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吸血鬼は霊的な存在だ。一度、ヴラディミーラを体重計に乗せたことがあるけど、針はぴくりとも動かなかった(ちなみに身長は一三二センチだ。自己申告より五センチも低かった)。鏡や写真にも映らない。いまもこのiPhoneには彼女をはじめて撮った写真が残っている。しかし、そこには彼女の姿はおろか影さえなく、空っぽのサンルームが写っているだけだった。彼女の寝室に忍び込んだとき。二人で夜の街に遊びに出たとき。甲子園に行ったとき。どの写真にも彼女の姿はない。吸血鬼はアルバムを作れない。
「無駄じゃと言っておろうに」
彼女はわたしがシャッターを切るたびに言う。どこか呆れたように。彼女の肩に手を回し、頬を寄せる。ヴラディミーラの頬は雪のように白く、そして冷たい。雪が舞う夜、込み上げる愛しさとともに吸血鬼の体温を思い出す。
「やめろ。暑苦しい」
「暑さ寒さは感じないんでしょ」
「いや、吸血鬼になってわかった。暑苦しさとはたぶんに精神的なものじゃ」
そう言って、わたしを引き剥がしにかかる。簡単には離してやらない。ヴラディミーラも最後には諦めて一緒にピースサインをしてくれる。アルバムの写真には、わたしの隣にいつも不自然な空白があって、ずっと見ているとそこに彼女のぎこちないピースサインが浮かんでくる。
写真も何も関係なく、吸血鬼の体温を求めて追いかけまわすこともあった。特に夏場の夜は、汗みずくになった身体に吸血鬼の体温が心地よくしみ込んだものだった。
「我で涼を取るでないわ!」
そんなやりとりを昨日のように思い出せる。しかし、ヴラディミーラはすでにこの世にいない。彼女の体温は、もうわたしの記憶の中にしか存在しない。
††† †††
「死なないものなんてないのよ」親戚のお姉さんは言った。「壊れないものも」
あれはわたしが鉢植えの花をハサミで切り落としてしまったときのことだ。お姉さんは、切り落とされた花にいたわるような視線を向けながら繰り返した。
「死なないものなんてない」
吸血鬼は霊的な存在だ。だから、人間や動物のような死に方はしない。吸血鬼は吸血鬼なりの死に方で死ぬのだ。
「たとえるなら押し花じゃ」ヴラディミーラは言った。「我らは年を取らない。老いもせず、死にもせず、ある時点の姿でこの世界に留めおかれる。すなわち、人間をやめた瞬間の姿で」
ヴラディミーラはあまり自分のことを語りたがらなかった。本当の年齢、名前、好きだった食べ物、わたしは何も知らない。かろうじて知ることができたプロフィールも極めて断片的なものだ。それも一時に語られたものではなく、彼女の言葉をつなぎ合わせてはじめてそのあらましを理解することができた。
彼女が人間をやめたのは、十歳前後、たぶん十一歳のときだ。普段は十歳と自称していたが、一度、十一歳とこぼしてから慌てて言いなおしたことがある。きっとさばを読もうとしていたのだ。
戦後間もない神戸の「ちょっといいとこのお嬢様だった」と自称する彼女はふらりとこの洋館に迷い込み、先代のヴラディミーラに出くわした。そのとき彼女は体重を失い、身長は一三二センチのままで留め置かれた。彼女がお師匠様と呼ぶ吸血鬼によって、その系譜の末端に連なることを許されたのだ。
「押し花は生花よりもはるかに長くその姿を留めることができる。しかし永遠ではない。花はやがて色褪せる。我らは霊的な存在じゃが不死ではない。あるいは不死ではあっても不滅ではない。我らを殺す方法は存在する」
「太陽……とか?」
「太陽に身をさらすまでもない」ヴラディミーラは首を振る。「闇に身を潜めようと、滅びのときはやってくる」
彼女たちはそのときを悟るのだという。なぜなら、滅びはたしかな実体を持ってやってくるからだ。
「死期が近づくと、縄張りを守る力が弱まってくる。たとえば、危うい小娘がふらっと足を踏み入れられるくらいには」
目安はおよそ半年だ。侵入者が現れてから半年。そのとき彼女たちは無に帰る。あるいは、その侵入者を吸血鬼としたときに。
