第5話 夜の北航路(2003年5月) 龍崎一郎
梅雨の季節が来る前に、北海道へ渡ることにした。
6号国道を北へ走り、水戸市で大洗方面へ向かう。14時40分、大洗フェリー港着。フェリーターミナルビルの一階窓口で、苫小牧港行の乗船券を購入。シルバー割引きで、普通自動車一台航送料金と運転手一名乗船料金、合計、21,500円を支払う。
東日本フェリーの「へすていあ丸」は、大きな船だった。見上げると船室に人影が見えたが、その人影は、着せ替え人形ほどの大きさにしか見えない。
17時過ぎて、乗船が始まる。フェリーの後方の鉄板が倒されて、その鉄板が桟橋に架けられている。自動車を運転して、その橋を渡り、乗船するらしい。そんなふうにしてフェリーに乗船するなんて初めての経験だ。初めての経験というものは、何事においても不安なものだ。しかし、誰に頼むわけにもいかない、自分でやるしかない。
係員の誘導に従って、乗船口の架橋下へ向かう。鉄板の橋は、降りだした霧雨に黒く濡れていた。鉄板には滑り止めのギザギザがついていたが、滑り易そうだ。前のワンボックスカーについて、ゆっくり渡りはじめる。少し坂道になっていて、その中ほどで一時停車させられる。フットブレーキを踏んで、待った。橋が揺れている。あまりいい気持ではない。しかし、長くは待たせられずに動き出した。鉄板を上がりきると、バックさせられ、何度かやり直して、二台の自動車の間に、縦列駐車させられる。うっすらと冷や汗をかいていた。
狭い階段を上り、甲板に出て、桟橋を見下ろすと、駐車場から自動車の影は消えていた。アスファルトには水溜まりができていて、薄白く光っている。
18時30分、ドラが鳴る。桟橋に立っていた黄色い雨合羽を着た人たちが艫綱を解く。解かれた艫綱は、まるで生きている大蛇のようにくねりながら船体に上がってきた。いよいよ出航だ。
フェリーがゆっくりと静かに桟橋から離れはじめると、ターミナルビルは徐々に遠ざかっていく。視界が拡がって、暮れなずんでいる港の風景が見えてくる。漁船を舫っている漁港、海岸沿いに建ち並んでいる民家、マリンタワーと灰黒色の松原…、手すりに身を寄せて、風景がぼやけてしまうまで見ていた。しかし、特別な感慨は湧いてこない。いよいよ待望の旅に出るというのに、憂愁が少したゆたっているだけだ。
船尾の展望室には、テーブルと椅子と、ソファが置いてある。ソファに座って、弁当を食べ終えると、バッグから読みかけの文庫本を取りだし、読みはじめた。『森有正エッセイ―集成Ⅰ』(筑摩書房)、1956年9月2日の書信からだ。
巻末の<解説>(二宮正之)によると、森有正という人は1911年生まれで、「1950年に戦後初のフランス政府給費留学生という資格でパリに渡った東大助教授」だったという。彼は「ものを考える」という行為の根本からやり直し、「感覚からはじめて、経験に至り、その定義として確固たる思想を形成」しようとした哲学者であったというのだが、正直なところ、私には、森の文章がよく理解できない。例えば、次のような文章―、
「そして定義(限定すること)だけが人間に真理を与えてくれると思うようになった。定義の実体は言葉ではない。言葉は実体の象徴にすぎない。この分解と融合との過程において、人は定義から定義へと進む。芸術家はそれを造形によって象徴しようとするだろう。思想家は文字によって。定義は次第に深くなり、広くなるだろう。」
森が、フランスで、そんなことを考えていた時、私は田舎の村の中学三年生だった。二学期が始まり、進学のための、補習授業の申込書の提出期限が迫っていた。9月2日、最終的に、自分の卒業後の進路を決断した夜のことを、私はよく憶えている。その日は私の誕生日だったからだ。
家人の寝静まった夜更け、私は仰向けになって天井裏を見上げていた。天井には板が張られていなかったから、真黒に煤けている梁が見えた。土間の竈に松葉をくべて煮炊きしていたからだ。黒い梁には煤の房が垂れ下がっている。その煤の房が雨戸の隙間から吹き込んでくる風で揺れていた。
私たち一家は疎開者だった。戦争中、東京の空襲を避けて、母の実家の村に疎開し、そのまま戦後も村に住みつづけていた。家には生活に必要な農地がなかったから、父は日傭取りや土方や新聞配達をして、一家の生活を支えていた。私が小学生の時、母が死に、父は再婚した。私と新しい母との折り合いは悪かった。それに、私の下には4人もの弟妹がいた。
中学三年生の私には、労働とか、生活とか、人生とか、について十分に判っていたわけではない。絶望とか、希望とか、現実とかについても同じだ。破れ家と、梁に垂れ下がっている黒い煤の房と、貧困と飢えと寒さと、継母との確執と、幼い弟妹のいる現実が、私に進路を決めさせた。人生を甘く見過ぎていたということはなかったが、あきらめすぎていたということはあったかもしれない。どちらにしろ、正確ではなかった。後になって、この時の選択を悔やみ、やり直すことになったのだから…。
翌日、北海道は晴れていた。薄青い空に、刷毛で掃いたように、白い雲が拡がっている。風が冷たいのだろう、日の光は眩しいが、爽やかな陽射しだった。
高い煙突が見えてきた。三本足の煙突だ。煙が真横になびいている。煙突にダンダラに塗られた赤と白の色が、はっきり見えてきた。石油の貯蔵タンクや、高層の四角いビルが、見るみる大きくなって近付いてくる。
私は船底に下りた。自動車に乗り込むと、フェリーの着岸を待った。
(第6話は、2024年10月1日、掲載予定です)
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