第7話 啄木の「さびしき町」釧路(2004年6月) 龍崎一郎
釧路は霧の街である。本州で梅雨の季節、釧路では特に霧の日が多い。六月のその朝も、釧路の街には薄白い霧が流れていた。霧を掻き分けるようにして市の中心部を走り抜け、街外れの米町公園の駐車場に車を停める。ドアを開けると、薄白い霧が生き物のように流れ込んできた。ひんやりとしていて、しかも湿っている。
公園内には、大きな縦長の、忠魂碑みたいな歌碑が建っていた。近づいて読むと、「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」という啄木の歌が、三行分けにして刻まれている。
公園から啄木通りという名前のついている通りに下りる。二番目の歌碑は通りの植え込みの中にあった。さらに寺の近く、踏切の側と続く。仏具屋や風呂屋の前、信金の側などにも建っていた。いずれも大きくて立派な歌碑である。中には流水模様の赤っぽい石に彫られた、何百万円もするのではないかと思われるような大きな歌碑もあった。釧路市の観光課からもらったマップによると、公園の周辺に啄木の歌碑が二十四碑も建っているという。その数の多さに驚く。啄木は二十七歳で死んだが、この地に滞在したのはたったの七十六日間(明治四十一年一月十九日~四月四日)である。よほど啄木と啄木の文学に深い敬愛を抱いている市民と市の関係者がいるのだろう。
港にたどり着くと霧は晴れて薄日が射し、辺りは明るくなっていた。釧路川の河口近くに、啄木が働いていた釧路新聞社の煉瓦造りの建物(港文館)が復元され、保存されている。その建物の近くに本郷新作の啄木の立像が建っていた。青年というより少年といった感じのする立像だった。
啄木が釧路駅に着いたのは、冬の夜のことだ。「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」という歌は、この時のことを詠んだ歌だろう。当時、釧路は人口一万人ほどの街だったが、啄木にとっては「さびしき町」だったのだ。啄木はこの「さびしき町」で新聞記者の仕事をしながら酒と女をおぼえた。二月二十九日の日記には、次のように書かれている。「釧路に来て茲に四十日。……生まれて初めて、酒に親しむ事だけ覚えた。……芸者といふ者に近づいて見たのも生まれて以来此釧路が初めてだ。」
私は、その夜、関東から私に会いにきた女と、ホテルのラウンジでビールを飲んでいた。
「どうして、急に」と女は訊いた。「啄木は釧路から出ていったのですか?」
そんなこと訊かれたって、私に判るわけがない。日記には次のように書かれているだけだからだ。
「(三月二十一日)日曜日。急に心地が悪い。不愉快で、不愉快で、たまらない程世の中が厭になった。……つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになった。(三月二十二日)なんといふ不愉快な日であろう。何を見ても何を聞いても、唯不愉快である。身体中の神経が不愉快に疼く。頭が痛くて、足がダルイ。一時頃起きて届をやって、社を休む。(三月二十五日)今日も床上の人。石川啄木の性格と釧路新聞は一致する事が出来ぬ。(三月二十六日)少し許り神経衰弱が起ったのらしい。立つと動悸がする。横になってると胸が痛む。(三月二十八日)今日も休む。今日から改めて不平病。……十二時頃まで寝て居ると、……一通の電報。封を切った。「ビョウキナオセヌカヘ、シライシ(筆者注:新聞社社長) 歩すること三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。」
こうした文章からだけでは、啄木の「不愉快な気持」の原因はなんなのか? 明確に知ることはできない。だから、私は答えた。
「あの、虎になった男のように、若くして名を虎榜に連ね……、自ら恃む所頗る厚く、賎吏に甘んずるを潔しとしなかった……、からだろう?」
「若くして、天才なんて言われたから、自惚れていたのね?」女は大分酔っていた。「それに、啄木の歌って、泣きぬれて蟹とたはむるとか、岸辺目に見ゆ泣けとごとくになんて、女のあたしが言うのも、ヘンだけど、感傷的で、女々しいと思いませんか?」
まあ、そう言われたって、仕方のない面はあるけれど……、しかし、それだけではないだろう……。彼の詠った浪漫的な短歌、近代詩への取り組み、時代・社会に対する批判等、日本の近代文学史上、評価されるべき点は多々ある……。
「ね、私を、幣舞橋へ連れてって!」
それで、私たちは幣舞橋へ行くことにした。駅から真っ直ぐに伸びている幣舞橋への道路は、ゆるく上っていくようになる。まだ八時を少し過ぎたばかりなのに、すでに通行人の姿はなく、行き交う自動車の影も少なくなっていた。街燈が灯っていて、店内にはまだ灯りがついていたから、「さびしき町」という雰囲気ではなかったけれど。
幣舞橋には車の通りも人影もなく、静かだった。橋の欄干の上で、四体の乙女たちの像が街燈の灯りに照らされて、踊っている……。
「ホラ、これが幣舞橋さ……」
そう言って、私は振り返った。女の影はなかった。人影も車影もなく、そこにはただ不在感だけがあった。氷りつくような寂寥感に襲われ……、橋上を見まわす。四人の乙女たちが、欄干の上で踊っている。河口から吹いてきた激しい風に体を揺さぶられながら、過ぎていく風の跡を見た。霧が出てきたらしい。街燈の灯りは滲んで、夜の川面は見えなくなっていた。
(第8話は、2024年12月1日、掲載予定です。)
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