「吸血鬼は死ぬんじゃよ、いむる」
††† †††
両親がどこかで生きているのなら、訊いてみたいことがある。わたしの名前のことだ。
箱崎いむる。
三流の漫画家みたいな名前だと思う。苗字はともかくとして、その隣で居心地悪そうにしているひらがな三文字にはどんな意味があるのだろう。辞書やネットで調べたってわからない。同じ名前の人に会ったこともない。「似合いの名じゃな」そう言ってくれたのはヴラディミーラだけだ。「汝そっくりの面妖さじゃ」と。
ヴラディミーラはチェコの女性名だ。綴りはVladimira。男性形にすればヴラディミールとなり、これはロシアのウラジーミルに相当する。スラヴ語由来の古い名前で、その意味を「世界を征服する」と解釈する説も存在するが正確なところはよくわからない。わたしはそれらのことをヴラディミーラから教わった……のではなくGoogleで調べた。
「い、意味など知らずとも問題でないわ」ヴラディミーラは弁解した。「我の名前には歴史を経てきた重みがあるんじゃからな!」
ヴラディミーラはその名前をお師匠様から受け継いだ。お師匠様はさらにその先代のヴラディミーラから。鎖はどこまでも連なっている。吸血鬼は死に、後継者にその名を残す。その名前がいつ登場したかは定かではないらしい。「どうも中世以降、誰かが名乗りはじめたらしい」ヴラディミーラはそう言うに留まった。「一族は東欧の各地を転々としてきた。その過程でチェコ……まあ、その当時は何と言う名前だったか知らんが……を経由したこともあったのじゃろう……」
「歯切れが悪いなあ」
「しょうがないじゃろ。その頃の文献が見つからんのじゃ」
吸血鬼の歴史は、吸血鬼狩りとの戦いの歴史だった。逃げる過程で失われた文献も少なくない。また、現代と違って識字率も低く、紙も貴重だった。口伝に依った伝承も数多く、それらはちょっとした記憶違いや言語の壁によってたやすく失われる定めにあった。初代ヴラディミーラの記録もそんな末路をたどったのかもしれない。
「何より決定的だったのは、お師匠様が日本へ逃れてきたことじゃ」
お師匠様は明治二〇年前後、神戸に移住してきた外国人に紛れて入国した。祖国から携行できる資料は限られたため、その際多くの伝承が失われたという。
「なまじ、紙と文字が市民権を得てきた時代のことじゃ。文献に多くを頼る一方で口伝は廃れ、お師匠様の代ではほとんど残っていなかった。文献の遺失は、そのまま伝承が失われることを意味した」
お師匠様は夜な夜な紙を求めては、記憶している限りの口伝や失われた文献の内容を書き写した。もちろん、師匠様の祖国の言葉で、だ。お師匠様が日本語に通じるようになったのは晩年のことだったという。尤も、通じると言ってもできたのは読み書きだけで喋る方はさっぱりだったらしいけれど。
「お師匠様は我に文献を日本語に訳して残すよう言って、最期を迎えられた。ここに居住の地を定めた以上、この地の言葉で我らの歴史を残していかねばならん、とな」
「歴史ってそんなに大事なもの?」
「我らは死体を残さない。墓も持てない。言葉はその存在を証明するただひとつのよすがじゃ。故に、我らは言葉を神聖視してきた。言葉は我らにとっての魂にも等しい。歴史はその連なりじゃ。絶やすわけにはいかん」
なるほど歴史を残す意義はわかった。ただもうひとつ気になることがあった。
「ミラぽんが吸血鬼になったのっていつだっけ?」
「誰がミラぽんか」
「仮に七〇年前として」わたしは強引に続けた。「その間ずっと翻訳してたんだよね? それだけの時間があったのにまだ訳し終えてないの?」
「ああっ! 我を愚弄しておるな!」とむきになるヴラディミーラ。「異なる体系の言語を覚えるのがどれだけ骨の折れることかも知らずに! 一度スラヴ語を学んでみよ、格変化の豊富さに辟易とするがいい!」
「苦労はわかるよ。わたしも英語の点数よくないし」
「威張るでないわ」彼女は言って、ため息をついた。「考えてもみよ、お師匠様が残したものを訳すだけでも一苦労じゃが、それ以前の文献となるとさらに骨が折れる。言語は多岐に渡り、今日ではすでに使われていない古い言葉もある」
