鼻血

千織@山羊座文学

ある女の、ある人生の一節

 ある時から、鼻血が出やすくなった。決まって右の鼻だ。花粉症の時は最悪。鼻血が出て、かさぶたができて、ムズムズして強くかむとまた鼻血が出る。


 部下の女の子が当たり前のように高級ティッシュを差し出してくれるので、私はありがとうと言いながら一枚取る。私は彼女ほど可憐な女子ではないが一応女なので、鼻血を出した姿を晒したままにするわけにはいかない。そそくさとマスクをする。

 こんな風に鼻血が出やすくなったきっかけは明らかにあの日からだ。



 数年前のとある日、アパートに広志がやってきて、靴を乱暴に脱ぎ捨てて玄関をあがりながら言った。


「今日、30万円貸してくれない?」


「そんな大金……すぐに用意できないよ……」


「あの会社で何年働いてるんだよ! それくらい貯金はあるだろ?!」


 広志は通帳が見たいのか、私のアパートの引き出しやら棚を漁り始めた。


「やめて! やめてよ! わかったから!」


「助かるぅ。給料が出たらちゃんと返すから!」


 広志は私を車に乗せ、銀行へ向かった。銀行の玄関前に車が停まったので降りようとしたら、もう車が動いて私はその場に転んだ。


 真夏のうだるような暑さの日。混乱と転んだ衝撃で鼻血が出て、地面に垂れた。慌ててティッシュで鼻を押さえた。ATMに向かい、血に染まった指で財布を開け、キャッシュカードを取り出し、現金を下ろす。出口ですれ違ったサラリーマンにギョッとした顔つきをされながら車に戻り、お金が入った封筒を広志に渡した。


「助かったぁ。本当、恩にきるよ! ……最近、デートできてなかったし、今からどっか食べに行く?」


 今なら信じられないセリフだが、当時の私は、彼が可哀想で仕方がなかった。



♢♢♢



 広志との出会いは、10年前に遡る。

 私は、高卒で事務員として雇われた。あまり頭が良くなくて、仕事はミスが多かった。上司からはため息をつかれ、人が良い社長や経理の社長夫人からも困ったなぁという顔をされていた。


 三年経って、ようやくまともに働けるようになった頃、事務員に新しい女の子が来た。彼女は仕事ができる子で、私が三年かかって覚えたことを三ヶ月で身につけた上に、事務のやり方をどんどんよくしていった。


 気をよくした社長は、新しい経理システムを会社に入れて、彼女をリーダーにした。彼女はあっという間にシステムを使いこなして、私に教える立場になった。


 ある日、社長に呼び出された。


「来年度から、営業をやってもらいたいんだ。事務はあまり向いていなさそうだから。案外、いいかもしれないよ、営業」


 そんなわけはない。内気だから事務職を希望したのだ。営業部は成績で給与が決まる。毎月のノルマと結果が張り出され、成績が悪い営業は自ら辞めていった。私に、遠回しに辞めろと言いたいのだろう。


 ショックもあって、転職活動も少しした。だが、ほとんど履歴書で落とされる。資格もなく、職歴に誇れることも書けない。なんの取り柄も感じられない私を雇う奇特な会社なんてなかった。


 そんな折、新しい営業部長が来た。社長のつてで中途採用された、40代の男。それが広志だ。笑顔で腰が低くて、人を笑わせるのがうまかった。


「急に営業に仕事が変わったんだって? 大変だなぁ。でも、変に営業スタイルが固まってる奴よりいいかもよ。まず最初は俺と仕事をしよう。俺も会社のことを知りたいから、色々教えてよ」


