第5話

 何故なのか、私はこの日から咳き込むようになった。

 感覚からして、胃を患ったのだと思う。吐血こそしないが、恐らく私は、相当ストレスを感じているし、それが胃痛の原因であり、胃酸を時々吐きそうになるようだった。また、他にも悪い事がある。縫物をしていて針を刺すと、溢れてくる花びらの量が、目に見えて増えだしたのだ。布は汚れないが、私の膝の上にも畳の上にも、今もパラパラと真っ赤な花びらが落ちていく。既に落ちているものも、絨毯のように散らばっている。


 ごみ箱に捨てられる量ではなくなってしまい、私は定期的に窓から外に投げ捨てるようになった。舞い落ちる赤い花びらに、既に使用人達は気が付いているが、私は緘口令を敷いている。家のためとした。華頂家のために、結婚関係が砕けてはならないのだと言い聞かせると、使用人達は皆が頷いた。そして同意し、私の隠蔽に付き合ってくれた。


 隆史さんが日記を持って訪れたのは、半月後の事だった。

 私達は応接室で、テーブルを挟んで向き合った。洋室で、私は一人掛けのソファに座り、片手で日記を受け取った。


『絢瀬先生が好き』

『絢瀬先生が忘れられない』

『どうして死んでしまったの、絢瀬先生』

『会いたい、絢瀬先生に会いたい』

『絢瀬先生だけを愛してる』


 そこには、確かに姉の懐かしい筆跡で、そう綴られていた。私は目を疑った後、脱力して椅子に背を預けた。これは、安堵からだった。私は自分が姉を裏切っていないと、この時知って、安堵したのである。少しだけ気が楽になった。


「分かったか? 茨木は、絢瀬先生が好きだったんだ。ずっと、な」

「……隆史さんには、大変申し訳ない事を……姉が、失礼いたしました」


 私は必死にそう言葉をひねり出した。


「いいや、いいんだ。俺も同意の上であったし、俺にも好きな相手がいるからな」


 そしてそれを耳にした瞬間、私の胸が激しく痛んだ。それが心の痛みなのか、胃の痛みなのか、私には判断が難しかった。ただジクジクとみぞおち付近が痛む。


「……そのお相手とは、上手くいっているんですか?」

「いいや。お世辞にも良好な関係とは言えないな。心配だから、常に式神をそばにつけているが、常日頃俺はその相手の事ばかり考えているというのに、相手は俺を見ていないらしい」


 私の胸がさらに疼いた。私の周囲には式神なんていない。勿論いたとしても見えないが、そんな話は聞いた事がない。屋敷の使用人達も皆、陰陽道に携わっているから、式神がいたら、私に存在を伝えないはずもないのだが、少なくともそんな事は一度も無かった。


「……そう、ですか……」


 しかし私は、やはり喜んだ。今度は、生者が相手だ。そして私は、公的に配偶者だ。もしかしたら、私はいつか、その人よりも好きになってもらえるかもしれない。今は違っても。そうは思うのに、片想いが苦しい。私は思わず泣きそうになったので、ギュッと目を閉じた。私はそのまま、震える手を、紅茶の浸るカップへと伸ばした。


 ――それが、悪かった。


 目を閉じていた私は、うっかりカップを取り落とした。割れた音に慌てて目を開け、咄嗟に手を伸ばす。そして……――。


「っ」


 思わず痛みに息を詰めた。割れた陶器の破片が、私の人差し指の先を深く切った。ボタボタと、赤が零れ落ちていく。勿論、血ではない。巨大な赤い花びらが、無数に私の指先から溢れて落ちていく。


「な」


 隆史さんが目を見開いた。我に返って、私は顔をあげる。そして硬直した。

 取り決めを思い出す。


「水城、その花は……」

「……これが、お帰り頂いていた理由です。取り決め通り、離婚します。どうぞ届をお持ち下さい」


 私は絶望的な気分で花びらを見た。しかし、これで良かったのかもしれない。隆史さんには好きな相手がいるのだから。そうだ、きっとそうなんだ。私が縛り付けていいはずがない。これは、罰ばつだ。自分勝手だった私には、罰ばちが当たったのだろう。


「離婚なんかしない!」


 声を上げた隆史さんが立ち上がり、私まで足早に歩み寄ってきた。そしていまだに花びらが零れ落ちていく私の右手を持ち上げた。


「俺は水城が好きなんだ。ずっと好きだったんだ。漸く手に入れたんだ。思いが叶ったんだ。水城が俺を好きでないとしても、絶対に離婚なんかしない。絶対に手放さない。俺の元から去るなんて許さない。水城は誰にも渡さない。俺は、君の事しか、愛せない」


 その言葉に私は目を見開いた。思わず私は立ち上がる。

 すると私の右手を、両手で強く隆史さんが握りしめた。


「愛してるんだ、誰よりも。俺は、水城を愛してる」


 唖然とした私は瞠目し、隆史さんを見上げる。何か言おうと思うのだが、震えるだけの唇は、何も言葉を紡いではくれない。


「中学生の頃を覚えているか? 茨木の見舞いをまだお前が許されていた頃だ。茨木とお前が――二人そろって車に轢かれそうになった時の事を」

「……茨木が膝に怪我をして、花びらが……」


 初めて私が発病した日にも、私はあの時見た花びらの色を思い出した。

 確かにあの時、一緒に隆史さんもそこにいた。賢もいた。


「ああ。茨木は擦り傷で済んだが、水城は足の骨を折ったな」

「……」

「だというのにお前は、茨木の心配ばかりしていたな。その姿を見てから、俺はずっと、水城の事は俺が守りたいと思っていた」

「っ」

「あれ以来、気づくと俺は、水城の事しか考えられなくなったんだよ。お前が好きだとはっきりと気が付いた瞬間だった」


 私はこれが現実だとは思えず、何度か瞬きをした。すると、正面から抱きすくめられた。力強い左腕が私の背中に回っている。そして、私の後頭部を、隆史さんが右手で、胸板へと押し付けた。


「その前から長い間、俺は水城が気になっていた。だからあの時だって、茨木ではなくお前を助けようとした。でも、お前は骨折した。俺はお前を守れなかった。ずっと後悔していたよ。でも、今度こそ、これからは、俺はお前を守れると、そう思っている。必ず守り抜く。俺は水城が好きだ。たとえ水城が、俺を好きでなくとも」


 その言葉を聞いた瞬間、私の涙腺が倒壊した。


「待って下さい」

「待てない。俺はもう、水城を離さない」

「そうじゃなくて……私だって、隆史さんが好きで……ずっと好きで……好きじゃないわけがない。私の方こそ愛してるんです」


 私は思わず気持ちを口にした。初めて、私は自分に課していた規則を破った。


「好き、好きです。隆史さんが好き」

「水城……本当か?」

「ええ。大好きで……隆史さんこそ、本当に……?」

「本当だ。嘘なんかつかない」


 隆史さんの腕に、より力がこもった。私は額を彼の胸板に押し付け、暫くの間泣いていた。すると私の呼吸が落ちついてから、隆史さんが私の頬に触れた。もう一方の手では、私の顎を持ち上げる。


 そして私の唇を奪った。次第にキスが深くなる。

 私達は応接間で、長い間口づけをしていた。目を閉じた私は、幸せに浸りながら、これが夢でも構わないと感じていた。幸せで、胸が満ちている。


「あ」


 その時、隆史さんが声を出した。私は目を開け、涙が滲む瞳を向ける。


「水城、見ろ!」

「っ」


 隆史さんが私の右手を再び持ち上げた。それを見て、私はすっかり忘れていた痛みを思い出した。だが、絶句して、再び痛みについては頭から消えた。先程まで花びらが零れ落ちていた指先の傷口……今、そこから溢れ出ているのは、紛れもなく赤い液体だ。血液だ。


「こ、これは……」


 自然治癒する事は滅多にないという記録がある。だが、治癒した例が無いわけではない。治癒すると、元の通りに花びらでなく、負傷箇所からは、血液が出るようになると、過去から連なる文献にもあった。


「治った……?」

「そうらしい。これで、離婚の必要性なんて消えたな。何より――俺達は両想いなんだ。相思相愛なんだから、別れる必要なんてない」


 私を片腕で抱きよせた隆史さんが、苦笑しながら言った。


「手当をしよう。まずはそれが先決だ」


 そしてそう口にすると、私を促し部屋を出た。

 その後私は、使用人に手当をしてもらった。治療の仕方は、私が指示を出したが、さすがに利き手を怪我していたせいで、自分では包帯を巻く事が出来なかった。いつの間にかやってきた賢が、私にずっと寄り添っていてくれた。隆史さんはその間に、遠隔でいくつかの仕事を済ませていた。私の治療が終わると少しして、隆史さんの仕事も終わったらしい。


「水城、明日も休みが取れた。今日は、二人でゆっくりしよう。二人で――きちんと想いを確認しよう。水城の口から、もっと聞きたい。いくらでも聞きたい。俺の事が好きだと」

「……」


 真っ赤になって、私は俯く。花びらの色より、今の私の頬の方が、もしかしたら赤いかもしれない。


「それから俺にも伝えさせてくれ。水城の事が、どんなに好きで、どんなに大切で、どんなに愛しているか。尤も、言葉じゃ語りつくせないが」


 私は気恥ずかしくなって、瞳をオロオロと動かした。

 それから私らは、儀式の部屋へと自然と向かった。布団の上で、再度唇を重ねる。


 普段着の白衣姿だった私を、正面から隆史さんが押し倒す。


 この夜私は、隆史さんの本気を思い知らされた。これまでの儀式としての逢瀬では、気遣われていた事も知った。一晩中体を貪られた私は、何も考えられないほどに、愛情を教えられた。


 空が白む頃、私は目を開けた。

 するといつもとは異なり、隆史さんが帰っている事はなく、彼は私を腕枕していた。視線を揺らすと、隣には賢も来ていた。


「おはよう、水城。少し無理をさせてしまったな」

「……嬉しいから、大丈夫です」


 私は隆史さんの腕の中にいる状態で、毛布をかぶっている。


「賢に小言を言われた」

「犬の気持ちが分かるんですか?」

「いいや? 俺は、犬は飼った事すらない」

「――え?」

「賢は、俺の式神だ。水城は、賢が見えるようだから、気づいていると思っていたんだが」

「し、式神……?」


 驚いて私は、改めて賢を見る。白いフサフサの毛並みの犬にしか見えない。大型で長毛種の犬だとばかり、私は思っていた。


「茨木には、式神を見る力が無かったが、昔から水城に見えるのは知っていた」

「えっ」

「水城の方が、陰陽道の素質はある。ただ、華頂家は基本的に、余程の事が無ければ長子存続だからな。尤も、次の代はお前の従弟だと聞いてはいるが」

「ええ。そうです」

「なぁ、水城」

「は、はい?」

「もう一回」

「!」


 そのまま悪戯っぽく笑った隆史さんにのしかかられ、私は赤面した。

 こうして完全に朝が来るまでの間、私は再び体を貪られる事となった。


 それから少しして。

 二つ不思議な出来事があった。

 私は今、庭にいる。

 そこには元々存在した桜の大樹があるのだが――その横に、小さな桜の木が生えてきた。当初、使用人達に聞いてみたのだが、誰も植樹などしていないというから、私は首を捻るばかりだった。すると訪れた隆史さんが実に嬉しそうに笑ったのである。


「水城。これからは、引越しだな。俺達の新居に移ろう」

「相思相愛になったからですか?」

「違う。見ろ、新しい桜の式神だよ」


 その言葉に私は驚愕して、目を丸くしたものだ。こうして私は引っ越し準備を始めた。賢はその間も私のそばにいたのだが――ある日、白い子犬がその横に付き従うようになった。賢は雄だと思っていたし、そうでないとしても、妊娠している気配など無かった。こちらにも驚いて隆史さんに報告すると、「まさかこちらにも幸せが増えるとは」と、微笑まれた。なんでも、予想外の事に、隆史さん曰く私にも力があったために、桜の木だけでなく、白犬の式神である賢の力も枝分かれしたらしい。即ち、賢にも子供がデキたのだという。これには華頂家だけでなく、蘆屋家の人々も大喜びしたらしい。


 桜の式神は、私の次代となる従弟に託す事になり、私達は賢とその子供の式神を連れて、少ししてから引っ越しをした。二人の新居で、これからは毎日一緒にいられる事になり、通い婚は終了した。政治家でもある隆史さんは、家の関係以外の多数の参列者を招いて、披露宴を行った。私と隆史さんの挙式は、大々的にニュースでも取り上げられた。


 それが映し出されるテレビを眺めつつ、私はコーヒーを飲み込む。

 そして隣に座っている隆史さんを、チラリと見た。すると隆史さんは、じっと私を見ていた。気づかなかったものだから、赤面してしまう。


「愛してる、水城」

「……私も」


 そう告げて、私はリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を消した。そうして目を伏せる。柔らかなキスの感触を、唇に感じたのは、それからすぐの事だった。現在、非常に私は幸せである。お腹の中には、隆史さんとの愛の結晶もいる。


 と、同時に。

 一つの推測をしている。花現病の発症理由――それは、片想いだろうという推測だ。死に至る場合は、その相手の死だと考えられる。治癒する場合は、両想い。私は半ばこの仮説を確信しながら、より深くなるキスの甘い感覚に浸る。


 茨木の分まで、私は幸せになろう。最近では、姉について、前向きに考えられるようになった。それもまた、隆史さんがそばにいてくれるからに、ほかならない。


「愛してる」


 そう繰り返し、私は隆史さんに抱きついたまま、赤い花びらを思い出した。

 しかし脳裏に浮かんだその色を、すぐに打ち消し目を開ける。

 そしてじっと隆史さんを見つめ返し、両頬を持ち上げた。


 今、私の内側には、幸せが満ちているのだから、たとえば今、怪我をしたとしても、溢れてくるのは幸福となるだろう。






     ―― 了 ――

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死に至る花の病 水鳴諒 @mizunariryou

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