り方を、口さがないというのだと思ったが、すぐに違うことを考えることにした。思っただけで相手にそれが伝わってしまうことが、何と面倒なことだろうか。
城島は頭の中にワインのボトルを思い描いた。但し、高級な輸入物は実物を見たことがないので、それは安物の国産のボトルだった。
「もう少し頑張れないかね」
「何がですか」
「ワインの値段のことだよ」
どうやら城島が頭の中で思い浮かべたワインの価格が気に入らなかったようだ。
「もう少し上等の物にしてはくれんか」
「しかし、近所のスーパーの酒のコーナーで売っているのは、今私が思ったような物ですよ」
「銀座や青山の輸入専門店とは言わんが、せめてペットボトル入りの物はやめてくれ」
何故ロベルト・ブーシェが銀座や青山を知っているのだろうか。ギターと一緒にそのあたりに居たことがあるのかもしれない。
「分りました。スーパーはやめて、近所の酒屋に行きましょう。そこならもう少し良い物を売っているかもしれない。でも、もしそこでなかったら、諦めて下さいね」
「そうか、それでは仕方がないな。せっかく二十年ぶりにワインが飲めるというのに」
幽霊の愚痴というのは、あまり聞いていて気持ちのいいものではない(そもそも、幽霊自体が気持ちのいいもののはずがないのだが)。
加菜子と二人で部屋を出ようとすると、ロベルト・ブーシェも後から部屋を出ようとしていた。
「ロベルトさん、外はまずいんじゃないですか。それにギターから離れられるんですか」
足を止めた城島の体の中をロベルト・ブーシェの体が通り抜けていった。それを見上げていた加菜子が「面白ーい、手品みたい」と言って手を叩いて笑った。城島は一瞬体の中に冷たい空気の塊(これが世間の霊能者の言う霊気という物か)を感じて、体中に鳥肌が立った。
「何故かね」
ロベルト・ブーシェが体を動かさずに、首だけで後に振り返った。客観的に見れば、これだけでも充分に鳥肌物の映像だ。城島は子供の頃に見たホラー映画を思い出して、気分が悪くなったが、何とか小さく咳払いを一つしただけで済ませた。
「だって、誰に見られるか分らないじゃないですか」
「大丈夫、どうせ見えやせんよ。それに君たちと一緒ならば少しくらいあのギターから離れられることが出来そうだ。何故かは分からないがね」
ロベルト・ブーシェが大袈裟に肩を竦めた。
「えっ、そうなんですか」
「ああ、詳しいことは後で説明するが、先ず心配はいらないね。でも、どうしても心配といのであれば、こういうのはどうかな」
途端にロベルト・ブーシェの姿が消えて、小さな白い犬が現れた。犬種は最近日本では見なくなったスピッツだった。
「あっ、可愛い」
加菜子が駈け寄って抱き上げた。
「どうかね、これなら」
真っ白い子犬のスピッツが、ロベルト・ブーシェの声で話した。
「あの、話さない方がいいのでは、出来れば犬の鳴き真似くらいは必要かと」
「君もしつこいね。どうせ見えやせんのだからと言っているだろう。何なら本当のお化けの格好をしようか」
出がけに子犬に説教をされてしまった。
「いえ、そのままで結構です」
子犬に向かって頭を下げた。
「そうだろう。分ればいいんだ」
加菜子の手を引いてエレベータを降り、マンションを出ると、日差しの強さに眩暈がしそうだった。アスファルトの道路は熱せられたフライパンのように熱く、履いている靴の裏が溶けそうな気がした。
(加菜子に帽子を被せて来るんだったな)
思ったとたんに加菜子の腕の中の子犬が消え、頭の上につばの大きい麦わら帽子が現れた。
「これで涼しいだろう。何と言っても冷気ならぬ霊気つきだからね」
あまり幽霊自身からは聞きたくない洒落だった。書き表さないと分らない「冷気」と「霊気」の違いがはっきりと分ってしまうあたりが、以心伝心の凄いところだ。
加菜子が「わーい、涼しー」と言って飛び跳ねた。麦わら帽子からも「ほ、ほ、ほ」と笑い声が上がった。
五分程歩くと一番近い大型のスーパーマーケットがあるが、城島はその前を通り過ぎて、その先にある酒屋に向かって歩いた。歩きながらスーパーの大きなガラス窓を何気なく眺めて、ぎょっとした。
加菜子の頭に乗っている、麦わら帽子に変身したロベルト・ブーシェの姿が、ガラスに映っていないのだ。自分と加菜子の姿は映っているのに。立ち止まって加菜子を見下ろすと、その頭には先程と変わらずに麦わらの帽子が乗っている。
「別に不思議ではないよ」
麦わら帽子からロベルト・ブーシェの声がした。
「ガラスに私の姿が映っていないのは、君に幽霊は鏡に映らないという先入観があるからだ。心の何処かにそういう固定観念を持っているからそうなるだけのことだ」
何を言われているのか、良くは分らないが、確かに幽霊は鏡に映らないという情報を何処かで聞いた記憶はある。しかし、本当なのだろうか。
「本当のことさ。嘘は言わないよ。嘘を言えるのは生きている人間だけさ」
ロベルト・ブーシェが、こともなげに言った。しかし、感覚が現実に全く付いて行けていなかった。理屈では理解しようとしても、感覚がそれを拒んでいるのだ。
「城島君、目に見えるものだけが現実ではない。こんな当たり前のことが分らないのかね」
それが当たり前ならば、今まで自分が生きてきた常識は一体どうなるのだろうか。
「まあいい、続きはまた次の機会にしよう」
流石のロベルト・ブーシェも面倒になったのか、投げやり気味に話が終った。
自動扉を潜って酒屋に入ると、エアコンの冷気が心地好く感じられた。やはり生身の人間には霊気よりも冷気の方が心地良いに決まっている。
「あれ、城島さん、珍しくお嬢ちゃんと一緒かい」
顔馴染みの初老の店主が気さくに声をかけて来た。
「ええ、買い物のついでですよ」
「そうかい、ついでにしちゃあ、ちょっと暑過ぎるがねぇ。城島さんはいつものビールとバーボンウイスキーだろ。後はお嬢ちゃんの飲み物かい」
「いえ、今日はワインを買おうと思いまして、何かお勧めはありますか」
「へぇー、城島さんがワイン、ビールとバーボン以外は飲まないと思っていたんだけど、何かあったのかい、例えば宝くじに当たったとか」
宝くじに当たることと飲む酒の種類には何の関係もないと思うのだが、普段は金がないために安い酒を飲んでいると思われているのだろうか。
「そうじゃないんですよ。今日は客が来るもので、その人がワイン好きらしくて」
「ああそうか、そういうことなら予算次第だけど」
城島がおおよその予算を言うと、店主はそれに見合った国産のワインを棚の中から選んでカウンターの上に置いた。
「もう少し上にしてくれ」
加菜子の被っている麦わら帽子からロベルト・ブーシェの声がした。店主の顔を見たが、「何か」と言った表情で城島を見返すばかりだった。店主にロベルト・ブーシェの声は聞こえていないようだった。
「その上のクラスはありますか」
城島の言葉に店主が二ヤリと笑った。
「そうなるとこれだな」
店主が次にカウンターに置いたのは、国産の物よりもやや値段の高いチリ産の赤ワインだった。
「これはお勧めだよ。値段も手頃だしね」
「それでいいよ」
麦わら帽子から声が聞こえた。
「それを三本頼んでくれ」
フランス人は水替わりにワインを飲むという話を聞いたことがあるが、それは死んでからも変わらないのだろうか。ロベルト・ブーシェの要望通りに、三本のチリワインを購入して、加菜子にはアイスキャンデーを買い与えた。流石に麦わら帽子姿のロベルト・ブーシェは自分にアイスを買えとは言わなかった。
店主の「ありがとうございましたー」という愛想たっぷりの言葉を背に受けて酒屋を出た。加菜子はアイスキャンデーでべとべとになった手をブラブラと振っていた。
「加菜子、私の体で手を拭きなさい」
麦わら帽子からの言葉に「はーい」と答えて、加菜子が帽子の頭の部分で手を擦ると、アイスキャンデーで汚れていた手が、またたく間に水で洗ったように綺麗になった。
「城島君、見たかね。君ではこうはいかないよ。加菜子には麦わら帽子で手を拭いて手が綺麗にならないという先入観がない。だから綺麗になったのだ。分るかね」
確かに城島ならば、アイスでべとべとになった手を麦わら帽子で拭いたりはしない。そんなことをしても、綺麗になる訳がないと思っているからだ。
「その先入観がいかんな」
それは先入観ではなく、経験値と言うのではないのだろうか。だが、うだるように暑い路上でそれ以上の議論はしたくないので、そこは軽く流すことにした。
「ワインも買ったことだし、後はスーパーで食材の買い出しを済ませて、早く帰りましょう」
「そうしようか。加菜子も暑がっているしな」
加菜子を見ると暑がっているどころか、跳び跳ねるように城島の後を歩いている。これは間違いなくロベルト・ブーシェの帽子のお蔭だ。
「お昼と晩御飯、何が食べたい」
加菜子は立ち止まり、腕を組んで「うーん」と言って暫く考え込んでいた。この仕草は妻の茉莉絵のものとそっくりだ。やがて両手をパンと打って「唐揚げ、それとハヤシライス」目を輝かせて言った。
「ハヤシライスというのは、ハッシュドビーフとライスのことかね」
麦わら帽子からロベルト・ブーシェの声がした。
「ええ、そうです。ハッシュドビーフを御飯にかけたものです」
「ならば、私もそれにしよう。それと赤ワイン、今日のディナーが楽しみだな」
スーパーに入り夕食用の食材と昼食用のトマトとベーコンのサンドイッチ(ピーナツバターは暫くは買わないことにした)を買い揃え、部屋に帰った時には、体中が汗でぐっしょりと濡れていた。
シャワーを浴びなければ気持ちが悪い。
加菜子は顔にうっすらと汗を欠いているだけのようなので、乾いたタオルで拭かせるだけにして、自分はシャワーを浴びるために服を脱いで浴室に入った。ついでに浴室内とバスタブの掃除もして、パンツだけを履いてバスタオルで体を拭きながら冷蔵庫からビールを取り出していると、加菜子が上目使いに城島を見ながら近づいて来た。
「どうした、何か飲みたいのか」
「もうオレンジジュース飲んだの」
「そうか、サンドイッチは食べたのか」
「うん、食べた、それより」
加菜子が右手の人差し指を伸ばして、城島の腹を小突いた。
「パパ、お腹がプクプク」
加菜子の言う通り、城島は最近ビールの飲み過ぎのせいか、腹の辺りの肉付きがかなり「ふくよか」になっている。中年肥りにはまだ早い年齢のはずだが。
「唯のビール腹だ。気にするな。そのうち痩せるさ」
城島の言葉に加菜子が小首を傾げた。
「そのうちって、何時?」
その喋り方、仕草、共に業とらしい程に茉莉絵に良く似ていた。
つき合い出した当時の「ギターのコンクールに優勝しする予定だ」と言う城島の言葉に「それって何時?」と返って来た言葉、ショーウインドウの高価な宝石を眺めていた彼女に「そのうち何時か買えるようになるよ」と言った時、「そのうちって何時のこと?」と答えて小首を傾げた仕草を思い出さずにはいられなかった。
「そのうちは、そのうちだ。深く考えるな」
「そのうちというのは、良い言葉だな」
何時の間にかロベルト・ブーシェが加菜子の脇に立っていた。
「曖昧にして、不確定。仕事が出来ない者の常套句だ。怠け者にとっては、これほど都合の良い言葉はない。違うかね」
ロベルト・ブーシェの身長が天井に届くくらい大きくなり、城島を見下ろした。というより見下した。
城島は自分が勤勉とは、爪の先程にも思ってはいないが、幽霊や子供から非難されるような怠け者とも思ってはいない。
「城島君、暫くビールは控えたらどうかね」
ロベルト・ブーシェと加菜子が、城島の持っているビールのロング缶をじっと見た。
「あまりじろじろ見るな。ビールがまずくなる」
「だったら飲まなきゃいいじゃない」
加菜子が唇を尖らせた。
「いいか、これは俺の数少ない楽しみの一つだ。その楽しみを邪魔する気か」
「加菜子、お前の父親の数少ない楽しみを邪魔しないように、あっちでテレビでも見ることにしよう」
思いがけず、ロベルト・ブーシェが加菜子を諭してくれた。
二人が連れ立ってリビングへと移動して行った。残された城島は、キッチンの椅子に腰を降ろし、パンツ一枚で昼間からビールを飲むという幸せよりも、ちょっとした罪悪感の方が勝っているような気がした。
ゆっくりと時間をかけてビールを飲み干す。リビングから「パパ。クーラーつけてもいい?」という声が聞こえた。「ああ、いいぞ。但し、温度設定は二八度だぞ」城島の言葉に加菜子が「はーい」と答えた。
子供に野菜を食べさせるための工夫をしたり、節電を心がけたりと見かけはお父さんでも、中身は主婦以外の何者でもない。
洗濯してあるTシャツとコットンパンツを見につけ、冷えた麦茶を入れた ガラスのポットとグラスを三個乗せたトレイを持ってリビングに入った。
グラスに注がれた麦茶を三人三様で飲む。ビールを飲み終わったばかりの城島は酔いを覚ますかのようにゴクゴクと喉を鳴らして、オレンジジュースを飲んだばかりの加菜子は一口だけ飲み、そしてロベルト・ブーシェは恐る恐るといった感じで、グラスに鼻を近づけて匂いを嗅いでいた。
「ロベルトさん、麦茶は初めてですか」
「麦茶? アイスティーではないのかね」
「広い意味ではアイスティーですが、紅茶ではありません。麦を煎った物を煮出して冷やした飲み物を、麦茶と言うんです」
ロベルト・ブーシェがグラスに近づけていた鼻の替わりに口を近づけ、麦茶を一口啜った。
「どうです、お口に合いますか」
「いや、私はアイスティーが飲みたかったのだが、これはこれで中々香ばしくて美味しい物だね」
フランス人に麦茶の美味さが分るとは、以外だった。
「これにイチゴジャムを入れるともっと美味しくなると思うのだが、どうかね」
やはり、フランス人、尋常な味覚ではなかった。麦茶にジャムを入れるとは、ロシアンティーを発明したロシア人でさえ思いつかない発想だ。
「いえ、砂糖を入れる家もあるようですが、ジャムは日本では入れませんよ」
「そうかな、まぁ、味覚において日本人がフランス人に適うはずがないからね。致し方なしといったところか」
即座に話題を変える必要があった。
「ところで、夕飯のハッシュドビーフは、甘口にしますか、辛口にしますか」
「辛口のハッシュドビーフなど聞いたことがないよ。甘口にしてくれ。隠し味にワインを忘れんようにな」
要は甘い、しょっぱい等の味のはっきりしている物がお好みのようだ。一緒に作る鶏肉の唐揚げにも充分に下味をつけることによう。
「さて、私は少し昼寝をすることにする。加菜子も城島君もどうかね。昼寝は長生きの秘訣だよ」
八八歳で亡くなる直前迄現役のギター製作家として仕事をしていたロベルト・ブーシェの言葉には、妙な説得力があった。しかし、城島の記憶が正しければ、確かロベルト・ブーシェは昼寝の最中に亡くなったのではなかったか。
「その通り、私は昼寝の最中にこの世との縁が切れたようだ。気がつくと、あのギターと一緒にいた。しかし、昼寝が体に悪いという訳ではないよ。私は毎日していたからね」
グラスをかたづけて、三人でリビングに横になった。加菜子がたて始めた寝息を聞きながら、幽霊に昼寝等必要なのか、そもそも眠ること自体必要なのかと思っているうちに、城島も何時の間にか瞼が重くなっていった。
「城島君、このハッシュドビーフは中々いけるね。ワインとの相性も抜群だ」
ロベルト・ブーシェがワインのグラスを目の前に掲げながら、目を細めて言った。
「そうですか、お口に合ったようで何よりです」
「このチリ産のワインも悪くはない。フランス産には及ばないが、香も味も値段の割には頑張っている」
飽くまでも食べ物に関する限りは、上から目線を変える気はないようだ。
「城島君、君はギター弾きをやめて、料理人になった方が良くはないかね」
ハッシュドビーフに使ったドミグラスソースは、市販の缶入りの物を使ったのだが、ロベルト・ブーシェは大分この味が気に入ったらしい。
ギター弾きをやめて、料理人になれとは、料理人としての腕を買われたのか、ギター弾きとしてダメ出しをされたのか、どちらなのだろうか。いや、その両方という可能性もある。
ロベルト・ブーシェの隣では加菜子がスプーンをわし掴みに、してハヤシライスを頬張っていた。スプーンや箸の正しい使い方を教えなければならないのだが、それはやはり城島がしなければならないことなのだとう。
「この鶏肉を油で揚げた物も良く出来ている。下味のつけ方が絶妙に素晴らしいね」
絶妙というよりも、醤油と料理酒につけて置いただけのだが、日本食を食べたことのないフランス人にとっては、醤油も酒も未知なる調味料なのだろう。
城島にとってはやや味の濃い唐揚げを一口つまみ、キンキンに冷やしたビールを喉に流し込んだ。今日は休日、仕事の後ではないが、これほど美味い物が他にあるのか、と思う瞬間である。
人心地ついて目の前を見ると、加菜子の脇に座っていたロベルト・ブーシェの姿が見えなくなっていた。使用していた空のワイングラスがテーブルの上に乗っている。
「ロベルトさん何処に行ったんです」
声に出してみると「私は城島君の目の前にいるよ」という返事が加菜子の口の中から聞こえてきた。
「えっ、まさか」
「そのまさかだな。私は今加菜子の中にいる。スプーンの使い方を教えようと思ってね。この娘は利発な子だが、可愛そうなことにきちんとした教育を受けておらん。食事のマナーを教えるのは親の義務だと思うのだが、違うかね。だが今日は美味いディナーの礼だ。私に任せておきなさい」
「しかし、乗り移るというのは……」
「何を言っている。私は悪霊ではないよ。失礼だな。体に入って、良い習慣を馴染ませるだけだ。何の問題もない。それに私とこの子は非常に波長が合う。すぐに終るよ。まぁ、見ていなさい」
城島はロベルト・ブーシェの言葉に従うことにした。他に方法がないし、結果を見てみたいという好奇心の方が心配よりも優先した。
「どうだね加菜子、こう持った方が手も顔も汚れないだろう」
「あっ、本当だ」
加菜子一人の口から二人の、しかも幼児と老人の声が交互に聞こえて来るのは、かなりシュールな絵面だった。それを見ているだけで、酔いが普段の倍は早く回るような気がした。
「もう済んだよ。加菜子を見てみなさい」
早々と缶ビールを飲み終わって、バーボンウイスキーのオンザロックを飲むために、冷蔵庫の冷凍室から氷を取り出していた城島の背中にロベルト・ブーシェの声がかかった。振り返ると加菜子とロベルト・ブーシェが二人並んで城島を見つめていた。
アイスペールに氷を入れ、椅子に座ると加菜子がスプーンで、ハヤシライスを再び食べ始めた。しかし、その食べ方は先程までとはうって変わり、スプーンの持ち方、それを口に運ぶ動作、全てがマナー教室のモデルのように優美だった。
「どうかね、こんなところだ」
何時の間にか加菜子の口の回りについていたソースも綺麗に拭われていた。
「素晴らしい。こんなことが出来るなんて、幽霊って便利なものですね」
城島は自分の思いもつかない方法に、感慨を深くして声を上げたが、ロベルト・ブーシェは城島の感想には不満気に頬を膨らませ「他の幽霊のことは分らんよ。但し、これは私にだから出来ることだとは思わんかね」と声を荒げた。
加菜子が恐る恐る声のする方を見上げた。
「加菜子に怒っているのではないよ。加菜子の父親に少し注意をしているだけだ。心配は入らない。さぁ、安心したら、向こうの部屋でパソコンでも見ていなさい」
ロベルト・ブーシェが優しく言うと、加菜子は「はーい」と答えて、使っていた食器を流しに置くと、リビングに入って行った。
ロベルト・ブーシェはその後を追うことはなく、グラスに注いだワインを飲んでいた。
城島はバーボンウイスキーのオンザロックを飲みながら、暫くその様子を眺めていた。ゆっくりと一定のテンポを保ちながらワイングラスを口に運ぶ様は、不思議と見ていて飽くことがない。何故だろうか、これがこの世の者ならざる者の恐怖を越えた、魔性の魅力なのだろうか。また、この状況をまともに受け入れている自分をも未だに信じられない。様々な感情がアルコールと共に頭の中をうごめき出した。
「これでも、結構気を使ってはいるのだよ」
長い沈黙の後、ロベルト・ブーシェが静かに口を開いた。
「常識的に考えて、ありえない存在だからね」
幽霊の悲観した言葉は聞きたくはない。何故ならば存在そのものが楽しいものではないからだ。
「ロベルトさんが死んだこの世に留まっている理由は何でしょうか」
城島がグラスにバーボンウイスキーを注ぎながら訊ねた。
「それは私にも分らない。分らないからこのような状況になっているのかもしれないね」
恐らくはロベルト・ブーシェのような状態を仏教で言えば「成仏していない」ということなのだろう。しかし、飽くまでも実態としての体を持っていないというだけで、悪霊というものとは全く違うのだと思う。だからこそ城島も加菜子もその存在に恐れることなく、自然に受け入れることが出来たのではないのだろうか。
ここにもしも茉莉絵がいたならば、この状況をどう思っただろうか。城島が酔いの回った頭でそう考えた時、「こんな感じかな」と言ってロベルト・ブーシェの姿が次第に霧状に朧になり、再びビデオの逆再生のようにはっきりと見えるようになって、現れた姿は、紺色のポロシャツを着た茉莉絵だった。
「悪い冗談はやめてくださいよ」
眉間に皺を寄せた城島に対して「まぁ、いいじゃない。それにこんなのはどう?」声は茉莉絵のものとは違っていた。間の抜けたようなかたことの日本語、先日岩本に連れて行かれたキャバクラのカテリーナにそっくりの声、そして話し方だった。
茉莉絵の着ている服がピンクのタンクトップになり、胸がぐっとせり出すように大きくなった。
「やめてください。悪酔いしそうだ。それに今、そんなこと考えていませんよ」
「そうかね。男は誰でもこんな女性が好みと思ったんだがね」
声だけがロベルト・ブーシェに戻っていた。
「勿論、正直に言えば、嫌いではありません。でも、今、ロベルトさんにその姿になって欲しいとは思いませんよ」
「それならば」そう言うと茉莉絵の姿が霞んで見え、再びロベルト・ブーシェ本来の姿となって現れた。危うく自宅の台所がキャバクラ状態になるところだった。
「ロベルトさんは亡くなった時の記憶はあるのですか」
これ以上茉莉絵の話をしたくない城島が話題を変えた。
「亡くなった瞬間の記憶はないよ。あの日、一九八六年の八月十五日、気持ちのいい午後だった。私は午前中の仕事を終え、昼食の後、いつものように昼寝をしていた。そして目が覚めたら、こうなっていた。生きている側の人間から見れば、目が覚めなかったということだろうね。初めは皆が何故悲しんでいるのか分らなかったよ。誰かに何かの不幸が起こったのかと心配をしていた。それを誰かに聞こうとしても、誰も私の話に答えてはくれないのだ。それどころか、皆が私を無視している。何故だ、と思って近くにいた人、妻のアンドレだがね。彼女の腕を掴もうとしても、掴めないのだ。まるで空気を掴むようにね。夢を見ているのかと思ったよ。城島君が私を初めて見た時のようにね」
ロベルト・ブーシェはにんまりと笑い、目の前のグラスにワインを注いだ。既に一本目のボトルが殆ど空になっていた。
「自分が死んだのかもしれないと思ったのは、私の死体と対面した時かな。自分に良く似た人だなと思っていたら、皆がその体に身を寄せながら私の名前を呼ぶではないか。ロベルトとね。そこで私は自分の死を知らされたのだよ。それからはあのギターと一緒さ。かれこれ二十年、その間には色々なことがあったよ。あのギターが私の死後、家族の知らないうちに使用人によって売られてからというもの、フランスの国内をさまよい、日本に来たのは五年ほど前かな。しかし、その時に日本に持ち込んだ楽器屋が、あのギターをフラメンコギターにしおった。この私が精魂込めて作ったあのギターをだよ」
ロベルト・ブーシェが吐き捨てるように言い、音を立ててグラスをテーブルに置いた。
「ゴルペ板を貼られたことやフラメンコギター用の弦を張られたことが問題なのではない。あのギターがフラメンコギターとして認識されたことが問題なのだ。お蔭で私はあのギターの中から出られなくなってしまった。
私はあのギターがフラメンコギターとして扱われることに我慢が出来なかった。だから度々出来る限りの力を使ってギターをケースの外に出していたのだよ。前の持ち主はそれを気味悪がって、安値で楽器屋に売ったがね。その楽器屋であのきざな男が見つけてくれた。そして、君がクラシックギターに戻してくれた。あのギターをクラシックギターと認めた。そのお蔭で私はこうして自由の身となったのだ。もっとも、あのギターから遠く離れることは出来ないがね」
ロベルト・ブーシェがグラスに残っていたワインを一息に飲み干した。幽霊とはいくらアルコールを飲んでも酔わないものなのか。酔っ払いの幽霊は見たくはないが、いくらでも飲んでしまうというのも如何なものだろうか。
「いくらワインとはいえ、飲めば酔うさ。唯、ボトルの一本くらいでは酔いはしないよ」
ロベルト・ブーシェが新しいワインの蓋をコルク抜きを使って器用に開けた。その仕草が少し川村に似ているなと思ったが、深く考えるのはやめて、グラスに入ったバーボンウイスキーを一気に呷った。酔いという逃避の世界に体がふわりと入っていくのを感じた。
酷い喉の乾きと暑さで目が覚めた。朝からエアコンのスイッチに手を伸ばしかけたが、それは我慢して扇風機のスイッチを入れる。
起き上がると、御飯の炊上がる香りの他に甘酸っぱい匂いがした。「またか」と思ってテーブルの上を見たが、イチゴジャムの中身はどこにも置かれていない。
食卓に着くと御飯と味噌汁が並べられた。取り敢えずこの二つがまともならば、大丈夫と安心した。しかし、食卓を見回してみると、尼酸っぱい匂いの元と思われる物が存在していなかった。鮭の切り身を電子レンジで温めたもの、沢庵をおかずに食事を始めた。まずは二日酔いの朝の定番味噌汁を軽くすすった。そして危うく中身を口から吐き出しそうになった。レトルトの大根の味噌汁には大量のマーマレードが入っていた。朝起きた時に嗅いだ甘酸っぱい匂いの正体はこれだったのだ。
「おや、城島君、いきなりそれからいくとは通だねえ。どうやら加菜子の独創的な料理の味が分かって来たかな」
笑いながらロベルト・ブーシェが城島の隣に座った。
「このマーマレード入り味噌汁はロベルトさんのアイデアですか」
「いや、これも加菜子のオリジナルだよ。素晴らしいねぇ。本格フランスレンチの店のメニューに載っていてもおかしくはないよ」
あり得ない。そんなことは絶対にあり得ないのだが、あえて発言はしないでおく。
口直しに何か飲み物が欲しいと思い、グラスを探すとそれは卓上にあった。しかも中には茶色い液体が七文目ほど入っている。
「加菜子、これは俺のために淹れてくれたお茶か」
「そう、パパに作ったの」
「よし、この中にはジャムやマーマレードは入ってはいないな」
「うん、入れてない」
「じゃあ、これはなんていうお茶だ」
「えーとね、じいじいがくれたんだけど、うーん、忘れちゃった」
まあジャムやマーマレードが入っていないのならば大丈夫だろうと、一気に口に入れて、今度は本当に吹き出してしまった。グラスの中身はドクダミ茶だった。味噌汁に入っていたマーマレードのせいで鼻が馬鹿になっていたようだ。
「パパ、汚なーい」
加菜子が雑巾を取りに流しに走った。
「あの爺さんこんな物毎日飲んでるのか」
「うん、毎日沢山飲んでるの。元気の秘訣って言ってた」
「いいか、よく聞いてくれ。これは確かに体に良い飲み物かもしれない。しかし、俺はこんな物を飲む気は全くない」
最後の方は諭すように、娘の顔を見ながらゆっくりと喋った。
「パパはこのお茶が嫌いなの」
加菜子が床に広がったドクダミ茶を雑巾で拭き取り、上目遣いに城島を見上げた。
「嫌いではない、飲まないだけだ」
食べ物の好き嫌いをたしなめなければならない親の立場からして、嫌いだから食べない、という言葉は使いたくない。ここは言葉を濁しておくべきだろう。それに「飲めない」ということが御子柴大蔵に見下されるような気がしていやだった。
「なにそれ」
案の定、幼児に大人の事情等分かるはずもなかった。
「いいんだ、大人にはそういう選択肢もある。そのうちに分かることだ」
加菜子は「よく分かんない」と言って頬を膨らませた。城島は空になったグラスに冷蔵庫から取り出したペットボトルから、ミネラルウォーターを注ぎ入れ、それを一息に呷った。隣ではロベルト・ブーシェがにこやかにマーマレード入りの味噌汁を飲んでいた。この老人はすっかり加菜子の「独創的な」料理がお気に入りのようだ。城島は味噌汁のお椀をさりげなくロベルト・ブーシェの方へ押しやって、居たたまれない気分になり、自分用に緑茶を用意し、新たに買い置きした振りかけを御飯にかけて、沢庵と共に急いで掻き込んで朝食を済ませた。
オタクな作曲家
城島がいつものように夕方帰宅すると、リビングの方から賑やかな声が聴こえて来た。またロベルト・ブーシェが加菜子と二人で動画サイトでも見ているのかを思って、着替えもせずにリビングのドアを開けるとそこには、やはりロベルト・ブーシェと加菜子がパソコンを眺めていた。唯、何時もと違うのはパソコンの前に座っているのが二人だけではなく、もう一人、中年のお腹のポッコリ出た男が、そこに混じっていたことだった。体つきは小柄で小太りであることは分かるのだが、顔のあたりは少しぼやけている。目や鼻、口といった顔を構成しているパーツがぼやけていてはっきりと見えないのだ。やはりロベルト同様、向こう側の方のようらしい。パソコンの画面が見えるくらい置に移動しながら男をじっくりと観察する。服装はジーパンに少しくたびれた黒いTシャツ、頭にはオレンジ色のバンダナを巻いている。
「やあ城島君、帰っていたのかね」
城島に気が付いたロベルトが声を掛けて来た。
「この方はどちらなんですか」
「名乗る程の者ではありませんよ」
城島の問いかけにロベルトよりも先に低く沈んだ声で男が答えた。口だけは動かしたようだが、視線はパソコンの画面を食い入るように見つめている。
「まぁ、いずれ分かるじゃろう」
ロベルトが口元に薄ら笑いを浮かべて腕組みをしていた。
パソコンの画面には四人の若い女子が同じような白いブラウス、水色のミニスカートというスタイルでステージの上で歌い、踊っている動画が流れていた。ボリュームをかなり下げているようだが、女の子たちにかけられる歓声の凄さが画面越しに伝わって来るようだ。
「これは何ていうグループだ」
加菜子に訊ねると、
「えっ、パパ知らないの? 瑠璃瑠璃クラブ、今一番人気あるんだよ」
どうやら、それがこのグループ、おそらくはアイドルと呼ばれているのだろうが、普段このような者たちの出演するテレビ番組を見ない城島には全く理解の及ばない範疇だ。だが、男はこのグループがかなりお気に入りらしく、時々「イエーイ」などと歓声を上げながら両手をポッコリお腹の上でリズムを取っているつもりなのか、軽く握った拳を小刻みに上下させている。
「ロベルトさん、こちらとはどういったお知り合いなんですか」
「同業者じゃよ、広い意味での」
広い意味とは、ギター製作家ではないが、音楽関係者ということなのか。それにしても、この世の者ではないようだが、ロベルト・ブーシェに初めてあった時と同じように怖さというものを全く感じない、不思議な存在だった。
「こちらは日本の方ですか」
「いや、オーストリアではなかったかな、そうだなフランツ」
ロベルトがパソコンの前の男に話しかけた。
「そう、僕はオーストリア人だよ」
フランツと呼ばれた男は、低い声で返事をしながらも少しも画面から目を逸らそうとしない。
「オーストリアの方が、何をしに我が家に来たんでしょうか」
「いや、今日秋葉原というところをテレビで目にしてね。面白そうだから少しだけ出かけてみたのだよ。あ、出かけたと言っても電車に乗って行った訳ではないよ」
そんなことは言われるまでもなく分かっている。
「その秋葉原のメイド喫茶という所でこの男に会ったのだ。その後なんとかいうアイドルグループのコンサートに付き合わされた。おかげで帰って来るのがすっかり遅くなってしまったわい」
これは間違いなくオタクと呼ばれる人種に違いない。
「日本のアイドルは素晴らしい。これはヨーロッパの何処の国にもない文化です」
男が初めて城島の顔を見上げた。心なしか目鼻立ちが先程よりもすっきりしているような気がした。男は一瞬だけ城島と目を合わせたが、その視線はすぐにパソコンの画面へと戻って行った。
「私には、ああいったアイドルとかいうものに歓声を上げる者の気持ちがさっぱり分らんよ。音楽とはもっとしっとりと情緒豊かに歌い上げる物だと思うのだがね」
城島も最近のアイドル事情についての知識は殆ど持ち合わせてはいなかった。全く興味がないからだ。だが、最近では秋葉原に集まるオタクたちを集めてコンサートを行うアイドルグループがあることくらいは知っていた。
「もしかして、握手会とかにも並んだんですか」
「いや、そこまではしておらんよ。フランツも実体化は出来るんじゃが、こう見えてこの男は中々シャイでね」
そうなのだろうか。でも、人は見かけによらない(人ではないが)と言うし、オタクと呼ばれる人たちの多くはアニメやフィギアが大好きで生身の人間は苦手だという話を聞いたことがあるような気がした。
「ところで、フランツさんは何歳くらいなんですか」
「何歳くらいと言うと」
男は又画面を見ながら答えた。
「まぁ、何ていうか、そういう姿になってからっていうか……」
「ああ、死んでからってこと。それは知らない。きっと百年は経ってるんじゃないかな」
「いや、もっとじゃよ。死んでからざっと二百年というところかな」
横からロベルト・ブーシェが口を挟んだ。あちらの世界の上下関係は分からないが、ロベルトの言葉が正しいとすれば、フランツの方がロベルトよりもかなりの先輩ということになるのだろうか。
「では、フランツさんは亡くなってからずっとこちらの世界に留まっているんですか」
「そんなことないよ。あの世、まぁ天国かな、で仲間たちと楽器を弾いたり、曲を作ったりしながら楽しく過ごしてるんだけど、偶にこっちの世界に来てみるんだよね。日本に来たのは多分初めてだけど、秋葉系のアイドルグループはいいね。日本独自の文化だね」
もしかすると、というよりアイドルに関する情報では、絶対に城島よりも遥かに詳しそうだ。
「そして、このパソコンという魔法の箱はすごいね。まるでライブハウスの最前列にいるような臨場感だ。僕もこの時代に生まれたかったな」
城島はリビングを出て夕飯の準備をすることにした。ロベルト用に買った赤ワインをキッチンのテーブルに置いていると、ロベルトが隣に立っていた。「中々面白い男だろう。あれで生きている時には全く売れていなかったせいで、少し拗ねていたんじゃな。しかし、アイドルを応援するということでそのことを忘れようとしているのかも知れんな」
「そうなんですか。もしかすると私でも名前を知っている方なんですか」
城島の質問にロベルト・ブーシェは答えなかった。唯少し遠くを見るような眼差しをした。
「そうだな、名前はともかく一つ言えることはあの男は全くの人畜無害であるということだ。ここに置いておいても絶対に城島君や加菜子に迷惑をかけるようなことはせんよ」
「ここにいることに何の問題もないと思いますが、どのくらいの期間なんでしょうか。いくら人畜無害といっても、あまりアイドルの動画ばかりいうのはどうも」
「加菜子の教育に良くないかね」
「ずっと娘をほったらかしにしている父親が偉そうなことを言えないのは分かっています。しかし……」
その先の言葉が出なかった。
「ところで、フランツさんはアルコールは飲むんですか? もしワインで宜しければ在庫がありますが」
強引に話題を夕食に変えた。
「うん、ワインは大好きだよ。生きている時はお金がなくて人に奢って貰うばっかりだったけど、久しぶりに飲めるのは嬉しいな」
何時の間にかフランツが隣に立っていた。背丈は城島の肩あたりまでしかない。
暫く城島家に滞在するということは、毎日ロベルト・ブーシェと同じようにアルコール代がかかるということだ。人畜無害どころか、城島家の家計に大打撃を与えかねない。
「大丈夫、彼は自分の飲み代くらいは稼いで来ると思うよ」
城島の心の中を読んだのか、ロベルト・ブーシェが、和やかに答えた。
「食べ物はどうしますか」
「オムライス」
何時の間にか部屋に入っていた手加菜子が嬉しそうに言った。加菜子は自分に新しい友達が一人増えたくらいに思っているようだ。
「うーん、悪くない。夕飯はそれにしよう。城島君お願いする。何か手伝えることがあれば遠慮なく言ってくれ、と言っても足手まといなことばかりで迷惑をかけることになるのだろうが」
「はい、私は一人で夕飯の支度にかかります、皆さんは動画でも御覧になってリラックしていて下さい」
保温機能付きのジャーの中には人数分になんとか足りそうな御飯が入っていた。
チキンライスを作りながら、冷蔵庫の中の缶ビールを取り出して、プルトップを開け、そのまま缶に口をつけて一気に喉に流し込む。心地良い冷たさが喉を通り抜けて行った。
その後、二本の缶ビールが空となり、三人数分のオムライスと野菜サラダというシンプルな夕飯が出来上がった。既にテーブルには城島以外の三人が席についている。
まずは加菜子がオレンジジュース、城島がウイスキー、他の二人がグラスに注いだワインで乾杯をした。
「城島君の料理は超グッドだね」
オムライスを一気に食べ終え、ワインも一口で空にしたフランツが言った。その空いたグラスにワインを注ぐと「ありがとうございます」と言われた。この男はオタクにしてはかなり礼儀正しいのかもしれないと思った。
「ところで、フランツはギターも弾けるのだったね」
こちらはゆっくりとスプーンでオムライスを口に運びながら、ロベルト・ブーシェが言った。
「どうかね、私のギターをこの男に弾かせてみては」
城島のスプーンを動かしていた手が止まった。フランツがそれを見て、嬉しそうに笑い、
「ロベルトさんのギターがあるんだ。だったら、是非弾かせて欲しいな」
上目使いに城島を見た。まるで何かをねだる時の女子の仕草だ。オタクの他にオカマの気もあるのだろうか。
アルコールを飲んでから楽器を弾くのは良くないと思ったが、それは生身の人間の話だ。ロベルト・ブーシェたちにこの常識は当てはまらないだろう。逆にこの男がどのくらいギターを弾きこなせるのか確かめてみたいという、少し意地の悪い気持ちが湧いてきた。
立ち上がってリビングの隅に立てかけてあったギターケースを開いて、中のギターを取り出した。チューニングを確かめているとワインの入ったグラスを手にしたフランツがすぐ後ろに立っていた。
「これ持ってて」
グラスをロベルト・ブーシェに手渡し、城島から受け取ったギターで何種類かのコードをゆっくりと弾いた。
「へーっ、今のギターって大きいんだね」
フランツの言う通り、現在弾かれているクラシックギターが現行サイズになったのはおよそ百年程前のことだ。それまでは今の物よりもふた回りは小さく、遥かに小さい音しか出せなかった。
ずんぐりむっくりとした左手の指を目一杯開いて弦を押さえながら、二、三分指慣らしをした後「楽しい曲と悲しい曲どっちがいい、お嬢ちゃん」和音を鳴らしながら加菜子に向かって訊ねた。
「楽しい方」
「うん、分かった」
答えたフランツが静かに歌い出した。その声を聴いて城島は雷に打たれたような衝撃でその場から動けなくなった。
城島が耳にした歌声、それは今迄城島が生演奏は勿論、CDやDVDでさえ耳にしたことのない、美しい澄み切ったボーイソプラノであった。
「童は見たり、野中のばら、清らに咲ける、その色愛でつ、紅におう、野中のばら」
それは湖の静かな水面に小さな石を投げ入れた時に、波紋が少しずつ広がって行くような、透明な音の波だった。
「さすがは元ウィーン少年合唱隊じゃな」
ロベルト・ブーシェが手を叩いた。
「歌手だった方なんですか」
「違う、曲を作る方、作曲家さ。城島君も知っているはずだがね」
ギターを弾いている男の表情が変わっていった。豊かな褐色の巻き毛、濃い眉毛、明るい茶色の瞳、団子鼻、太くて短い首、それは音楽室の壁に掛けられた肖像画で見たことのある顔だった。
「もしかして、この方はそっくりさんではないですよね」
「まさか、そんな男をわざわざ連れて来る訳がない、さっきから何回も言っているじゃないかフランツじゃよ。フランツ・ペーター・シューベルト本人じゃよ、音楽史に歌曲王として名を刻む大作曲家さ」
フランツ・ペーター・シューベルト、生涯で六百曲に及ぶ歌曲を初め、千曲という膨大な楽曲を残した作曲家である。
「シューベルト、あの有名なシューベルトが何故オタクの真似なんかしてるんですか」
「真似などではないよ。あれが彼の今の姿さ。今こうして『野ばら』を歌っているのも彼、どちらもシューベルトに替わりはないよ」
「このギター大きいけれど弾きやすいね。大分指が慣れてきたから、こんな曲はどうかな」
続いてシューベルトが弾き出したのは、彼が当時発明された楽器「アルペジオーネ」のために作曲した、三楽章から成るソナタの冒頭部だった。楽器はすぐに廃れてしまったが、曲は永遠の命を与えられ、今も尚チェロ等の弦楽器で弾かれることがある。
ギターの指板の上を、指が独楽鼠のように目まぐるしく動く。
シューベルトの演奏は軽快でよどみがなく、それでいて一つ一つの音が煌めいていた。シューベルトの中にある美しい歌が彼の中から外に絶えず溢れ出しているようだった。
「まぁ、指慣らしとしてはこんなもんかな」
ギターを城島に返しながらシューベルトが言った。
全員でキッチンのテーブルに戻って再びワインを飲み始めた。城島の前に座っているシューベルトの風貌はギターの演奏している時とは違い、すっかり先程までのオタクのおじさん姿に戻っていた。
城島は余りにも思いがけないことに言葉を失っていたが、ワインを一口飲んでから、口を開いた。
「シューベルトさん」
「フランツでいいよ」
「では、フランツさん、アイドルオタクと大作曲家、どっちが本当のあなたなんですか」
「さっきロベルトさんが言ったでしょ。アイドル好きも作曲家もギターを弾いているのも全て僕さ。何処にも矛盾はないよ」
矛盾はないが疑問は残る。果たして、音楽史上に名を遺す大作曲家がアイドル好きのオタク等ということが世間に分かったら大変なことになるのではないだろうか。
「それほど大したことではないよ」
それまで黙ってオムライスを食べていたロベルト・ブーシェが空になった皿の脇にスプーンを置いて、ゆっくりとワインを口に含んだ後に言った。
「フランツには自分が大作曲家だなんて自覚は全くないのさ。さっきも言った通り、生前あまり売れてはいなかったからね。自分の曲が死後に売れて、学校の音楽室にバッハやベートーベンと並んで肖像画が飾られているなんて、想像もしていないのさ」
確かに恵まれた境遇ではない短い生涯であったという話は、城島も何かの書物で読んだ記憶があった。
「確かにバッハやベートーベンと並び称されるのは恐縮するね。偉大な作曲家というよりもっと親近感を持ってもらいたいな」
かなり威厳とは程遠い、気さくな人物のようだった。
「これからどうするんですか。またアイドル三昧ですか」
「そうだね、こうして城島君にお世話になっているんだし、これからもここに居候させてもらうんだから、少しは働かないとね」
シューベルトがグラスを顔の前に掲げるようにして言った。この部屋に居候することは城島への断りもなく既に決まっているようだ。
「えっ、働くって、何か当てはあるんですか。まさか、コンビニとか弁当屋でアルバイトする訳じゃないですよね」
それを聞いていたロベルト・ブーシェがニヤリと笑った。
「そんなことは出来ないよ。僕に音楽以外の何が出来るっていうんだい。やるのは路上ライブさ、アイドルの子たちが教えてくれたんだ。たとえ売れていなくても、ライブさえやっていればなんとか音楽家でいられるってね」
路上ライブ、確かに東京近郊の駅前や公園にはパフォーマーと呼ばれる人或いは集団が数多く存在するが、シューベルトが今の世の中で路上ライブを行い、しかも集客出来る等ということがあるのだろうか。ちょっと厳しいのではないかと城島が思っていると、
「大丈夫だよ、何たって僕には自作の曲が六百以上あるからね」
シューベルトが再びワインをかざしてにっこりと笑った。
翌日、城島は勤めているカルチャーセンターから貸し出し用のギターを一本借りてきた。路上ライブにロベルト・ブーシェ作の高価なギターを使うことは出来ない。替わりのギターが必要だったからだ。
城島がギターの入ったハードケースを片手に帰宅すると、リビングではシューベルトが昨日と同じオタク姿でパソコンの前に陣取っていた。加菜子が少し離れた所でミニピアノの鍵盤を叩いていて、ロベルト・ブーシェが後ろからその様子を覗き込んでいた。傍らには分厚い書類の束が置かれている。近づいてそれを手に取ってみると、それらは全て手書きの楽譜だった。
「この楽譜はどうしたんだ」
城島がその一枚を手に取りながら加菜子に訊ねると、
「フランツ君が書いたの」
どうやら加菜子はシューベルトのことをフランツ君と呼んでいるらしい。
「加菜子、この人のことをそんなふうに呼んじゃいけないよ。この人はね」
言いかけた城島の言葉をロベルト・ブーシェが遮った。
「いいではないか。本人がそう呼ばれたがっているのだ。好きにさせてあげたらどうかね」
城島は唯頷くしかなかった。
「それよりも、その楽譜を良く見なさい」
手に取った楽譜に目を落とした。それはドイツ語で書かれた歌曲だった。楽譜の右上、作者の名前の書かれる場所には『Franz Peter Shubert」と署名がされている。
「この全てを彼が暗譜していたのだよ」
「一応楽譜にしておこうと思ってね。アレンジは即興で出来るけどね」
「二百曲はあるね。流石は歌曲王じゃな」
「格好はこんな感じでどうかな」
立ち上がったシューベルトの容貌が瞬時に変化した。黒いカッターシャツに同じく黒い細めのパンツ、肩までのストレートヘアー、顔には大きめのサングラスをかけ、体型もスリムな長身に変化している。
「わーい、フランツ君恰好いい」
シューベルトの変貌に加菜子が歓声を上げ、両足に抱きついた。
「いいんじゃないですか。でも、それで自作の曲を?」
「そうだよ。でもアレンジは今風にするつもりだけどね」
城島はあることを思いついた。けれど、それを言葉に出してよいものかどうか躊躇っていると、
「別に構わないよ。そんなに手間のかかることじゃないし」
城島の思いにシューベルトが軽く答えた。やはり、ロベルト・ブーシェと同じく心の中を見透かされているようだ。
「鼻歌でも何でもいいから原曲のデータがほしいな。楽譜があればそれが一番いいけど」
城島の思ったこととは、城島が独奏で弾いている原曲がピアノ用に作曲されたものを、ギター用に二重奏、あるいは他の楽器とのアンサンブルにアレンジ出来ないか、というものだった。自身で出来ないこともないが、シューベルトがどのように仕上げるのかを見てみたいと思ったのだ。
「そんなに難しいことじゃないよ。作曲に比べればアレンジなんて」
シューベルトが城島の持ち帰った貸しギターを手にして座り込み、
「やっぱりロベルトさんのギターより弾き難いな」
と言いながら、昨日よりも多少大きくなった手で押さえた和音に乗せてゆっくりと歌い出した。
「風のように、馬を駆り、走り行く者あり、腕に童をしっかとばかり、抱けり」
有名な「魔王」の出だしだった。昨日の透き通るような高音とは違い、地を這うようなバリトンが響いていた。直接胸に響いて来るような重厚な音質だった。
ギターの伴奏が一変したのは一番が終わった間奏の部分だった。それまでの伴奏のメジャーとマイナーだけの単純なコードの組み合わせにセブンスやナインスといった現代的な和音が加わっている。しかも、このメロディーは……。
「昨日のアイドルユニットが歌っていたメロディーだよ。こうして間奏に入れると面白いでしょ」
確かにベースラインは「魔王」そのままにリズムとキーを変えて、昨日パソコンのモニターから聴こえて来たメロディーが聴こえて来る。
「フランツが歌曲王と言われている理由が分かるだろう。唯作曲が出来るからではない、彼の中には、メロディー、伴奏、ハーモニー、全てが詰まっているのだよ」
城島は今までシューベルトの作品を素晴らしいと思ってはいても、特別に聴きたいと思ったことはなかったし、弾きたいとも思わなかった。それは、どんな有名な演奏家の演奏を聴いても、何処か野暮ったい感じが否めなかったからだ。今、その理由がはっきりと分かった。シューベルトの作品を演奏するには作曲者本人に匹敵する歌謡のセンスが必要なのだと。シューベルトの作品の持っている独特の節回しをセンス良く演奏することは、超絶技巧の難曲を演奏するよりも難しいことなのだ。その答えが今、城島の目の前にある。
これはギターだけではなく、鍵盤も用意しなければならない、そうしなければこれ以上の音楽的な表現が不可能であることを感じながら、シューベルトがやはり唯のアイドルオタクではなかったことを深く思い知った。
「このパソコンの使い方を教えてよ。楽譜は手書きで構わないけど、パソコンから音が出せると、何かと便利みたいだからね」
シューベルトは城島の使用している浄書用のソフトのことを言っているようだった。
確かに、城島の使用している浄書用ソフトはプロ仕様の物であり、音符を入力さえすれば、オーケストラの音でさえ出すことが出来る。
その晩、城島は何時ものように夕食を摂った後、ウイスキーを飲みながら、夜遅くまでシューベルトに音符入力の方法を教えた。シューベルトは物覚えがいたって
良い上に極めて素直な性格らしく、城島の教えるパソコンの操作を「へー、やっぱり凄いね」等と言いながら、正に砂地に水が染込むように城島の知識を吸収していった。オーストリア生まれの歌曲王の物覚えの早さ、メモの取る速度、的確な質問は城島の常識を遥かに凌駕していた。流石に二百年の時を越え音楽史に名を残す存在であることを痛感せざるを得なかった。
翌日、城島は浄書講座の合間にパソコンを使ってインターネット上にあるシューベルトの情報について検索してみた。それによると、シューベルトは一七九七年にウィーンで生まれ、一八二八年に没したとあるから、僅かに三一年の生涯だったことになる。
五歳から父親に音楽の手ほどきを受け、学校(今でいう小学校のことだろう)に入学した頃からヴァイオリンのレッスンを受け始めている。そして七歳になる頃には既に神童と呼ばれていたらしい。
特筆すべきは一八一五年に一四五という膨大な数の歌曲を作り、その他に二つの交響曲、二つのミサ曲をはじめ、弦楽四重奏曲、ピアノソナタ等の大規模な曲も作っている。これは実に二日に一曲のペースという途轍もないスピードで曲を作っていたことになる。そのためか、極度の近視であったシューベルトは夜寝る時でも眼鏡をかけていたという逸話が残っている。眠っている時でも頭の中に絶えず浮かんで来るメロディーを、目が覚めた時にすぐに五線紙に書き残せるようにしていたのだろう。
城島が帰宅すると、オタク姿のシューベルトがパソコンの前に座り、動画を眺めていた脇では加菜子が身にピアノを弾き、後ろでロベルト・ブーシェがそれを眺めていた。
加菜子が弾いているのは、シューベルトはピアノ独奏のために作曲した四曲の即興曲のうちの一つだった。
「その曲はフランツさんが書いてくれたのか」
「そうじゃよ、それも加菜子でも弾けるように簡単なアレンジにしてね」
加菜子の替わりにロベルト・ブーシェが城島に向かって肩を燻めてみせた。
「いよいよライブをやることにしたんだ。場所は駅前の広場」
シューベルトがパソコンのモニターから顔を上げて言った。
「そこはダメですよ。交番の真ん前じゃないですか一発で捕まりますよ」
シューベルトが大きく両手を広げた。
「えっ、歌を歌うだけで捕まるの」
「ええ、捕まりますよ、公共の場所ですから」
「ふーん。みんなの場所だから何をしてもいいって訳じゃないんだ。難しいんだね」
「私有地はもっとダメですけどね。どうでしょうか。すぐ近くの和泉公演では、多分大学が近いから学生が多く集まるし、警察もそんなに煩く言ってこないと思いますよ」
城島が前から考えていた場所を口にした。
「それはいいね。うん。それにしよう。ありがとう城島君」
シューベルトの回りの空気がパッと明るくなった。
「そうしますか、ギターだけではなく鍵盤楽器も用意した方がいいですか」
「うーん、それはいいよ。僕はね家が貧乏だったから、ピアノが買えなかったんだ。だから、あんまりピアノは得意じゃないんだよね。作曲もギターを使ってする方が多かったしね」
大作曲家の意外な一面であるが、シューベルトがギターを好んで弾いていたことを、城島は何かの書物で読んだことがあるような気がしたが、好んで弾いていた訳ではなく、実は経済的な理由で弾いていたのだった。
「曲は何を弾くんですか」
「取り敢えず、野ばら、鱒、菩提樹とか、みんなが知ってそうな曲をズラッと歌ってみようと思うんだけど、どうかね」
今時、クラシックギター一本と歌だけライブが受けるのだろうか、城島は疑問に思ったが、それは口に出すことはしなかった。その思いは恐らくはシューベルトに伝わっているのだろうが。
その晩は城島の作ったロベルト・ブーシェ好みの甘口ハヤシライスを「こんなの初めて食べたよ」と言って二杯お替わりをして、ワインボトルも一本分は飲んだ。城島の読んだ資料にシューベルトは身長百五十センチ程と小さく、小太りと書いてあった。太りやすい体質なのかと思っていたが、そうではなく、生活習慣が原因であることは明らかであった。
ワインを飲み終わったシューベルトは早々に席を立ち、リビングのパソコンの前に陣取った。相変わらずアイドルの動画を閲覧しているようで、時々「イエーイ」等と替えを張り上げながら、両手を掲げて一人盛り上がっている。
ロベルト・ブーシェは加菜子と一緒に見にピアノへと向かって行った。残った城島は一人でバーボンのオンザロックを飲み続けた。
考えてみれば、せっかく歴史に名を残す大作曲家が身近にいると言うのに、専門的な音楽の話等は一切してはいない。これは限りなくもったいないことではないのだろうか。そう考えながら、リビングの様子を窺ったが、シューベルトの至福の時間を邪魔する訳には行かない。一人静かにバーボンのグラスを傾けることにした。
城島が読んだ資料には、生前シューベルトがコンサートを行ったのは一八二八年の一度限りで、その後は人前で演奏をすることなく亡くなっている。路上ライブとコンサートでは比較をすること自体が難しいが、生前のコンサートのノリでライブを行おうとしているのだろうか。そして、シューベルトのオリジナルという小学校の教科書にでも出てきそうな音楽が一般受けするのだろうか。公園の水辺でギターを弾きながら歌うシューベルトの姿を想像しようとしたが、酔いが回った頭ではその映像を描き出すことは出来なかった。
一日の全ての浄書講座が終わり、帰り支度を整えていると、隣の席から岩本が声を掛けてきた。
「よう、今晩あたりどうだ」
顔の前で杯を傾ける仕草をする。
「いや、今日も娘を留守番させているもので」
「そうか、大変だな親父さんは」
琥珀色のバリトンが珍しく沈んでいる。飲み相手に振られたのがショックだったようだ。
「ところで、岩本さんは、路上ライブについて知識はお持ちですか」
「ああ、パフォーマーとかいう奴らが路上で演奏してるやつだろ。下らない。見る価値のあるものなどない雑音と一緒だな」
岩本にとってはステージで演奏されるものがプロとしての活動の全てであり、路上ライブ等は、取るに足らないものの一つに過ぎないようだ。
「そうですか」
答えながら、この男がシューベルトの自作自演のパフォーマンスを聴いたらどのようの反応をするのか、あるいは、あの歌曲王とこの男が重奏をするとどのようなことになるのか、一度聴いてみたい気がした。
「岩本さんはレパートリーにシューベルトの曲はありますか」
「ああ、あることはあるが、人前ではあまり弾かないね。何ていうか、派手さが足りないというか、インパクトに欠けるか」
やはり、岩本の演奏技術を持ってしても、シューベルトの作品を作者以上のパフォーマンスで演奏することは出来ないということなのだろうか。
「唯、あの独特の節回しをセンスよく演奏出来る楽器弾きは世界でも少ないとは思うがね」
岩本は彼なりにシューベルトの音楽を理解しているようだった。天才は天才を知る、ということなのだろうか。
「何でそんなことを訊く、もしかして城島のだんな、シューベルトを弾くのかい。ギター独奏に向く曲はないと思うけどな」
シューベルト本人にアレンジをお願いしているとは言えない。
「いいえ、何時か機会があったら、重奏で弾いてみたいと思っているだけですよ」
「そうかい、そのアレンジにヴァイオリンパートがあったら、俺に任せてくれよ」
「ええ、その時は是非お願いします」
シューベルト本人のアレンジを岩本が演奏をする、なんと素晴らしいことだろう、考えただけでもワクワクしてしまうシチュエーションだ。
岩本は「じゃあな」と声を掛けて部屋を出て行った。
城島が部屋の扉を開けると、リビングから騒がしかった。椅子に座りギターを構えたシューベルトの前に加菜子とロベルト・ブーシェが座っている。シューベルトはオタク姿ではなく、長身に長髪、サングラスというライブ仕様になっていた。
「パパ、お帰り。凄いんだよ、フランツ君、何でも出来るんだから」
「何でもっていうのは、例えばどんなことだ」
「テレビやパソコンから聴こえて来る音楽を即興で歌ってしまうということじゃよ」
城島の問いにロベルト・ブーシェが答えた。
その時、つけっぱなしになっていたテレビから大手家電メーカーのコマーシャルソングが流れてきた。すかさずシューベルトがギターで伴奏を弾きながら、低いバリトンでメロディーを完全にコピーして見せた。
「凄い、フランツさんは絶対音感をお持ちなんですか」
「絶対音感? それって何?」
シューベルトは絶対音感というものを知らないようだった。
「彼には絶対音感という概念がまるでないのだろうね。耳で聴いた音をすぐに再現出来ることが、そう大したことだと思っていないのさ」
ロベルト・ブーシェがさらりと言ってのけた言葉に、城島は深く頷いた。
才能に長けた者とはそう言うものかもしれない。身近にいる岩本が良い例だ。自分が如何に優れているか、他人からどのように思われているか等気に考えてもいない。
しかし、これはライブでは素晴らしい効果を生むことになるかも知れない。
「ライブは、こちらからを中心に始めたら如何ですか」
「えっ、どういうこと」
怪訝な顔をしているシューベルトに城島が説明を始めた。
「良いですか、ライブに集まる人は場所柄、学生が多いでしょう。その人たちの心を掴むにはフランツさんの作った曲は高尚過ぎるんですよ。一般の人には音楽を聴かせるというよりも、ネタを披露するといったものの方が、ライブでの受けは良いんじゃないですか」
「良く分からないけど、僕の作った曲よりも、こういったつまらない曲の方が、お金になるってこと」
「残念ながら、相手は音楽を良く知らない素人です。お金を払って演奏会に来るような人たちではないってことです」
「ふーん」
シューベルトは暫くつまらなそうに俯いていたが、加菜子の「カッコいいよ、面白いし」という言葉に「そうか、カッコいいのか」と少し照れたように微笑んだ。
「女子にも受けるかも知れんな」
最後はロベルト・ブーシェの言葉がダメを押した。
「そうか、もてるのか。それじゃあ、演奏する曲を楽譜にしておく必要があるね」
と言ってシューベルトはギターを床に置き、パソコンの前に座って浄書用のソフトを立ち上げた。
「スイッチが入ってしまったな」
ロベルト・ブーシェの言葉通り、今城島が目にしている歌曲王はパソコンの画面に食い入るように見入り、猛烈な速度でマウスを動かし出した。
こうなったら、何者も彼を止めることは出来ない。たとえ目の前に好きなアイドルグループが歌って踊っていたとしても。いや、それだけはシューベルトを止めてしまうかもしてないな、と思いながら、夕飯の準備を始めることにした。
朝食時には、やはりシューベルトの姿はなかった。夕べは城島が声を掛けてパソコンの前から動こうとはせず、結局、城島が眠った後もパソコンで楽譜を作っていたようだ。パソコンの前にはシューベルトがプリントしたらしい楽譜が分厚い束になっていた。
「中々の量じゃな。結局、朝まで没頭していたからね。今頃は何処かで休んでおるのだろう。心配しなくとも夜にはまた来るさ」
何を心配するのかは分からないが、シューベルトが一晩でとんでもない量の楽譜を入力したことは間違いないようだ。
「さあ、朝食にしよう」
珍しく城島よりも遅く起きて、目をこすりながらリビングに入ってきた加菜子の頭を撫でた。
「今日はパパの御飯?」
「そうだ、極めて独創的ではない、普通の朝ご飯だ」
それを聞いていたロベルト・ブーシェが肩を竦めて加菜子を見下ろした。
城島は目玉焼き、焼き鮭とレタスとトマトのサラダに味噌汁というシンプルな朝食を作り、三人で食べた。何か言いたげであったロベルト・ブーシェに向かって「すいませんね保守的な料理しか作れなくて」と言うと、「まあ、これはセンスの問題だから仕方がないよ」と答えられてしまった。城島の皮肉等は一向に気にしていない様子だった。
食事が終わり食器をシンクで洗っていると紅茶を飲んでいたロベルト・ブーシェが「あの楽譜に目を通してみるといい。中々に面白い発見があるはずだよ」と言うので、食事の後片付けを終えてから楽譜の束を手に取って眺めた。
殆どの曲がギターと歌で演奏出来るようになっているが、何曲かは伴奏がキターではなくキーボードになっている。恐らくは音域の問題なのだろう。シューベルトの場合、楽器による表現の妥協という感覚よりも、体から溢れ出る音楽が優先さてしまうのだろうか。
「やはり、キーボードも必要ということじゃな」
「でも、鍵盤はあまり得意ではないと……」
「まぁ、弾かせてみれば分かるよ」
ロベルト・ブーシェはそれ意味ありげに含み笑いをするだけで、それ以上は何も答えようとはしなかった。
「分かりました、何とか用意してみます」
考えていることを見透かされているであろう城島はそう答えるしかなかった。
午前中の事務仕事を終え、近くの弁当屋で買った海苔弁当で昼食を済ませて午後からの授業に備えてテキストに目を通していると、昼食から戻った岩本が隣の席に座った。
「岩本さんのレッスンでキーボードを使う時ありますよね」
「ああ、伴奏に使うときがあるよ。それがどうした」
岩本が組んだ足を放り出しながら、爪楊枝で前歯をほじりながらながら答えた。普通ならばだらしのない、いかにも親父という仕草も、この男がすると様になってなってしまう。
「余っているキーボードってありませんか。出来ればお借りしたいのですが」
「何だ、今度は誰かピアノ弾きと重奏かい」
「まぁ、そんなところです」
「ふーん、レッスン室を探してみるけど、多分、一つくらいあるんじゃないかな。夕方までに何とか出来ると思うけど、それで良いか」
「ありがとうございます。充分です」
城島は机に両手を付いて恭しく頭を下げた。
「礼は今度飲み行く時に付き合ってくれればいい」
「また新しい店を開拓したんですか」
「ああそうだよ。どこの国かはその時に教える」
岩本は肩越しに右手をひらひらと振りながら部屋を出て行った。
岩本は城島との約束を守り、夕方にはキーボードを用意していた。しかも、余り物とは思えない新品同様の八十八鍵でスタンドはX型で身長に合わせて調整出来る、シューベルトが使用するには正にうってつけの物であった。岩本はそれを城島のマンションまで運んでくれるという。特別に断る理由もなく、城島はその好意に甘えることにした。
ビルの前で待っていると四千クラスのBMWが歩道に横付けされた。見ると運転席に右座席にハンドルを握った岩本の姿があった。顎をしゃくって後部座席に乗るように促している。後部のドアを開けて乗り込むと、BMWは静かに発進した。
「岩本さん自ら運転とは恐縮です」
「いや何、親父に借りていた車を返しに行くところだったからな、ついでだ」
「また、お姉ちゃんを連れて行くために借りたんですか」
「まあ、そんなところだ。それにしてはいかにもな車だけどな」
「岩本さんにとっていかにもではない車とは、どんな車なんですか」
「例えば、ポルシェの二シートとか色々あるだろう。ようはセンスの問題だな」
センスの問題ではなく経済的な理由だろうと思ったがそれは口には出さないでおく。
道路は比較的空いていた。岩本の運転は以外にも法定速度を大きく超えることのない安全運転で、BMWはその性能を発揮するまでもなく、三十分程で城島の住むマンションの前に着いた。
「ありがとうございました。うちに寄ってコーヒーでも飲んで行かれますか」
「いや、それはまた今度にしておく。今日はこれから予定が詰まっているんでね」
岩本は後部座席からキーボードとスタンドを降ろし、そそくさと走り去って行った。
大きな荷物を抱えて部屋のドアを開けると、リビングを飛び出してきた加菜子が目を丸くして立ち尽くした。
「パパ、それ何、お土産?」
「うーん、ある意味お土産と言えないこともないな」
夕飯の支度の前にキーボードを組み立てることにした。組み立てるといってもスタンドをシューベルトの身長に合わせて組み、そこにキーボードを乗せて電源を入れるだけだ。十分と掛からずに、リビングをスタンド付きのキーボードが占拠し、途端に部屋が一回り狭くなったような気がした。
「これって僕のために用意してくれたの」
いつの間にか隣に立っていたシューベルトが嬉しそうに言った。
「そうです。フランツさんの楽譜にキーボードがないと演奏が出来ない曲がありましたから」
「そうか、ピアノに触るのは二百年ぶりかな、上手く弾けるかなあ」
と言いながら、キッチンから持って来た椅子に座り、譜面立てに自作の譜面を何枚か置き、指慣らしのつもりか、ゆっくりとスケールを弾き出した。芋虫のようなずんぐりとした指が鍵盤の上をそれ自体が生き物のように動き回る。そして、眼鏡を外してレンズをハンカチで拭うと、楽譜の一枚を手に取り音符を確かめるように小さく頷き、譜面立てに戻した。
いきなり弾き出した曲は、城島でも知っているアニメ「ルパン三世」のオープニングテーマ曲だった。一番は完璧なコピーだったが、二番は同じ四拍子でも、二番はベースラインにエンディングテーマソングが使われていた。全く違う二つの曲が完璧に一体化していた。そして城島を驚かせたのは全ての旋律を歌として聴かせるシューベルトの演奏技術だった。
「確か、フランツさんはピアノがあまり得意ではないと言っていましたよね」
「言っていたね。だが、そのあまりというのが、誰と比べてだと思うかね」
ロベルト・ブーシェが自分のことのように得意げに小首を傾げた。
「フランツさん、ピアノの演奏を誰かと弾き比べたことがあるんですか」
シューベルトが演奏していた手を止めて、城島を見上げた。
「うん、あるよ」
「それは誰なんですか」
「リストだよ。フランツ・リスト、あの人と比べたら、僕なんか大したことないよ」
吹き出しそうになった。
フランツ・リスト……シューベルトと同世代の作曲者であり超絶技巧のピアニストでもある。中でも初見で曲を弾きこなす技術は、今でも越える者がいないと言われている。そのリストとピアノの演奏技術を比較するということは、現代のスポーツで例えるならば「私はウサイン・ボルトよりも速く走れません」と言っているよなものだ。
「このくらいしか弾けないけど大丈夫かな」
「充分ですよ。ギターと電子ピアノ、この他には何もいりません」
「ふーん、城島君がそう言うならそうなんだろうね。じゃあ少し練習をしないとね」
それから城島が夕飯を作るまで、シューベルトは電子ピアノの前から動かなかった。加菜子とロベルト・ブーシェもその傍らで彼の演奏に黙って聴き入っていた。
夕食の準備が出来ると、全員でキッチンのテーブルについた。本日のメニューは鳥のささみ入りの野菜炒めとトマトスープだ。
シューベルトは相変わらず「美味しいね、城島君の作る料理は最高だね」と言ってグラスに注がれたワインと共に一気に平らげた。
「路上ライブは何時から始めますか」
空になったワイングラスをテーブルに置いたシューベルトに訊ねた。
「そうだね、準備は整ったみたいだから、何時からでも出来そうだね。もう明日からでもいいよ」
「それならば丁度いい、明日は仕事が休みですから、セッティングの手伝いくらいは出来ますよ」
「ありがとう、それじゃあお願いするね。そうと決まったら明日に向けて練習しないとね」
ワインをもう一杯の飲み干したシューベルトがリビングへと消えて行った。
翌日は朝から風もなく、良い天気だった。
「こういうのをライブ日和と言うのだろうね」
ロベルト・ブーシェが城島の作った味噌汁を啜りながら言った。
「しかし、こういう日に鮭の切り身とはどうかねえ。もう少し景気の良いものはなかったのかね」
「景気の良いものとは例えばどんなものです」
しかも、肝心のシューベルトは相変わらず朝食の席にはいないのだ。
「鯛のお頭付きとまではいかないまでも、赤飯くらいは用意してやったら良かったのではないか」
オーストリア人であるシューベルトに赤飯や、鯛の有り難さは分からないのではないだろうか。それ以前に、それを知っているフランス人の方があり得ないのではないか。
「でも、フランツさんはいないようですから」
「姿が見えないだけだよ。食べたい物が出てくれば、姿を見せるさ」
「えっ、そうなんですか。何処かに行っているんじゃないんですか」
「ここにいるとも言えるし、いないとも言える。霊体というものはそういうものなのだよ」
意味は分からないが、敢えて深く追求はしない方が良さそうだ。
加菜子が「今日はフランツ君の特別な日なの」とロベルト・ブーシェに訊ね「そうだ、今日は彼の演奏会の日なのだよ」と教わっていた。
「演奏会って何」と訊かれた城島は「そうだな発表会みたいなものかな」と答えた。五歳児に演奏会の意味を説明するのは難しいし、第一、今日のシューベルの行うのは演奏会ではなく、路上パフォーマンスなのだ。その説明は更に困難だ。
「さあ、食べよう。今日は忙しくなりそうだからな」
ロベルト・ブーシェは加菜子と顔を見合わせて肩を竦めた。百歳以上も年の離れた二人には城島には分からない、共通の感情があるのだろうか。
食事を終えて、後片付けを済ませると、キーボードをケースに収納し、台を畳んで隣に並べた。近くに公園にならば何とか一度で運ぶことが出来るだろう。問題はこれ以外の荷物だな、と思っていると
「おはようございまーす」
何とも能天気な挨拶が背中から聞こえ、そっと振り返ると、オタク姿のシューベルトが立っていた。
「あっ、ライブの準備だね。ありがとう色々と、この他にはギターと楽譜があれば大丈夫だよね」
「いいえ、キーボードの電源が必要です。うちに非常時用のバッテリーがありますから、それを使いましょう。このキーボードだけなら五時間は使えるはずです」
「へーっ、このピアノを弾くのにそういう物も必要なんだ。大変だね、便利っていうのも」
便利と大変さ、確かに便利な物を使いこなすためには、面倒な作業が必要だ。現代人はそれを当たり前と思っているが、それを全く知らない者にとっては、不思議なことなのだろう。
「はい、私が二往復すれば何とか運べると思いますフランツさんは、ギターと楽譜を運んで下さい」
「私たちは何をすればいいのかね」
加菜子と並んだロベルト・ブーシェが声を掛けてきた。
「ロベルトさんは加菜子と二人でフランツさんに付き添ってあげて下さい。不慣れな場所だと思うので」
「私も決して慣れている場所ではないがね」
ロベルト・ブーシェは口ごもりながらも、加菜子の手を引いて楽譜を眺めているシューベルトに近づいて行った。城島はひとまずキーボードと台を両手に抱え、四人(正確に言えば二人は人間ではないのだが)一緒に部屋を出た。
まだ時計の針は九時を回ったばかり、陽射しはさほど強くはなかった。目指す公園は歩いて五分の所にある。公園に着くと、取り敢えず適当な場所に荷物を置き、ロベルト・ブーシェにその番を頼んだ。
「大丈夫、その荷物を勝ってに持って行こうとする奴がいたら、きちんと罰を与えるから心配はいらんよ」
どのような罰が与えられるのかについては、深く追求しないことにした。
加菜子を連れて戻ろうとしたが、娘はロベルト・ブーシェやシューベルトと一緒に居る方が良いと言って聞かなかった。余程二人のことが気に入ってしまったようだ。仕方なく、城島は一人で部屋に戻り、見た目よりも重たいバッテリー両手に抱えて再び公園へ足を運んだ。
公園の隅の方に大きな銀杏の木があった。その下にキーボードをセットすることにした。何となく直射日光は避けた方が良いような気がしたからだ。
「フランツさん、この辺りで良いですか」
「うん、僕はどこでも良いよ。後はお客さんが気持ち良く聴ける場所かどうか、それだけだよね」
シューベルトはオタクから長身、ロン毛、サングラスと言う姿に変わっていた。平日の学生街はまだ人通りが殆どなかった。
「少し早過ぎましたか」
「そんなことはない。なんせ、フランツにとって二百年ぶりの演奏会だからね、準備は早いに越したことはない」
何時になく神妙な面持ちになったロベルト・ブーシェが近くにあるベンチに座ってギターのチューニングを始めたシューベルトを見た。
「フランツさんは陽の光の下でも人間と変わらないんですね」
「フランツだけではない、私も同じことが出来るよ。唯、必要がないからしないだけさ」
シューベルトは姿がはっきりと見える。それに対してロベルト・ブーシェは、相変わらず半透明なままだ。
「ある程度の人格、この場合は霊格というのかな、そういうものを備えていれば、そう難しいことではないようだね」
そのあたりの理屈は、ロベルト・ブーシェにも良くは分からないようだった。それは天国というものに行った経験がないことに起因しているのかもしれない。
「それでは、死んだ人ならば誰でも出来るという訳ではないんですね」
「うむ、そのようだね。特に悪霊と呼ばれるものなどが全て実体化してしまったら大変だろうからね。あまりそういう話は聞かないだろう」
霊が実体化する話自体を聞いたことがないのだが。
ギターのチューニングを終えたシューベルトがギターをベンチの上に置き、キーボードの前に座って発声練習を始めた。今日はキーボードの演奏が主体で殆ど歌わないはずなのに何故発声練習等必要なのかと思ったが「彼にとっては全てのスイッチをオンにしていないと、音楽に対して向き合うことが出来ないのさ。だから、無駄とも思える発声練習も彼の中のギアを上げるためには必要なことなのだよ」とロベルト・ブーシェに言われて、そんなものか、と漠然と納得した。
発声練習は三十分に及んだ。低音域から高音域まで、キーボードのアルペジオに乗せてゆっくりと声が発せられて行った。加菜子とロベルト・ブーシェはシューベルトの発声練習を並んで聴きながら、何事かを小声で囁き合っていた。ベンチに座った城島の隣に加菜子が座った。
「ロベルトさんと何を話していたんだ」
「色んなこと、フランツ君は歌が凄い上手いねってこととか」
最近ではピアノ練習が大のお気に入りになった加菜子は、幼いながらにシューベルトの奏でる音楽の素晴らしさを理解しているようだった。
発声練習を続けていると、公園の前の通りを人が通るようになった。まだ疎らではあるが、通行人の中には公園で演奏をしている男に視線を向ける者もいたが、キーボードを弾きながら発声練習をしている男を目当てに、わざわざ公園に入って来る物好きはいなかった。
少しずつ気温が上がるに従って、シューベルトの発声にも力が入っていった。城島は声の大きさに近所から苦情が来るのではないかと心配になったが「その時はその時になってから考えれば良い」というロベルト・ブーシェの言葉に従うことにした。
シューベルトの準備は昼近くまで続いた。指慣らしと発声練習だけで有に二時間を越えていた。
「そろそろ本番にしようかな」
シューベルトが言って、キーボードの前から立ち上がった。オタク姿の時は城島の肩あたりまでしかない身長が、今は城島と殆ど同じになっている。
「分かりました。それでは看板を出しましょう」
城島がキーボードの前に演奏中と書かれた板を立てかけ、その前にギターケースを置いてふたを開いた。そこに演奏が気に入った人が金を入れるためだ。
まだ公園内に人影はなかった。城島は自分と加菜子の分の昼食用に近くのコンビニでおにぎりとペットボトル入りのお茶を買って来た。帰って来ると加菜子は暑さよけの大きな帽子を被っていた。またロベルト・ブーシェが加菜子のために変身してくれたようだ。
シューベルトが城島たち以外に誰もいない公園で演奏を始めた。城島と加菜子は少し離れたベンチに並んで腰を降ろしておにぎりを食べた。
「ロベルトさんは昼食は召し上がらないんですか」
と城島が気を遣って声をかけたが、加菜子の被る帽子からは唯一言「コンビニのおにぎりならば召し上がらんよ」というぶっきらぼうな返事が聞こえて来ただけだった。城島が二つ目のおにぎりに手を伸ばした時、和泉公園内のライブ演奏が始まった。城島は急いで頬張ったおにぎりをペットボトルのお茶で流し込み、姿勢を正した。
シューベルトの演奏はアイドルの歌の合間にコマーシャルソング等を取り入れながら、コミカルにしかし一つの楽曲として見事に成り立つ、高等なテクニックを使ったアレンジだった。そして演奏にも澱みがなかった。二つ以上の曲を何の違和感もなくベースとメロディに弾き分けたり、アドリブ風に挿入したりと、パターンも豊富だ。二曲目が終わり楽譜を取り替えながら間合いを取っている時、公園の中に三人の若い、恐らくは学生であろう女性が入って来て、シューベルトの弾くキーボードの前に並んだ。明らかに彼の演奏を聴くことが目的だ。シューベルトは彼女たちに向かって軽く頭を下げてから、演奏を再開した。以前にも弾いた「サザエさん」のオープニングテーマをバラードにしたものだった。そして同じメロディーがワルツ風、タンゴ風、マズルカ風、と次々にリズムを変えて流れて行く。最後はサンバの陽気なリズムに乗ったメロディーが踊るように弾けて終曲となった。三人の観衆が歓声を上げて拍手をした。加菜子も「フランツ君すごーい」と言って拍手をした。
次の曲はテレビで良く耳にする大手家電メーカーのコマーシャルソングだったが、ベースラインが原曲とは違っていた。違和感がなく聞こえて入るが、良く聴くとそれは今年の春から始まった大河ドラマのメロディーだった。シューベルトは左右の手でそれぞれに違うメロディーを弾き、しかもそれが見事に一つの楽曲として成立していた。
三曲目を弾き出す頃から公園に人が集まりだした。お目当ては勿論シューベルトの演奏を聴くためだ。(但し、観客である彼らに今演奏をしているのが、音楽史に名をのこす歌曲王、フランツ・シューベルトであること等は分かるはずもない)
観客は曲が演奏されるに従って次第に増え、三十分を過ぎた頃には城島の座っているベンチからはシューベルトの姿が見えないどころか、後ろの方で立っている者にも演奏者の姿が見えない状況になっていた。ざっと数えただけでも五十人はいるように思われた。その全員が若い学生と思しき男女である。彼らは曲が終わるごとに大きな拍手と歓声を上げていた。
およそ二時間のライブが終了する間際には更に人だかりは大きくなっていた。
最後の曲の演奏が終わり、シューベルトが立ち上がってお辞儀をすると、回りにいた全員から今まで一番大きな拍手と歓声が沸き上がり、城島も思わず立ち上がって手が痛くなる程拍手をしていた。隣では加菜子がベンチの上で立ち上がり「フランツ君が見えない」と口を尖らせていた。途端にそれまで帽子になっていたロベルト・ブーシェが、実体化して老人の姿に戻り加菜子を腕に抱えて自分の右肩に乗せた。端から見るとずいぶんと力持ちの老人に見えることだろう。加菜子が「お爺ちゃんありがとう」と言って笑いながら、シューベルトに向かって拍手をした。
拍手が収まると観客は次々とキーボードの前に置かれたギターケースの中に金を入れて、立ち去って行った。中には「次のライブはいつですか」「CDは出していないんですか」等と訊いている者もいてノートを開いてサインを求める者さえいたため、全ての人がいなくなり、元の閑散とした公園に戻るには三十分以上の時間を要したが、撤収の準備を始めようとキーボードの近づこうとした城島に「でも、あの人偶に小太りの親父に見えたのは気のせいかな」という声が聞こえた時には驚いた。ロベルト・ブーシェの方を見ると「あのライブモードは少しでも気を抜くと何時ものオタクスタイルに戻ってしまうようだね」と言って笑った。
ライブが終わった達成感のためか、シューベルトは満足げに笑顔を浮かべていた。
「そろそろ普段の格好に戻ってもいいかな。この格好は疲れるんだよね」
と言うと、誰の返事も待たずにジーパンにTシャツの小太りのおじさんというオタク姿に戻っていった。
城島が開いているギターケースの中を覗くと、格好な量の千円札と五百円硬貨が入っていた。
「結構若い女の子も来てたよね。名前とか訊かれちゃった。適当にごまかしたけど、次から何て答えたらいいのかな」
そういえば、この場合はアーティスト名とでも言うのだろうか、とにかく名前を考えるのを忘れていた。
「フランツ君はフランツ君でいいんじゃないの」
と加菜子は言ったが、
「いや、名前については後でゆっくり考えましょう。フランツでも構わないとは思いますが、もっとピッタリの名前があるかもしれません」
「そうかな、僕は何でも構わないんだけど、城島君がそういうなら、そうしようかな。ところで、お金はどのくらい集まったのかな」
「ちょっと待って下さい、今数えてみますから」
取り敢えずこの場からの撤収をすることにして、ギターケースから出した金はコンビニ袋に放り込み、それをギターを入れたケースのヘッドの部分に詰め込み、何とか蓋を閉めた。キーボードをばらして、来た時と同じように城島が二往復して無事に全てに機材が城島の部屋に戻った。
ギターケースの中からコンビニ袋を取り出して中身を数えてみると、千円札が六十枚、五百円玉が十枚、合わせて六万五千円が本日のライブの収益だった。
「これって、一日に僕の飲んでるワイン代に足りる?」
シューベルトが城島の肩越しに恐る々訊ねて来た。
「充分ですよ。十日分以上稼いでます」
「言っただろう、フランツが本気を出せばこんなものだよ。自分の飲み代くらい簡単に稼げるのさ」
ロベルト・ブーシェが自分のことのように得意げに言った。相変わらず只酒を毎日飲んでいる者の意見とはとても思えなかった。しかし、初めてシューベルトが城島の家に来た時に彼の言った言葉に間違いがなかったのは事実だ。
「それじゃあ、これからは週に一度くらい出来るといいのかな、僕は毎日でもいんだけどね」
毎日同じ場所でライブというのは現実的ではない。所詮は警察に無許可のゲリラライブなのだ。適当に日にちの間隔をあけながら、出来れば場所も変えた方が良いのだろう。
「フランツさん、毎日ライブというのはちょっと無理があります。場所は当分同じ公園を使うにしても、何日か間を取った方がいいでしょう。警察に目をつけられないためにも」
「へーっ、今の日本の警察って働き者なんだね。それとも余程暇なのかな」
「暇ということはないと思いますが、働き者なのは確かですよ。それに世界で一番優秀です」
「そうなんだ、じゃあ今日のライブで稼いだお金は全部城島君に預けるから、僕のワイン代にして」
「えっ、フランツさんは全くいらないんですか」
「うん、だって僕にお金は必要ないよ。ワインが飲めて、楽譜が書ければそれだけで充分だよ」
人間ではないとはいえ、これだけ金銭に対する執着がない者に城島は初めて会った。しかし、お陰さまでこれからシューベルト達のワイン代の心配はしなくて済みそうだった。
「如何でしょうか。私の仕事が休みの日は今日のようにお手伝いをすることが出来ます。週に一度、私の休みの日にライブを行うということにしては」
「うん、城島君が手伝ってくれるのなら心強いね。じゃあ、それでお願いしようかな」
ライブを行う日は城島の休日に合わせるとして、場所についてはこれから和泉公演の他にも候補地を探しておかなければならない。しかも、車を持っていない状況では遠出は難しい。
その夜は酒屋の主に「今日は何か特別な日かい」と言われながら何時もよりの上等のイタリヤ産の物をワインを購入し、スーパーで最も高い牛のステーキ肉を奮発した。
ロベルト・ブーシェには「高級と言えば牛肉のステーキというのは貧しい発想だね」と言われながら、自分の分として十七年物のバーボンウィスキーを二本購入した。
「どうですか、お頭つきや赤飯よりもこの方がお口に合いませんか」
と言う城島の皮肉に対して
「まあ、城島君の料理の腕というよりも和牛の美味さだね。ワインもフランス産とはいかないまでも、中々のものだ。暫くはこれが続くと嬉しいね」
とロベルト・ブーシェは全く意に介していない様子だった。
それに対しシューベルトは「こんなおいしい肉は生まれて初めて食べたよ」と、死んでいる者とは思えないことを言いながら、あっという間に一枚のステーキを平らげてしまった。
加菜子にも小さく切ったステーキを少し食べさせてみると「爺〃の所でいつも食べてる味」と言って小さな口で頬張るようにして食べた。どうやら御子柴の家では肉といえば牛肉と決まっているようだ。ロベルト・ブーシェの「高級と言えば牛肉」という言葉がピッタリと当てはまる成金一家に他ならない。
「フランツさん、ライブのときの名前はどうしましょうか」
城島がシューベルトに訊ねた。
「そうだね、それについては僕なりに考えてみたんだ。どうせならもっと格好いい名前を使いたいしね」
「それで、いい名前は思いついたんですか」
「うん、マッシュっていうのはどうかな」
「マッシュですか」
「そう、マッシュルームのマッシュ。僕の生きているときの渾名が『きのこちゃん』だからね。それでマッシュルームのマッシュ」
小太りでふさふさのくせ毛、確かに「きのこちゃん」は悪くないネーミングセンスだ。凄く良いという程ではないにしろ。
「ええ、いいと思いますよ。ロベルトさんはどう思いますか」
城島はシューベルトの隣に座っているロベルト・ブーシェに訊ねたが「ああ、いいのではないかね」と、そんなことに全く興味がないと言いたげな顔つきだった。彼にとってはシューベルトの使う名前等よりも、目の前のステーキを如何に美味しく食べることの方が重要なようだ。
「じゃあ、決まりだね。それじゃ、そっちの練習もしないとね」
「そっちって、何のことですか」
「決まってるじゃない。サインの練習だよ」
口に含んでいたバーボンを吹き出しそうになった。
「どうしたの、サインは重要だよ。欲しがる人がいるんだから、上手に書いてあげないとダメでしょ」
シューベルトがテーブルに置いてあったメモ用紙にボールペンで「mush」と書いた。以外にも奇麗にそろった端正な英語だった。確かシューベルトには教員の経験があったはずだ。奇麗な文字はその経験が生きているのかも知れない。
その晩は加菜子を寝かしつけてから、三人で夜中まで宴会が続いた。
城島の仕事が休みの日、週に一回のペースでシューベルトこと「ストリートミュージシャン マッシュ」の公園でのライブは行われて行った。城島は最初こそ最後までつき合ったが、二回目からは準備だけを手伝い、後は部屋でギターの練習や家事をすることにした。しかし、インターネット上の2ちゃんねる等では「マッシュ」の噂が広がっているようだった。曰く「マッシュ技巧はんぱねー」「すげーかっけー」「超テクニシャン」「神アレンジ」等々、四回目のライブの時等は、前回のライブの最後に告知を行ったせいか、準備の時に既に「待ち」の人々が公園内に五十人はいようかという状況だった。城島がキーボードを設置している間にも、シューベルトにサインを求める人が彼の前に列をなしていた。シューベルトがその一人一人に快く応じている様子だった。
ライブの噂が広まるにつれ、そろそろ場所を変える必要を感じ始めていた。
ライブの後片付けが済んで、城島が夕飯の支度をしていると足下に加菜子が寄って来た。
「もうすぐ夕飯が出来るから、リビングでロベルトさんたちに遊んでもらいなさい」
と言っても「だって」と言って城島の顔を見上げている。
城島は持っていた野菜を刻んでいた包丁をまな板の上に置いて、腰を屈めて加菜子に目線を合わせた。
「どうした、ロベルトさんやフランツさんは遊んでくれないのか」
「二人とも怖いんだもん」
涙目になっている加菜子を残してリビングの扉を開けると、シューベルトが音量を絞ってキーボードを弾いていた。今までと同じオタク姿であるが、顔には緊張感が張り付き、指に力がこもっているのが一見しただけでもわかる。その後ろではロベルト・ブーシェが何時になく真剣な眼差しでそれを凝視していた。気安く声をかけにくい雰囲気だ。後から入って来た加菜子と二人で暫くその様子を眺めていると、ロベルト・ブーシェが城島たちに気づき、小さくて招きをした。小さく頷いてシューベルトの背後から近づいてみると、シューベルトの指があるメロディーを紡ぎ出していた。
「聴いたことがないかね」
「いえ、ありますよ。キーボードとオーケストラでは印象が変わりますが、この印象的な旋律は一度聴いたら忘れるはずがありあせん。フランツさんの作品交響曲第八番、通称『未完成交響曲』の二楽章です」
「その通り、なぜか今日の演奏会の後にこの曲を弾き出してね。何か考えるところがあるようなのだよ」
シューベルト作曲交響曲第八番、通称「未完成交響曲」、通常の交響曲が四楽章まであるのに対してこの曲は二楽章までしか書かれておらず、作りかけという意味を込めて、未完成と呼ばれている。何故二楽章までしか作られなかった理由に着いては、「二楽章で充分に完成しているから」「四楽章まで作るつもりだったが寿命がつきてしまった」等諸説あるが、三楽章のピアノスケッチらしきものが残されていることから、少なくとも四楽章まで作るつもりはあった可能性が高いとされている。
「フランツが今日の演奏会の後、急に何も話さなくなってね、どうしたのかと思っていると突然この曲を弾き出したんだ。一楽章から通してね」
シューベルトの演奏は二楽章の第二主題へと差しかかっていた。歌うような繊細なメロディーが何度も繰り返され、溢れるような美しい和音がそれを引き立て、更に転調を経て最後のコーダは余韻を残しながら静かに消え入るように終わる。
溜息の出るような演奏だった。どんなオーケストラの演奏よりも胸に沁み入るような美しさだ。
「僕ね、思い出したんだ」
シューベルトがキーボードに両手を乗せたまま、ぼそりと呟いた。
「何をかね」
ロベルト・ブーシェがシューベルトの顔を覗き込むようにして言った。
「作りかけのこの曲のことをね」
「未完成交響曲のことですね」
「うん、今ではそういうタイトルで呼ばれているみたいだね」
「やっぱり作りかけだったんですね。二楽章までで完成しているという説もあるようですが」
「違うよ、三楽章も途中までは作っていたからね。唯、それが上手くいかなくて、気分転換に他の曲を作っているうちに死んじゃったんだよね」
「では、予定としては四楽章まで作るつもりだったのですね」
「うん、そうだよ。二楽章までなんて中途半端じゃない。やっぱり交響曲は四楽章までないとね」
「それでは、三楽章の続きから作るんですね」
シューベルトが首を横に振った。
「ううん、三楽章からは一から作り直すことにしたよ。今なら昔とは違うスケルツォが書けると思うんだ」
城島の頭にあることが浮かんだ。しかし、そのことを訊ねてよいものかどうか迷った。隣ではロベルト・ブーシェが肩を竦めて「さあ、どうぞ」と言わんばかりに右手を差し出していた。
「そのモチーフってもしかすると……」
「あっ、勿論アイドルの曲からヒントを貰ったものだよ」
やはりそうだったか。シューベルトが自作の未完成交響曲を完成させようとしている。それ自体は素晴らしいことだ。しかし、そのモチーフがアイドルの曲というのは如何なものだろうか。
「たとえアイドルの曲だろうと、フランツにかれば素晴らしい曲になる。それは城島君も何度も目にしているだろう。だから作品の出来に関しては心配することはないよ。唯一の懸念材料としては、彼が飽きてしまうことだ」
「はあ、それはどういうことなんですか」
「フランツの作品にはこの交響曲以外にも未完成の作品が多い、その理由は彼が飽きやすい性格だからさ」
「そうなんですか」
「正しくは少し違うがね。体の中に溢れる旋律を音楽にしていると、又違う旋律が聴こえてくる、その旋律を音楽にせずにはいられないんだ。絶えずメロディーが溢れているというのも大変のことなのだろうね」
「そうですね、それでは一つの作品に集中することは難しいのかもしれませんね」
「だから、現代のように街中が音楽で溢れている世界が嬉しく堪らないのだろう」
ロベルト・ブーシェの言葉に頷いて、そっとリビングを後にしてキッチンの戻った。腰を屈めて加菜子を抱きしめてながら「フランツさんは仕事を思い出したんだ。暫くは邪魔をしてはいけないよ」
「じゃあ、ライブは中止」
「そうだな、そうなるかもしれないな」
「ふーん、そうなんだ。つまんないな、ライブの時のフランツ君恰好いいのに」
加菜子が唇を尖らせた。
それからというもの、朝城島が目覚めた時から、夜帰宅して眠るまでシューベルトはパソコンの前で作曲を続けた。時には鼻歌混じりに、又ある時には頭を掻きむしりながら苦悶の表情で体の中のメロディーを吐き出しているようだった。
そして、城島の休日の朝、シューベルトがライブ仕様の姿でリビングに立っていた。
「フランツさん、もしかして今日ライブやるんですか」
城島が目を見開いた。
「うん、この前告知しちゃったからね。今日だけはやらないとね」
公園のベンチにライブ中止の看板を掲げようと城島は思っていたのだが、シューベルトは作曲で苦しんでいる最中だというのに律儀にもライブを行うつもりらしい。
「人前で演奏することが気分転換になるしね」
人前で演奏することに強いプレッシャーを感じる城島にとっては羨ましい限りだ。
何時ものようにライブの準備を始めることにした。
「そろそろ、終わるようだよ」
ロベルト・ブーシェがギターの練習をしていた城島の肩越しに話しかけて来た。城島はギターをケースにしまい、部屋を出て公園に向かった。頬を撫でる風に微かに秋の気配が感じられた。
公園にはざっと数えただけでも五十人がひしめいていた。その中でキーボードの前でシューベルトが立ち上がった。
「みなさん、何時も僕のライブに来て頂いてありがとうございます」
大きく声を張り上げている。あまり人前で喋ることは得意ではないのだろう、必死に大きな声を出そうとしているのが分かる。
「今日は皆さんにお知らせがあります。今まで何回か行って来たライブですが、今日で暫くお休みにします」
観客から「えーっ」という声が上がった。「なんでだよー」「やめないでよー」と悲鳴ともつかない声を上げている者もいる。たった数回のライブでこれほどの人気を博すとはシューベルト、いやストリートミュージシャン「マッシュ」の実力がどれ程のものかが分かる。
声が収まるのを待ってから再びシューベルトが口を開いた。
「暫くの間お休みをしますが、必ずここに帰ってきます。では、最後の曲を弾きます」
シューベルトが腰を降ろし、再び演奏が始まった。両手を使っての力強い三連譜にのせたラベル作曲のボレロのメロディーが少しずつ変化し、水戸黄門のオープニング曲になった。それは、あまりの変化の緩やかさに、いつの間にかとしか言いようのない、魔法のようなアレンジだった。観客から一斉に大きな笑いと共に拍手が沸き起こった。ワンコーラスが終わって、観客の一人が水戸黄門の歌を歌い出した。それをきっかけとして公園内にいる観客の殆どが歌い出し、大きなユニゾンの流れとなった。城島もいつの間にか一緒になって歌っていた。そして、胸に熱いものがこみ上げて来る感じがした。端から見ると五十人以上の若者がピアノを弾いている男を囲み、水戸黄門の歌を熱唱しているのだ。異様な光景ではあるが、不思議だった。水戸黄門の歌でこれほど感動出来ることが。
最後の和音をシューベルトが弾き終わり、熱風のような合唱は終わりとなった。シューベルトの前には「マッシュ」に握手やサインを求める行列が出来ていた。
「今日はまだ撤収という訳にはいかないようだね」
隣でロベルト・ブーシェが微笑んでいた。つられて隣に座っていた加菜子も笑った。何時までも眺めていたい風景だった。
結局、ライブが終わってから撤収を始めるまで一時間以上かかってしまった。加菜子とロベルト・ブーシェを先に帰し、城島が殆ど一人で作業を行った。
「暫くライブとはお別れですね」
キーボードを背負いながら、まだライブ仕様の姿でいるシューベルトに話しかけた。
「そうだね、でもあんなに惜しまれたらまたやりたくなるね」
「みんな、早い再開を望んでいます。早く曲を仕上げて下さい」
「そうだね、もう僕の頭の中では殆ど出来上がっているから、後は譜面にするだけだから、さほど時間はかからないと思うけどね」
そうだった、シューベルトは作曲のスピードがとんでもなく早いことで有名だったのだ。
「そうなんですか、それは楽しみですね」
「もし聴きたかったら、すぐにでも聴かせようか」
「えっ、宜しいんですか」
「うん、かまわないよ。三楽章はもう完全に出来上がってるから」
一刻も早く聴きたかった。二人は足早に城島の部屋へ向かった。
全ての機材を部屋に運び入れ、リビングにキーボードを設置しているとロベルト・ブーシェがワイングラスを片手にふらふらとした足取りで現れた。早くも一人で祝杯を始めていたようだ。
「ロベルトさん、御機嫌のところ申し訳ありませんが、加菜子の相手を宜しくお願いします。私は夕飯の準備がありますから。それに今日はこれからフランツさんが『未完成交響曲』の続きを披露してくれるそうですから」
「何、あの曲の続きを、これは歴史的な快挙の場面に遭遇出来るというものだね。料理なんかさっさと作って、早く演奏を聴こうではないかね」
ロベルト・ブーシェが楽しそうにグラスを掲げた。
城島は最も最短で出来る料理、オムレツと野菜炒めを大急ぎで作り、加菜子には緑茶と御飯、自分にはウィスキーを用意した。
「じゃあ、始めるよ」
シューベルトが鍵盤に手を置き、小さく息を吸った。そして、未完成交響曲の三楽章の演奏が始まった。
通常の交響曲第一楽章アレグロソナタ、第二楽章緩徐楽章、第三楽章スケルツォ、そして第四楽章フィナーレという形式で成り立っている。実際「未完成交響曲」も第二楽章まではその形式に則って作られている。
シューベルトが城島たちの前で弾き出した「未完成交響曲」第三楽章はスケルツォー急速な三拍子の器楽曲であるが、元々はイタリア語で冗談、気まぐれを意味する。快活でおどけた感じが特徴となっているーまずは主題がユニゾンが奏でられる、シューベルトのピアノスケッチに残っていたとされる出だしとは大きく違い、主題が一つの旋律で始まりそれに低音、中音が重なり徐々に音の厚みが増したメロディーが何度となく繰り返されるが、低音が次第に変化し、聴いたことのあるメロディーへとなった。
「あっ、瑠璃瑠璃クラブの曲だ」
加菜子が持っていた箸を置いてシューベルトを指差した。加菜子にはすぐに分かったらしいが、よくよく聴いてみると一番始めにシューベルがパソコンの動画で聴いていた曲であることが城島にも分かった。やはり、彼はこの曲が一番のお気に入りのようだ。
その後、転調を繰り返し、気まぐれなスケルツォはその言葉通りに前触れもなく突然終わった。
間合いを取らずに、いきなり四楽章が始まった。三楽章の気まぐれなスケルツォとは違い、重奏な和音を従えたメロディーであるが、これにも城島は聞き覚えがあった。隣の加菜子に「これ何のメロディーだ」と訊くと「良く聴くと分かるよ。あの野球アニメの曲が入ってるから」という答えが返って来た。言われてみると、「巨人の星」のテーマ曲が細かく刻まれたビートの上で踊っている。中間部のカデンツァでは「アタック№.1」のメロディーが全ての指を使った鋭い和音の連続で演奏されていた。「だけど、涙が出ちゃう女の子だもん」という台詞の部分までが、カデンツァの終わりに使われていた。そして終盤にメロディーは「明日のジョー」へと替わり、終曲となった。
ロベルト・ブーシェがワイングラスをテーブルに置いて拍手をした。加菜子も「フランツ君すごーい」と大喜びだった。城島もグラスを置いて拍手をした。「とんでもないものを聴いた」以外の感想が思いつかない。しかし、
「フランツさん、今の曲は楽譜になっているんですか」
「まだ楽譜にはしてないよ。オーケストレーションもまだだしね」
「それでは、あつかましいお願いだとは思いますが、ピアノ譜を頂けないでしょうか」
「うん、構わないよ、でもオーケストレーションしたものじゃなくていいの」
「ええ、ピアノ譜で結構です」
今演奏された曲がオーケストラ譜となって演奏されることはあり得ない。だったら、記念としてピアノ譜を貰い、何時か加菜子に弾かせてやりたいと思ったからだ。
その後、シューベルトとロベルト・ブーシェは二人で部屋にあった全てのワインを飲み干し、城島もウィスキーのグラスを重ね、楽しい夜は何時までも続いた。
翌朝、城島が重い頭を抱えてベッドから起き上がり、キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを飲みながら、リビングに入ると、テーブルの脇にロベルト・ブーシェが座っていた。
「どうしたんです、こんなに早く」
「まあ、これを見てみなさい」
ロベルト・ブーシェが紙の束を差し出した。手渡されたそれはパソコンでプリントアウトされた五線譜だった。一番上の五線譜のタイトルには三楽章とある。
「これは昨日の……」
「そうだね、フランツが朝までかかって譜面にしたものだよ。城島君のためにね」
「それでフランツさんは今何処にいるんですか」
「さあね、また何処かのアイドルのコンサートに行こうとしているのか、演奏会を開こうとしているのか私にも分からんね」
「それじゃあ、ここには」
「それも分からんね。唯『未完成交響曲』以外にも彼には作りかけの曲が結構あるからね。それを思い出したら戻って来るかもしれないね」
城島はシューベルトが残した楽譜をしげしげと眺めながら、歌曲王と呼ばれた作曲家に結局ギターのアレンジをして貰わなかったことを思い出した。
「ああ、そのことなら、これではないのかね」
城島の心を読んだロベルト・ブーシェがテーブルに置いてあった別の楽譜を差し出した。受け取って見ると、「ギターとピアノのためのソナタ」と題名が記されている。
ギターを出して確かめてみるまでもなかった。そこに書かれていたのは、シューベルトが初めてのライブで弾いた曲、「サザエさん」のオープニングテーマを主題としたソナタだった。しかも、御丁寧にコーダには「笑点」のテーマ音楽が使われていた。この曲を何処で弾けというのだろうか。
「フランツにしてみれば、ライブで客に受けたことが余程嬉しかったのだろう。その手の曲がこの時代の鉄板だと思ったのだろうね」
受けるか受けないかといえば、間違いなく受けることだろう。しかし、音楽史に名を留める大作曲家の作品と思う者は皆無だろう。
「これもお蔵入りだな」
城島が低く呟いた時、ロベルト・ブーシェが何時ものように肩を竦めながらニヤリと笑った。
芸術家すぎる作曲家
暑い夏が漸く終わり、秋の気配が街中を覆うようになった、十月の初め、城島が仕事を終えて明大前から自宅マンションへの道を歩いていると、何時の間にかロベルト・ブーシェが隣を歩いていた。
「気が付きませんでした。何時から隣にいたんですか」
「ついさっきからだがね。私の隣にもう一人いるのが分かるかね」
ロベルト・ブーシェの隣を覗き込むようにして見ていると、確かに人影らしきものがあるようだったが、はっきりと目にすることができない。どうやら、またしてもこの世のものではない存在のようだ。
「また、どちらかでお知り合いになったんですか」
「いや、フランツの昔からの知り合いなのだよ。今日加菜子と一緒に居るところに訪ねて来てね、ドアを開ける前に入って来たのだよ」
やはり、あちら側の人物のようだった。
「散歩が趣味だそうだ。だから、夕涼みを兼ねてこうして城島君を迎えに来たのだよ」
「フランツさんの知り合いと言うことは、やはり作曲をされる方ですか」
「そうだよ。それも誰でも知っている超大物だ」
ロベルト・ブーシェの言葉にもう一度顔を横に向けた。シューベルトの時代の超大物作曲家で散歩好きといえば、思い付く人物は一人しかいない。しかし、その人物は名前を口にするのも憚られる程の大物である。直接話しかけて良いものかどうか迷っていると、城島の思ったことを察知したロベルト・ブーシェが言った。
「別に構わないのではないかね。私もルードヴィヒと呼んでいるからね。特に気分を害することはないと思うがね」
そこで思い切って
「失礼ですが、ルードヴィヒさんですか」
と声をかけると、
「そうだが」
ロベルト・ブーシェの隣から静かだが威厳に満ちた声が返って来た。その時街頭の明かりが人影に当たった。鋼のようなもじゃもじゃの灰色がかった髪、突き出た額に、大きな鼻、分厚く突き出た唇、音楽室の壁に掛けられた肖像がそのままの顔が照らし出された。
男の名前はルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、後に楽聖と呼ばれる大作曲家だ。
「フランツから美味いワインと料理を食わせる男がいると教えられてね」
城島のギター演奏に関する話題は冒頭から全く出て来ない。城島を唯料理の上手い男として教えられて来たようだ。
三人で並んで歩いていると、ゴロゴロと遠くで雷が鳴っているような音が聞こえた。城島は空を見上げたが、夜空には雲もなく星が煌めいていた。
「何か、雷のような音が聞こえませんでしたか」
ロベルト・ブーシェに訊ねてみたが
「はて、城島君の空耳じゃないのかね。空はこんなに晴れているよ、夕立の気配もないしね」
と言って空を指差すばかりだった。
連れ立って部屋に入ると、「パパお帰り」と言いながら、リビングから飛び出して来た加菜子の頭を優しく撫でた。
「すぐに夕飯にするから待っていなさい」
加菜子が「はーい」と答えて再びリビングへと戻って行った。
夕飯の支度に取りかかる前に取り敢えずロベルト・ブーシェに
「ルードヴィヒさんは食べ物の好みはあるのですか」
と訊いてみると
「確か卵は大好物だったはずだが。どうかね」
ロベルト・ブーシェが城島の言葉をベートーヴェンに伝えた。
「何、卵料理が出来るのか」
ベートーヴェンの声のトーンが上がった。恐らくはベートーヴェンが生きていた時代には、卵は現代よりも遥に贅沢品だったのだろう。トーンの上がり方が半端ではなかった。
「ええ、オムレツくらいならすぐに出来ますよ」
途端に楽聖の顔が光り輝いた。
「そうか、ならば私の分は卵三個使ってくれ」
城島が料理をしている間、ロベルト・ブーシェとベートーヴェンはキッチンの椅子に腰を降ろしてワインを飲み始めた。
ロベルト・ブーシェは何時ものようにゆっくりとしたペースだが、ベートーヴェンは一杯目を一息で飲み干してしまった。
「このワインは中々に美味いな。どこのワインかね」
「イタリア産ですよ」
城島が答えると、ベートーヴェンは満足そうに二杯目も同じように一息で呷った。
「オムレツが出来ましたよ」
二人の前に皿を並べようとすると、ベートーヴェンは皿を引ったくるようにして城島の手から奪い取り、フォークを使ってがつがつと食べ始めた。相当にせっかちなのか性格なのか、余程飢えていたのかどちらかなのだろう。
以前、ロベルト・ブーシェが物を食べるということは、空腹の故ではなく好奇心に依ると言っていた。まして、彼ら霊体に空腹感等あるはずもなく、もし、空腹を感じているのならば、何年も食事をしていないから、空腹に違いないという思い込み以外には考えられない。
「城島君、これと同じ物をもう一皿貰えないかね」
あっという間に卵三個分のオムレツを食べ終えたベートーヴェンが空になった皿を城島に差し出した。ワインも既にグラスに四杯は飲んでいる。
「同じ味付けで構わないですか」
「そうだな、強いて言えばもう少し塩と胡椒を利かせてくれるといいな。だが、中々良く出来ている。私の家政婦に雇いたいぐらいだよ」
隣でロベルト・ブーシェが苦笑いをしていた。
結局、ベートーヴェンはオムレツを再度お変りして、冷蔵庫の中の卵を全て食べてしまい、ワインを一本をがぶ飲みしてしまった。シューベルトが「マッシュ」として稼いだ金で買ったワインの在庫はまだかなりあるのだが、このペースで飲まれるとあっという間になくなることは必至だ。
加菜子にはチキンライスを作り、自分にはチキンライスの具をつまみとした。
ベートーヴェンはかなりのワイン好きのようで、グラスを空にする度に嬉しそうに新しいワインを注いでいた。小学校や中学校の音楽室の壁に飾られている、しかめっ面をした肖像画から受ける印象とは違い、思いの外気安い性格なのかもしれない。
チキンライスを食べ終わった加菜子が食器を流し台に置いて、最近ではすっかりお気に入りになったキーボードの練習をするためにリビングに入って行った。まだ深夜という時間帯ではない、ボリュームを絞れば近所の迷惑にはならない。
「ところで最近ではパソコンという便利な機械があるそうだね」
呂律の怪しくなったベートーヴェンが城島に絡むように言った。霊体でもアルコールを飲めば酔うらしいが、それは見ていてあまり楽しい光景ではない。
「ええ、我が家にもありますよ。御覧になりますか」
「うむ、是非見たいものがある」
「やはり、音楽の動画ですか」
「そうだ、今の世界の音楽を聴いてみたいのだ」
ベートーヴェンの言葉に三人はグラスを片手にリビングへと移動した。
城島がパソコンの起動スイッチを入れた。加菜子もキーボードを弾く手を止めて、パソコンの前に座った。
「ルードヴィヒさん、何かリクエストはありますか」
「これもフランツに教わったのだが、日本にはアイドルという素晴らしい音楽隊があるそうだね。それを聴いてみたい」
アイドルグループを音楽隊と呼べるかどうかは別にして、歌曲王に続いて楽聖までもがそれを聴きたがるとは、恐るべし日本のアイドル文化である。
「ではフランツさんのお気に入りのグループでいいですか」
ベートーヴェンが「うむ」と頷いた。城島よりもアイドルに詳しい加菜子がパソコンの操作をして目的のアイドルグループの動画を呼び出した。
暫く静かに動画を眺めていたベートーヴェンの頬がピクリと動いた。
「これが今の音楽というものかね」
「はい、音楽のジャンルの一つです。あまり、お気に召しませんか」
城島が恐る恐る訊ねた。
「若い女性がこのような格好で踊っているのは楽しいね。だが、後ろで流れている音は薄っぺらいというか、重厚さがないとは思わんかね」
アイドルの歌っている曲に重厚さを求めてはいけない。しかし、相手は歴史に楽聖として名を残す大作曲家だ。ピアノソナタのような単一楽器で弾く曲でさえコントラストを大きく使い、楽曲の完成度を求めた男にとっては、今聴いている音楽等は単純過ぎて面白くないのだろう。
「但し、これが今の音楽の流行というのならば致し方ないがね」
単純なメロディーに電子音で装飾された音楽は、城島でさえ聴くに耐えない時がある。
再生している動画の脇にある関連動画の紹介画像に、顔に歌舞伎のようなメイクをしているグループがあった。
「これは面白そうだね。これを聴かせてもらえないかな」
ベートーヴェンがパソコンの画面を指差した。それは一九七〇年代にアメリカで結成され、現在も現役で活躍している、特徴的な白塗りのメイクと奇抜な衣装で日本でも人気のあるハードロックのバンドだった。
動画の再生を始めた途端にすさまじいノイズのようなギターの音が早いドラムの音と共にパソコンのスピーカーを揺らした。これはクラシック音楽とは最も離れたもののように城島は思ったのだが、以外にもベートーヴェンは、
「この頭の芯に響いて来るような音、そして魂を揺さぶられるようなビートは何とも素晴らしい」
と言って、加菜子に命じて同じグループの曲を次から次へと再生させて、ワインを飲みながらその動画をじっと見入っていた。
城島はその音だけで耳鳴りがしそうで、早々にキッチンへと退散した。そこにはロベルト・ブーシェが先にテーブルに座っていた。
「ルードヴィヒさんがヘビメタ好きとは驚きですね」
「別に驚くことはないよ、彼は新し物好きだからね。エレキギターやあのようなメイクは斬新でエキセントリックに感じるのだろうね。それにさっきのグループは、煩いなりに下手な演奏ではなかった。あのようなキンキンする音が好きなのは彼が耳を悪くしていた影響もあるのかもしれないね」
そうだった、大作曲家ベートーヴェンは生涯の後半を難聴という作曲家としては致命的な病を抱えていたのだ。
「城島君、ワインのお替わりを持って来てくれ」
ベートーヴェンの怒鳴り声がリビングから響いて来た。城島が慌ててワインのボトルを持ってリビングに入って行くと、胡座をかいたベートーヴェンが眉間に皺を寄せながら食い入るようにパソコンの画面を見詰めていた。差し出した空のグラスにワインを注ぐと、それを一気に呷った。
「この音楽は中々良いね。唯、喧しすぎるのが難点だな。もう少ししっとりと心に沁み入るような音楽はないのかね」
「失礼ですが、ルードヴィヒさんは今は耳は良く聴こえるんですか」
小さめの声で訊ねた城島の言葉にベートーヴェンは笑いながら、
「ああ、聞こえるよ。こっちの世界に来てからは不自由はしていないよ」
と答えた。ならば、こんなのはどうですか、と城島がパソコンを操作してあるアーティストの動画を呼び出した。
ワンコーラスが終わって、黙ってそれを見ていたベートーヴェンが小首を傾げて城島を見上げた。
「これは今の時代の、何という形式の音楽かね」
それはアイルランド在住の世界的な女性シンガーだった。シンセサイザーを弾きながら自作の歌を口ずさんでいる。
「今、世界的に有名な歌手です。所謂『癒し系』という分野ですね」
「癒し系? それは何かね」
「そうですね、分かりやすく説明すると心地良くなるというか、心が和むということでしょうか」
「心が和む? 音楽でかね」
何故かベートーヴェンの語気が荒くなった。
「音楽は芸術だ。芸術とは感動を呼ぶものだ。感動とは心震わせるものだ。私が苦悩の末に生み出した音楽は全ての人に感動を与えるためのものだ。それが癒しだと? そんなものが欲しければ山の中の滝の側にでも行けば良いじゃないのかね」
ベートーヴェンの髪が先の方からチリチリと少しずつ持ち上がり始めた。ゴロゴロと雷鳴のような物も何処からか聞こえて来る。
「そんなものは音楽ではない」
先程機嫌良くハードロックを聴いていた時とは打って変わって不機嫌な肖像そのままの顔になった。しかも、かなりの量のワインが入っているから、くだを巻いている酔っぱらいの親父そのままである。
「私が身を削るようにして作った音楽は……音楽は……」
もはや言葉にならないようだっだ。
「ルードヴィヒさん、今日はこのくらいでお休みになった方が良いのではないですか」
「うるさい、どれだけ飲もうが私の勝手だ。私の苦悩など、誰にも分かりはしないのだ」
ゴロゴロという雷鳴が部屋の中で鳴り響いた。先程道を歩いている時に聞こえた雷鳴はやはり空耳ではなかったのだ。楽聖は常に雷を伴っているのか、何かの弾みでそれが轟き出すようだ。
「パパ、怖い」
加菜子が泣き顔になって城島に抱きついた。城島は「大丈夫だ」と言って加菜子の頭を撫でた。
どうしてベートーヴェンが怒り出したのか城島には全く分からなかった。ハードロックよりも余程クラシックに近い音楽だと思って聴かせたはずなのに、何故彼をこんなにも怒らせてしまったのだろうか。ベートーヴェンは心に沁み入るような音楽が聴きたいと言った、それが癒しの音楽を聴かせた途端に怒り出すというのはどういうことなのか、城島には理由が分からなかった。
「彼には音楽とは芸術であるという信念があるのさ」
何時の間にか横に立っていたロベルト・ブーシェがぽつりと言った。
「芸術ですか」
「そうだ、音楽の根底にある物は感動、感動のない心地良いだけの音等、彼にとっては音楽とは呼べないのだろう」
「でも、さっきはハードロックを聴いて感心していたように見えましたが」
「あれはあれでそれなりに感動をしたのだろう、何しろエキセントリックだからね。しかし、この音楽は唯のBGMのような何の感動も生まない物と思ったのだろう」
城島はハードロックと癒し系、どちらかといえば癒し系の方がクラシックに近いと思うのだが、楽聖の気持ちは遠く及ばないところにあるのだろうか。
「そんなことはないよ。彼だって特別な人間だった訳ではない。まして、天才と呼べる程の才能に恵まれていた訳でもない。彼の音楽は努力と苦悩の結実したものなのだよ。他の人間からは変わり者と言われ続けても彼には音楽を芸術としてのくらい置に押し上げること、これが全てだったのさ」
生前ベートーヴェンが相当に偏屈な人間と思われていたことは、城島も知っていた
気が付くとベートーヴェンの姿が見えなくなっていた。
「ロベルトさん、ルードヴィヒさんの姿が見えなくなりましたが」
「ああ、彼は昔から放浪癖があるからね、今も何処かに行っているのだろう。霊という存在は行こうと思った所にすぐに行けてしまうからね。この女性アーティストの所に行っていなければ良いけどね」
他人事ではあるが、考えただけでも鳥肌が立ちそうになった。出来ることならば同じ霊の立場として、ロベルト・ブーシェに是非確認に行って貰いたいと城島は思ったのだが、本人は素知らぬ顔で加菜子に「そろそろ寝ようかね」などと言っている。
城島は他になす術もなくウィスキーを呷りながら、パソコンの中で歌っている女性アーティストの頭上で雷が鳴り出さないことを願わずにはいられなかった。
「城島君、朝食はまだかね」
まだ夢の世界にいた城島を雷鳴のように怒鳴りつける声が叩き起こした。訳が分からずに目を開けた城島の目に夕べ何時の間にか姿を消したベートーヴェンが飛び込んで来た。
「何時まで寝ているのかね。さっさと朝食の準備をしたまえ」
何時ものように二日酔いで麻痺した頭を抱えるようにして、ゆっくりと枕元の時計を見るとまだ五時を少し過ぎた時間だった。
「もう朝御飯ですか」
「うむ、これでも大分我慢していたのだがね、もう待ち切れない。昨日と同じオムレツがどうしても食べたくてね、早く頼むよ」
昨日あれだけオムレツを食べておいて、まだ食べ足りないらしい。しかし、既に冷蔵庫の中に卵は入っていないのだ。
「あの、朝御飯を作るにしても、卵はもう家にはありませんよ」
「何を言っているのだね。今の日本にはコンビニという、二四時間食料を買うことが出来る便利な店があるではないか。早く行って買って来なさい」
雷が鳴り出す前に急いで部屋着を身に着け、眠い目を擦りながらコンビニに走ることになった。しかも、卵を買うためだけにである。酷い災難としか言いようがないが、楽聖の言葉に逆らうことは出来なかった。
運良く最寄りのコンビニで六個入りの生卵を四パック購入することが出来た。流石にこれだけあれば今朝の分は足りるはずだ。ついでにロベルト・ブーシェと加菜子のためにチョコレート味のアイスクリームを買った。
「城島君遅いよ。もう腹が減って死にそうだよ」
部屋の扉を開けるとベートーヴェンの、とても死んでいる人間の口から発せられたとは思えない罵声が飛んで来た。
「すいません、今支度にかかりますから、パソコンでも見ていて下さい」
頭から湯気が出そうなベートーヴェンを軽くたしなめて、アイスクリームを冷蔵庫の冷凍室にしまってから、オムレツを作り出した。卵を六個割り入れ、塩と胡椒で濃いめに味を付けて冷蔵庫に入っていたウィンナーを二本、サラダ油で炒めて脇に添えた。自分だったら絶対に食べたくない、生活習慣病の仇のような朝食だ。
皿をテーブルの上に並べるのを待ち構えていたかのようにベートーヴェンがガツガツとフォークを使って貪りだした。
「この肉は美味いね。これからもオムレツの脇にこれがあると嬉しいな。城島君宜しく頼むよ」
生活習慣病になる心配のない楽聖は、ハイカロリーな朝食を一気に平らげ、満足そうに足を投げ出した。夕べの怒り等は何処かに行ってしまったようだ。
「お替りは宜しいんですか」
「そうだな、楽しみはまたに取っておくことにしよう。私はオムレツとワイン、これがあれば他に何もいらないからね」
すっかり城島を専属の料理人と思っているようだ。
「昼間は何処かにお出かけですか」
「うむ、何かと調査をしなければならないからな」
「調査というと、現代の音楽についてですか」
「まぁ、そのようなものだな。私の生きていた時代とは生活様式、テンポ、リズム全てが違うからね。音楽とは生きているそれらのことに強く影響されるものだ。それらのことを調べなければ、今の音楽のことを理解することは出来んよ」
やはり楽聖と呼ばれるだけあって、どんなに不遜な人物であっても、音楽にだけは真摯なようだ。そして、難聴という苦悩から解き放たれ、何の不自由もなく音楽を楽しむことに、この上のない幸せを感じているのかもしれない。
やがて加菜子が起きてくる頃には、ベートーヴェンの姿は見えなくなっていた。彼の言う「調査」に出かけて行ったようだ。
それから一週間、ベートーヴェンは城島家に姿を現すことがなかった。もう、あちらの世界に帰ってしまったのかと思っていると、夕飯の準備をしている最中に「城島君、オムレツとワインを頼むよ」という威圧感に満ちた声がリビングから響いて来た。
「帰って来たようだね」
キッチンに立つ城島の後ろからロベルト・ブーシェの声がした。
「調査が終わったんですかね」
「さあね、彼には元々放浪癖があるからね。放浪しすぎて浮浪者と間違えられて捕まったことがあるくらいだ」
浮浪者と間違えられるということは、唯放浪していただけではなく、余程汚い身なりをしていたのだろう。
「彼にとっては散歩することが芸術を創造する源なのかもしれないが、傍からはただの放浪癖のある変わり者と見られていたのかもしれないね。もっとも、耳が不自由だった彼にとって創造は彼の頭の中だけで行われる作業であって、周りの目等どうでも良いことなのだろう」
城島は自分たちの夕食を後回しにして、せっかちなベートーヴェンのオムレツを初めに作った。卵は勿論六個入りだ。
出来上がったオムレツをテーブルの上に並べても、そこにベートーヴェンの姿はなかった。てっきり、出来上がった途端に食べ始めると思っていた城島がリビングの扉を開くと、楽聖はパソコンの前に陣取り、眉間に皺を寄せてモニターを睨んでいた。
「ルードヴィヒさん、オムレツが出来ましたよ」
城島が声をかけると、
「すまんが、ここに運んでくれ、今、この演奏を見るのに忙しいのだよ」
と言ってパソコンが載っているテーブルを指差した。
城島がそこにオムレツとワインのボトルを載せたトレイを運ぶと、パソコンの画面には一九六〇年代に世界を席巻し、わずか十年足らずで解散したイギリスの四人組のバンドの一人のコンサートの動画だった。このバンドのメンバーも二人があちらの世界に逝っている。しかも、一人は自宅の前で銃で撃ち殺されるというショッキングな亡くなり方をしている。
「彼のコンサートに行っていてね」
ベートーヴェンがグラスに入ったワインを一気に飲み干して画面を指差した。画面の中では城島でも知っている男が左利き用のギターを弾きながら自作の歌を歌っている。
「どちらまで行っていたんですか」
「イギリスまでだよ。彼の生歌が聴きたくなってね。しかし、イギリスは酷い所だね。寒いし、食べ物は不味いし、やはり住むには日本かドイツのどちらかだね」
ベートーヴェンの言う日本とは城島家限定ではないのだろか。
「それで彼の生歌はどうだったんですか」
楽聖の機嫌が良いと察した城島が、恐る恐る尋ねると、
「うむ、中々良かったよ。特に歌の合間の楽曲のメロディーは聴き映えのするものだったよ」
「ルードヴィヒさんは、クラシック音楽は鑑賞されないんですか」
更に怒られることを覚悟して訊いてみた。
「クラシック音楽? はて、そのような区分分けがあるのかね」
隣でロベルト・ブーシェが笑っていた。
「彼にクラシック音楽の定義を言っても無駄だよ。そもそも、彼の時代にクラシック、ポピュラーの区分分けはなかったからね。あるのは交響曲、協奏曲、オペラといった様式の違いだけさ。彼だって生きていた時には新進気鋭の作曲家であって、今の時代で言えば、ポピュラー音楽の作曲家だからね」
ロベルト・ブーシェの言う通りだった。彼に言われなければ、楽聖にクラシック音楽の定義を語るという恐ろしい行為をしてしまうところだった。
「しかし、あのベースギターというのは素晴らしい音がするね。私の時代にあの楽器があったら、是非あの楽器のための協奏曲やソナタを書いてみたかったね」
ベートーヴェンは生涯チェロのための協奏曲を書くことはなかったが、ピアノ伴奏つきのチェロソナタと書いている。
ピアノとは異なり、ベートーヴェンにチェロの演奏技術はなかった。演奏技術のなさを埋めるべく、チェロ奏者との交流から生み出された五曲のチェロソナタは「チェロの新約聖書」と呼ばれ、チェロ奏者にとっては、チェロの聖典「バッハの無伴奏チェロソナタ」と並んで重要なレパートリーとなっている。
ベートーヴェンが書かなかったチェロ協奏曲の替りに「エレキベース協奏曲」を作曲するとなれば、その価値は計り知れないものになるに違いない。
「今からでも遅くはないですよ。書いてみたら如何ですか」
城島がそう言った途端にベートーヴェンの髪が先の方からチリチリと持ち上がり、部屋の中にゴロゴロと雷鳴が轟いた。
「私に曲を書けと言うのかね。私が曲を書くということは、どれだけ命を削って……」
見る間に顔が真っ赤に染まり、眉毛が吊り上る。
「すいません、すいません」
城島が慌てて頭を下げた。雷鳴が遠のき、ベートーヴェンの顔色が元に戻っていく。どうやら楽聖は、沸騰するのも冷めるのも速い、瞬間湯沸かし器のような性格らしかった。
「それに私の作曲の料金は安くはないよ。君にその金額が支払えるかね」
漸く怒りの静まったベートーヴェンが、部屋を一瞥してから城島をからかうように鼻を鳴らして言った。半分は冗談だとしても、楽聖の金銭感覚は彼の音楽同様にかなりエネルギッシュなようだ。
「他に気に入った演奏を聴くことが出来ましたか」
慌てて話題を変えることにした。出来るだけ当たり障りのない話題にしたかった。
「そうだねえ、私の時代にも素晴らしい演奏家はいたがね」
「その方は今の時代にも名前が残っていますか」
「ああ、残っていると思うよ。例えばコントラバス奏者のドラゴネッティという名前を聞いたことはないかね」
ドメニコ・ドラゴネッティの名前は、城島も知っていた。ベートーヴェンと同時代の超絶技巧で知られたコントラバス奏者だ。彼と初めて出会った時、ベートーヴェンは「チェロソナタを弾いて欲しい」と言い、そのリクエストに答えたドラゴネッティは、コントラバスで「チェロソナタOP.五ー二」を弾いた。ベートーヴェンは伴奏を弾きながらドラゴネッティの素晴らしい演奏に目が釘づけとなり、演奏が終わると、楽器ごと彼を抱きしめた、と言われている。それまでコントラバスは通常チェロのオクターブ下の音を弾くことが多かったが、それ以降のベートーヴェンの作品では独自のパートを受け持つ楽器としての扱いを受けている。しかし、独自のパートであるが故に難易度も高く、多くのコントラバス奏者の練習量が飛躍的に多くならざるを得なかった。現代の演奏者でも交響曲第九番の四楽章は演奏不可能と言われるフレーズが多く、その殆どがドラゴネッティの助言によって作られたと言われているのだから、当時のドラゴネッティの演奏技術に現代のコントラバス奏者の技術が追いついていない証拠なのだろう。
「しかし、ヴァイオリン等は素晴らしく演奏技術が進んでいるね。当時と比較すると神業のようだ。オムレツと同じくらいの進歩だね」
ヴァイオリンの演奏技術を、城島の作るオムレツを一緒にしてしまっては、世の中の全てのヴァイオリニストから怒られてしまいそうだが、ここは敢えてスルーしておく。
ベートーヴェンと同時代の演奏家には、ドメニコ・ドラゴネッティの他に、ニコロ・パガニーニというスーパースターがいる。悪魔に魂を売った代償にヴァイオリンの超絶テクニックを手に入れたと噂されていた程、人間離れをした演奏技術の持ち主であった。彼の演奏会では、あまりの衝撃的な演奏技術に失神する女性が続出したと言われている。
当時は本人しか演奏不可能と言われていた自作の曲を、現代では稀にではあるが小学生でも演奏する者がいるくらいだ。
「管楽器の音も良くなっているね。しかし、オーケストラはバランスが命だ」
音楽の内容に関する楽聖の言葉には、さすがに今までにはない厳かさがあった。
「このエレキギターも、もっと色々な使い方があると思うのだがね」
ベートーヴェンの頭の中には、エレキギターでさえオーケストラの一楽器としての使い方がシュミレーションされているのかもしれない。
城島は自分たちの夕飯を作るためにキッチンに戻った。そこではロベルト・ブーシェがテーブルに腰を降ろして、ワインを飲みながら加菜子の話相手になっていた。普段はリビングにいる加菜子だが、どうも感情の変化の激しいベートーヴェンが苦手なようで、あまり近づきたがらない。
加菜子のためにピラフと野菜サラダを作り、自分にはウィスキーを飲みながら、つまみに残った野菜を炒めてオイスターソースで味を付けた。ロベルト・ブーシェにはベートーヴェンと同じくオムレツを作った。但し、使った卵は三個だけだ。
「パパ、ピアノの練習がしたい」
加菜子が箸を持った手を止めて、半べそをかいて言った。
「どうした、リビングに入るのが怖いのか」
「うん、あのおじさん怖い、ピアノ弾いてると怒るの」
加菜子の怯え方を見ると、ベートーヴェンは相当にきつく加菜子を叱りつきたようだ。
「そんなに怖かったか」
「うん、雷がゴロゴロしてたの」
雷まで鳴らしていたとなると、幼児相手にかなり本気の怒り方をしたのだろう。
「どんなことを言われたんだ」
「あのね、そんなのは音楽じゃないとか、もっと感情をこめて弾けとか、後は訳の分からないいこと」
そんなことをピアノを弾き始めたばかりの子供に言っても分かるはずがなかった。やはり、楽聖は良く言えば音楽に対しては真摯、悪く言えば大人げない性格のようだった。
「しかし、彼の言いたいこと分からなくはない」
加菜子の隣でロベルト・ブーシェがワイングラスを目の前に掲げながら言った。
「人生の半分を難聴という音楽家にとって致命的ともいえる病と闘っていたのだからね、今の彼にとって耳の聞こえる者が適当に弾く音楽など聴くに堪えないのだろう」
言いながら片手で加菜子の頭を軽く撫でた。
「勿論、加奈子は適当に弾いている訳ではない。まだ技術が拙いだけだ」
ロベルト・ブーシェの言葉に加菜子俯きながら呟いた。
「あのおじさん、時々動画サイトでエッチなの見てるし」
加菜子が上目使いでぼそりと呟いた。
「そうか、あのベートーヴェンが……」
城島はしばし絶句したが、あの世界の音楽史に燦然と名を残す楽聖がそんなことをするはずがない、等とは思わなかった。たとえベートーヴェンでも元は普通の人間なのだ、そういったことがあっても特に驚くようなことではない。むしろ、あって然るべくであろう。逆に人間臭いベートーヴェンの一面を見ることが出来て嬉しいと思うことにした。
「おい、ワインがないぞ、ボトルごと持って来い」
リビングから有無を言わさぬ高圧的な声が響いて来た。城島が新しいワインのボトルをリビングに持って行った。
「ルードヴィヒさん、何を見ているんですか」
空いているグラスにワインを注ぎながら、パソコンの画面を眺めると、そこには金髪の女性が下着だけを身につけた姿でポールダンスをしてる動画が流れていた。今加菜子が言っていたエッチな動画とはこれのことだろう。
「ルードヴィヒさん、こういう動画を良く御覧になるんですか」
城島の問い掛けにベートーヴェンはまるで無反応だった。問いかけ自体が全く聞こえていないかのようである。
「ルードヴィヒさん、どういう動画は良く見るんですか」
声のトーンを上げてもう一度話し掛けた。少し間を置いて
「いや、すまんすまん、少し耳が悪いものでな。何を言われているのか良く分からない時があってね」
嘘だ。絶対に聞こえているに決まっている。こんなに都合良く耳が聞こえなくなるはずがなかった。どうやら楽聖は自分に都合が悪くなる時には耳が聞こえなくなくなるらしかった。勿論、生きていた時には本当に聞こえなかったのだろうが、これでは教育上という観点からも加菜子は彼には近づけない方が良いのだろう。
「あまり音は大きくしない下さいね」
「うむ、分かっている」
返事をしてから、ベートーヴェンがしまったという顔で「あっ」と声を上げた。当然聞こえていたようだが、ここは気が付かなかったことにする。
ベートーヴェンがパソコンの画像を音楽のものに切り替えた。今度は以前にお気に入りだった、歌舞伎のようなメイクをしたハードロックのバンドだ。
「今度は彼らの音楽を調査しに行こうと思ってね」
「今度はアメリカですか。ならばジャズも一緒に聴かれたら如何ですか」
城島が横からマウスを操作して、世界的に有名な女性の黒人歌手が歌っている動画を呼び出した。静かな曲はまたベートーヴェンが怒り出すかもしれないので、ビックバンドの演奏に乗せて賑やかに歌う曲を選んだ。
「中々面白いオーケストラだね。これもアメリカに行けば見れるのかね」
「はい、あちらが本場ですから」
「そうか、ではついでに調査してみることにしよう、あっ、さっきのダンスは調査する訳ではないからね」
「分かってます」
調査をするつもりはないのだろうが、ポールダンスを見に行く口実等いくらでもある。第一、仮にベートーヴェンがそのような場所に行ったとしても、知り得るのはロベルト・ブーシェだけだ。城島には知りようもないことだ。
「それでは行って来る。暫く留守にするが頼むぞ」
何を頼むのか全く分からないが、城島の主気取りのベートーヴェンの姿が徐々に薄くなり、やがて完全に見えなくなった。それと同時にリビングに加菜子が入って来た。ドアを少しだけ開けて中を窺っていたらしい。
「あのおじさん行っちゃったの」
「ああ、また暫くは戻らないそうだ。良かったな、これでピアノの練習が出来るぞ」
加菜子は「わーい」と言ってキーボードの前の椅子に座った。その後ろには、相変わらずロベルト・ブーシェが立っていた。正直、部屋の中で雷の音がする心配をしなくて済むのは、有り難かった(そのような心配は普通は有り得ないのだが)。
「あのおじさん、もう来ないと良いなあ」
加菜子がぼそりと誰に言うでもなく囁いた。
あれでもあのおじさんはなぁ、と言いかけて言葉を飲み込んだ。今の加菜子にどのようなことを言おうとも、ベートーヴェンの偉大さは分からないだろうし、将来学校で音楽の授業を受けるようになれば、いやでもその凄さが思い知らされるはずだ。もっとも、ベートーヴェンと部屋に来ているにきている「怖いおじさん」が同一人物だと気づかない場合もあるだろうが。
バーボンのオンザロックをチビリチビリを飲みながら、ベートーヴェンの音楽に対する価値観を自分はどれくらい理解しているのだろうか、と城島は思った。
ベートーヴェンが再び城島の部屋を訪れたのは、彼が「調査」に出かけて十日程過ぎた頃だった。
城島が仕事から帰り、部屋のドアを開けると、何時ものようにリビングから老人と子供の話し声が聞こえて来た。またロベルト・ブーシェと加菜子が動画を見ているのかと、リビングの扉を開けると、二人に挟まれるようにしてベートーヴェンがパソコンの画面に見入っていた。今日は眉間に皺を寄せた不機嫌な顔ではなく、初めて見る和やかな顔だ。
「おお、城島君、帰っていたのか、何時ものやつを頼むよ」
まるで居酒屋の常連のような注文の仕方だ。
「パパ、お帰り」
加菜子が立ち上がって城島の足に飛びついて来た。
「今日はあのおじさん怖くないのか」
「うん、今日は何か楽しい」
加菜子の頭を撫でながら、ベートーヴェンの顔をマジマジと見てみた。眉間に皺どころか、口元に笑みさえ浮かべている。これは調査の最中に余程良いことがあったのか、機嫌を損ねないうちに、ワインをリビングに運び、早々に料理に取りかかった。
出来上がったオムレツをベートーヴェンの前に並べながらパソコンの画面を見ると、そこにはジャズのビッグバンドの演奏が映っていた。
「城島君、このオーケストラは中々にエキセントリックで良いね。アメリカに行ったついでに鑑賞したんだが、一発で気に入ったよ。日本にもこういったバンドはないのかね」
どうやら先程からベートーヴェンの機嫌がすこぶる良いのは、ジャズのビッグバンドが気に入ったことに依るらしいが、日頃ジャズに親しみのない城島には、ベートーヴェンの質問に答えるだけの知識を持ち合わせてはいなかった。
「私はそのジャンルの音楽は聴かないもので……」
ベートーヴェンの顔がにわかに曇った。
「ジャンル? 音楽にジャンル等というものがあるのかね。あるとすれば心に響く音楽と、そうではない音楽、それだけだろう」
ベートーヴェンがテーブルを掌で叩いた。
「きゃっ」と声を上げて加菜子が城島にしがみついた。ベートーヴェンの顔が次第に赤く染まり、髪の毛の先がチリチリと持ち上がっていく。このままでは雷鳴がすることが必至だ。何とか話題を逸らさなければならない。
「ルードヴィヒさん、ダンス関係は調査されなかったんですか」
城島の懸命の問いかけにベートーヴェンはテンションを少し下げた。
「はて、ダンス関係とはどういったことかな」
ベートーヴェンが小首を傾げた。
「この前動画を見ていたじゃないですか」
「何を言っているのか、良く聞こえんな」
ベートーヴェンがまた耳が聞こえない振りをすると、顔色と髪の毛が次第に元に戻っていった。これならば雷の鳴る心配は必要なさそうだ。
「ワインのお替わりをお持ちしますね」
そう言って席を立つと後ろから着いて来たロベルト・ブーシェが冷蔵庫の前で城島の耳元で囁いた。
「城島君、中々ルードヴィヒの扱いが上手いじゃないか」
「そんな立派なものじゃありませんよ。これでも一杯一杯なんですから」
「誰も立派だとは言っておらんよ。強いて言えばペテンが上手いとでもいうのかな。ギターよりもそちらの方に才能があるのではないかね」
城島は唯苦笑するしかなかった。ペテンの才能があると言われて喜ぶのは、人を騙すことを生業としている詐欺師だけだ。
「そんなことはない。例えば作家等は嘘を作る才能が必要ではないか。あれだってペテンの一種だろう」
成る程、と城島は思った。芸術とペテン或いはこの二つは似ているものなのかもしれない。しかし、こんなことをベートーヴェンに聞かれたらまた雷が部屋中に鳴り響くことだろう。
「お願いですから、ルードヴィヒさんにそんなことは言わないで下さいよ」
城島の言葉にロベルト・ブーシェが小首を傾げた。
「言う訳がないじゃないか。音楽という芸術のためだけに生きた男にそんな失礼なことを言う程無礼なつもりはないよ」
ロベルト・ブーシェが無礼な発言をするのは城島に対してだけということなのだろうか。
「私は城島君にも失礼なことを言った覚えはないがね。城島君はギターの中から私を出してくれた、言わば恩人だからね。感謝しているのだよ、これでもね」
これでも、というところが少し引っかかるが、ここは敢えて気が付かなかったことにする。
「城島君、オムレツがなくなったよ」
リビングからベートーヴェンの怒鳴り声が聞こえた。
「分かりました、直ちにお替わりをお持ちしますよ」
リビングに向かって答えると、何時の間にか加菜子がロベルト・ブーシェの脇に立っていた。
「どうした、お腹が空いたのか。すぐに作るから待っていなさい」
加菜子は先程とは違い、表情が暗くなっていた。
「あのおじさん、またエッチな動画見てる」
ワインを既にボトル一本以上飲んでいるベートーヴェンは、またいかがわしいダンスの動画を見始めたようだ。
「それじゃあ、ここで御飯の出来るのを待っていなさい」
加菜子をリビングの椅子に座らせてリビングの様子を窺うと、ベートーヴェンとロベルト・ブーシェが並んで楽しそうにパソコンの画面に見入っていた。会話も弾んでいるようだが、どう見ても真面目な音楽談義をしている風ではない。酔っぱらいのエロ親父が二人で鼻の下を伸ばしているようにしか見えない。
「今日は御飯を食べたら、お風呂に入って寝なさい。お父さんもここで食べるから」
涙目の加菜子の頭を撫でて、オムレツを作り始めた。ベートーヴェンは今は機嫌良く動画を見ていても、料理の出来が遅くなれば瞬時にギアが怒りモードに突入するからだ。
出来上がったオムレツをリビングに運んで行くと何時の間にかロベルト・ブーシェの姿が消えていた。不思議に思いながらキッチンに戻って来ると老人は加菜子の隣に座っていた。
「ロベルトさん、ルードヴィヒさんと一緒にダンスを見ていたのではないですか」
「さっきのはルードヴィヒにちょっと付き合っただけさ。もう、ああいうものを見たいという気持ちは殆どないからね」
そう言う割にはかなり楽しそうだったのは、演技だったのだろうか。ということは、ペテン師という点においては、城島よりもロベルト・ブーシェの方が数段上と言うことではないのだろうか。
「そんなことはないよ。ルードヴィヒは生前、難聴の他にも胃腸等に色々の病気を抱えていた。あの世に行って初めてそれらの苦悩から脱することが出来たのだよ。その彼にちょっと付き合うくらいは、私なりの気遣いなのだよ。それに彼が少しのことで雷を鳴らす程に怒り出すのは、彼の人としての許容範囲が狭い訳ではない。彼が自死さえ考えた程の苦しみの末に生み出した音楽をこよなく愛していればこそなのだよ」
ベートーヴェンという人物(既に人ではないが)を一言で言い表せば、偏屈が服を着ているようなものだと、何かの本で読んだ記憶がある。ロベルト・ブーシェの言うように、難聴以外にもそれだけ病気と闘いながら創作活動をしていたのならば、それを端から見れば偏屈と映るのは致し方のないことなのだろう。それよりも、その状況下の中で、あれだけの名曲の数々を創作した途轍もない精神力にこそ敬意を払うべきなのだろう。
「その通りだね。そして、その苦悩の反動が今のルードヴィヒの姿なのだよ。未知なる物への好奇心、そしてそれを学ぶ喜び、それらに満たされている。そうは思わんかね」
その未知なる物の中にあのダンスも含まれているというのだろうか。好奇心、何か後ろめたいことを言い表すのには非常に都合の良い言葉だ。
「女性のセクシーな部分を男が愛するのに何の後ろめたいことがある? 至極自然のことだと思うがね」
そうだったロベルト・ブーシェは亡くなって数十年経っているとはいえ、所詮はフランス人なのだ。日本人の「奥ゆかしい」という感覚は説明の仕様がないのだ。
「加菜子にもそのうちに分かるよ。この子は母親に似て美しくなるだろうからね」
ロベルト・ブーシェが大人の会話か理解出来ずにポカンと口を開けている加菜子に視線を向けた。
「えっ、ロベルトさんは茉莉絵に会ったことがあるんですか」
驚いた城島の言葉に、今更何を言っているのだとばかりに
「ああ、以前城島君の携帯電話に着信があった時、○○に今いると表示があったから、行って顔を見て来たよ。城島君にはもったいないような美人ではないか」
「唯顔を見ただけですか」
「ああ、そうだよ。顔を見てすぐに帰って来たからね。だが、顔を見れば分かる。彼女は当分は帰って来ないよ。一人旅を満喫している、正にそんな感じだったからね」
やはりそうだったか。しかし、今帰って来られたとしても、部屋に夫と娘の他に幽霊が二人(二体と言う方が正しいのか)という現実を現実主義者の茉莉絵が受け入れるはずがなかった。すぐに家出の口実にされてしまうことだろう。今はこの状況を受け入れて生活していくしかないのだ。
「ところでルードヴィヒさんは生身の女性好きではないんですか」
「そんなもの、嫌いな訳がないじゃないか。生前は数々の、と言う程ではないにしろ、浮名を流していたくらいだからね。城島君も知っているだろう、ピアノ独奏曲『エリーゼのために』を、あれは当時の主治医の娘、テレーゼ・フォン・マルファッティという女性のために書かれた曲なのだよ。唯、ルードヴィヒの書く文字があまりにも読みにくかったために『エリーゼ』と誤読されてしまったと言われているのだよ」
知らなかった。あの有名な「エリーゼのために」というピアノ曲は、本当の曲名が「テレーゼのために」だったかもしれなかったとは。書く文字が癖字過ぎて読み間違えられるとは、ベートーヴェンの人間臭い逸話ではないだろうか。
「そのあたりの真偽は本人に直接訊いてみたらどうだね」
ロベルト・ブーシェが意地悪い笑いを顔に貼付けていた。
「とんでもない、遠慮させて頂きます」
ベートーヴェンにそのような話題を振ること自体、自分から地雷を散撒くようなものだ。雷鳴どころか雷に打たれて感電しかねない。
加菜子と一緒に風呂に入り、寝かしつけてから缶ビールを飲みながらリビングを覗くと、そこにベートーヴェンの姿はなかった。また彼の言う「調査」に出たようだ。
翌日城島は浄書講座の準備の合間にネットでベートーヴェンについて書かれているウエッブサイトを何カ所か閲覧した。それに依ると、ベートーヴェンは身長は一六〇センチと当時の西洋人としても小柄な方だが、体はかなり屈強で熊のような体型をしていたらしい。食事については卵、マカロニ、魚を好んで食べ、特に卵には格別の思い入れがあったようで、ロベルト・ブーシェの言うように胃腸の調子が何時も悪く、常に下痢の状態が続いていたが、その原因は彼のワイン好きにあったようだ。当時のワインには 甘味料として酢酸鉛が多く含まれていて、それを毎日大量に飲んでいたベートーヴェンは当然鉛中毒であった。それは近年になってベートーヴェンの遺体を調査した際に髪の毛を採取して成分分析をした結果、通常の百倍近い鉛が検出されたことからも科学的に裏付けがされている。
その他に面白い逸話としては、部屋は常に乱雑でグランドピアノの上には埃だらけの楽譜が山積みにされ、異臭を放つオマルが傍らに置かれていたが、好きだったコーヒーだけには几帳面で、毎朝きっちり六十粒を自ら数えて飲んでいたという。また、ベートーヴェンの引っ越しの回数が以上に多いことも有名で、それは部屋の中の所を構わず水浴びをして床を水浸しにし、下の階の住人から苦情が出たこと等に依るもので、その数は驚くことに、実に七九回に及んだという。
生涯独身であったベートーヴェンだが、女性が嫌いだった訳ではなく、街で肉感的な女性に出会うと、その後ろ姿を何時までも眺めていたという話も残っている。ポールダンスがネットで見放題の環境は、彼にとって初めて何の遠慮もなく女性のあられもない姿を見ることが出来る、正に「魔法の箱」の与えてくれる歓喜なのだろう。
レッスンが終わった岩本が控え室に戻って来た。
「岩本さんはベートーヴェンの曲は良く弾かれるんですか」
席に座ろうとした岩本に何気なく訊ねてみた。
「なんだい、城島のだんな、シューベルトの次はベートーヴェンか、また演奏の依頼でもあったのかな」
「別にそう言う訳ではないんですが、唯岩本さんがベートーヴェンの曲をどう思っているのかを訊ねたかっただけですよ」
岩本の何時も顔に浮かべている笑みが消えた。
「どうも何も、ベートーヴェンの曲は、俺なんかが語れるような軽い物じゃないよ。傑作の森という苦悩の末に辿り着いた芸術の極み、人生の一つの到達地点、……なんてな」
言った途端に岩本の顔に何時もの薄笑いが戻っていた。
「但し、作曲者当人が苦しいからといって、聴く奴にとって苦しい曲とは限らないからな。苦しみの果てに作る美しさの極致、俺は好きじゃないけどね。音楽は作曲者の意向に関わらず、プレイヤーが良い演奏をして、聴衆が感動すればいい、それだけのことだと思うがな」
何処までが本気かは分からないが、天才的なヴァイオリニスト岩本ならではの言葉だった。良く音楽や絵画と言った芸術に携わる者が「感性」という言単語を口にするが、下手な表現者の「感性」という単語程滑稽に聞こえるものはない。所詮は技術が拙い者の拠り所が「感性」と言う言葉なのだと城島は思っている。
「俺もヴァイオリンソナタくらいは弾く時があるよ。依頼さえあればね。城島のだんな、今度に重奏でもやるかい」
「いいえ、滅相もない」
岩本と同じステージに立てるだけの技術に自信がない訳ではないが、所詮はブルペンエースに身だ。岩本が出演するようなステージに立てるはずがなかった。
「ベートーヴェンにはギターにアレンジしても良い曲が結構あると思うんだけどね」
実際、学生時代にはベートーヴェンの弦楽四重奏曲をギターアンサンブルにアレンジして弾いたことがあった。それに、パガニーニのヴァイオリンソナタの中には、ピアノの替わりにギターが伴奏部を受け持っているものがある。しかし、どう考えても岩本の横でギターを弾いているイメージが湧いて来ないのは、岩本のヴァイオリン演奏に対する畏怖の現れなのだろうか。
「じゃあな」
城島の考えを察しているのか、何も考えていないのか、岩本の肩を軽く叩いて講師控え室を出て行った。
それから一週間経った休日の前夜、加菜子を寝かし付けた後に一人ウイスキーのグラスを傾けていると、目の前のキッチンテーブルの上で小さな火花が散った。目の錯覚かと思い、両目をバチバチと瞬かせていると、
「私だ、城島君、目の錯覚ではないよ」
と言いながらベートーヴェンがゆっくりと実体化して向かいの椅子の上に姿を現した。
「また、何時ものやつを頼むよ」
相変わらずの台詞だが、今日は今までとは違う、柔らかな物言いだった。目線もどことなく弱々しげに見えた。「調査」の間に楽聖に何が起こったのだろうか。だが、それを問い質すことは出来ない。何時彼の機嫌を損ねて雷が鳴り出さないとも限らないからだ。
「今日は何時になくしんみりしておるね」
何時の間にか城島の隣にロベルト・ブーシェが立っていた。
「現代音楽の調査という観点とは違う意味で充実した散歩だったようだね」
意味深な言葉をした老人の片手には中身の入ったワイングラスがあった。中身とは言うまでもなく城島家に備蓄されている赤ワインだ。
「ロベルトさんは何か御存知なんですか」
城島の問いかけにロベルト・ブーシェは「さて、何のことかな」と言いながら含み笑いをするばかりだった。
大急ぎで作ったオムレツとウインナーの炒めた物を皿に盛ってテーブルに置くと「すまんね」と言いながらベートーヴェンはワインの入ったグラスを目の前に掲げて見せた。そして何事かを小声で呟き出した。
「ルードヴィヒさんは何を言ってるんですか」
城島がロベルト・ブーシェに小声で訊ねると
「何やら感謝の言葉を述べているようだね」
欧米人は日本人が食前に手を合わせて「いただきます」と言う替わりに、神に感謝の言葉を述べる。神とはキリスト教で言うところの「わが父」であり、唯一無二の創造主である。ベートーヴェンが熱心なキリスト教信者であるかどうかは別にして、西洋人であるからには協会と縁遠くはないのだろう。
「彼が感謝の言葉を捧げているのは神にではないよ」
ロベルト・ブーシェの言葉が城島の思考を遮った。
「でも、西洋の方が食事の前に祈りを捧げるといえば、神様以外にありますか」
「城島君、私の話を聞いていたのかね。彼は感謝していると言ったのだよ。祈りを捧げているとは言っておらんよ」
「感謝と祈り、大して違わないと思いますが」
ロベルト・ブーシェが小さく溜息をついた。
「相変わらず君は愚かだね。感謝と祈り、この二つは全く違う物だよ。あのパソコンとか言う箱で調べてみてはどうかね。こんなことを私に説明させないでくれよ、全く」
ロベルト・ブーシェが呆れたように城島の顔を見上げた。
感謝と祈りの違いくらいは分からなくはない。それを訊ねたくらいでここまで罵倒される筋合いではないのだが、国民性或いは宗教観の違い等、一言では片付けられない要因を含んでいる気がするので、深堀りはしないでおいた方がよさそうだ。
「ルードヴィヒさんが感謝の言葉を述べているということは、調査の間に何か感謝をするようなことがあった、ということでしょうか」
ロベルト・ブーシェが「ふん」と鼻を鳴らして再び城島を見上げた。
「彼は神等信じてはおらんよ。彼が信じているのは芸術としての音楽だけさ。その信念だけで生きていたようなものだからね」
「ということは、ルードヴィヒさんもロベルトさんも無神論者だったんですか」
「そういうことではない。要するに、神等という、いてもいなくてもどうでも良いとまでは言わないが、心の拠り所ではないということだね。唯音楽と言う芸術のためだけに生きた、と言えば分かり易いかね」
宗教観の違いではなく、価値観の違いだった。
ベートーヴェンが「感謝」を終え、一口だけ飲んだワイングラスをテーブルの上に置いた。
「ルードヴィヒさん、体調でも悪いんですか」
ベートーヴェンの機嫌が急変するかもしれないが、他に言葉が思い浮かばなかった。だが、城島の心配をよそに、楽聖の機嫌が悪くなることはなかった。
「体調が悪いことはないよ。もう病気に罹ることもないのだから」
再びワインを口に含み、表情を変えることなく低い声で答えた。
「実は調査の途中で知った顔に出会ってね、その出会いに感謝しているのだよ」
ベートーヴェンがワイングラスを目の上に掲げた。
「その出会いというのは、あちらの世界の方ですか」
「いや、私の時代に生きていたのだが、生まれ変わって今の世に生を受けていた。美しい女性に生まれ変わっていた。これは素晴らしいことだ。しかし、私は見た通りの身の上だ。彼女と恋をすることは出来ない。しかし、良いのだよ。唯見ているだけでも充分に幸せなのだからね」
ベートーヴェンは城島が思っているよりも遥かに恋愛に対してはストイックなのだろうか。音楽を芸術という高見に押し上げるためだけに生きた男は、恋愛に対しては酷く不器用だったのかもしれない。
「その方はどちらに住んでいるんですか」
「その娘はニューヨークに住み、ピアノ弾きになっていた。昔の名前はアントーニエ・ブレンターノ、私の恋人だった人だよ。もっとも、私たちが知り合った時に、彼女は既に別の男と結婚していたのだがね」
ベートーヴェンは昔を思い出しているのか、遠くを見るように視線を上げた。
「今でも美しい、私が愛したときと同じようにね」
ベートーヴェンが再びグラスを掲げて何事かを呟いてから中のワインを一口飲んだ。
「ルードヴィヒさんは今度は何を言ったのですか」
ロベルト・ブーシェに訊ねた。
「まぁ、再会を祝して、ということだろうね」
「再会はめでたいことですが、その女性がルードヴィヒさんの昔の恋人の生まれ変わりだと、何故分るんですか」
「それは分るだろう。何といっても私たちには君たちには見えないものが見えるからね」
ロベルト・ブーシェが声をひそめた。以前彼は自分には幽霊は見えないと言っていた。ならば、彼らにしか見えないものとは一体何なのだろうか。
「見えるというよりも感じると言った方が正確かもしれないね。分かるのだよ、自分と縁のあった者ならば特にね」
ロベルト・ブーシェの言葉に楽聖が小さく頷いた。城島には彼らの感覚は分らない。分からないが、ベートーヴェンの気持ちが幸せで満ちていることだけは感じることが出来た。
城島もウイスキーの入ったグラスを掲げて、目の前の楽聖の幸せのために小さく乾杯をした。
その夜は家出中の妻のことも忘れて、楽聖と静かに飲み明かすという貴重な体験をすることが出来た。
嘗ての恋人との再会で満足したベートーヴェンは、てっきりあちらの世界に帰って行ったとばかり思っていると、一週間程経った夜、城島が何時ものように部屋に帰って来ると、リビングの真ん中にどっかりと腰を降ろした楽聖の姿があった。
「城島君、何時ものやつだ、早くしてくれ」
一週間前とは打って変わって、せっかちで不機嫌な顔が城島を待ち構えていた。
「ルードヴィヒさん、何か今日は不機嫌ですね」
隣にいるロベルト・ブーシェに訊ねた。
「不機嫌というよりは、一週間前が特に上機嫌で、今日は元に戻ったというところかな」
ロベルト・ブーシェはキッチンに向かった城島の後ろを着いて来た。
「何か不機嫌になる原因があったんですかね」
「それはそうだろう。しかもその原因は彼の昔の恋人にあるようだね」
「その方がルードヴィヒさんの機嫌を損ねるようなことをしたんですか」
「恐らくはそういうことなのだろうね」
「ルードヴィヒ、何があったのかね」
ロベルト・ブーシェがヒビングに向かって静かに訊ねた。
「いや、仕方のないことなのだ」
数秒の間を置いてベートーヴェンが答えた。声がくぐもってはいるが、弱々しくはない。
「彼女も生身の人間だ。恋人が一人ぐらいいてもおかしくはないだろう」
どうやらベートーヴェンが嘗て愛した人には、現在恋人がいるらしい。
「仕方のないことだ。仕方のないことだが……」
言葉に詰まっているようだった。今日はベートーヴェンの自棄酒に付き合わされることになりそうだった。
出来上がった卵六個分の巨大なオムレツをベートーヴェンの目の前のテーブルに置くと、楽聖はそれをゆっくりと崩しながら、ワインをハイペースで飲み始めた。
飲むことに依って気を紛らわせようとしているのか、言葉数も少なく、話しかけ難い雰囲気だ。
空気がしめったように場が沈んでしまった。と、その空気に耐えられなくなったのか、今まで黙って城島やベートーヴェンの顔色を窺っていた加菜子が、ミニピアノの前に座って鍵盤を叩き始めた。曲名が分からずにウイスキーの入ったグラスを片手に暫くその音に聴き入っていたが、やがてその曲がベートーヴェンが城島の部屋に始めて来た時に彼を怒らせ、雷鳴が轟いた原因を作ったアイルランドの女性シンガーの曲だと分かった。
「止めろ、その曲は……」
加菜子の方に伸ばしかけた手をロベルト・ブーシェが制した。
「ルードヴィヒを見て御覧、様子が変わっているのに気が付かないかね」
言われてベートーヴェンの様子を眺めてみると、沈んでいた顔つきが少しずつ普通に戻りつつある。
城島はハラハラしていたが、ベートーヴェンが怒って雷を鳴らすことはなく、目を閉じて加菜子の弾くピアノを黙って聴いていた。それは乾いたスポンジに水が染込んでいくように、すーっと体の中にとけ込んでいるように見えた。
ワインを飲む手を止めて加菜子の弾くピアノを聴いていたベートーヴェンがふと目を開けた。
「人はこのような音楽を求める時もあるのだね」
「その通り、人は強くはない。時にはこのような音楽に心癒されたい時もあるのだよ」
ロベルト・ブーシェの言葉にベートーヴェンが静かに頷いた。
「芸術として以外に音楽にはこのような役目があったとは、驚いた。しかも私自身がそれを痛感することがあるとは……」
城島の見ている前でベートーヴェンの姿が次第に薄くなっていき、やがて完全に見えなくなった。後には飲みかけのワイングラスと、オムレツの乗っていた皿だけが残った。
加菜子はピアノを弾いていた手を止めて、テーブルの上をじっと見つめていた。
「加菜子、何であの曲を弾いたんだ?」
城島の問いかけに、娘は笑いながら「だって、あのおじさん悲しそうだったから」とだけ答えた。
「そうだね、人は悲しい時に必要なのは感動ではない。悲しみを癒してくれる優しさだ。それをルードヴィヒも分かったのだろう。だから、静かに消えていったのさ」
「えっ、ではあちらの世界に帰って行ったのですか」
「さぁね、ここからは消えたがあちらの世界に行ったのかどうかは分からんよ」
ロベルト・ブーシェが何時ものように肩を竦めて見せた。
一週間程経った朝、城島が起きるとリビングのテーブルの上にA四サイズの数枚の紙の束が置かれていた。手に取ってみると手書きの楽譜だった。タイトルには日本語で「エレキベースのためのソナタ ピアノ伴奏つきkanakoのために」とある。ベートーヴェンが加菜子のために書き残した物のようだ。
ドイツ語が読めない城島のためにわざわざ日本語のタイトルをつけてくれたことは、尊大なベートーヴェンにとっては最大のサービスなのだろう。かなりの悪筆ではあるが、丁寧に書かれていることは一目瞭然で、これならば後世に誤読されることはなさそうだ。
「どうやら、お礼のようだね」
「お礼というと、何かに感謝をしているということですか」
「そうだね。彼は音楽が魂の救いになるという体験をした。音楽は芸術以外の何ものでもないという信念を持っていた彼にとっては、嬉しい発見だったのだろうね」
「そしてそのお礼がこの曲という訳ですね」
「そういうことだろうね。今の彼には他に何も出来ないからね。せめて曲を加菜子にと思ったのだろう」
城島は楽譜を開いてみた。エレキベース、楽聖が甚く気に入っていた楽器だ。ソロの部分をギターに置き換えて演奏することは可能だろうが、そんな勝手なことをしては、またベートーヴェンの怒りをかい、部屋中に雷が鳴り響いてしまうかもしれない。勿体ないがやはりこの曲も加菜子のピアノを弾く技術が上達するまでお蔵入りだなと思った。
部屋とギターと娘と…… 北村瑞樹 @kitamura-mizuki
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