第2話 藤

 全速力で走る。


 私、何やってんの? 頭ではそう思うのに、彼女から逃げなきゃと思う自分がいる。もうこれ以上、嫌われたくない。会いたくない。無表情で見られるのも嫌だけど、不快そうな彼女を見るのも嫌だ。耐えられない。


 久しぶりに本気で走る。息が荒い。身体が熱い。汗が流れる。


 雨だ。パラパラと私に当たる雨粒が、ひんやりとして気持ち良い。疲れたので足をとめる。胸に手を当てて呼吸を整え、歩き出す。


 傘を持っているのにささないなんてバカみたいだ。バカなんだろう。きっと。


 人がいない方、いない方に進んでいたせいか、中学校とはたいぶ離れてしまった。小学校もこっちじゃなくて。だけど近くに小さな図書館があるから、知らない場所ではない。


 この道を行けば公園がある。一度だけリサと言ったんだけど、藤棚を見て、彼女が怖いと言ったんだ。匂いも嫌がってたな。思い出した。

 

 今、何時だろ? 寒いな。雨が冷たい。小雨だけど。鞄が重いし、足が痛い。傘、さした方がいいのかな? でも、もう濡れてるし。


 学校に行くはずだった。そのつもりだったのに。

 なんで、こんなとこにいるんだろ?


 嫌だな。遅れて行くの。休もうかな。ママは家にいるよね。いろいろ言われるんだろうな。帰りたくないな。


 公園が見えた。リサはいないし、嫌われてるし、行ってもいいよね。

 私は心の中で呟きながら公園に入る。


 誰もいない公園。雨に濡れたすべり台とブランコが寂しそう。

 藤棚と、その下には木のベンチ。


 私は吸い寄せられるように藤棚に近づいた。

 藤の花は雨に濡れて、鮮やかだ。


 甘い香りを吸い込むと、身体が震えて涙が流れた。次から次へと涙があふれて、声を上げて泣いた。誰かに聞かれてもいいや。見られてもいいや。もうどうでもいいって思いながら、私は泣き続けた。


 気づけば雨がやんでいて、涙を手の甲で拭いた私が、家に帰ろうと思い、ふり向くと、少し離れた場所に人がいた。泣いてるの見られたかも。恥ずかしい。


 若草色の着物を身に纏ったおばあさんだ。彼女の髪は淡い紫色で、手には藍色の傘が握られている。

 おばあさんは眉尻を下げ、口を開く。


「驚かせてしまって、ごめんなさいね」


「いえ」


「家の二階にいたらね、急に外が気になって、窓から外を見たの。そうしたら、雨の中、傘もささずに、寂しそうに歩く貴女が見えたのよ。学校は逆だし、体調が悪くて家に帰るのかしら? 四月だし、新入生で、道に迷ったのかしら? って気になってね、公園に入るのが見えたから、わたしも来てみたの。つらいことがあったのなら、わたしでよかったら話を聞くわよ。って、知らないおばあさんじゃ、話しづらいかしら?」


 おばあさんの表情と言葉から、心配してくれているのが伝わってきて、涙が零れる。私は手の甲で涙を拭い、リサとの出会いから今までのことを話し始めた。


 おばあさんは優しくあいづちを打ちながら話を聞いてくれた後、「それはつらかったわね。リサちゃんは、新しいお友達に嫌われないように一生懸命で、それしか見えてない可能性があるけれど、だからと言って、昔からの親友をないがしろにしていい理由にはならないもの」と言ってくれた。


 私は再び泣いてしまった。手の甲で涙を拭く。


「同じクラスなのはつらいでしょうね。でも、クラスは変えることができないでしょうし、自然と同じようにね、他人の心も変えられないの」


 そう言われて、私は小さく頷いた。


「勉強も、学校を卒業したり、進学をするためには大切だとは思うのだけど、柚葉ちゃんは、何か夢とか目標があるのかしら?」


「夢は、ないです」


 リサのことしか考えてなかった。リサと一緒にいる未来だけが、私の未来で。他のことなんて、どうでもよかった。


「そうなの。まあ、まだ、中学一年生だものね。リサちゃんのこと以外に、何か好きなことや、楽しいことがあったら、世界が広がると思うし、少しでも楽になれる気がするのだけれど……」


「世界……」


「学校ってね、大人になれば分かると思うのだけど、小さな世界なの。だから、子どもの頃から学校以外にも、自分らしく生きられる場所があれば、楽しいだろうなと思うのよ」


「そんなこと、考えたこともありませんでした」


 おばあさんは私をじっと見つめ、優しく微笑んだ。


「うふふ。そうなのね。まあ、無理に探す必要はないと思うの。そういう考え方もあるってだけで。ご縁ってね、とても不思議なものだから。つながる時にはつながるし、あるがままであればそれでいいのよ」


「あるがまま……私は私であれば、それでいいということですね」


「ええ、そういうこと。我慢のし過ぎは、未来の自分がつらくなるだけだからね。人生は長いのよ」


 人生は長い、か。


「あの……ありがとうございました」


 私は深くお辞儀をして、「帰ります」と言い、微笑んだ。 


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藤の雨。 桜庭ミオ @sakuranoiro

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