第7話 真新しい靴がステップ
お母さんはもう寝てしまった。明日起きたときは今度こそ機嫌が悪くなっているかも知れないけれど、そのときはそのときだ。
「
ああ
いまこそ
途中、忘れているかな、と思ったけど、最後まで歌えた。
いい歌だと思う。
あと三年、この校歌の学校に通えるというのは幸せなことだ。
こういう、スピーチのときに使うようなお世辞は、順は大嫌いだけど。
お世辞ではなく、本心からそう思う。
順は立ち上がった。
歌うだけではもの足りない。
習ったステップのおさらいをしてみたい。
お母さんが精神的に不安定になることを見越して造ったのではないが、この家は床がしっかりと造ってある。順がここで飛び跳ねても一階のお母さんの寝ている部屋には響かない。
だから、ここでステップのおさらいをしてみても、お母さんは起きない。
最初は、習ったときと同じようにバトンを持たずにやろうと思った。
でも、途中まで動きをなぞったところで、やっぱりバトンを持って演技したいと思った。
それでも、バトンを持つだけは持って、演技をしてみよう。
これから振りも習うのだろうけど、そのとき、このステップを踏むときにはこのバトンの重さがいっしょなのだ、と思ってやりたい。
そこで、学校に持って行き、また持って帰ってきたバトンを取り出して、演技してみる。
それでも、何かもの足りなかった。
それは、このステップがそれほど難しくないから、とも思ってみたけれど。
そのとき、ふと、床に置いたままになっている箱に順の目がとまった。
靴。
瑞城女子高校の
お母さんが買ってくれた窮屈な靴とは違う、もうひとつの真新しい靴だ。
まだ地面には下ろしていない。
だったら、ここで履いてみてもいい。
ここで履いて、教わったステップをおさらいしてみる。
こんなことができるのは、たぶん、ただ一度きりだ。
制靴を履いて登校するようになったらもうこの部屋では履けないから、
今度は、順は、床に腰を下ろして、制靴を履いてみる。
真新しい靴を。
昼に履いていたエナメルのおしゃれな靴よりもずっとすんなりと足に入ってくれた。
こちらは履いて試して買っているから、当然だけど。
この部屋は、奥の壁側には何も置いていない。
家具もないし、床の上にも何も置かないことにしている。
バトンの練習をするためだ。
何の工夫もなく、ニスを塗った木の板を貼っただけの壁だ。
その壁に向かって立つ。
顔を上げる。
バトンは右手に持つ。バランスを取るように、ではなく、端を持つ。
顔を上げ、目を正面に向け、目を開いたまま姿勢もそのままで深呼吸する。
歌い出す。
「しみず わきいでる ののはらに」
それにステップを合わせて行く。
歌って、ステップを踏んで、演技はしないけどバトンを意識して。
いきなりそんなことをやってもうまく行かないのでは、と思う。
毛受愛沙も勘が働かなくなったと言っていた。
中学から「エスカレーター式」に上がってきた毛受愛沙より、受験勉強をした順が練習していない時間のほうが、たぶん、長い。
やっぱりバトンを持って演技することを忘れているのではないか、と思った。
でも、そんな恐れは、すぐに消えた。
さっき、靴を履かずに試してみたときとは違う。
ぜんぜん違う。
制靴を履いた足が、自然と、昼に教えてもらったステップを再現していく。
靴がステップを教えてくれる。
こんな感覚は初めてだ。
お母さんに「成績が下がっている」と言われ、反発して受けた瑞城女子高校。
自分ではよくわからないままに、
でも、だいじょうぶ。
あの厳しい先輩や物腰も体もふくよかな先輩、甘々の毛受愛沙、大柄な大里真茅といっしょに、高校生活を乗り切っていくことができる。
心臓の音が高鳴るのは、運動しているから当然なのだけど。
いま、自分の頬は紅色に染まっているだろうな、と、順は思った。
化粧鏡のところに確かめに行くことは、しないけれど。
(終)
真新しい靴がステップ 清瀬 六朗 @r_kiyose
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