第2話 定年退職旅行(2002年9月) 龍崎一郎
定年退職記念に、パリへ行くことにした。高校生の修学旅行ならぬ、定年退職旅行である。なぜ、パリか? 高校の修学旅行は、奈良・京都だった。だから、定年退職旅行はパリだ、というのは、答になっているだろうか?
パリは憧れの都だった。世界の歴史を変えたフランス革命の地であり、マリー・アントワネットや、ユーゴーや、サルトルが住んでいた街であり、多くの詩人や、芸術家や、哲学者たちが、彷徨し、思索し、愛して、死んだ街だったからである。ルーブル美術館や、ベルサイユ宮殿や、ノートルダム寺院を観てみたかったし、コンコルド広場や、シャンゼリゼ―通りや、モンマルトルの丘を歩いてみたかった。全くミーハー的といえば、そのとおりだが、一生に一度でいいから観てみたいという気持は容易に抑え難く、遂に定年退職を記念して行ってみることにしたのである。
私たちツアー一行は、朝にロンドンを発ち、ユーロスターでドーバー海峡をくぐり、昼にパリ北駅に着いた。パリ北駅は、天井の高い駅だった。その高い天井に、人々の声や、靴音や、列車の警笛や、荷物を運ぶ車のエンジンの音が反響して、耳鳴りするほど姦しい。汚れた衣服を着て、ホームに座りこんでいた人々が、私たちをジロジロ見た。鋭く、険しい、咎めるような目つきをしている。パリは美しいだけの街ではないようだった。
午後ルーブル美術館に入り、夕刻近くにノートルダム寺院を観た。下町のレストランでディナーをとる。8時半過ぎ、アルマ橋近くの船着き場に到着し、セーヌ川クルーズの遊覧船に乗り込んだ。
一階は船室になっていたが、二階には屋根がない。私は二階に上がると、ツアー客から離れ、船の後部の長椅子の端に座った。セーヌ川は暗く、流れは見えない。対岸に並んでいるレストランの灯が川面に映って、揺れている。船の手すりに身を寄せ、夕食に飲んだワインの酔いに身をまかせながら、川面に映って揺れている灯を見ていた。
パリにいるという、実感が少しもない。セーヌ川で遊覧船に乗っている、なんて信じられないのだ。隅田川の納涼船に乗っているような気持だった。しかし、聞こえてくる言葉は、日本語ではない。音楽のように聞こえてくる、異国の言葉だ。黒人を交えた若者のグループが声高にしゃべっている。若いアベックたちが小鳥のようにさえずっている。高齢な女と男が手を取り合って、黙って暗い川面を見ている。ターバンを巻いた男や、サリーを着た女もいた。
気がつくと、対岸のレストランや外灯の明かりが動いていた。遊覧船はいつの間にか出港していたのだ。エンジンの音が大きくなった。スピードがあがる。川岸の明かりが走りだす。走りすぎていく明かりがまぶしい……。
とうとう此処まで来たのだ、と私は思った。少年の頃から働きつづけて、ようやく此処へ、着いたのだ、と思った。田舎にいる時、泥田の中で田植えをし、秋に稲を刈った。街に出ると、ドラム缶を転がし、油まみれになって働いた。やがて夜の街を、リヤカーに新聞を積んで運んだ。上京すると、ゴミ溜めの中の、水道のメーターを見て歩いた。埃と排気ガスとスモッグで汚れた街の中を額に汗し、寒風に身をさらし、這いずりまわるようにしながら、40余年、働いてきた……。
その仕事も終えようとしている。人生は終わったわけではないが、人生は終わろうとしていた。思い通りに生きられなかった人生は不幸だったかもしれない。自分の人生に悔いがないと、と言えば嘘になる。しかし、不幸を嘆き、社会に抗便もせず、世の中の不条理に対して何も為さず、60年も生きてきたわけではない。私は働きながら、闘い、生きてきたつもりだった……。そのことを、ひそかに誇りに思っている。
川面に映って揺れている灯が滲んでいた。過ぎた人生への感傷ではない。異国の街での旅愁故でもない。ほんの少しワインに酔っているせいだ。リズミカルに聞こえるエンジンの音が心地よい。揺れている遊覧船に身をまかせ、たゆたい、いつか眠っていた……。
エンジンの音が変わっているのに気付いて、目を覚ます。船の動きが鈍くなっていた。夜気は冷え込み、川風も冷たくなっている。酔いは醒めていた。
船はすでにミラボー橋を過ぎて、引き返すために方向転換をし始めていた。アポリネールの「ミラボー橋」で有名なあの橋である。
「ミラボー橋の下を/セーヌ川が流れ/われらの恋が流れる……/流れる水の様の ように恋もまた死んでゆく……/過ぎた昔の恋は/再びは帰らない/ミラボー橋の下を/セーヌ川が流れる……」
若い頃、口ずさんだ、堀口大学の訳詩も、今はほとんど忘れている。
パリの夜空に、豆電球に縁取られた、エッフェル塔が突っ立っていた。近づくにつれて、イルミネーションの光の輝きは増し、ますます眩くなって迫ってくる。派手はでなイルミネーションは優美とか、華麗とか、というより通俗的だ、と思いながら、やはりエッフェル塔は眩いばかりに美しかった。美しと思う自分が、なぜか恥ずかしかった。ほんのわずかな布地を身につけただけで、肌をあらわにした踊り子が、豊満な乳房を振りふり近づいてくるような眩さであり、美しさだった。視線のやり場のない恥ずかしさで、私の体は熱くなった。眩く、美しい恥ずかしさで、光の塔は迫ってきた。私は顔を上げ、首を折って、美しい塔を見た。光の塔は倒れてきて、私に覆いかぶさり、私を押しつぶした。押しつぶされて私は震えていた。
(第3話は、2024年7月1日頃、掲載予定です)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます