第11話 ワッカ・ハマナス・ロード
<2003年6月>
サロマ湖は北海道で一番、日本では三番目に大きな湖である。湖の北東側には長い砂州が伸びていて、オホーツク海と区切られている。この砂州にワッカ原生花園がある。ワッカとはアイヌ語で水の湧き出るところといい、原生花園には300種類の花が咲くという。長い砂州にはサイクリング・ロードが整備されていて、ワッカまで距離約7キロ、歩いて行けば1時間30分はかかるだろうが、歩いていくことにした。
見上げると初夏の空、薄青い空に薄白い雲が刷毛で掃いたように流れている。風は爽やかというより冷たい。ロードの両側には、ハマナスの花が濃い緑葉を掻き分けて、今を盛りと咲いている。直径6,7センチの、あでやかな淡紅色の花で、風に揺れているその容姿は花の精のようだ。花に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。甘い香りに、眩暈を起しそうになって、鼻を離す。薔薇の香りに似ているが、薔薇のような取り澄ましたキツさはない。
若夫婦が自転車に幼児を乗せ、今様の歌をうたいながら、サイクリング・ロードを走ってくる。中年の女たちがスカーフを華やかになびかせ、はしゃいだ声をあげながら走り抜けていく。少年・少女たちが野鳥のような声で叫び、競い合いながら走ってくる。笑っている顔は天使のようだ。背を丸めて、銀の矢のように走り去っていく、青春……。
振り返ってみれば、ハマナスの中の、長く伸びたロードに人影はなく、青春の日の、明るく輝いていた風景は、幻影となって、初夏の光の中に散っている。過ぎ去ったものへの感傷と、失ったものに対する心の痛みと、捨てきれない青春の残影を引きずりながら、ハマナスの甘い香りの中を、歩いていく孤りの、影……。
その夜、砂州の対岸にある、キムアネップ岬のキャンプ場に泊まった。キャンプの季節には早い時期、テントを張っている人たちはなく、車が4,5台停まっていたが、車中泊している人たちばかりだった。日が落ちると、空と湖面は赤くなり、やがて赤みは薄れて闇に消えた。波の音も鳥の声も聞こえず、孤り、静かだ。眠れずに体をよじると、暗い車内に、体に染みついていたハマナスの甘い香りが散った。
暗闇の中に、母の声を聴いた。若くして死んだ母の声だ。少年の私を呼んでいる、明るく弾んだ声……、ハマナスの原の中で、色白の美しい母が、白い歯を見せて笑っている。眩しい笑顔だった。少年の日の遠い記憶だということは分かっていた。夢を見ているのだということも分かっていた。分っていながらも、幸せそうに笑いつづけている、母の顔は消えない……。
翌日、もう一度ハマナス・ロードを歩いてみることにした。サロマ湖上の空は、昨日と変わってすっかり厚い雲に覆われ、明るい陽射しは消え、湖面は鈍色に変わっている。ハマナスの花影は暗く、甘い香りは沈んでいた。
砂州を開削した糊口に架かる橋に着いた時、雨が斜めに落ちてきた。折りたたみの傘を開いた。糊口の先、ワッカに東屋がある。傘を斜めに差して走った。すぐに篠つく雨になった。矢のような雨が路面を叩き、雨足が撥ねあがってしぶき、遠くの景色が見えなくなった。稲妻が光って、空が鳴った。金属の器が割れるような音だった。
東屋に駆け込んだ時、滂沱と降り落ちてくる雨で、辺りはすっかり夜のようになっていた。屋根を叩く雨音が槌音のように聞こえ、湖岸の葦が幽霊のように揺れている。空が裂けて光った。空が砕けて鳴った。湖面が銀色に光った。光が消えるといっそう暗い雨の世界になる。間をおかずに稲妻が光り、ガラガラガラガラ、という雷鳴がとどろき、猛々しい雨が屋根をぶち抜こうとしているかのようだ。気温は急激に下がっていて、びしょ濡れになっているジーンズの膝下、足下から冷えはじめていた。薄手のウィンドブレーカーを着ていたが、寒さは防ぎようがなく、小刻みに震えつづけていた……。
母が蒼褪めた顔をして、杉の樹の下で真っ暗な雨空を見上げていた。少年の頃、母と山へ茸を採りに行って、夕立に出遭った時のことだ。頭上で稲妻が光り、細面の母の顔が青白く浮かび上がった。幽鬼のように見えた。雷鳴がとどろき、母にすがりつく。湿ったもんぺと、かすかな汗と甘い乳の匂いがした。母は邪険に私を離し、隣の杉に樹の下に立たせた。
戦争中、私たちは母の実家のある村に疎開したのだったが、戦争が終わっても村に住みつづけていた。……あの時、母は何を考えていたのだろう? 明日の糧もままならない、不如意な生活を思い煩っていたのだろうか? 障害者の兄のことを思い悩んでいたのだろうか?
母は、私が9歳の時、戦後の生活苦と兄の介護に疲れ、病んで、39歳の若さで死んだ。母が死んだ時、母の呼吸が停まり、ものを食べなくなり、口をきかなくなったから、母が死んだということは分かった。しかし、母が持っていた愛情といったものまでもが、失われたということを理解するには、私は幼過ぎた。やがて死そのものをトータルで認識するようになるが、少年の時の喪失感は、深い傷となって残り、私は人を愛することができず、心を凍らせ閉ざしたままで生きてきた。愛することによって愛を失うことをあまりにも恐れたからだ。母を失った時の、悲しみと苦しみと絶望を、二度とこの世で味わいたくなかった。
稲妻が遠くで光り、雷鳴が遠くに聞こえた。しかし、雨は止みそうもない。背後に人の気配を感じて振り返った。確かに人の息遣いを感じたはずだったが、其処には誰もいない。雨足に煙っている空間が在るだけだった。誰もいないという非在感が鞭となって、私の心を打った。誰でもいい、誰かを、激しく愛したかった。狂おしく、熱く、愛したかった。雨の匂いの中には、ハマナスの甘い香りが幽かに残っていた。
(第12話は、2025年4月1日、掲載予定です。)
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