今から君に会いに行く

槙野 光

今から君に会いに行く

 主観。

 夕方の電車で吊り革につかまりながらスマホ片手に朝のニュースを繰り返し見ている女って、気持ち悪いと思う。

『本日未明、住宅から火が上がりました。一時間後に火は消し止められましたが、中から遺体が――』

 イヤホンから耳に流れる明瞭な声。金属で構成された長方形の小さな箱の中で、皺ひとつない藍色のスーツを身に纏った男性が顔色ひとつ変えず悲惨なニュースを告げる。

 何歳ぐらいの、性別は、出火原因は、警視庁は。

 淀みない口調で訥々とひと通り情報を並べるとスイッチを切るかのようにぴたっと口を閉じ、机上にある原稿用紙を見るためか彼の頭がやや下がると、家に光が灯ったように暗色から明色へと映像がぱっと切り替わった。小さな家の住民は白黒模様の大人のパンダとうっすらと紅葉色に染まった子どものパンダで、コンクリートの地面に寄り添い合うように座っている姿は人間の親子を彷彿とさせる。けれどふにゃふにゃっとした垂れ目にほわほわっとした毛並みは人間よりも愛嬌があって、それが生きていくためにそうなったのか分からないし調べる気もないけれど、可愛らしい姿に思わず頬が緩みそうになる。

 ――ああ、いけない。

 人の目がある場所でひとりにやつくなんて不審者極まりないと咄嗟に慌てて俯くと、真正面の座席に座っている小学校低学年ぐらいの男の子と目があった。頭に被った黄色い帽子の庇から覗く無垢な双眸。

 男の子は足をぶらぶら揺らしながら、縁が青みがかった濃褐色の瞳を向けてくる。心を丸裸にされてしまいそうな純真さに素知らぬふりして顔を引き締め前を向くと、右手で吊り革を握り、左手にスマホを手にした二十代半ばの女が窓硝子の中からこっちを見ていた。

 肩口で切り揃えられた黒髪。瞼に描かれたモスグリーンのアイシャドウ。重くなったまつ毛。新調した小花柄のワンピース。

 化粧気がなかった高校時代の地味な自分の面影は、どこかに残っているんだろうか。

 そんなことを考えながら窓硝子をまじまじと探してみる。唇、手、目。整形でもしない限り自分のパーツはそんな簡単には変わらない。どこまでも凡庸な見た目に安心したようながっかりしたような複雑な気分に包まれた。ため息を呑み込むと、がたがたと鉄鋼レールを走る電車がわたしの気持ちを嘲笑するかのようにがなり音を鳴らし、窓硝子越しに林立するビル群がわたしの顔を濁していった。


 わたしは今、高校の同窓会に向かっている。彼はわたしのこと、覚えているだろうか。


 大人数の場はあまり得意ではなくて、大学時代はアルバイトだサークルだと忙しさを理由に避けてきた。初めはしつこく誘ってきた友人も、何度か断っている内に儀礼的に同窓会があることを告げるに留まるようになった。だから同窓会に参加すると言ったとき、友人の香織からはひどく驚かれた。

「気が向いただけだよ」

 何の心境な変化だと訝しむ香織に本当のことは言わなかった。

『本日から、動物園で子どものパンダの一般公開が始まりました』

 柔らかな声が鼓膜を揺らす。

 窓硝子から左手に持ったスマホに顔をずらすと、液晶の中で薄らとした笑みを浮かべた彼が双眸に優しさを滲ませて前を見ていた。

 画面越しに目が合い、鼓動が跳ねる。

 命を吹き込まれたように温度のある姿と、少し前までの温度の低い姿。ころころと変わるカメレオンみたいな姿は、高校時代の彼からは想像がつかない。

「……すごいなあ」

 思わず呟いてはっと口を噤むと、電車が止まりドアが開く。吐き出され、呑み込まれていく人の影。がやがやとしたホームの騒めきがイヤホンの隙間から届く。昼休み、放課後。高校の教室もこんな風に賑やかだった。けれど、そうだ。そう、彼だけは騒々しさから一歩離れた場所にいつもいた。ひとり本を読んで、時折窓の方を見ていた。

 薄い青空の向こう。校庭のその先に、彼は何を見ているんだろう。教室の後ろの壁に寄りかかって、隣にいる香織の話を聞きながら、ぼんやりとした頭でよく考えた。

 伸びた背筋。本の端を掴む白い指。鼻梁の通った横顔。聡明な眼差し。彼の周りを囲う透徹とした空気。たくさんの人がいる中で、彼だけがスポットライトにあてられているみたいだった。気が付いたらいつも目で追っていて、けれど彼に話しかける勇気はなかった。このまま面と向かって話さずに高校生活が終わるんだろう。そう思っていた。


 高校二年の、あの夏までは。


「……浅田さん?」

 昼間の熱を孕んだままの夜の空気に急かされ、たまたま足を運んだ近所のコンビニ。アイスのショーケースを覗き込んでいると頭上に名前が降ってきた。声元を探るようにゆっくりと顔を上げて、息を呑んだ。

「……高谷くん?」

 ケースの向こう側に、彼が立っていた。

 うそ、本物? なんで?

 瞠目し当惑を滲ませるわたしに、彼はなんて事ないように笑う。

「びっくりした。まさかこんなところで会うなんて。浅田さん、家この辺なの?」

「う、うん。高谷くんも?」

 上擦る声に突っ張る頬。不恰好に吊り上がる口端が彼の双眸にみっともなく映るんじゃないかと気が気でなくて、今更隠せやしないのに目線をやや下げると、青いパッケージに描かれた毬栗頭の男の子と目があった。大きな口を開けて何の憂いもなく笑う姿。羨ましい。

「従兄弟の家がこの辺なんだ。僕は使いっ走り」

「使いっ走り?」

 訊くと、彼が手に持った緑色のカゴを持ち上げる。隙間からは牛乳や六枚切りの食パンが覗いていた。明日の朝食なのかな。

「人使い荒いんだ、あの人」

 言葉とは裏腹に、彼は楽しげな表情だった。従兄弟とは良好な関係を築いてるんだろうとそんな風に感じさせる、気易さを滲ませた優しい口調だった。

 仲良いんだねとか、歳近いの? とか、他の人には気安く続けられる言葉がなかなか出てこなくて、何の色も付かない時間が無為に消費されていく。

 一、二、三――

「――すみません」

 不意に草臥れた声と共にわたしの左横から腕が伸びてきた。ケースが開いて隣を見ると、スーツ姿の男性が立っていた。

「あっごめんなさい」

 慌てて横に少しずれると男性は小さく会釈をする。そして疲れを滲ませた顔でアイスを手に取り、少し猫背気味にセルフレジへと向かうと重い足取りで店から出て行った。

 男性とは対照的な軽快音が店内に鳴り響き、硝子ドアが閉まる。前を向くと、彼と目が合った。彼が空いた片手で頬を掻き、微苦笑を浮かべる。

「……こんなとこで話してたら邪魔になるね」

「……そうだね」

 頷くと再び言葉が途切れる。コンビニから流れるアップテンポ調な音楽がやけに大きく聞こえた。

 人の足音、レジの音。雑多な空気に穴がぽっかりと空いたような不安定さに、話の接ぎ穂に相応しい言葉を必死に探す。

 本当は分かってる。アイスを手にして別れの言葉を口にすれば空いた穴は簡単に埋まっていく。そうするのが一番いいって分かっていた。けれど、自分からそうするのは嫌だった。どうしても嫌だった。

 今この時間だけは、許してほしかった。

「少し」

 彼が言う。

「外で少し、話してく?」

 柔らかな口調に、咄嗟に顎を引いた。

「うん」

 自分でもびっくりするぐらい響いた声に彼が瞠目するのがわかった。けれど、彼はそれには触れなかった。彼はただ、目元を和らげて、毬栗頭の男の子の絵が描かれたアイスをひとつ手にして微笑んだ。

「浅田さんは、どれにする?」


 ♦︎


 白白とした月明かりに照らされながら、コンビニの窓硝子を背にして車止めの前で彼とふたり横並びになって空色のアイスを口にした。

 見上げると、月の眩さを嫌厭するように少し離れたところで星が点々と散っていて、明るさに呑まれないよう周りと距離を置いて様子見をしている姿は、少し寂しく見えた。

「浅田さん、アイス溶けてるよ」

「えっ? あっ」

 彼に指摘されて顔を下げると、バランスを崩したアイスが不恰好な姿で棒にしがみ付いていた。底の方から溶けたアイスが滴り落ちて、アスファルトに甘い雨を降らせている。慌てて棒を持つ手を持ち上げて、大口を開けてアイスを口にすると痺れるような冷たさが広がった。

 体表を纏う夏の暑い空気と体内に広がる凍えるような空気。相反する空気がひとつの体で鬩ぎ合あう。葛藤しながらアイスを平らげて棒の端を指で弄んでいると、彼の声が沈黙に割り込んだ。

「浅田さんは、進路決めてるの?」

 夏休み手前、初めて手にした進路調査票はいまだに空白のままだ。

「ううん。……高谷くんは? その、決まってるの? 進路」

 かぶりを振って訊くと、彼は「決まってるよ」と迷いなく言う。

「へえ……。すごいなあ」

 自然と、感嘆のため息が漏れた。

「わたしは、自分が何になりたいのか将来どうなってるのかちっとも想像できない。何歳までに結婚して、とかみんな話すけど、それすらも……」

 言葉にすると、自分の土台がどれだけ不安定なのか思い知らされるようだった。暗幕がかかったみたいに不確かな未来、今。不安と情けなさに思わず目線を下げると、アスファルトにできた甘い水溜りに蟻が群がっていた。不規則に蠢く様相はわたしの心に少し似ている。ぐしゃぐしゃにしたテスト用紙みたいな何か。考えると、胸の奥に重しが積み重なっていくようだった。けれど、