「スラヴ語はもともと同じ言語なんじゃなかったっけ。ひとつの言語を覚えたらその他を覚えるのも簡単だってGoogle先生が――」
「おのれ、余計な知識ばかり貯えよって!」
夜ごと、わたしは館を訪れる。ヴラディミーラはサンルームでナイター中継を聞いていることが多い。踊り、飛び跳ね、拳を振り上げ、応援歌をがなりたてながら。彼女はわたしに気づくと慌てて居住まいを正す。テーブルに向かい、たったいままで書き物でもしていたかのように振舞う。尤も、それも最初の数分だけだ。わたしと話し込んだり、ナイターが白熱するうちにヴラディミーラは自分の使命をころっと忘れてしまう。きっと七〇年間ずっとおんなじ調子だったのだろう。これでは進むものも進まない。
「そんなに、大変なら手伝ってあげてもいいよ? 翻訳」
「そういうことは英語の点数を上げてから言うんじゃな」ヴラディミーラは冷たく言った。「そもそも、書斎に人間を入れるわけにはいかん」
「散らかってるの?」
「し、失敬な」ヴラディミーラは目を泳がせた。それから、言い訳するように続ける。「書斎はいわばご先祖様の魂が眠る霊廟。一族以外のものが入っていい場所ではない」
「眷族でも?」
「眷族でもじゃ」
††† †††
わたしは彼女の眷族ということになっていた。ねぐらに出入りする人間のことをそう呼ぶらしい。それが伝統だと言うけれど、その立場に眷族という言葉を当てはめたのはヴラディミーラだ。言うまでもなく、彼女以前の代ではスラヴの言葉が使われていた。
眷族になったからといって何が変わるわけでもなかった。朝が来れば日光をものともせず学校に向かうし、昼食にはニンニクが効いたペペロンチーノを食べることもある。夜になったらベッドで眠り、また朝を迎える。同級生の首筋に噛みつきたくなったり、十字路で身をすくめるようなこともない。誰もわたしが吸血鬼の眷族になっただなんて気づかなかっただろう。そのことに少しだけ優越感を覚え、また少しだけ残念に思った。
「ねえ、何かないの?」出会ってすぐの頃そう訊いてみた。
「何かとは?」
「眷族になった証みたいな」
「う、うむ。そうじゃな。それを忘れておった」とヴラディミーラは明らかにそのとき思いついた様子で言った。「ちょっと待っておれ」
ヴラディミーラは館の奥に引っ込んだ。数分後、彼女はノートの切れ端を片手に戻ってきた。「契約書」とのことだ。わたしは机上のペーパーナイフで親指の腹を裂き、そのまま契約書に捺印した。その方が雰囲気が出ると思ったのだけれど、ヴラディミーラには不評だった。
「ねえ、そう言えば眷族って何なの?」
ヴラディミーラは「押してから訊くのか……」と呆れてから、「言うなれば、吸血鬼の見習いじゃ。我らはねぐらに迷い込んだ人間を後継者とすることができる」
「じゃあ、わたし吸血鬼になるの?」
「ようやく気づいたようじゃな」ヴラディミーラは邪悪な笑みを作った。「くくく、いまならまだくーりんぐおふしてやってもよいぞ」
「別にいいよ。他になりたいものとかないし」そう返すと、ヴラディミーラは言葉を失った。
その頃はまだ、本気で吸血鬼になりたかったわけではなかった。ただ、そうなってもかまわないとは思っていた。日がな一日、家に籠って気が向いたときだけ机に向かうような生活なんて、それまでと何も変わらない。変わるとすれば、進路に頭を悩ませる必要がなくなるのと、自分の部屋が持てることくらいだ。
††† †††
その頃、わたしは続柄のよくわからない親戚夫婦の家に身を寄せていて、賃貸マンションの一室を居室として与えられていた。そこはもともと夫婦の一人娘である優子の部屋であり、彼女が進学のため京都に引っ越してからは空き部屋になっていた。なっていたはずだった。
優子のことはむかしから知っている。自分の物には何でも名前を書いて、見えないバリアを張っていた娘さんだ。わたしが寝起きしていた部屋にも手製のネームプレートがかかっていた。つまり「立ち入り禁止」の札が。