 そう言われた。営業のことが右も左もわからない自分にとってありがたかったが、じきにこの人も私にため息をつくようになるんだろうと思っていた。



♢♢♢



 最初は、広志の営業を見て回った。広志は相手を笑わせるのが得意で、本題に入ったところで要所をピンポイントで押さえる。


 笑わせ上手なのも感心したが、営業トークの裏に膨大な知識と経験が隠れているのがわかる。ヘラヘラしているように見えて、かなりの努力家なのだろう。


 広志の営業を見るのは楽しかった。彼のトーク自体も面白いし、お客さんが広志を好きになる瞬間もわかる。これだけ人の心を掴むのがうまければ、営業は天職だろう。


 徐々に、アイスブレイクは彼が、本題は私が、と役割分担ができていった。それもうまくいった。いざ、商品、サービスの説明となれば、私にもそれほど難しくなかった。



「俺は自分の営業で取った仕事は、評価されないんだ。部下がとった仕事で俺の成績が決まる。今いる営業職員には、営業の楽しさを知ってもらって、全員長く勤められるようになってほしいんだ」


 彼は、情熱的に言った。今まで、社員のやりがいや生活のことまで考えてくれる上司はいなかった。社長が引き抜いてくるだけのことはあると思った。



♢♢♢



 彼は、部下に対して親切に相談に乗ることもあれば、簡単に烈火のごとく怒ることもあった。それでも営業職員たちからは尊敬され、慕われていた。


 彼は、褒めて伸びる、叱って伸びるの見極めがうまく、その信頼関係があることで一人一人の”隠れた良さ”を引き出すのがうまかった。自分の強みを知って自信をつけた営業職員たちは、どんどん積極的に営業をするようになったし、今までにない工夫や提案にも挑戦するようになった。


 今までの手探りな営業ではない。仕事をしているフリをしなくてもいい。未達の言い訳をしなくていい。営業職員たちの表情が変わり、売上は倍増に至った。


 活気づいた職場に満足した社長は、売上が伸びない月があってもイライラしなくなった。社長の目から見ても、”人は育つ”ということがわかったのだ。


 私も、一人でもノルマを超えるくらいにはやれるようになっていた。事務の時は丁寧すぎて仕事が遅かったが、営業になったらまめにお客様に接する姿勢が喜ばれた。



♢♢♢



 広志が来てから、五年が経った。広志の奥さんが闘病しているとのことで、広志は休みがちになった。


 部長代理として、課長の狩野が広志の仕事を引き継いだ。狩野は、アンチ広志派だった。狩野は、ことごとく広志のやり方を覆していった。


 まず、社内での呼び捨てを禁止した。広志と親密な社員とそうでない社員で受けられる営業ノウハウの指導やサポートに差があると訴えがあったのだ。社員への指導は事前申告になり、何をやるかは社長に報告、承認を受けてから。また、プライベートな時間を指導に充てるのも禁止した。指導内容は記録に残し、全社員に共有すること。これも不公平感を正すためだった。



「部長の指導が素晴らしいのはわかりますが、なんせ、贔屓がすぎる。これでは、会社のためになりません。それに指導名目で怒鳴るのは、パワハラ、モラハラに当たります。いかに営業に自信があるとはいえ、彼も今どきの常識に合わせてくれないと……」


 狩野は、社長ほか広志を含む幹部にそう言ったらしい。


 広志が休んでいる間に、社長面談があった。


「部長のこと、なんとなくわかっているだろうけど、君から見たらどうかね?」


「……私が営業職でやっていけるようになったのは部長のおかげなので……。それに、部長はいつも”自分から動かない人には何を教えても伸びない”と言っていました。実際、自分から聞きに行かず、我流でやって成績が悪いのはその人たちの実力ですから。それで部長のやり方を変えるのはいかがなものかと……」


 自分が、そんな風に部長を庇うとは。自分でも驚いた。


「そうか……。まあ部長にも考えあってのことだとはわかるんだが……」


 社長はため息をついた。



♢♢♢



 広志の奥さんが亡くなった。そして、広志はまた部長として復帰した。が、会社は今まで通りではなかった。


 会社は、合併があり、人事異動がなされた。本部長という役職ができ、その下に広志と課長の狩野がつく形になった。本部長と狩野は出身大学が同じで、通じているようだった。どうやら間に広志を置くことで、広志を自由にさせないつもりらしかった。


 会社は、狩野の提案通り、社内のコンプライアンス意識が高まり、公平で風通しはよくなった。本部長は、他社の営業手法を真似て、勉強会やブログ等新しい取り組みをするように指示をした。


「あんな形ばかりのことをやっても意味ねぇよ。そんなキレイな作業で仕事した気になるなら、取引先の仕事を手伝うくらいやんねぇと。”あんたじゃなきゃダメだ、あんたが他の会社行くならそっちにする”それくらい言われる営業にならねぇと、ただのノルマと御用聞きで人生終わっちまう。そんなの、悲しいだろ」


 広志は、いつもそう言っていた。


 広志派の職員も最初はこれまでのやり方を貫こうとしたが、本部長から押し付けられる大量の仕事と課長の重箱をつつくようなチェックに精神をやられ、一人、また一人と狩野派に流れた。狩野派に流れると、仕事の融通がきくようになるのだ。


 広志は、残り少ない自分を慕う若者を集めて、飲み会をするようになった。だが、正直、本部長や課長すら要らないと思われている面子だ。



”あんな営業がわかっていない奴らによく仕事を任せるよ! ボンクラ社長だな!”


”お前らはさ、確かに頭もあんまよくねぇし、気もきかねぇけど、あんな営業を受け入れる奴らよりは賢いわけよ! がんばれぇ! 俺の育てた奴で、スタートはお前らよりヤバかった奴もな、今じゃ営業のスターで、札束立つくらいのボーナスもらってるよ。ほら、お前らも車欲しいだ、結婚したいだ、金は要るだろ?”


 広志の拗らせた激励を聞いて、彼らは薄ら笑いを浮かべて、へぇへぇしている。


 昔は、もっとやり手の営業も広志に憧れてプライベートも共にしていた。しかし、そんな彼らの賢さは本当で、広志と狩野の不毛な陣取り合戦が嫌で会社に愛想をつかし、辞めていった。


 私といえば、どちらの陣営にも関心を持たれなかった。地味なのだ。営業としても、女としても。マイナスでもないし、プラスでもない。別に、それで良かった。居場所が他にないから、広志のそばにいた。



♢♢♢



 広志は窓際に追い詰められていった。


「あいつら、ホント使えなかったぁ。人に恵まれなかったよ」


 広志は、最後の広志派のメンバーにも恨み節を吐いた。確かに、彼らの営業成績は最悪だった。今まで広志は採用にも関わっていたが、このメンバーは合併先から来た社員だった。古巣で冷遇されたから、広志についたまでだったのだ。


「ここで営業が一番上手いのは、なっちゃんだよ! 彼女を営業本部長にした方がいいんじゃねぇ?」


 なっちゃんとは、あの、私の後に入った事務員だ。営業補助の仕事もしていて、お客さんからも人気があった。


 ただ、そんな嫌味を、危機感に変えて奮起する社員はもういない。なっちゃんも、最初こそ広志のよいしょを笑っていたが、今は困り顔だ。



♢♢♢



 広志は役職は部長のままだが、管理業務を外され、いち営業社員になった。広志はプライドを折られた悔しさもあり、猛烈に働き、一人でかなりの営業成績を上げた。その数字のインパクトは、他の社員を色めき立たせたが、本部長と課長が目を光らせ、広志信者が増えることはなかった。



「なあ、お前だけでも、俺の営業を継がないか?」


 広志はタバコを吸いながら言った。以前よりタバコの量は増えたし、酒も毎晩飲んでいてアルコールが抜けないのか、広志の姿はすっかり薄汚くなっていた。


 広志に目をかけてもらえたのは、あの最初の数ヶ月だけだった。それから、ずっと……広志に私の存在が見えていたかわからない。声をかけられて、自分の胸にじわりと温かいものが広がっていった。



 それから、あの頃のように、広志の仕事ぶりを見学し、教わった。自分の経験値もある分、理解できることが多くなっていた。広志も、いっときの鬱々とした様子から、溌剌とするようになった。まるで出会った頃のように。


 それから間もなくして、私と広志は男女の関係になった。



♢♢♢



 広志が、酒気帯びで捕まった。免停だ。


「歩いて営業かぁ。旗立てて、リヤカーでもひくかな」


 広志の言葉に誰も笑わなかった。


 その後、広志が合併前に会社の物品を横領していたことが判明した。


 なっちゃんが、当時誰も口を出せないくらい勢いのあった広志に、懇願されて手伝っていたらしい。過去のことなので警察沙汰にはならなかったが、会社からは退職を促された。なっちゃんは、厳重注意だけだった。それを条件に白状するよう、本部長と課長が仕向けたんだろう。


 もちろん、やったことは、広志が悪いのだ。だが、会社の全盛を支え、お客さんと営業職員を虜にした男の末路がこれかと思うと、悲しかった。



♢♢♢



 彼は、就活をしたが年齢や経歴のこともありうまくいかなかった。知人を頼り、仕事を手伝うことで食い繋いでいたが、自分の天性を活かせるものではなく、燻っていた。


 私も知り合いからの仕事の話をもちかけるのだが、施しを受ける感じが嫌だったのだろう。さして知らない私の知人たちに文句を言う。


 彼と会う時は、私が当然お金を出した。今も会社に営業で生き残っていられるのは、彼のおかげだからだ。私はその後、社長賞をもらう成績を出し、女性営業社員の育成リーダーをしている。


 私が会社から評価されていることは、全て、彼がやっていたことと同じだ。むしろ、彼の方が何倍も優れているのに。どうして、こんなことになってしまったのか。



♢♢♢



 広志から、金をせびられることが増えた。


「誰がお前の仕事の尻拭いをしていたと思ってるんだ!」


「お前がうまくやってるように思ってたあの客を、その気にさせたのは俺だよ!」


 そんなことを言われながら。


 30万円を渡した日から、自分からは広志に連絡をしなくなった。広志からも連絡は来なかった。でもまた、しばらくしたら金をせびりにくるだろう。そう思っていた。




「広志さん、亡くなったんですって」


 なっちゃんが、私に話しかけてきた。


「え……本当ですか……?」


「本部長たちが話してて……。泥酔したままお風呂に入って、寝てしまったらしいですよ……」


 信じられなかった。嘘かもしれない。メールを送ってみようか。


 そう思ってスマホを手に取ったとき、鼻血がスマホの画面に、ぼたりと落ちた。


 暗い画面に映る、鼻血を垂らした自分の顔。


「係長! 大丈夫ですか?!」


 呆然とする私に、部下の女の子が慌てて駆けつけ、ティッシュを差し出してくれる。彼女は入社してからずっと自分が指導担当で、今や営業部の稼ぎ頭だ。


 ありがとう、と言って鼻と画面を拭い、マスクをかけた。


「具合悪いんですか? 午後から新人の研修ですが、日程ずらします?」


 彼女は有能で、私の秘書のようなことまでしてくれている。広志に世話になりっぱなしの自分とは大違いだった。


「……良かったら、私の代わりに研修してみない? 急で申し訳ないけど」


 ふと、そう思いついて、考える間もなく言った。彼女は一瞬、え、という顔をしたが、すぐに「ぜひやらせてください!」と笑顔を見せた。


「係長に教わったこと、メモしてるんで大丈夫だと思うんですけど、少し打ち合わせの時間をもらっていいですか?」


 私は、もちろん、と答えた。

 彼女は一度教わってすぐできる器用なタイプだったが、それはこうやってすぐに自分の資料が出せるくらい日々努力をしているからなのだ。だからチャンスにすぐ飛び付ける。


 彼女だけではない。このチームの彼女たちはみんな華やかな成績の裏で努力している。社長や本部長や狩野が知らない涙も幾度となく流しているのだ。彼女たちの本当の姿を認めてあげられるのは自分だけだ。しっかりしなくては。


 私たちは打ち合わせのために会議室に向かった。その日の夜、私は広志の連絡先、資料、歯ブラシから全て、広志に関わる物を捨てた。


 


(了)

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