老人旅日記抄
@ryuzakiichirou
第1話 涸沢行(2002年10月) 龍崎一郎
10月の連休に、北アルプスの涸沢へ行くことにした。若い頃、北アルプスへ行くには新宿駅から夜行列車で行ったが、最近は夜行バスを利用する。都庁地下大駐車場、23時発、上高地行である。紅葉のこの時期、都庁地下大駐車場は、ハイカーや登山者たちで大変な混雑だった。
翌朝5時30分、上高地バスターミナル着。空はようやく白々と明るくなり始めているが、山の陰になっている足下はまだ暗く、大気は爽やかというより冷えびえとしている。
おにぎりを一個食べ、用をたして出発する。梓川沿いの路を、川の流れの音を聞きながら上っていく。まだ朝の早いせいか、明神館前を過ぎても下ってくる人に会わない。やがて梓川の向こうに、朝日を浴びて赤茶色に輝いている明神岳の頂が見えてくる。
徳沢園のテント場を過ぎて、梓川に架かっている新村橋を渡り、緑の葉がまだ残っているダケカンバやコメツガの林を抜け、左、中畠新道への分岐点に出る。右折して慶応尾根をトラバースするようにして上っていくと、左手前方に、秋の朝の明るく澄んだ光に照らされて、燦々と輝き、聳え立っている灰色の岸壁が見えてきた。前穂高岳の東壁である。
井上靖の小説『氷壁』の中で、魚津と小坂は新村橋の下をくぐり、雪深い中畠新道を前穂高岳東壁に向かって歩いていく。二人は、1956(昭和31)年1月2日の朝、この壁に挑み、ロープが切れて小坂は遭難死する。
ナイロンザイルが切れて遭難死したという事件は、実際あった事件らしいが、井上靖はこの事件をもとに、56年11月より朝日新聞に『氷壁』を連載して、満都の読者をわかし、映画にもなった。
職場には、この小説の影響を受けて山歩きを始めたという、井上靖のファンがいて、そんな人たちの影響を受けて、私も山歩きを始めた。30代、40代には仕事が忙しいこともあって、山歩きはできなかったが、50代になって、再び山歩きを始めるようになったのである。
「屏風のコル」への最後の上りは急勾配で、ジグザグ路になっている。紅葉した木々を下に見て、アザミの花の残骸などのある路傍に視線を落として上っていき、時々、曲がり角で立ち止まり、空を見上げる。光り輝いているコバルトブルーの空が、目に痛い。
ジグザグ路を上りきると、ワァッ、といった感じで、穂高連峰が目に中に飛び込んでくる。土色、というより鼠色をした穂高の山々が聳え立ち、その岩肌に砂糖をまぶしたように粉雪がこびりついている。
「屏風の耳」に立つと、ぐるりと360度の眺望で、正面に前穂高岳、右へ奥穂高岳、涸沢岳、北穂高岳の山々が聳え立ち、その連峰は槍ヶ岳へと続き、その奥に三俣蓮華岳の頭が見える。体をさらに右へ捻じれば、常念岳から蝶ヶ岳の表銀座といわれる山並が見える。振り返ってみれば、南アルプス北岳の向こうに富士山の影がうっすらと見える。
穂高連峰を見ながら、昼食を摂り、岩と岩との間に身を挟むようにして横になる。コバルトブルーの空に、白い刷毛で掃いたような薄い雲が出始めていた。目をつぶると、眼の裏はコバルトブルー色に染まっている。
昨年、60歳で定年退職し、再任用職員として働いてきた。来年以降、身分は再雇用職員に変わるにしても、まだ4年間働くことができそうである。しかし、来年は辞めようと思っている。02年から年金制度が変わって、年金受給年齢が引き上げられ、41年生まれの私たちは、61歳にならなければ、満額支給されなくなった。だから働いてきたのだが、もういいのだろうと思ったのである。
なぜ、もういいのか、うまく言うことができないが、煎じ詰めていえば、サラリーマンとして働くことは、私が望んでいたことではなかった。それなのにずっと働いてきた。そんな自分に不満だった。これが、本音だ。誰にも言ったことはないが、ずっと不幸だった。意にそまない仕事をしながら、自分には他にやりたい仕事があるのだ、と思っていた。ずっと思っていた。働くことが不幸だったのではなく、その仕事が自分のやりたい仕事ではなかったから不幸だ、と思っていたのだ。
十有五にして文学に志し、その仕事に専念することができなかった。一つには、自分の才能に自信を持てなかったこと。二つには、文学では飯が食えそうもなかったこと。三つには、文学に対して底知れない恐ろしさを感じていたからである。そういうわけで、意に副わない仕事をしてきたのもやむを得ないことであったが、もういいだろうと思ったのである。文学には未練があるし、遣り残した思いがある。まだ生甲斐を持ってもいいだろうし、年寄りの冷や水以外の何ものでもないというならば、それもよし。残された人生、決して長くない。少しばかりのわがままを許して欲しい、と思うのである。
そんなことを考えながら、いつか眠っていた。落石の音で目を覚ました。落石の音が谷にこだまして、不気味に響きあっている。魚津が瀧谷を登っていき、遭難死する時に聞いた、あの落石の音である。
「屏風の耳」を下り、断崖沿いの細い路を慎重に歩み過ぎ、その夜は涸沢小屋に泊まった。月光皓々、穂高の岩肌黒々として、涸沢に点在する赤、黄、青色のテントの明かりが宝石のきらめきのように見え、夜に咲く花々のようにも見えた。この世のものとも思われないほどの風景であったが、小屋の中はごったがえして奴隷船の船底のようなありさまであった。
しかし、その夜、私が眠れなかったのは、小屋がごったがえしていたからばかりではなく、これから生きていく人生を見ていたからでもあった。
(第2話は、2024年6月1日掲載予定です)
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