「なんでまたこの子がおんの!」
優子はヒステリックにわめきたてる。その瞬間、瞳からは理知的な輝きが消え、学芸員を目指す成績優秀な大学生は、駄々っ子に姿を変える。
「ここはうちの部屋やろ!」優子はおばさんたちを部屋の前まで引っ張ってきて言う。ドアにかかったネームプレートを指差しながら。「なあ、これ何て読むん? まさか字も読めなくなったわけやないやろ。答えてや、なあ」
優子は決してわたしには向かってはこない。罵声を浴びせる対象は彼女の両親にかぎられた。
「ゆ・う・こ」優子は口の形を強調して言う。「せやろ。優しい子で優子。自分たちでつけた名前を忘れた分けちゃうやろ。この子がいつから優子になったん?」
嵐はしばらく続く。優子が帰ってくるのを察すると、わたしは急いで私物をまとめてリビングに避難することにしている。日が落ちるまで外で適当に時間をつぶして、夜はテーブルの下のフローリングに毛布を敷いて寝る。
「もう京都には戻らへんから」
優子はそう言って両親を困らせる。放っておけばいいのだ、といつも思う。優子にだって向こうでの生活があって、将来設計がある。大学やバイトの予定が迫ってくれば自発的に京都に帰るくらいの現実性も持ち合わせている。遠縁のわたしにもわかることだ。なのに、おばさんたちは毎度ご丁寧に彼女の相手をする。彼女は自分たちにとって自慢の娘だということ、彼女の将来を楽しみにしていること、彼女が大学をやめるようなことがあれば自分たちはとても悲しむだろうということ。そんなことを必死に説き伏せて懐柔する。機嫌をよくした優子はぎりぎりまで居座ってから実家を後にする。「もう、あの子を入れんといてや」と釘を刺すのを忘れずに。わたしは私物を優子の部屋に戻し、優子の匂いが残るベッドに倒れ込む。
帰郷の度に同じことを繰り返しているのだ。優子だって、まさかわたしが自分の部屋を使っていることを知らないわけじゃないだろう。むしろ、どこか期待している節さえ見受けられる。一度、彼女の帰郷を察してあらかじめ避難をすませておいたときなどは、拍子抜けしたような顔をしていた。尤も、部屋でわたしの髪を見つけるまでの話だけど。
あれはきっと彼女なりの甘えなのだ。おばさんたちは優しいし、彼女がいくら駄々をこねても無視したり叱り飛ばすようなことはしない。むかし、優子が金魚を踊り食いしたり、制服を燃やして焼き芋を焼こうとしたときもそうだった。優子もそれがわかっているからあえて駄々をこねる。両親の気を引くためにあえて問題を起こす。自分が愛されていることを確認するために。
わたしの両親はどんな人たちだったのだろう。優子と同じことをしても受け止めてくれただろうか。それとも愛想を尽かしてしまっただろうか。
無駄だとわかっていても考えてしまうのは、自分も誰かに甘えたいからだろうか。誰かを思いっきり困らせて、どこまで我慢してくれるか試してみたいからだろうか。そんなことをよく考えた。
部屋には至るところに優子の私物が残っていた。子供時代のおめかし服、書道教室の鞄、作文コンクールの賞状、テストと通信簿、空の水槽。自分の部屋だと思ったことは一度もない。わたしはいつだって居場所を探していた。見つかるのは死体だけだった。中学生になってはじめての春休み、優子に追い出される格好で町に出て、吸血鬼のねぐらを見つけるまでずっと。
††† †††
ヴラディミーラと出会ってから、テーブルの下で眠ることはなくなった。優子が帰郷を果たす度、わたしはお泊りセットを抱えて館を目指す。ヴラディミーラは最初、わたしの家族のことを気にかけるようなことを言っていたけれどすぐに何も言わなくなった。夜ごと、娘が出歩いているのを放置しているような家庭がどんなものか察しがついたのだろう。黙って、寝泊まりするための部屋を用意してくれるようになった。二階の東側、ヴラディミーラの寝室のすぐ隣に位置する部屋だ。むかしは客室として使われていたらしく、シングルベッドとチェスト、それからストーブがある。夏は物置からレトロな扇風機を引っ張り出してきて使う。
この館のライフラインの供給源についてはできるだけ考えないようにしていた。ヴラディミーラに訊いても要領を得ない答えしか返ってこなかったし、あんまり掘り下げて灰色の疑惑が真っ黒に変わっても困る。「お師匠様がなんとかしたんじゃろ」と言われれば口を噤むしかないし、「便利だからそれでいいじゃろ」と言われれば頷くしかなかった。
お師匠様は戦中のどさくさに紛れてこの館を手に入れたという。敵国人ということで国に送り返されたイギリス人貿易商の邸宅を乗っ取ったのだ。
「汝のような例外を除いて、ここを知覚できる者はいない。誰にも見えず、誰の記憶にも残らない。その英国人が戦後この国に戻ってくる機会があったかどうかは知らんが、もしそうだとしてもこの館のことはきれいさっぱり忘れてしまったに違いない」
世代的に「敵国」に対して思うところがあったのかもしれない。「けけけ」と性格が悪そうな笑い声を立てるヴラディミーラだった。
もちろん不便なこともあった。たとえば、館にはラジオはあってもテレビがない。
「ああ、あることはあるんじゃがな……」
ヴラディミーラはそう言って、一階の北側の部屋へと案内した。物置として使われている部屋だ。なかなか出てこないので部屋の中を覗くと、彼女は部屋の隅でクーラーボックス大の箱と相撲を取っていた。
「何してるの?」
「ぼさっと見てないで手伝うんじゃ」彼女は言った。「これが地でじがはじまるまで使っていたテレビじゃ」
孫でも紹介するように、テレビらしき箱をぽんぽんと叩くヴラディミーラ。オーパーツじみた黒もの家電だ。頭にアンテナこそついてないものの、画面の右脇に見慣れないダイヤルが二つついていて、それでチャンネルを変えるらしかった。
「これ、四年前まで見れたの? 本当に?」
「ふぁみこんもつなげたぞ」
この場合の「ふぁみこん」というのはプレステとかWiiじゃなくて、文字通りのファミコンだろう。テレビの裏に回ってみたけれど、HDMIはもちろん、赤白線の端子さえ見当たらなかった。
ヴラディミーラは物持ちがいい。なにせ、毎日、同じティーバッグからお茶を淹れているくらいだ。物持ちがいいとかそういう問題じゃない気もするけど、便利には違いない。ヴラディミーラは「館が異界化された時点のせーぶでーたを定期的に呼び出すことで消耗や損傷をなかったことにしている」とわかるようなわからないようなことを言っていた。要はバックアップなのだろうけど、それ以上は考えないようにした。
折角だから物置の中をしばらく観察させてもらった。古い漫画雑誌の束、家電、折り畳み式の自転車、ボードゲーム、エレキギター。ちょっとしたリサイクルショップの様相だが、生まれも育ちも二一世紀の現代っ子から見て目を引くものは何もなかった。早い話がスクラップの山だ。
「吸血鬼になったら、ここに住むことになるのかあ」そう考えると少し悩ましかった。
「また何か失礼なことを考えておるな」
わたしは無視して、「ねえ、この館ってWi-Fi飛んでる?」
「欧陽菲菲?」
「……やっぱりいいや」
お師匠様がどれだけ腕っこきだったかは知らないけど、水や電気をちょろまかす方法があるというなら、それこそ書いて残してほしかったものだ。館にネット回線を引く参考くらいにはなったかもしれない。
††† †††
iPhoneのアルバムを開くと、しばしばヴラディミーラがいた時間へと引き戻される。北野の異人館街、南京町、ハーバーランド、須磨海浜公園、明石城。館のテーブルに観光ガイドを広げ、どこに行くか話し合ったものだ。ヴラディミーラは生まれも育ちも神戸だけど吸血鬼になってからはほとんど館に閉じこもって生活してきた。一方のわたしはこの街に引っ越してきてまだ一年のよそ者だ。観光名所のひとつも訪れたことがなく、また訪れることになるとも思わなかった。ヴラディミーラもきっとそうだったろう。
出かけるとき、ヴラディミーラはわたしをいつも透明にしてくれた。ヴラディミーラ自身も同様だ。そうでなかったら、何度補導されたかわからない。相手には見えていないとわかっていても、警官とすれ違うときはいつもひやりとした。また、ガラの悪そうな人たちとすれ違うときも。すぐ隣でカップルがいちゃつきはじめて気まずい思いをしたこともある。
