ペンギンは火星で眠る

図科乃 カズ

 



   ◆



 機能性を重視した質素な病室のベッドから体を起こした君は、吾輩わがはいの名を聞くと一瞬息を飲んだ後、うっすらと笑った。

 その瞬間、吾輩の胸がぎゅっと苦しくなる。これはきっと、君が病衣を纏ってベッドに横たわっているからだ。吾輩は弱っている人間と子供には優しいのだ。


「あなたは、そう――〝コウテイ〟さんはどうしてわたしのところに?」


 決まっている、なぜ捜しているかを探している・・・・・・・・・・・・・・のだ。

 吾輩は大宇宙おおうなばらを往く大いなる渡り鳥。素粒子の海を掻い潜り、折り畳まれた虚数次元を跳躍し、11次元の隙間から表れしもの。しかし、ここにありそうな気がしたのだがどうも違うようだ。

 大きく首をかしげると君は少しだけ微笑んだ。やはり、胸が痛くなる。吾輩は思い出してやらねばならぬのだ、何故だが分からぬがそれだけは分かる。


「――絶対に見つけてね」


 蒼い目を伏せて呟く君を見て、吾輩はどうにかしてやらねばと思うのだ。



   ◇



 私は夢を見る、それは病室で眠る母。

 母に会ったことはない、私を産んですぐに死んでしまったから。幾つかの記録が残ってたけど、積極的にセントラル中央制御センターにアクセスして確認しようとは思わなかった。少し寂しい考えかもしれないけれど、一度も会ったことがない人にそんなに興味はなかったから。

 そもそも、どうして私がそんな夢を見るようになったかといえば――


「なんともまあ、ようやくお嬢さんマドモアゼルに辿り着いたかと思えば、何も知らない、ときたものだ。吾輩のこの苦労、どう償ってくれる?」


 目の前で130センチの鳥類がふんぞり返って愚痴をこぼす。

 白と黒の完璧なコントラスト、くちばしのオレンジラインに首から胸元にかけての鮮やかな黄化粧、美しい流線形のフォルムは腹部のふくよかさを際立たせる――つまり、ペンギン。それも皇帝エンペラーペンギン。

 始めて現れたのは5日前、全自動調理器オートクッカーからマカロニグラタンを取り出している最中に出現したので、危うくこいつの頭にひっくり返すところだった。それからもこいつは、ベッドに入り込んだ瞬間、庭の温室で水まき中、更にはよりにもよって入浴中に現れて――とにかく、急に現れては文句だけ言って消えるので、本当に何者なのか分からない。


「ハッ! そもそも吾輩を人間の定義でとらえようとするのが間違いなのだ。それと吾輩はこいつ・・・などではない。言っておるだろう、吾輩はコウテイだと」


 首を上下に揺らしながらリビングをよちよち歩き回るコウテイは、テーブルに展開されていた立体映像ハイスクールの授業を一瞥すると、下を向きながら嘴を開かずにガガガガーと鳴く。


「確か先日も物理だったな。勉強もよいが、お嬢さんマドモアゼルはその前にやるべきことがあろう?」

「ペンギンがどうして私の記憶なんて知りたいわけ?」

「ペンギンではない、大宇宙おおうなばらを自由に泳ぎ回る唯一の生命体宇宙ペンギンだ。それに、吾輩が追い求めているのは母君であってお嬢さんマドモアゼルではない。彼女ならば、吾輩が〝なぜ捜しているかを探している〟のか答えを知っている筈、それだけだ」


 この話、何度目だろう。記憶にないものを思い出すなんて出来るわけがない。そう言い返そうとしたところで、コウテイは短いフリッパーを振って遮った。


「波がずれ始めたようだ。どうもこの次元は安定せんのでいかん」コウテイの表面に幾重もの縦波が沸き立って乱れる。

「よいかお嬢さんマドモアゼル。必ず思い出すのだぞ」憎たらしい声だけ残してコウテイはシャボン玉が割れるように消えてしまった。ほんと、現れるときも突然ならいなくなるのも突然だ。


 私はコウテイが居た空間を見つめながら、また1つおかしな事が起こったのだと確信していた。



   ※



 「全人類の社会福祉保護法」の特別条項によって、私は宇宙の孤児として15歳になるまでハウンゼル夫妻に育てられ、16歳になった今は自立を選択して一人で暮らしている。

 といっても、生活に必要なものは全てセントラル中央制御センターが提供してくれる。一人では広すぎるこの家もそうだし、勉強も食事も全自動、洋服だって通信機腕時計から好きなものを選べばいい。もっとも、土地柄のせいか可愛いデザインのものなんてほとんどないのだけれど。


「新しい服を手に入れたのかい。とっても似合ってるよ」


 庭の温室で水まきをしていると、開いた窓の向こうからリアム兄さんが手を振ってきた。少し癖のある茶色の髪に爽やかな笑顔、長身で私よりも頭1つ分は高い。彼は3番目の保護者、だからこうしてこまめに会いに来てくれる。

 私はその場でくるりと一回転した。薄黄色のワンピースの裾がふわりと広がり、花の甘い香りと共に髪が舞った。彼は目を細めて微笑む。


「ところで最近、変わったことはないかい?」

「どうしてそんなこと聞くの?」


 リアム兄さんの唐突な質問に、私は逆質問して動揺を隠した。

 変わったことならもちろんある。5日前に現れたあのペンギン、こんなところで出会う筈がない。

 だけど今は彼に言うタイミングではない。一人暮らしでノイローゼになったのかと疑われるかもだし、コウテイについて思うこともある。だから、話すのはもう少しあと。


「そんなこと聞くなんてリアム兄さんこそ何かあったの?」

「ああ、あったさ」彼は温室の入口まで近づくと、

「今日は一段と可愛く見えるよ」そう言ってウインクした。


 私は顔が熱くなるのを感じた。



   ◆



 「火星病」――心筋が薄くなる火星入植者特有の心疾患、さすがの吾輩もすぐには気づけなかった。しかし、ベッドに眠る君を見て、確実に死をもたらすその病名を唐突に思い出した。

 人工月光が照らす君の横顔、白い頬に伝う涙の跡を見てどうしてこんなにも胸が苦しくなるのか。

 吾輩は〝なぜ捜しているかを探している〟。君はその手がかりに過ぎぬのに、何故か君のために出来ることはないかと考えてしまう。

 君の痩せこけた手が持っていた情報端末タブレットに目と落とす。そこには『先遣調査隊、全滅!?』の文字が踊っている。なるほど、なるほど。それは悲しかろう。


「今日は早くからいらしてたのね」翌朝の君はいつもと変わらぬトーンで吾輩に挨拶をする。昨夜、流していた涙などなかったかのように。


 その姿はマイナス140度の世界に咲く雪華火星の氷霜のよう。2億2800万キロメートル彼方からの太陽光を浴びれば一瞬にして気化してしまう儚き結晶。

 大きなお腹を抱えたまま、もはや体を起こすことすらままならないのに、君は吾輩に向かってうっすらと笑みを浮かべるのみ。


 ええい、何故、君は吾輩にすがらない! あらん限りの声を上げよ!

 吾輩は苦しいのだ、胸が張り裂けそうなのだ、訳も分からぬ情動が熱い血潮となって吾輩の体を走り回り、居ても立ってもいられないのだ!

 11次元の裂け目から入り込み、虚数次元を刹那で通り過ぎ、素粒子の海を自由自在に泳ぐ吾輩の力を見るがよい!

 吾輩は、君と、君のお腹に眠る子供の両方を助けたいのだ!

 母が子の犠牲になってはならぬ、子が母を犠牲にしてはならぬ、共に生きよ!

 理由!? そんなもの吾輩にも分からぬ、吾輩がそうしたいからそうするのだ!!


