第6話 リラ冷えの街札幌(2005年6月) 龍崎一郎
地下鉄大通駅で降りると、階段を上って地上に出た。光が眩しい。見あげると、薄青い空、光が煌めいていた。風は爽やかというよりひんやりしている。甘い香りがした。芳しいというより胸苦しくなるような香りだ。リラの花だ。盛りを過ぎて少し色褪せている。まるで花の幕が、細長い公園の両側に掛けられているかのようだ。上擦って、はしゃいでいる声が聞こえる。テレビ塔をバックに、写真を撮りあっている観光客がいる。中年を過ぎた女と男が、リラの花の下のベンチに座って、話をしている。書類を抱えて、急ぎ足で歩いていく若い女は、半袖のブラウス姿で、もう初夏の装いだ。
公園を抜け、大通りに出ると、JRの札幌駅方面へ向かった。札幌市時計台と、北大構内のポプラ並木と、道庁の煉瓦造りの建物を観る。観光を終えると、道庁から北大の植物園に向かった。正門に突き当たると、左へまわる。島木健作のゆかりの地を見てみようと思ったからである。
島木健作は1903(明治36)年札幌で生まれた。生まれ育った場所について、彼は次のように書いている。1938(昭和13)年に12年ぶりに札幌に帰った時のことである。「それは北一条の西十丁目というところで、庁立の高等女学校の近くである。……今度行ってみたら、これはもう跡形もなくなって、そのあとに、安下宿の看板をぶら下げた二階家が立っていた。……生まれた家の前には八重桜の木が一本あって、五つぐらいまでその家にいた私の記憶にあったが、その八重桜だけは今もそのまま立っているのだった。」(『島木健作全集第12巻「札幌」』国書刊行会)
札幌の街区は碁盤の目のように作られている街である。丁目番地さえ分かれば、探し当てることができるだろうと簡単に考え、植物園の塀沿いを歩いていった。塀が尽きて道路をわたる。小学校があった。大通小学校らしい。柵越しにのぞくと、碑が建っている。碑面には高等女学校跡地と彫られていた。
島木健作が住んでいたのは、この辺りらしい。しかし、安下宿らしい建物も、八重桜の影もない。辺りに建っているのは、ビルばかりだった。もう60年近く経っているのだ、変わるのも無理はない。訊ねるような人も、やって来ない。あきらめて公園に戻ることにした。
島木健作―、本名朝倉菊雄は幼くして父を失い、貧しい家に育った。苦学して東北帝大に入学し、在学中にマルクス主義思想と出会い、中退して香川県の農民組合の書記となる。日本共産党に入党して、農民運動に邁進するが、検束され、控訴審で「転向」を表明する。出獄後、「癩」等の小説を書き、1945(昭和20)年8月17日死去。病床で、終戦の報を聞いた時、「これですべてやりなおしだ」というようなことを言ったというが、その二日後に死んだのである。いわゆる「転向」作家といわれる島木健作には、暗く不幸な影がつきまとう。貧困、苦学、「転向」、テーベ等々、の影である。彼は、少年時代の逆境を乗り越え、軍国主義の社会と時代に立ち向かって闘い、挫折する、しかしそれでも、なお自らの思想と精神に誠実に生きようとして、生きられなかった……、私はそうした作家の生き方と文学に、戦前のこと、他人事として無関心ではいられなかったのである。
街角を曲がると、ビルの前に案内板が立っていた。島木健作生誕之地と書いてある。辺りを見まわしても、新しいガラス張りのビルが建ち並んでいるだけで、安下宿の建物も、八重桜の木もない。何もかも変わってしまっているのだった……。
歩き疲れて大通公園に戻ってくると、リラの花の下、空いていたベンチに座った。花の香りに混じって、焼きトウモロコシの匂いがする。腹が空いていた。一本買った。トウモロコシの粒を指でもいで口の中に放り込む。粒は固そうだったが、固くなかった。噛むと甘みが口の中に広がり、内側の頬が痛くなる。三列目をもぎ取り、口へ入れ、四列目をもぎ取りはじめた時、日が陰った。私の前に人が立ったらしい。人影は行きすぎるだろうと思い、トウモロコシの粒をもぎ取りつづけた。しかし、日は陰ったままで人影は動かない。顔を上げると、和服を着て、つばの狭い麦藁帽子をかぶった男が立っていた。黒縁の丸い眼鏡をかけている。ステッキをついていた。背はそれほど高くなく、痩せていた。
「おい……」男は掠れた声で言った。腹がへっていて、無理して出しているような声だった。私の方へ右手を差し出している。白い掌をしていた。私は男の顔を見なおした。どこかで見たような気がする。しかし、思い出せない。男は催促するように掌を振った。私はトウモロコシを男の掌の上にのせた。男は礼も言わずに受け取ると、私の隣に座って、トウモロコシにかぶりついた。トウモロコシの粒を噛む、硬い音が聞こえる。噛んで飲み込むと、また残っているトウモロコシの粒にかぶりつく。私は男の食べる様子を見ていた。確かに、見たことのある顔なのだが……、思い出そうとしても思い出せない。男はすっかり食べてしまうと、芯だけになったトウモロコシを私に返した。立ち上がると、帽子を脱いで会釈をした。背を見せると、ステッキをついて、地下鉄の入口の方へ歩いていく。階段を下りていくにつれて、身体が沈んでいき、すぐに見えなくなった。私は手許に残された、トウモロコシを見た。やはりトウモロコシの粒はすっかり無くなっていた。
見あげると、薄青い空、眩しい光……、爽やかというより、ひんやりした風……、しかし、リラの、甘い香りは消えて、醤油の焦げたような匂いが残っていた。
(第7話は、2024年11月1日、掲載予定です)
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