鍋を作って食べた。
久志木梓
鍋を作って食べる。
子どもたちの楽しそうな声が頭に鳴り響いて、目を覚ます。最悪だ。
しょぼつく目をうっすら開けば、くたびれた座イスのクッションを枕に、床の上で寝ている自分を発見する。最悪だ。
寝ちがえ気味に首は痛み、喉はとてつもなく渇いている。最悪だ。
堅い床の上で、体は硬くこり固まっている。最悪だ。
右手を動かせば、コンビニの弁当ガラを触ってしまう。最悪だ。
しょうが焼き弁当のにおいが鼻をつき、タレの感触が右手の指先からする。最悪だ。
左手を動かせば、ボーリングのピンよろしく並んだ空のビール缶をなぎ倒してしまう。最悪だ。
缶が倒れ、缶の底にたまったわずかな飲み残しがはねて左手の甲につく。最悪だ。
最悪な状況から逃げようと目を閉じる。
窓の外からさんさんと照る日光が薄いまぶたの膜を貫いて、何も見たくない眼球を襲う。最悪だ。
ふたたび子どもたちの声が、何も聞きたくない鼓膜を襲う。最悪だ。
明るい日差し。
明るい、未来ある子どもたちの声。
トラックが止まり、トラックのドアが開き荷物を持って、このアパートのどこかの部屋に向かって走る配達員の足音。仕事をしている音。
いっぽう自分は。
最悪だ。
すべてに責められている。逃げたい。逃げたい。逃げたい。それ以外考えられない。
足をもぞもぞさせると、足の間に薄い毛布のようなものが挟まっているのに気づく。何だこれ。
きっとどうせ、ろくなものじゃない。酔って何かした何かだろう。
しょうが焼きのタレがついたままの右手を伸ばして、それをつかみあげる。
……コートだ。
昨晩、Aがくれたコート。
息がつまる。今いちばん見たくなかったもの、思い出したくなかったもの、逃げたかったものだ。
目まいがする。何か違和感を感じて、目をこらす。
薄い薄いひときれのタマネギが、べっとりコートにひっついている。コートをつかんだ右手には、しょうが焼きのタレだけではなく、薄っぺらいタマネギもついていたらしい
最悪だ。最悪だ。最悪だ。
目を閉じてため息をつく。
目を開ける。
タマネギ。コート。何も変わっていなかった。当たり前だ。そんなことはわかっている。わかってはいる。
コートからタマネギをはがす。はがしたタマネギを弁当ガラの上に落とす。
見あげる。
コートを、ハンガーにかけたかった。ハンガーにかけて、室内干し用の物干し竿兼クローゼットにかけたかった。これ以上シワにならないように。汚れないように。
物干し竿を見る。空いているハンガーはない。そんなはずはない。今着ている服のぶんハンガーは空いているはずだ。
ずりずり物干し竿の下まで
ない、ない、ない。
くそ、くそ、くそ。
何もかも上手くいかないんだ。くそったれ。
それでもコートをどうにか、もう少しマシな状態にしたかった。
もういちど這い戻って、散らかった床よりほんの少しマシな場所、座イスの背もたれにコートをかける。
よれて色がはげてシミがある、くたびれた座イスの背もたれにかけると、コートの新しさが際立つ。たとえしわだらけでも。
共通しているのは茶色のシミだ。いつ付けたのかも何でつけたのかも忘れた座イスの古いシミ、さっきコートにつけた新しいしょうが焼きのシミ。
どうにかしなきゃな。ぼんやりズキズキした頭で考える。シミを。だるい。めんどくさい。そんなことに構ってられるか。何もしたくない。
このまま床に溶けられたらいいのに。
そうしたら、全部全部、もう少しマシになるだろう。
あー……。
出口のない、同じところをぐるぐる回ってばかりの思考。どこにも行けない、どうにもならない、無駄な思考。さっきのタマネギみたいに、思考にべっとり貼りつく不快感。
呆然。
ため息。
疲労感。
呆然。
のどの渇き。
Aの顔。
……鍋を、作ろうか。
そう思った。
ゆっくり立つ。頭が痛い。割れそうだ。
痛みが、思考を引きちぎる。
ふらふら歩く。頭が痛い。
窓を開ける。頭が痛い。
また歩く。頭が痛い。
痛みが、強くなってくる。
1K。細長い、人の家というよりは、動物の巣穴だと、そういえば誰かが。頭が痛い。笑って。頭が痛い。見下して。思い出せない誰かが。それでも、頭が痛い。今まででいちばん、マシな場所。頭が痛い。
立つ。キッチンの前。頭が痛い。
出す。水を。シンクに跳ねる。バシャバシャ。音を立てる。水が。頭が痛い。
