第3話 旅支度(2003年4月)    龍崎一郎

 皇居の周囲の周回歩道は、約5キロあって、恰好のランニングコースになっている。昼休みになると、皇居を取り巻く町々ー神保町、麹町、霞ヶ関、大手町、銀座等々ーから、多くのランナーたちが姿を現し、夫々のペースで走りはじめる。

 私も皇居の近くの職場に転勤してから、この仲間に加わって走りはじめた。仕事の都合で毎日というわけにはいかなかったが、少しぐらいの雨の日も、風の日も、花見客で賑わう桜の季節にも、12時を過ぎると、職場の同行者と皇居のランニングコースへ向かった。退職を迎える日まで、事情の許すかぎり、そうして走りつづけるつもりでいた。

 ところが、退職記念のパリ旅行から帰ってきて、受診した健康診断の結果、そうはいかなくなった。私の血圧は正常値より高く、心臓に雑音が認められる、という検査結果が出たからである。

 1ヶ月後に二次検診を受けると、さらに血圧は上がっていて、174の92!

 「紹介状を書きますので、精密検査を受けてください」

 診察した若い医師は、抗弁を許さない強い口調で言った。日常普段、眩暈がするとか、息切れがするとかの自覚症状はまったくない。走っていても息苦しいなどということもない。そんなバカな、と思ったが、ともかく精密検査を受けることにして、大学病院を予約した。

 12月の半ば過ぎに、大学病院で、レントゲン検査と超短波による検査を受けた。心臓は肥大しているが、機能に異常なし。

 翌年の1月、トレッドミル負荷検査を受診。この検査は、ベルトコンベヤーの上を歩いて、その時の心臓、血圧の状態を診断する検査である。最初、ベルトコンベヤーはゆっくり動き出し、やがて徐々にスピードを上げていく。ゆっくり歩きから、早足、駆け足になる。

 「苦しくなってきたら、そう言ってください」

 検査医師は、何度も同じ言葉を繰り返して言う。毎日走っているから苦しいなどということはない。しかし、あまり何度も繰り返して言うので、少し苦しく感じられるようになったところで、そう応えた。しかし、その時、私の脈拍はすでに124、最高血圧は220を越えていたのである。

 「こんなに血圧が高くなっているということは、血管のどこかが細くなっている、ということです」上品な感じのする白髪の老医師は、トレッドミルの検査結果を見ながら言った。「どこが細くなっているか検査するためには、2泊3日の入院をしなければなりません……」

 私は、医師の言っている言葉がよく理解できなかった。

 「それで」と私はようやく訊いた。「血管の細い部分がわかったら、どうするんですか?」

 「まあ、今はいろいろ方法があって、例えば血管を膨らませて、細い部分に金属の管を入れておくとか……」

 たぶん、そうすれば生きていくことができるということだろう。しかし、そうしなければ、生きていくことができない、ということなのだろう?

 「家族の方と相談して、いつでもいらっしゃい」

 退職してこれから旅に出ようとしている時、なぜ、こんな状態になってしまったのだ……、私はあわてふためいていた。

 それで、どうすればいい? 検査入院して、2泊3日ベッドに縛り付けられて、細い血管の部分を探りあて、その部分に金属の管を入れて、生きていく……、そうするのが、正しい答なのだろう。

 しかし、入院して、治療を受けるにしても、費用はどうすればいい? 今までは健康保険組合の組合員だったから、窓口での支払いは2割で済んだ。しかし、退職すれば、組合の保険は使えない。退職したら、国民健康保険に加入し、少ない年金から保険料を負担し、しかも窓口でも安くない料金を支払わなければならない。

 かつて、70歳になれば、窓口での支払いは零だった。しかし、今はそうはいかない。いつから、わが国の制度は、こんなふうに変わってしまったのだ!

 私はあわてふためきながら、腹を立てていた。老人人口の増加に応じて、社会保険に関わる予算を増やすわけにはいかない、現在の社会保険制度を維持していくために、老人の自己負担もやむを得ないという。しかし、バブルがはじけた時、銀行の借金を返すために、我々の税金を何兆円もつぎ込んだではないか? 景気浮揚と称して不必要なダム建設・土木工事等に、無駄な税金をつぎ込んだではないか? 国際競争力を維持するためといって、大企業には税額の免除をしているではないか? どうして、アジア第二位というほどの膨大な軍事予算が必要なのだ! 福祉や年金に当てるといって、消費税を徴収しはじめたのではなかったか? 考えれば考えるほど、腹が立って腹が立って仕方がない。事は、私の健康の問題なのだが、単に個人的な問題ではすまない。

 「オイオイ、あまり怒るなよ、血圧が上がるぞ、上がってぶっ倒れて、死んでしまえば、テキの思う壷だぞ」

 そう思って自分の感情を宥め、抑え、冷静になろうとするが、いくら冷静になろうとしても八つ当たり気味の腹立ちはおさまらない。

 私は検査を受けず、治療もせず、退職することにした。腹を立てながら、覚悟を決めて旅支度をはじめた。清々しい旅立ちなど望んでいない。屈託を抱えながら生きていくことには慣れている。

 2003年4月、旅に出る前に、歩いて皇居を一周してみた。桜の蕾は膨らんでいた。もう花の咲いている枝もあった。

   (第4話は、2024年8月1日に掲載予定です)



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