「――それでいいんじゃないかな」

 彼の声がした。

「えっ……?」

「焦らなくてもいいんじゃないかな。今はわからなくても、探し続ければきっと見つかるよ。浅田さんなら、きっと。……だから、大丈夫だよ」

 彼の声は真綿で包むように優しくて、それでいて力強い口調だった。何の根拠もない言葉だと分かっている。けれど、取り繕うことをしない彼のその言葉は甘いアイスみたいにわたしの胸の中にじんわりと沁みていく。

 顔を上げて、彼と目が合った。何もいえず言葉を探すわたしに、彼は微笑みを浮かべて空を見上げた。

「アナウンサーになりたいんだ」

 予想だにしない言葉に息を呑んだ。けれど、彼の双眸は揺らがない。まっすぐに、空だけを見ていた。

「おまえには無理だって、従兄弟から言われるんだけど……」

 苦笑を浮かべて、「でも」と彼は顔を引き締める。

「でも、僕はアナウンサーになりたい。誰かにとって価値のある情報を届けたいんだ。僕の言葉が誰かの助けになれたら、僕の人生にも意味があったんだってきっと思えるから」

 それは、空の向こうまで届くような確かな声だった。

 ああ、きっと。きっと、彼は星を見ている。ひとつひとつ救い出すように、どんなに儚い光も救い出せるように、優しい双眸に星を映し出している。

 呼吸をする。夏の息は白くならない。けれどそこにある。見えない息が、空に溶けていく。

「……なれるよ」

 彼が返事を求めていないことは分かってた。けれど彼のための言葉を、彼に渡したかった。

「高谷くんなら、なれる。絶対なれる」

 陳腐な言葉かもしれない。それでも、わたしは確信していた。ひとり本を読む姿。校庭の先を見る彼の眼差し。

 彼は、いつも真っ直ぐだ。

 彼が顔を下げ、星を映し出していた双眸でわたしを見る。そして、目元を和らげてくしゃっと笑った。

「……ありがとう」

 気のせいかもしれないけど、彼の頬はほのかに上気したように薄らと赤くなっていて、それが嬉しくて、わたしも笑った。

 他の人からしてみればなんて事ない夏夜の一幕なのかもしれない。通り過ぎて霞んでしまうような出来事かもしれない。けれどわたしには。わたしにとっては忘れられない夜になった。

 大人になった今でも鮮明に覚えてる。

 あの日彼と眺めた夜空の色。アイスの冷たさ。まとわり付くような熱の篭った空気。今でも、覚えてる。

 ふたりきりで話したのは、たった一度きり。

 高校を卒業した後、彼とは会ってない。連絡先も交換していないし、同窓会にも来なかったから。けれど、今日会えるかもしれない。本当か嘘かわからないけど、幹事の香織が、高谷 直樹が来るって興奮した口調で電話越しに話してたから。

「ふーん、そうなんだ」

 気のないふりで返事をしたけれど、本当は香織よりわたしの方が昂揚していた。電話を切ったその日の夜は心臓が騒いでなかなか眠れなかったし、時折胸の奥がきゅっと引き絞られるように切なくなった。瞼を閉じて聞こえる、身体中を巡る足速な鼓動の音がとても心地よかった。

 三日後、香織にメッセージを送った。

『次の同窓会、久しぶりに顔出そうかな』

 香織からは「何の心境の変化なのよ」とすぐに連絡が来た。けれど、笑って誤魔化した。電話越しに聞く香織の声は腑に落ちない感じだったけど、

「まあ、あんたもミーハーだったってことね」

 当たらずといえども遠からずな言葉を最後に、それ以上理由を訊かれることはなかった。

 電車が止まる。前を見ると駅名標があって、丸みを帯びた黒文字が次の目的地を伝えている。

 ああ、やっと彼と会える。

 やや俯いて、緩んでいく頬を必死に引き上げていると幾度目かのニュースが終わった。息を軽く吐き、動画を閉じる。音楽に切り替えてスマホをバッグにしまい、イヤホンから耳に流れる恋の歌。

 前を向くと、窓硝子に映るわたしの目元は喜びを隠しきれないほど緩んでいた。硝子越しの茜色の空がわたしの頬を染め、電車が再び走り出す。

 目的駅に着いたら、わたしはきっといつもより大きな一歩で電車を降りる。真っ直ぐに伸びるホームを颯爽と駆け抜けて、風に触れながら夕暮れの街を足速に歩く。そして、彼の元へと辿り着く。初めに掛ける言葉はずっと前から決まってる。彼はどんな反応をするだろうか。考えたけれどわたしの中の彼はいつも同じ。優しく笑って、そして言う。「ありがとう」って嬉しそうに頬を上気させて。そしてわたしも笑うんだ。


 あの日の、夏夜みたいに。


 電車が音を立てて目的駅に着く。ドアが開いてわたしは大きな一歩を踏み出した。


 了

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今から君に会いに行く 槙野 光 @makino_hikari

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