洗う。手を。顔も。なんで、洗う前に、いつもそう。タオルを用意しないんだ。探す。見つかる。拭く。頭が痛い。
探す。コップを。カチャン。鳴る。コップが、ふれあって。頭が痛い。
ひねる。蛇口を。注ぐ。コップに。水を。ひねって、蛇口を、止める、水を。頭が痛い。
飲む。頭が痛い。
まだ、痛い。乾いている。さらに飲む。キッチンの前で、しゃがんで待つ。頭痛がおさまるのを。
待つ。
待つ。
待つ、待つ、待つ。……
待った。
だいぶおさまってきた。
一口IHの下、収納として使っているミニ冷蔵庫を開けて、土鍋を出す。自炊をするようになって一周年の記念に、Aがくれたものだ。
「自炊二年生となった君には、そろそろ土鍋の風情を味わう
Aはそう言っていた。
シンクの上の壁に吸盤フックでかけた、計量カップをとる。蛇口の下へ。蛇口をひねる。水をはかって、土鍋にいれる。
シンクの下の収納から、キューブタイプの鍋の素を出す。袋に手をつっこんで、取る。包装紙をむく。土鍋に入れる。何も考えずにいたら、クセで4人分いれていた。
具。
キッチン横、本当に冷蔵庫として使っている冷蔵庫を開ける。
中段に豆腐。
上段に鶏胸肉。
下段の野菜室にネギ、ハクサイ。
扉ポケットに豆乳。
「いいか、落ちこむときは水分とタンパク質が足りない。摂取して血と肉を生成しろ」
Aのドグマを思い出す。
いちど冷蔵庫を閉じる。水をゆっくり飲む。待つ。鍋つゆが沸騰するのを。
沸騰した。鶏胸肉を取り出す。
左手に鶏胸肉を持ち、右手にキッチンばさみを持つ。鍋の上で鶏胸肉を切り落として、鍋にいれる。
「肉を切る感覚って生物であんまり変わらないよな。人でも、それ以外でも。同じ生き物なんだなと思う」
ある日のAは、今みたいに鶏胸肉を切り落としながら言っていた。
実習の話だよね?
「実習の話だ。失礼な。なんだと思ったの?」
思い出して、少し笑う。
鶏胸肉を切ったキッチンばさみを、洗剤をつけたスポンジで洗う。
冷蔵庫からネギとハクサイを出す。
ネギを水洗いする。
鍋の上でネギをキッチンばさみで切る。
ざるの上でハクサイを、芯のほうからキッチンばさみで切る。葉は切らないで残す。
ハクサイの芯を洗う。
ざるを振って水を切る。
ハクサイの芯を鍋に投入する。
ざるの上でハクサイの葉をキッチンばさみで切る。
洗う。
水切りする。
鍋に投入する、のはもう少ししてからだ。
「キッチンばさみだよ」
とAは言っていた。
「包丁とまな板を買う資金をキッチンばさみに投資するべきだ。そのほうがずっといい」
もしキッチンばさみでは切れない食材を相手にするときは?
「
Aは答えた。
「キッチンばさみが通じないほど調理の面倒なものを食べたい、汝がそれほど料理に専心したいと思えたとき、初めて善き包丁と善きまな板を求めなさい」
Aは言った。
鍋はだいぶ煮こまれてきた。
ざるにはいっているハクサイの葉を鍋に投入する。
豆腐をパックにはいったまま、一口サイズに手で引きちぎっていれる。
「こうすると包丁で切るより木綿豆腐は味がよくしみるんだ。何よりラクだ」
Aが言っていた。
本当かどうかは知らない。Aが料理を教えてくれるまで豆腐に木綿と絹の二種類があるなんて知らなかった。そんなことを教えてくれる人はいなかったし、豆腐が木綿か絹かなんて気にしながら食べる余裕はなかった。そしてAに教わってから木綿豆腐しか買っていないし、Aの教え通り包丁で切らずに手でちぎる方法しか試していない。
鍋に蓋をする。自分がAの教えてくれた範囲から、出ていないことに気がつく。
だからだろうか。Aが教えてくれること、与えてくれるものを受け取って、何も考えずに受け取り続けた。何も考えずに。Aのことを考えずに。だから、ああなった。
思考は、鍋の噴きこぼれで中断された。
火を止める。
蓋を開ければ、火が通っていた。
眺める。何か足りないなと思う。しばらく考える。忘れていた豆乳をいれる。かき混ぜる。
豆乳鍋ができあがった。
食べよう。
とにかく、食べるべきだ。
考えるのは、腹が膨れたあと。
これもAが教えてくれたことだなと思い、意思の力を全力にして、そこで思考を止める。
食べたあと。食べたあとだ。
使い捨てのお椀と割り箸を取り出す。壁の吸盤フックからお玉を取る。お玉ですくって、お椀に豆乳鍋を盛り付ける。
「もっと君が家事をできるぐらい、いちいち使った食器を洗えるぐらい、元気になったら」
