第三話

 昔、父親がたばこを吸う為に買っておいたライターを持って自室に戻り、カーペットに置いた日記を開いた。


 ライターをどうかざしたら炙り出しができるか考えていると、いつの間にか靴の爪先が日記の目と鼻の先にあった。黒いローファーを履いた足が、山田の目の前にある。


 見覚えのある靴だった。視線をあげると、白いソックスを履いた白い足が見えた。


「……綿ちゃん……」


 山田は震える声で囁いた。


 ダン! バン!


 激しい音が四方八方からし始めた。まるで、壁を手や足で叩き殴っているように聞こえる。


 山田は固まった。どういうことだろう。どうしてだ。綿子はこの日記を見つけてほしかったんじゃないのか。


 黒いローファーが、ダンッ! と日記に踏み降ろされた。


 踏みしめられた日記からカサカサと音がする。目の前で、日記のページが黒く変色していく。


「え? どうして、綿ちゃん!」


 日記を庇おうと手を伸ばした。まるでローファーが熱せられた鉄のように熱い。指先に鋭い痛みが走って、山田は反射的に手を引っ込めた。


 目の前で、みるみるうちに日記のページが黒く煤けていく。


 見つけてほしかったはずの日記を綿子が燃やしている。到底信じられない現象が目の前で起こっている。気がつくとカーペットまで黒く焦げていた。


 このままだと本当に燃えてしまうと気づき、山田は綿子の足を掴もうと両手を伸ばした。


 両手が綿子の足をすり抜けてしまう。それなのに、熱だけは伝わってきて、山田は叫んだ。


「綿ちゃん! やめて、綿ちゃん!」


 両手のひらが鋭く痛む。真っ赤になっていき、プツプツと水ぶくれができた。


 何もない空間で、あっという間に手のひらに火傷を負ってしまう。


 必死に綿子を制止しようと頑張ったけれど、これ以上は無理だと山田は手を引っ込めた。


 綿子の日記は真っ黒く変色して、焦げて、カサカサと音を立てて崩れた。


 カーペットも黒く焼けて、火が付かなかったのがせめてもの幸いだ。


 手を動かすと手のひらに激痛が走る。涙目になって、山田は綿子を見上げた。


「どうして……」


 意味が分からなかった。


 綿子が口を動かしている。目も鼻も陥没してぐちゃぐちゃだから、唇の動きを読むしかない。


 けれど、日記がなくなったからなのか、それとも日記が見つかったからなのか、綿子の口から懐かしい声が漏れた。


 実際には声じゃないかもしれない。直接、頭に響き、そのたびに突き刺さるような痛みが走る。


【ずぅっと、側にいる】


 山田は痛む頭をもたげて、綿子の口元を必死で見つめた。


「どうして……」

【ずぅっと、いっしょ】

「でも、僕は綿ちゃんに天国に行って欲しい」


 必死で訴える山田に、綿子がきゅっと口の端をあげて微笑みかけたように見えた。


【私が行くのは地獄。だから、羊ちゃんとずぅっといっしょにいる】


 綿子の声が頭の中で響く。脳みそに無数の穴が開けられたような激痛が走った。あまりの痛みに嘔吐いた。


 そして、前触れもなく、綿子は消えた。


 残されたのは真っ黒に焼け焦げて読めなくなった日記と、酷い火傷を負った手のひら。


 訳が分からなかった。見つけてほしかったんじゃないのか。


 鍵をかけて読めないように仕掛けもして、その上でさらに焼き尽くした。


 綿子は成仏して天国に行きたくないのか。それとも行けないのか。この世を彷徨い続けるつもりなのか。


 ずぅっといっしょにいる、側にいるというのは、山田もいっしょに地獄に堕ちようという意味なのか。


 綿子はあのとき、山田を助けていたわけではない。山田の命を奪うのは自分だと、自分以外の存在に山田の魂を奪われたくなかったのか。


「綿ちゃん……」


 山田はもう心に決めている。


「それでも、僕は綿ちゃんが天国に行ける方法を探すから!」


 綿子のいない空間に向かって、山田は声を張り上げた。





 両手の火傷のせいで、他のバイトを休まざるを得ず、やむなく、山田はつくもの研究室にいる。


 とにかく手のひらが不自由で何もできない。スプーンを持ったり、風呂に入ったり、トイレに一人で行ったり、辛うじて、そういうことならできる。


 病院で医師に、熱した鍋でも掴んだのかと渋い顔をされた。


 つくもが、山田の包帯が巻かれた両手をじっと見た後で、冷蔵庫から氷菓子を出して、「食べて」と手渡してきた。要は手を冷やしたら、と言うことなのだろう。


「そうそう、君が休んでる間に、野田先生が急死しちゃって。葬式に行ってきたよ」


 ふと思い出したように、白が言った。


「野田先生って、“橘の宝玉”の?」

「そう」


 山田は思い出した。紙袋一杯の“橘の宝玉”を研究室に持って帰ると、野田教授が言っていたことを。


 あの御郷島の果実が、この大学内にある。山田の脳裏に三宅村の悪夢が再び蘇る。


 山田は青ざめて先生に問いかける。


「先生、どうするんですか」


 白がくしゃくしゃの頭を掻く。


「うーん、面倒だけど、後で回収しとくから」


 あっけらかんとした様子で、白が山田を見た。


 ああ、本当に面倒臭いと思っているだろうし、でも絶対に回収するんだろうな、と山田も白を見返した。


 三宅村には、まだあの“橘の宝玉”はあるのだろうか。それとも、万智が処分しただろうか。


「万智さん、どうしてるんでしょうね」


 山田が呟くと、白が、「あの災害の後、果樹園が焼けたって言ってたよ」と告げた。


 万智はあの不老不死の果実の正体を知っている。家族を奪ったあの果実を根絶やしにしたのだ。


 きっとこれでいいのだ、と山田は手のひらに載せた冷たいアイスを見つめて思った。







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御郷島へ渡る舟 藍上央理 @aiueourioxo

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