最終話 今までありがとう
しかし朝。窓は閉まり鍵が掛けられていた。どうやら戸締りをしてくれたらしい。おれは襖をあけて隣の部屋に行き、やっぱりなと肩を落とした。
居る。まだ居る。
どうする。明確な答えはない。仕方がないのでいつも通り出社した。
お昼に、先輩にランチを御馳走しようとしたが、彼女はお弁当を持って来ていた。残念がるおれに、「代わりに手袋の下が見たい」と言ってきた。なんだか恥ずかしかったが、昨日あれだけ献身的にフォローしてくれた人のお願いを
先輩は興味津々と言った具合に、手に顔を寄せた。顔の近くに彼女の頭皮が来て、漂うシャンプーの香りがいつもより濃く感じられて、知らず、呼吸が深くなった。
「本当だ、白い。初めて見た。ね、触って良い?」
こちらを見上げながら言った。いつもの先輩と違う、女の子のような素振りや喋り方にドギマギしてしまった。断り切れず承諾すると、彼女は恐る恐ると言った感じで触り、「やわらかっ。やわらかいね」と頬を赤らめて恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑った。
こんなに喜んでくれるなら、一日目の、羽化したばかりの蝉のような自然を弁えた透明な手を見せてあげれば良かった。しかしそう思う一方で、あの状態だったら嫌われていたかもしれないからこれくらいがちょうどいいのかもしれないとも思った。
なんとか先輩の手伝いなしで19時に終われた。二日目にしては随分動かせるようになったと思う。
帰りの電車の中で、上目遣いの先輩を思い出していた。生え変わりが自慰のようなものなら、それを見たがる先輩は結構変態なのではないだろうか。などと失礼な妄想をしてしまった。
家に帰ってもまだ古い両手足は居たので、週末の休みを利用して海に行くことにした。
※ ※ ※ ※
海に行く。
週末の予定を先輩に聞かれて言うと、車を出してくれると言ってくれた。おれにいつからこんなにもかわいい彼女ができていたのか。などと勝手に想像が先走ってしまう。
でもきっと、彼女は弟の成長を見守る姉のような気持ちなのだと思う。助手席に座って先輩の横顔を見た。前方を注視する彼女はとても凛々しい。頼りがいのあるいつもの先輩だ。
ああ、やはりおれは頼る側の情けない後輩なのだ。と思わずにはいられない。
それでもドライブは楽しかった。先輩は仕事のことは言わず、好きな音楽とか料理とかの話を振ってくれた。
トークの傍ら、家から持って来たお菓子などを振舞った。ドライブ中にも食べられそうなスティック状のものを主軸にグミやクッキーをバランスよく。我ながらセンスあるラインナップだと思う。
そんな幸福な車内の後部座席には手足四つが入ったリュックサック。日常と非日常を介在させた車は夏みたいなカーステレオを穏やかに響かせて走った。
1時間ほど走ったら、視界が開けて海が飛び込んで来た。この清々しい青色に、両手足は溶けるのだ。そう思うと、なんだか晴れやかな気持ちになる。
「古い両手足がまだ家にいたときは、正直腹が立ちました」
「腹が立ったんだ」
先輩は笑った。
彼女が生え変わりについて聞いて来たので、だいたいのことは語った。初めの方から話して、今はもうだいぶ終盤だ。
「でも、こうして楽しくドライブできているので、感謝してます」
先輩はまた笑った。今度はウケたとかじゃあなくて、嬉しい方の笑顔で。
海に着いてビーチサンダルに履き替えてリュックを背負った。服装は普段着なので、山に行くのか海に行くのかよくわからない人になってしまっている。
砂浜のなるべく人目に付かないところに行って、リュックから古い両手足を取り出した。
四つを置くと、一直線に海へ向かって行った。
それをただなんとなく見送っていると、隣にいた先輩が姿勢を正す。
「今までありがとうございました」
そう、はっきり言ってお辞儀をした。突然のことに面食らったが、おれもならって頭を下げる。
「ありがとうございました」
そうか。
そうだ。
今の手足もすっかり肌色で固くなって自由自在に動かせるけれど、この手足が生えて来るまでおれを支えて来てくれた四肢なんだ。
二人の深い辞儀が終わるころには、四肢はすっかり波の向こうだ。
先輩は、今度はおれの方を向いて頭を下げる。
「改めて、よろしくお願いします」
おれも急いで頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
顔を上げてお互い見つめ合って、笑った。
この笑顔をずっと見ていたいな。そのためになんだってできる。きっと叶えられる。
だって、おれの手足はここにある。
🔍 生え変わり 古い手足 どうする| 詩一 @serch
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