第7話 彼の顔

 妖都には古より継がれる文献がある。  

 あやかしの気質や妖力、一族の所縁や鬼才に至るまで事細かく記載され、無知な私にとって文献書はあやかしに触れる感覚を味合わせてくれた娯楽物だった。中でも頭に叩き込んだ項があった。

 鬼一族の章だ。

 記述によると最強最恐とされる無類の酒好きの鬼は、酒が仇となり毒殺された歴史がある。今でもその酒は存在し、四神様によって封印されたと云う。


 ――知れて知らざれ神便鬼毒酒。


 鬼が統一する妖都に神便鬼毒酒の諺を口にするあやかしは誰も存在しないが、昔から鬼を敵とし畏れるあやかしは門戸に柊鰯を吊すと云う。鬼除けになるらしい。

 しかし鬼屋敷内にも柊鰯が存在する。苦手な物を克服する毒慣れだと白梅ちゃんから教わった。

 吟は幼少期から毒の免疫を付け、殆どを克服したらしいが、鬼除けを所持しない私はというと、吟の視線を背後に抱えながら作業台に手袋を置いたところ。紫月の依頼が殺到しており、吟が珍しく急かしに来た。

「紫月を練るのは丑三つ時です。一睡もされないまま此処で待たれては明日に差し支えますよ」

 明日のお客様は昼の鐘に合わせて来訪される。眠れたとしても仮眠程度。

「我が身は僕が一に理解しておる。気にするな」

「あの一件を気にされていますか? 私の護衛をなされているのでは?」

 白虎様は白梅ちゃんに叱咤されてから正気に戻ったと聞いた。

「勘違いをするな。見張りだ」

 一喝された声色は背中に重く乗りかかった。

「そうですよね。承知しております」

 厳しい吟だけれど見守ってくれている。

 穢れを祓い清める栴檀師として、あやかしを守る使命を与えてくれたのは吟。私が歩める道を吟が導いてくれた。季節を重ねて強くなれば私は吟に応えられるあやかしになれるはず。

 いや、なってみせる。

 肩を回して気を取り直した。細長い蝋燭に火をつける。作業台に明かりが灯った。


 私が作る香は炭で温める練香。調合する際に用いるはちみつと薫衣草の効果で甘く華やかな香りが特徴で、穢れた手で練る効果も忘れてはいけない。

 甘い香料が妖魔に効いているのかは不確かだが、穢れた手を用いることが相乗効果だと自負している。

「うん、今日も良い香り。上出来だわ」

 紫月に使用する材料は濃厚な香りが強い安息香。息を安定させる効果がある。それから濃厚な甘みを引き出すには甘松。鎮静作用がある。これらを乳鉢に加え乳棒で混ぜ合わせる。

 一種類ずつ加えながら鼻をひくひくさせた。香りを確認する。長年の経験から香りで調合が可能になった。つんと香りが上がってくれば最終段階に入る。

 すり潰した薫衣草に、はちみつを加えると紫に色づいた粘土質のお香が出来上がる。最後は手で丸めれば完成。


「妖魔退散」


 願いを閉じ込めて、と致したところで、これを五百玉作らなければならない。気が遠くなる。

「語弊がないよう申しますが、決して弱音ではありませんからね。現状、朝日に追い抜かれそうです。個数分が間に合うかどうかで……」

 やはり弱音とみられたか、返事がない。返ってくるのは一定の音。薄い息が背後に淀んでいる。

 振り返ると柱に頭を預けた吟がいた。眠っている。きっと薫衣草の効能が呼んだ睡魔だろう。

 紫の指先を手袋で隠してから吟に打掛をかけた。寝息が心地よさそうでこちらも瞼が重くなりそう。

「いつも半分の顔だけ見せてばかり、なぜ片方を隠すの? 昔のようにおでこまで見せてよ」

 聞こえない声で昔のように話した。

 吟の顔に掛かる髪を見入ってしまう。

 吟をまじまじと見入ってしまう。

 隠された半顔を見たくて、つい手が伸びそうになるが一度握り直した。

 そのまま吟の前に屈み直した。


 内面以外で昔と違うところがあるとしたら、それは髪型。幼少期の吟は切れ長の眼を見てとばかりに前髪を上げて角の真ん中で結んでいたから角が三つと笑った。今では刈り上げた後頭に比べて長い前髪を斜めに長し、片方の顔しか露わにさせない。まるで一言さんお断りの格式高い暖簾のように思える。

 吟の口元まで持って来た片手を伸ばしてから、動きを止めた。躰が勝手に動いてしまったのだ。

 これは好奇心だろうか? それとも説明が付かない不安からか。とにかく私の行動は度胸がある。寝息に耳を向ける時点で注意を払っているもの。

 起こさないように、皮膚に触れないように、髪をそっと浮かしてみたり、と頭に描いてから息を吐き切った。

 少しだけ。寝顔を覗くだけ。そもそも吟が隠すから悪いのよ。気になるでしょう。

 小刻みに揺れる手を空振りさせてから息を止めた。

 少量の髪を指先で掬い、それを毛先に沿って斜めに上げれば……


「えぇっ……」


 息混じりの声が出た。

 それでも吟の寝息は安定。掬った髪を静かに元の位置に戻した。

 私は直ぐに作業台に戻った。今見た光景を素早い瞬きで追い払う。

 それでも追い払えなくて溶ける蝋燭を思いやるが、衝撃的な映像は薫物のように何度も蘇ってくる。鮮明な香りが記憶として焼き付いてしまいそうで鼻腔を指で詰めた。

 しかし瞼に刻印されてしまった。


 残虐な半顔だった。


 赤子のようなきめ細かい肌の上に、けたたましい火傷のような爛れは顔半分を失い、割れた茶碗を金継したような傷が無数に入っていた。


 半顔半美。


 そう言っても過言ではない。

 私が過らせた不安が的中しそうで、この手が今以上に恐ろしく思えた。


 紫月は朝日の前に作り終えた。

 ある意味集中できてしまった。器用に座って眠る吟は寝息を一定に保っていた。

 私は縁側に出た。

 解明にしたくとも私から追求するのは無作法であり、過去を問う身分でもなければ、見たと知れば吟は悲しむか激昂する。

 これは私の中で鍵を掛けておくべきなのよ。知れて知らざれ神便鬼毒酒の諺のように、昨夜の出来事は封印しよう。


 完成した紫月は数秒で完売した。

 その夜は妖都に甘い香りが漂い続け、夜市は賑やかだったと。


 蝉に羽月。

 太陽が長く留まる季節は蝉の羽のように透ける薄い着物が主流になる。

 本日も表座敷の一段上に吟は鎮座し、その一段下で両手を丁寧に重ねて面を落とす涼しげな女妖に私は見惚れていた。

 薄紅色の朝顔の単衣に小豆色の帯を締め、嬌笑を浮かべる女妖は猫又あやかし。結われた島田の髪は細長い首を露わにさせ襟足を艶めかしくさせている。

「お久しく存じます。酒呑様」

 水が滴るような声色は堅苦しい空気を楚々に変えた。さらに美麗な所作にも無駄がない。

「桃乃月を昼から拝見するとは酒が欲しくなる」

「あら、あたしより酒を選ばれるのですか。はよう酒呑様のお眼鏡に適いたくあるのにねぇ」

「ふん、色恋など興味がない。だが酒のつまみになる女子はいつでも歓迎だ」

 くく、と肩を振るわせる真横の白梅ちゃんは俯きながら破顔を隠している。私は吟に気づかれないか冷やものだった。

 焦る私におかまいなしの白梅ちゃんは動きを追加させた。余裕があるようで、私の耳に顔を近づいてくる。

「あの方が桃乃月様。ほれ、絶世の美妖ぞよ」

 猫又あやかしの妖力は変幻自在。変幻は攻撃性を持たないが、眼眩ましの防御力が備わる。

「とても浮世絵には描ききれない雰囲気が漂っておりますが、この場では小言は禁止です」

「そんなことより見てたもれ、桃乃月様は鬼頭にご執心ぞよ。ああやってぐるぐると喉を鳴らして甘えてるおるぞえ」

「この音は桃乃月様でしたか」

 吟が口を開けば異音が発せられていた。誰も反応しないので私の耳は異常かと心配した。

 正直なところ音よりも私は桃乃月様を見やる吟が気になる。

 桃乃月様の錆び一つない美貌と仕草は、まるで舞っているような錯覚に陥ってしまう。同じ女の私には存在すらしない雰囲気がある。

 桃乃月様と見比べてしまうなんて今日の私は耳ではなく思考が故障している。

 きっと吟は見惚れているのだ。いつもと違って眼の形が優しいもの。

 吟の側には可憐な花が似合っている。桃乃月様という花を生ければ吟に箔が付く。これが現実なのだ。

 もう独りの私が説得するかのように呟いた。って、空想に浸る今日の私は本当に異常をきたしている。

「本題に入りましょうかねぇ。夏越の祓えが近くなりました。今年の当番を仕切るのは、あたくしめの金華楼。盛大に執り行いたく本日は酒呑様のお力添えをお頼み申し上げに参りました」

「夏越の季節が来たか」


 穢れを祓い清め無病息災を祈祷する夏越の祓う時期の妖都は盛大な政に処する。

 

 季節の風物詩。私は外野の音なら知っている。

「金華楼か。ならばたらふく酒が並ぶわけだな」

「もちろん珍味の酒を揃えておりますが、要するは神楽でございます。舞や唄に長けた芸者が今年を取り仕切るのであらば、より一層、舞に力を入れたい。されど今年の夏越の祓えは、あいにくの満月。妖魔の力が増すゆえ皆が外出を控えてしまう恐れがありますねぇ」

 桃乃月様は私に視線を向けた。

「今季は下界に呪いの子がおる。それも穢れを祓い清める栴檀師として。是非、栴檀師に神楽を舞ってもらうのは適妖かと」

「なぜ舞う必要がある」

 直球だった。煙管をふかせる吟は氷をつまむか煙管をふかせるか呑気を醸し出していたのに、規律を正すような低い声が飛んできた。桃乃月様は今よりも頭を下げる。

「妖魔とて一番の敵が会場におれば寄り付かずと思いましてねぇ」

「却下だ。花純は見世物でない。栴檀師は妖魔祓いを担うゆえ花純を表には出さん」

 吟の返答は一刀両断。厳しい顔つきが周りの背筋を正せた。

「それでは紫月を焚きながら舞うのは如何かしら。酒吞様のお側でありながら祓いが敵うではありませんかねぇ」

「諦めろ。金華楼の抱え妓を使えばよいではないか。舞に唄に長けておるのだ尚更、見栄えもよいだろ」

「されど」

「食い下がらずとは珍しい。やけに桃乃月は花純にやっかむ」

「いいえ、やっかむなんて」

「代わりになんだが、案を出してやろう。神楽の如く神への祈祷。適神、朱雀を推薦しよう。なあ、桃乃月に憧憬しておるだろ」

 吟はこちらをじろり見た。

「っあは、はい。麻呂でよろしいのか?」

 眼が飛び出しそうな眼力、口もぱくぱく、身振り素振りも多くなる白梅ちゃんが取り乱しているが、背後の白虎様は眼が横長の線になっていた。

「朱雀は賛成しておるぞ。桃乃月、納得の案だろ」

「では朱雀様にお願い申し上げます。それなら……」

 桃乃月様は再び私を見た。

「後始末が悪い言い分だな」

「当日までのお支度に女子の手が必要でありますから、花純ちゃんだったかしら、お願いしようかしら」

「ちっ、よほど花純を気に入ったのか。裏方ならばくれてやるが夕刻までだ」

 吟の許可が下りれば私は否定できない。白梅ちゃんの手助けになるなら喜んでお受けするが、なんだろう、この寒気。

 真後ろを覗いた。

 ぎろり光る視線とぶつかった。白虎様の納得は頂けそうにない。

「それ相当の覚悟を持ち下界に出ろよ」

 太い幹が突き刺さるような重みは白虎様からの忠告だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る