Aの言葉を思い出す。
「いっしょに食器を買いに行こう。今の百均はすごいんだぞ! ただし同じ物はほぼ二度と買えないから、そこだけは気をつけるんだ」
涙が出てきた。
泣きながら鍋を持って、ちゃぶ台(「その言葉を現役で使う人は久しぶりに見たな」ほかになんて言う? 「ローテーブル」)に置く。
座る。
食べる。
豆乳鍋は、おいしかった。
「食レポの上手さってさ、語彙力云々よりいかにその人が余裕があったかだと思うんだよね。食事をじっくり楽しみ言語化するのって、余裕と豊かさそのものじゃないか。だから気にしなくていい。君が上手くできないのは当然だよ。君の食レポが上手くなったら、そりゃ、うれしいけど。すごく」
さらに涙が出てきた。
豆乳鍋は、懐かしかった。
古い記憶がよみがえってくる。
「というわけでこれから豆乳鍋を作る」
どういうこと?
カビかけた、しめった布団にくるまりながら(このときは今よりもさらに最悪だったから、そんな格好でいた)、Aに聞くと、
「君が元気になるためだ」
Aは断言した。
「いやあ百均とスーパーは近くにあるし、君は食事に興味がなさ過ぎてキッチンをあんまり物が置けないラックとして使っているから助かるよ、あははは。これなら埃を払って物をどかせばどうにかなる」
水道、とまってるんだけど。
「なんだって?」
思い出した記憶にニヤリとし、泣く。泣きながら鍋を食べる。
食べる。
飲む。
食べる。
飲む。
食べ終わった。一杯分。
目を閉じる。
目を閉じたまま深呼吸する。
作りたての豆乳鍋のおいしそうなにおい。
しょうが焼き弁当の、ビールの、すえた匂い。
ボロアパートの古い木の匂い。
埃。
冷たい、けれど冬よりはやわらかくなった、爽やかといっていいかもしれない、春の風。
それらがまじった空気を、できるだけ吸い込み、吐き出す。
目を開ける。
腹が据わった。
見ないようにしていた、ちゃぶ台の横、座イスの背もたれにかかった、しわだらけのコートを見る。さっきつけたしょうが焼きのシミを見る。
今いちばん見たくなかったもの、思い出したくなかったもの、逃げたかったもの。
そうじゃないだろう。
これは、今いちばん大切にしたかったことだ。それを、また台無しにしたんだ。昨晩につづいて。
最悪だ。
逃げたい。
逃げられない。
なぜか。
なぜ、最悪のままなのか。なぜ、どこまでいっても逃げられないのか。
当たり前だ。最悪なのは自分自身なんだから、逃げられるわけがない。やってしまったことは変えられない。
それでも、まだ、できることがある。それをやろうと、腹を据える。
コートのポケットからスマホを取り出す。バッテリーはギリギリ残っていた。通知は何もなかった。
それだけで気おされる。情けない。やってみるつもりだったくせに。
目を閉じる。深呼吸。豆乳鍋の匂いと舌に残る味の余韻に意識を集中する。思考を止める。目を開ける。
「昨晩のことについて話し合いの場を設けたいです。場所はいつもの。時間は以下の日時から、第三希望まで書いて返信お願いします」
送信する。
スマホに充電ケーブルを差す。コートのシミをどうにかする方法を検索する。シミをどうにかすることを、シミ抜きというらしい。
食器を捨てる。ついでに弁当ガラも。缶もすみにまとめる。それから洗い桶なんてうちにはないなと気がつく。どうしようか。洗濯カゴとして使っているプラスチックケースに目がいく。これでどうにかならないだろうか。……
Aからの返信は、コートのシミ抜きが終わった頃に届いた。
届いたのは、数字の羅列だった。
希望順をあらわす丸数字と、日時をあらわす数字。
怒りの表現。と同時に、それでもまた会ってくれるという意思表示を、液晶画面に見る。
目を閉じる。もういちど深呼吸する。おしゃれ着洗いの洗剤の匂いがする。目を開ける。
ありがとう、A。
鍋を作って食べた。 久志木梓 @katei-no-tsuru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
歴史小説のためのノートブック/久志木梓
★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 24話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます