かつてアンデパンダン展で、美術館の中で生活しそれを作品とした芸術家がいた。
これは、いわゆるインスタレーションと呼ばれるものだと思う。
そのアーティストは、日常の生活が作品となると思ったわけでは無いだろう。
では、彼は何をめざしたのか。
彼はきっと、作品という概念の向こう側にいこうとしたのではないかと思うのだ。
同じ木の葉という言葉がある。
わたしたちは、例えば二枚の銀杏の木の葉を、同じ木の葉と呼ぶこともあるだろう。
しかし、実際の木の葉一枚一枚をみれば、同じ木の葉など存在しない。
個々の木の葉をみれば、色、葉脈、大きさ、形、同じものは決して存在していないことが判る。
けれどわたしたちは、木の葉という概念を通じて現実の木の葉を見ているので、同様の概念で総括できるものは同じものとして認識可能だ。
わたしたちが何かをリアルと感じるとき、それはその何かが概念に一致していると思うほど近しい事象であるということになる。
けれど、リアルと感じているときこそ、わたしたちは個別的な「現実」から遠ざかっているのだ。
現実こそ、概念の突き抜けた向こう側、リアルという皮膜を突き破った向こう側ということになる。
それは、常に異形であり、混沌である。
だが、本来創作というものがターゲットとするものはリアルであることなのか、現実と向き合うことなのか。
わたしたちが語るべきは、リアルではなく、現実なのだ。
そして、ここで語られているのは現実である。
そう、思う。