第28話:崩御
安永八年一〇月二九日、帝が崩御してしまったのだ。
「主殿頭、どうするのだ?!」
家治将軍に命じられて、本丸から西之丸に知らせに来た田沼意次に、顔色を無くした家基が動揺もあらわに問い質した。
「上様も苦慮されておられます。帝には一の皇女しかおられず、次の帝は世襲親王家から選ばなくてはなりません」
「そのような事は分かっておる!分かっておるから聞いているのだ!」
家基が怒りと焦りを滲ませて怒鳴るのもしかたがない。
次の帝の候補とされているのは、伏見宮邦頼親王の第一王子、嘉禰宮五歳。
閑院宮典仁親王の第一王子、美仁親王二三歳。
同じく閑院宮典仁親王の第六王子、祐宮九歳。
将軍家、幕府として悩ましいのは皇室との姻戚関係だった。
閑院宮家から次の帝が選ばれたら、家基は婚約者の孝宮を通じて、帝と義兄弟となってしまうのだ。
更に言えば、閑院宮家から選ばれた帝に男子ができて次代の天皇となり、孝宮から生まれた男子が家基の次に将軍となれば、一二〇代天皇と一二代将軍が血のつながった従兄弟となるのだ。
期せずして公武が合体するのだ!
だが、ここでとても大きな問題が起きてしまう。
もう家基には男子が生まれているのだ。
徳川将軍家の慣例で言えば、側室や妾から生まれた男子であろうと、先に生まれた男子が将軍家を継ぐ事になっている。
孝宮に男子が生まれなければ何の問題もない。
閑院宮家から新たな天皇になった者に男子が生まれなくても、問題は無くなる。
そもそも、閑院宮家から次の帝が選ばれなければいいのだ。
そうすれば、家基の愛する深雪の子供、竹千代が何の問題もなく一二代将軍に成れるのだ。
そうなれば、公武合体を画策する公家や大名幕臣に竹千代が狙われる事はない。
家基は、自分が一橋民部卿に狙われていた事を知って、ようやく暗殺の怖さと恐ろしさ、真実味を感じられるようになっていた。
自分が狙われただけでなら、武士が命を狙われるのは当然と考えていたかもしれないが、深雪や竹千代が狙われていたと考えて恐ろしくなったのだ。
「主殿頭、伏見宮家から次の帝を出せないのか?!」
「少しでも血の濃い方を選ぶのが筋でございます。そうなりますと、どうしても閑院宮家から次の帝を選ぶことになります」
「それでも伏見宮家を推している公卿がいるのであろう?その者を助けよ!」
「恐れながら申しあげます。やれますが、そのような事をすれば、幕府将軍家が皇統を捻じ曲げた事になります。歴史に悪名を残す事になりますが、宜しいのですか?」
「……ならぬのか?」
「ならぬわけではございません、覚悟の問題でございます」
「……徳川の名を穢す訳にはいかぬな」
「御英慮に従います」
「一つだけ確認しておく、主殿頭ならばどうする」
「最初に申し上げさせていただきます。臣も我が子は可愛いのでございます。畏れ多い事ではございますが、大納言様は臣が上様に強く諫言した事で御生まれになられました、我が子同然の方でございます。その大納言様のお子様であれば、孫同然でございます。将軍家の争いで殺されるような事だけは、避けたいと思っております」
「……我が子同然、孫同然だと……あの時、主殿頭も側室を持つように上様が命じ……」
「それ以上は申されませぬように!」
「!分かった、分かったから申せ!主殿頭ならばどうする?!」
田沼意次は家基にも分かりやすいように、出来るだけ詳しく話した。
将軍家の長子相続が絶対ではないのは、結城秀康の前例があるので明らかな事。
他家に養子に出せば、継承順位を下げて弟を将軍にできる。
庶長子よりも嫡男を後継者にするのは、公卿では当たり前だし、武家でも良く有る事だった。
五代将軍綱吉が将軍に成った時も、厳密な長子継承順なら、家光の四男綱吉よりも、家光の三男綱重の長男である家宣が継ぐべきであった。
吉宗が八代将軍を継いだ時も、綱重の次男松平清武、清武の長男清方が生きていたのに、一度臣籍に下っていた事や、高齢であったのを理由に将軍に成れなかった。
だが年齢の問題は、子供の清方がいたので何の問題もなかった。
実際には幕閣や御三家、諸大名の支援が得られなかっただけだ。
権威や実力があれば、幕閣が強く推せば、長子相続など幾らでも誤魔化せる。
竹千代に将軍を継がせようとしたら、帝を敬う諸大名や幕臣が竹千代を殺そうとするから、深雪が生んだ子が可愛いのなら一橋、田安、清水の養子に出せと話した。
田沼意次が切々と訴えたのに、家基は往生際が悪かった。
「孝宮に子供ができなければ良いのではないか?大猷院殿は本理院殿を嫌い抜き、指一本触れなかったと聞く」
「大納言様、そんな事をなされたら、お雪の方様に刺客が殺到します。絶対にお止めください!それに、人としても将軍としても道に外れております。大猷院殿のなされた事を恥じられたからこそ、上様は本理院殿に従一位を贈られたのです」
「そうか、そうだな、大猷院殿のなされた事は、余も酷いと思う。余が同じことをしたら、上様にまで恥をかかせてしまうな」
「はい。それに、本理院殿は鷹司の出なのでまだ許されたのでございます。御詫びもあったのかもしれませんが、本理院殿の弟君に一〇〇〇俵二〇〇人扶持を与えられました。厳有院殿の御代には凜米四〇〇〇俵、知行七〇〇〇石とされておられます。孝宮様は閑院宮家の王女ではなく、帝の姉姫になられるのです。もし大納言様が孝宮様に大猷院殿と同じ仕打ちをされたら、幕府は帝にどれほどの詫びをしなければいけない事か……」
「人としても将軍としても、許される事ではないのだな。幕府としても、皇室にこれ以上の知行地や凜米を与える訳にはいかぬと言う事か?」
「はい、そのような余裕があるのでしたら、竹千代君やこれから生まれて来られる和子様の知行地となされませ。幸いと言っては何ですが、福井藩松平家と福岡藩黒田家の跡目を決めず、国目付と家老達に治めさせております。竹千代様と次に御生まれになられる若様を仮の養子になされればよいのです」
「まさか、松平家と黒田家に養子を送りたくて仕組んだのではないだろうな?!」
「大納言様!臣が何か謀るのなら、竹千代様が将軍となれるように致します。他家に養子に出なければいけないような謀はしません!」
「そうだな、余が悪かった、許せ」
「何事も大納言様と竹千代様の為でございます」
「良く分かった、分かったが、それでも、伏見宮家から次の帝が選ばれたら良いと思うのは、余の我儘であろうか?」
「臣も同じように思っております」
「そうか、主殿頭もそう思っておるか」
「ただ、これだけは忘れないでください。大納言様と孝宮様の間に御生まれになる和子様も、我が子同然の大納言様の御子でございます。将軍家の御血筋でございます。将軍家に皇室の血を入れたくないと考える、佞臣共に弑逆させる訳にはいきません!」
「弑逆、余と孝宮の子を殺そうとする者がいると申すのか?!」
「公武合体を望む者もいれば、公武合体を望まぬ者もおります。己の想いや私利私欲のためなら、主君に刺客を放つ者がいるのです。孝宮様との若君を弑逆しようとする者は、必ず現れます。幕臣としても人としても、そのような悪行は絶対に許せません!どのような手段を使っても、孝宮様と若君を御守りせねばなりません。孝宮様が御産みになられる若君も、大納言様の御子なのですぞ!」
「余の子供、孝宮が生む子も余の血を受け継ぐ子供。深雪の子供と同じように愛さなければならない余の子供……」
「臣は幕臣として、どの和子様にも忠誠を尽くさせていただきます」
「余も覚悟を決める、上様に御話しなければならぬ」
「御供させていただきます」
★★★★★★
家基と田沼意次の願いも虚しく、安永八年一一月二五日、閑院宮典仁親王の第六王子、祐宮が九歳にして第一一九代天皇となった。
お雪の方様は次男長福丸を生んだが、家基と孝宮の結婚を前に、西之丸をでる事になった。
家治将軍も家基も、将軍の座を争う兄弟間の陰惨な殺し合いを避けたかった。
お雪の方様と竹千代と長福丸が、孝宮と同じ西之丸にいると、私利私欲に走る幕臣や女官が殺し合いを始める恐れがあった。
竹千代は田安家の当主となり、そのまま福井藩松平家の仮養子となった。
仮養子とはなったが、住むのは福井藩松平家の江戸屋敷ではなく、江戸城内にある田安屋形の大奥だ。
長福丸は一橋家の当主となり、福岡藩黒田家の仮養子となった。
だが住む場所は、福岡藩黒田家の江戸屋敷ではなく、母や兄と同じ田安屋形の大奥だった。
福井藩松平家と福岡藩黒田家の新たな当主は、元服するまで江戸城内に住む。
孝宮との間に男子が生まれなかった場合や、生まれても夭折してしまった場合に備えて、将軍継承が可能なように江戸城内に残したのだ。
だがそのお陰で、福井藩松平家と福岡藩黒田家は参勤交代する必要がなくなり、勝手向きが著しく良くなる。
更に一切の手伝い普請が免ぜられ、将来竹千代と長福丸が藩主になった時のために、勝手向きで困らないようにした。
そこまで手を尽くしてから、家基は孝宮と正式な祝言を挙げる事になった。
家基と婚約したまま浜御殿にいた孝宮は、正式な祝言の前に内親王宣下を受けて宗恭内親王と成った。
お雪の方様、竹千代、長福丸が去った西之丸大奥に孝宮宗恭内親王が入り、家基の御台所と成った。
徳川家基、不本意! 克全 @dokatu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます