矛盾を自覚し難に挑む
- ★★★ Excellent!!!
評者は、本作の作者である清水らくは様を作家と思っておりましたが、Xにて現代詩の同人誌の一つにお名前があることを知り、詩の界隈にいらっしゃる人と知りました。
そのことを踏まえ、レビューというより、私的な気持ちを勝手に語らせていただきます。
カクヨムの読者は現代詩に関わりが浅い人が多く、現代詩の界隈をよく知りません。そこに例えば「日本の現代詩を確立した人は誰?」と問うても分からないと思います。日本に古くからある万葉集などの詩歌ではなく現代の詩の形を作ったのは誰か。詩に詳しい人の間では萩原朔太郎(はぎわら さくたろう 1886-1942)だとして衆目一致します。それを知ると本作の主人公の名前が「作次郎」であることは、現代詩の祖の背中を追う宿命を負っていると分かります。それが分からないと本作の背景が見えません。
それほど現代詩を知る人が書くにしては、本作は不用心に過ぎるのです。それは何故か。
言葉で戦闘用モンスターを召喚する、それは今の娯楽小説界で一つのテンプレです。しかし、現代詩が絡むと話が変わります。
本年(2024年)は谷川俊太郎さんが亡くなりましたが、亡き氏があずかり知らぬところでXが荒れました。文芸誌に現代詩が掲載されることは稀で、編集者が「現代詩は分からない」と公言して許されます。それを文芸詩編集者が「何が良い詩なのか基準を教えてもらっていない」という言い切ります。それは事実です。基準が無いものの良し悪しを議論してジャンルとして成立するのか。現代詩から距離を置く文芸誌編集者と現代詩の価値を信じる詩人の間で確執が表面化しました。そして谷川俊太郎さんは生前に「現代詩の添削ってのも、ある条件の下にならあり得なくはないんだ。」(大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』(岩波文庫))と語っていました。他人が直すことは在るものの稀だと。
世界各地で、そして日本でも万葉集などにおいては、理想の姿が意識され、それを追うことが詩作の基準でした。しかし現代詩では、文法や言葉の意味やフォントと余白の割合まで、一度疑って組み直します。過去の慣習への疑いが無いときは、美しくとも、批評の俎上に上げる段階で上げない判断をすることもあります。
人間は自らが話す言葉の仕組みを余すことなく明文化できていません。今までに見なかったものを見て「こんな書き方もあったのか」と驚くことがあります。
その驚きを意図的に起こすことを現代の詩人は目論みます。ルールに記されていないものを意図的に狙うので、事前のルールが無い、私見ですが僕はそう見ています。
現代詩もクラゲやナマコのようにぐにゃぐにゃではなく論理が骨として入っていますが、骨格に過去との共通性が少なく、一作ごとに作り捨てです。現実世界に作って立たせないと、重力に耐えられるほど堅固なのか分かりません。
評論する基準が無いのですから、強さ弱さを一列に並べて論じられません。ですから本作は前提に矛盾を抱えています。現代詩を知ると設定の矛盾が見えてきます。
しかし、出たとこ勝負で「これはアリかナシか?」を問われることは、現代詩も他の文芸と同じですし、むしろその点に全てが懸かっています。
現実世界に立たせて強さを測る、その点では本作の設定は現代詩の現況と一致しているのです。
コンピュータのRPGでモンスターを召喚すると、モンスターの種類は限定されて強さの上下が決まります。それに比べると、自分の手でモンスターを創り強さを試す姿は、詩作と共通すると同時に、自らの力量が嘘偽り無く露わになる怖さも見せつけます。
そこに耐えられるか? 詩を書くと問われます。その問いに向かうのです。
本作がどのような結末を迎えるのか予見できません。しかし問いを突きつけられたと思います。
その問いはコメディの顔をしていて。仮面の奥が厳しいのです。