「そうなれば、本当にいいわね」吾輩のフリッパーに乗せた君の手は弱々しい。信じぬのか、作り話などではないぞ。


 ガガガガー、吾輩から生み出された波が、素粒子にゆらぎを与え、光量子となって君に注がれる。これは〝鍵〟だ、いつか人類が開けなければならない扉の鍵、これを持つ者はその役目を果たすまで決してこの次元から落ちない、遺跡で見つけたこの鍵を君らに預ける。だから生きよ!


この子・・・、のことだけれど――」


 君はゆっくりと目を閉じ、自分はいない未来を語り始めた。



   ◇



 皇帝エンペラーペンギン――いや、コウテイが何者なのか? 私は幾つかの仮説を立てていた。それを確認したあと、私はいよいよ次の行動を起こす。

 そう思って待ち構えていた、節電モード夜時間になる少し前。


「ふむ、ここは温室か」


 偉そうな声と共に白と黒のツートンカラーのコウテイが、空間の裂け目から飛び出すように部屋の中央に現れた。本当に、出現するときは突然だ。だけど、驚いてばかりもいられない。


「私、思い出したんだけど」私はにっこりと笑って椅子を指し示す。

 コウテイは黒い目をパチクリさせて「そうか!」と叫ぶと勢いよく椅子に飛び乗った。でっぷりとしたお腹がたるみを帯びる。向かい合って座った私はさりげなく温室のリモコンを操作する。


 彼が欲しがっているのは母の記憶、それを思い出すふりをしながらゆっくりと話す。

 私が知っているのは少しの映像と音声、そこでは病院のベッドに座る母が楽しそうに話していた。蒼い瞳と白い肌が印象的な美人、だけど私は黒い瞳に黒い髪だった。

 幾つかの文字記録もある。母は私を産んだ直後に死んだ。死因は「火星病」、『出産は母体の生命を危険にさらす行為だった』とだけ記録されていた。それなのにどうして私を産んだんだろう。


 私は顔を隠すようにハンカチで覆った。額や鼻の下、それに目尻から、何かがたくさん溢れていた。

 窓を閉め切った温室は想像以上に熱い。あえて温室の温度を最大にまで上げたのだから尚更だ。体も服もびっしょり、私ですらこうなのだからとコウテイに目をやると、彼は椅子の上でぐったりとしていた。

 私はゆっくりと身を動かしながら植木の裏に隠していた水まきホースを手繰り寄せる。コウテイは目を細めて苦しそうに息をしている。やるなら今だ。


 ダンッ! 思い切りコウテイに飛び掛かる。

 彼と一緒に床に倒れる。異様に熱い彼の体を全体重で押さえ込み、がらむしゃらにホースを巻き付ける。その間、彼は暑さのせいか白目をむいて動かなくなった。

 ホースの両端をきつく結んだ私は、彼の頬を叩いて気絶していることを確認する。更に用心のために園芸用のテープで嘴をぐるぐる巻きにした。これで意識が戻っても助けを呼ばれることはない。


 誰に助けを呼ぶ? それはセントラル中央制御センター――と、さっきまではそう思ってた。何もなかった空間から急に現れては急に消える、だからセントラルの立体映像ホログラム人工生物機械バイオボットではないかと疑ってた。

 だけど、彼には実体があって、その体は機械のように強靱ではなくて、柔らかくて、温かかった。いや、熱すぎたくらいだ。それは私のせいだけれど。


 立ち上がってコウテイを見下ろすと、彼はホースの丸玉の中で弱々しく息をしている。

 私は濡らしたハンカチを彼の頭に乗せると、窓を全て開放してから外に出た。



   ※



 部屋に戻った私は、汗で湿った服を脱ぎ捨て自動洗濯乾燥収納機ランドリーが選んだ薄黄色のワンピースに着替えた。夜時間までまだ時間はある、予定どおり出掛けられる。

 通信機腕時計のロックを外して机に置く。これは私のバイタルを常に計測しているだけでなくセントラルへの窓口にもなってる。とはいっても、私は数日、これをあえて使ってない。


 この街のシステムは少しずつ壊れてきている――一人暮らしを始めて全て自分でやるようになってからそれに気づいた。

 全自動調理器オートクッカーは常に私の健康面を考えて様々な料理を出してくれるけど、先日、朝昼晩と3食続けてマカロニグラタンが出てきた。立体映像ハイスクールの授業は3日間「物理」な上に同じ内容を繰り返してる。毎朝人工牛乳を運ぶドローンはいつも決まった場所で墜落するようになった。

 計算されて回っていた筈の歯車が少しずつ少しずつ歪んでいくような、そんな漠然とした不安が募った。だから私はセントラルに行って確かめたかったのだけど――


「やあ、こんな時間からどこに行こうっていうんだい?」


 玄関を開けると目の前にリアム兄さんがいた。

 いつもと同じ爽やかな笑顔を向けながら、扉に手を当て私の行く手を塞ぐ。タイミングが良すぎる、私が睨み付けると彼は肩をすくめた。


「駄目だよ、敷地から出ることはセントラルに禁止されてるよね」


 リアム兄さんが一歩踏み出す。と同時に夜時間が訪れ、オレンジ色をしていた人工天空パネルが薄闇色へと切り替わる。私達を照らす空が消え、彼の顔に影が落ちる。口端が吊り上がり、黒い顔に笑った口だけが浮かび上がる。


新しい服を手に入れたのかい・・・・・・・・・・・・・とっても似合ってるよ・・・・・・・・・・


 黒い顔から漏れる言葉がまったく変わらないことに背筋がゾッとした。刹那、私は小さく屈むとリアム兄さんの腕の下を潜って庭へと転がった。


「どうして腕時計を外したんだい?」見上げるとハウンゼルさんが立っていた。

「みんなでマカロニグラタンを食べましょう」ハウンゼル夫人が手を叩く。


「僕が呼んだんだ。最近、様子がおかしかったからね」後ろから近づいてきたリアム兄さんが私の腕を掴んで引っぱり上げた。

「君は待っているだけでいいんだ」二の腕に彼の手の感触が伝わる。強くて痛くて怖くて、そして――冷たい。

 どうして今まで気づかなかったんだろう――違う、私は初めから分かってたんだ、その事実を知ろうとしなかっただけなんだ。


 私はリアム兄さんの手を振り払って正面を向いた。

「私、この服、前にも着てたよ」私の言葉に彼は沈黙する。


「それにリアム兄さんの手、とても冷たい。ハウンゼルさんも夫人も、みんなみんなはじめから、手も腕も足も――抱きしめてもらっても温かくなかった。そうだよね、人工生物機械バイオボットの適正体温は30度以下、常にそうなるように冷却メンテされてる。たとえ温室で蒸されても絶対にそれ以上にはならないよね」


 外の暗さを感知して、家の外灯が自動点灯する。

 眩しい光が私達を照らす。だけど、リアム兄さん達の顔から黒い影は取れない。闇に浮かび上がる家をバックに、リアム兄さん、ハウンゼル夫妻の6つ赤い目が揺れる。

 コウテイを捕まえるまで私は本当の生物に触れたことがなかった、だから、冷たさ・・・が比較できなかった。最初、コウテイはセントラルが送ってきたバイオボットだと思った。だけど本当は反対だったんだ。


「君はこの家から出る必要はないんだよ? 僕達は16年、君を保護してきた。それは地球統一政府から救助が来るまで継続される。だから」


 リアム兄さんの造られた手が私の腕を掴む。痛い、冷たい、その強さに思わず声を上げる。

 ハウンゼルさんの枯れた手が私の頭を抑え、ハウンゼル夫人は手を打ち鳴らしながら笑い声を上げる。彼らは私を囲んで家へと戻そうとする。

 私をここ・・から出したくないんだ。何も分からず閉じ込められたままなんて嫌だ、どうすればいい? こんなことなら温室で蒸さなければよかった!


 キーン。


 刹那、私の中から金属の響く音がした。それは波となって指の先まで震わせたあと、1つの形となった。


『よくぞ、吾輩を思い出してくれた!』


 目の前で光の粒子が弾け、白と黒の物体が形成される。それは美しい流線形になったかと思うと、リアム兄さんのあごを蹴り上げ、ハウンゼルさんを頭突きした。ハウンゼル夫人には、フリッパーで拍手をした後に尻尾で弾き飛ばした。


「全くもって遅すぎるのだ」彼はバイオボット達を睨み付けたまま嫌味を言う。そんな彼を思い切り抱きしめる。柔らかい、そしてやっぱり温かい。ゴメンね、コウテイ。

「よい。それより行くぞ」顔を向けるコウテイに「セントラル?」と尋ねると、彼は目だけで笑った。


「〝なぜ捜しているかを探している〟のかが置いてある場所にだ!」


 そしてガガガガーと鳴く。その振動に応えるようにキーンという音が私の中から聞こえてくる。

 共鳴してる――そう思った瞬間、私は波と粒子の集合体へと細分化された。



   ※



 玄武岩を素材にした円柱の建物には、まるでサボテンのように幾つもの子株が増築されていた。それがセントラル中央制御センター。火星入植から一世紀が過ぎ、私が思っていた以上に朽ちていて、見ているだけで寂しくなる。

 私は今、人類のモニュメントセントラルの上を飛んでいた。


セントラル彼らは自分の使命に従っただけなのだ。許してやれ』コウテイが説明する。

 金色の粒子に包まれていた彼はひこうき雲のように尾を引いていた。でもそれは、私が〝そのように見たい〟と意識したからそう見えるだけ。それと同じように、彼には私がどう見えているだろう。


『はは』美しい流線形が私の目の前で跳ねる。

『その白い肌、そなたは母君にそっくりだ』


 お互いの意識が微かな波と細かな粒子となって混じり合っていることが分かる。だから彼は、私の全てを理解していた。


『外に出るぞ、お嬢さんマドモアゼル』私の意識がコウテイに引っ張られる。

 セントラルが遠くへと過ぎ去り、私達は天蓋を通り抜ける。

 目の前に広がるのは透明な暗闇、そこは太陽の光が届かない火星の裏側。

 赤黒い地表に一点、火星基地のドームが見える。直径1キロメートルの灰色の人工物、火星に刻んだ人類の小さな爪痕。あそこには1万人の入植者が生活している。


 あ、思わず私が声を漏らしたのは、そこが温室に見えたからだ。私が温室で草花を育てていたように、私もまたそこで育てられていたんだ。

 更に白い点が見えた。それらは火星基地を取り囲むように無数に存在していた。

 氷点下の無音の荒野でじっと耐える、人が生きていたことの証――1万人のお墓。

 私以外の全ての人が眠る場所だと何故か理解した。

 

『すまない、吾輩の記憶だ』


 コウテイが私の意識の隣で呟いた。



   ◆



 目を伏せベッドに横たわる君は、愛おしそうにお腹に手を当てひとり言のように呟く。

 そいつは願い下げだ! 赤子の隣にいて育てるのは君に与えた役目だ。吾輩にはもはやそれができん。

 吾輩の返事を聞くと君は何も言わずにうっすらと微笑んだ。流れる沈黙。

 胸が張り裂けんばかりに痛む。ああ、クソ。全てを分かっているかのようなその笑みはやめろ。

 分かった――但し、何があろうと見ているだけ、それ以外はフリッパーも嘴も出さんからな。


 君にそう応えつつ吾輩は病室内を歩き回る。これ以上、君を見ていられなかったのだ。

 そこにふと、ある名前が吾輩の頭の中に降りてきた。その名前はずっと前から考えていて、必ず君に届けると誓ったものだった。ああ、これだけはきちんと残っていてくれたのだ、他の記憶は綺麗さっぱり消えてしまったというのに!


 気づけば、吾輩はその名を口にしていた。

 君の国の言葉ではWISH。かつて、2人で決めた名、吾輩はそんなことも忘れていた。

 慌てて君に目を遣る、君の白い頬に一筋の雫が流れた。

 吾輩は悔しくて俯くしかなかった、もう君を正面から見ることができない。


「嬉しい、思い出してくれて――お帰りなさい、あなた・・・


 吾輩の耳に残る懐かしい声、それが君の最後の言葉だった。




 この姿を選んでまで戻ったのに、吾輩は君を助けられなかった。〝鍵〟を預けてもそれは叶わなかった。

 吾輩は11次元をすべり落ち、素粒子の海を漂っていた。

 君を思い出すたび、記憶の素粒子がぶつかりあい空間に亀裂を作った。その先には君の居た次元が映る。吾輩はずっとそれを見ていた。

 火星の南極に突然出現した遺跡――そこは吾輩を選んだ場所――に派遣された先遣調査隊が消息不明となった後、遺跡の発光と共に火星基地に住む1万人が消滅した。

 次の亀裂では赤い大地に白いしるしが立つのが見えた。バイオボットによって火星基地の周辺に無数の墓標が作られた。人など入っていない形だけの目印。

 〝鍵〟を受け継いだ君の子ならまだ火星基地あそこに居るのではないか? バイオボット達がたった1人の人類を守りながら地球の救援を待っているのではないか?

 吾輩はあらん限りの記憶を呼び起こして亀裂を作り、君の子を捜した。

 思い出す記憶は君だけ。うっすらと笑う君、寂しげな君、吾輩を見つめる君――それらの情景が重なるたびに消えては次元の亀裂が表れる。それに飛びついて先を見るが君の子の姿はない。

 亀裂が生まれるたび、吾輩の大切なものがこぼれ落ちていく。君の姿が、顔が、もう吾輩には分からなくなった。

 そうだ、吾輩はそれでも構わないからとこの姿ペンギンになることを選んだのだ、加速し続ける宇宙がいつか全ての素粒子をバラバラにして全ての個を無くすまで、吾輩はこの宇宙を一人泳ぎ続けると決めたのだ。


 吾輩は、いつしか気づいた。

 吾輩は、なぜ捜しているかを探さねばならぬ。

 吾輩は、君を伝えたいと思ったのだよ。

 


   ◇◆



 私とコウテイの意識は粒子となって混じり合いながら、遺跡の上空にまで辿り着いていた。そこには巨大な石版が円陣状に並んでいた。

『〝鍵〟を持つ吾輩達には単なるゲートに過ぎんよ』

 ここが目的地じゃないってこと? そう聞きかけた私の意識を彼は強引に引く。

 落下した先には遺跡が幾つもの円を描いて光りを放つ。まるで別次元から巨大獣の口だけが現れたかのよう。そう思った瞬間、私達はひと飲みにされ、今までいた次元の裏側に放出された。




 ふと気づけば、私達は拡大する宇宙の果てにある底で、したたり落ちる宇宙の端を見上げていた。

 粒子となった宇宙の雫が落ちる先には幾重にも連なった塔がある。煌めく雫が降り注ぐと、塔は淡く光り高さを増した。


『最果てまで辿り着いた宇宙はあのように塔となっていく』


 幾つもの塔がそびえたその建築群はまるで教会のようだった。重々しくて、立派で、張り詰めていて、寂しげで、どこか悲しげ。

 宇宙の全て――物質だけではない、これまで起こったこともこれからも起こることも、意味のあることもないことも、想いも願いも記憶も感情も、全てを凝縮したその教会は、最後の宇宙の一滴を得た時、どのような鎮魂歌を奏でるのだろう。


『あったぞ――そうか! 捜していたものはここにあって、探していたものはそこにあった。〝なぜ捜しているかを探す〟のは同時でなくてはならなかったのだ。だからこの場所・・・・のだ』


 教会を遠くから見ていた筈の私ははしゃぐコウテイの前に居た。

 白と黒のコントラストが眩しい彼はフリッパーを振って壁面の一部を指す。そこはほのかに蒼く瞬いていた。私は瞬時にそれが母だと理解した。

 

 催促するコウテイの顔を見返す、彼はガガガガーと鳴いて私を揺らした。それに押されるように恐る恐る手を伸ばした。


 ピン、触れた瞬間に何かが流れ込むのを感じた。私の粒子にコウテイではない別の粒子が絡みつき公転する。

 それは私のではない、私の思い出――ただ純粋に、私にだけ向けられた暖かさ。それはコウテイを抱いたときとは違う温もり。


 ――大丈夫だよ、私は無事に生まれて、今も元気だよ。


 母の想いはたった1つしかなかった、私のことだけ。

 『それ以外のことは考える必要がなかったの』なんて、そんな筈はない。病気火星病だったから? 私には分からない、自分より大切なものがあるなんて。


 私の頬に雫が伝わる。宇宙の雫が私にも落ちたのかもしれない。

 会ったこともない人にこんな感情を抱くなんてセントラルは教えてくれなかった。私はこれからどうすればいいんだろ。


『ねぇ、コウテイ』彼に聞いた。『どうやったらあなたみたいになれる?』

『ハッ!』彼は尻尾で地面を叩くと冷たく言った。

『譲る気はない。それに分からぬか、お嬢さんマドモアゼル


 コウテイの声に顔を上げる。黒い目が私を見ている。混じり合っていた筈なのにどうしてお互いを見られるんだろう。


『〝鍵〟は返してもらった。お嬢さんマドモアゼルは帰るがよい』


 彼のフリッパーの先には光量子が集まっていた。それが〝鍵〟だと瞬時に理解した。

 〝鍵〟を持っていたからこそ、私は遺跡ゲートが開いても生き残ることが出来た。でも、そうではない火星基地の人達は――


ここ最果ての教会の守人を得るために遺跡ゲートが開かれる。〝鍵〟を手に入れた者が守人となり、それ以外の者はここへと落ちる』


 教会に目を遣る。ああ、ここにみんながいる、だったら私も。


『悪いが守人は吾輩だ。お嬢さんマドモアゼルの席はない。それに』コウテイは顔を横に向けると、


『二人きりの時間を邪魔してほしくないのだよ』


 ガガガガ-と鳴いて誤魔化した。



   ◇



 火星基地に戻された私は、3日後、地球統一政府から派遣された救援船団に保護された。

 それで驚いたのは、火星基地の通信が途絶えて船団が到着するまで1年しか経っていないということだった。きっと遺跡ゲートが開いたときに時間にも干渉する何かが発生したんだと思う。

 16年を生きた記録上1歳の私の話を聞いて、船団の司令官は全ての調査を中止して地球帰還を命令した。


 地球に到着した私は、統一政府の「保護」という名の軟禁生活を5年間送った。

 その間、いろいろな身体検査や精神検査をうんざりするほど受けたけれど、結局、地球人の平均以上の数値が出ることはなかった。

 また、私が覚えている限りの16年間の出来事も全て話した。彼ら統一政府は今、難しい選択を迫られていると思う、だって、コウテイ宇宙ペンギンなんてものを認めたら、地球にいるペンギンをどう説明すればいいか分からなくなるのだから。


 記録上6歳になった私は統一政府の「保護」から解放された。今後は「統一政府宇宙開発機構」に所属して再び火星を目指すことになる。それは私から志願したこと。

 新しい寄宿舎へと向かう道で、地球特有の風が路肩の花壇に咲く春花を揺らした。ほんの微かな甘い香りが私の頬を撫で、髪を舞い上がらせる。

 そういえば温室の草花はどうなっただろ。きっと大丈夫、私が思うより無事な気がする。だって、私も元気なのだから。それに火星あの星には――


 私は父の名を呟いていた。

 その名は春風がすくい上げ、透き通る青空へと連れ去った。




   <了>




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