「見えないわけではないぞ」彼女は言った。「ただ、汝の存在が意味を成す記憶として蓄積されなくなるだけじゃ」
人ごみの中を歩いているときがわかりやすい。わたしたちは決して人にぶつからない。ぶつかっても、相手の記憶には残らない。本当に透明だったら、誰もわたしたちを避けることはできないはずだ。わたしたちは見えている。けれど、記憶されない。人間だけじゃない。警戒心の強い雀や鳩の中にだって堂々と入っていける。鳥たちは逃げない。そのままスケッチだってできる。
動物園などのレジャー施設は夕方には閉まってしまう。お小遣いの貯金だって限りがある。日が落ちても楽しめるところ、見ているだけで楽しいところを選んで回った。ヴラディミーラは高所恐怖症だから、展望台とか観覧車みたいな高いところには足を運びたがらなかったけれど。
「いつか甲子園にも行けるといいね」
それはハーバーランドを訪れたときだった。わたしたちは観覧車を背に、夜景を眺めていた。
「一度、お師匠様が甲子園に行ったことがあると言っておった」
その声は静かで、彼女らしからぬ響きを含んでいた。最初は、青い光のせいだと思った。ヴラディミーラを背後から包む観覧車のイルミネーションが彼女に落ち着いた印象を与えたのだと。
「お師匠様も虎党だったの?」
ヴラディミーラは首を振った。「東欧から来られた方じゃ。ルールもよくわかっていなかったと思う」彼女は海を見ながら続けた。「日本語の勉強でラジオを聞いていて興味を持ったらしい。それで、グラウンドの上空から観戦したそうじゃ。嘘か真か、藤村富美男の打球が飛んできてヒヤッとしたと言っておったな」
ポートタワー、神戸海洋博物館、メリケンパークオリエンタルホテル、対岸には神戸の象徴とも言える灯りが立ち並んでいる。しかし、ヴラディミーラの視線はそのいずれにも落ち着くことなく虚空を彷徨っているように見えた。
「絶対行こうね」わたしは彼女の手を握って言った。
「汝は平気なのか?」ヴラディミーラは急に言った。「思い出が増えるほど、別離が恐ろしくはならないか?」
不意に投げかけられた言葉の素直さに、わたしは胸が締めつけられた。彼女の不安が、恐怖が、手の冷たさとともに伝わってくるようだった。
「ミラぽんは寂しかったの?」
わたしが問うと、ヴラディミーラは顔を真っ赤にして手を払った。
「我は汝の話をしておるのじゃ。汝の。いつ、我の話をした」
わたしたちの背後で、イルミネーションは瞬く間に色を変えていった。青から紫、赤、黄、緑、色という色が立ち現れては消え、様々なグラデーションやコントラストを演出した。
「わたしは大丈夫だよ。ずっとひとりだったもん」
わたしは努めて明るく言う。口にしてから、自分の言葉もヴラディミーラのそれと同じくらい信用ならないことを痛感した。
††† †††
「寂しいならそう言いなさいね」
わたしが花を損なった日、お姉さんは言った。そう言って、次の日は緑地で一日遊んでくれた。
「猫も死ぬの?」
「死ぬわ」
「犬も?」
「そう」
「花も?」
お姉さんは頷いた。
家に帰ると、わたしは鉢植えが片づけられた場所を眺めながら、死に思いを馳せた。
「ごめんなさい」そう言葉にするまで、数日かかった。
「もうしないのよ」お姉さんは柔らかく微笑み、わたしの手の上に押し花を乗せた。わたしが損なった花を加工したものだった。
わたしはその花を大切に保管していた。花を見たくなったときは、まず、その家の押し入れなり引き出しからクッキーの缶を取り出す。ブロンドの少女がプリントされた蓋を開けると、保存袋に入った押し花がある。乾燥材を定期的に入れ替え、あまり長い間光に触れないようにしてきた。
押し花の褪色に気づいたのは塩屋に越してきて間もない頃だ。最初は気のせいだと思った。それが確信に変わったとき、わたしが感じたのは強い衝動だった。どうせ壊れるなら、壊れるのを待つくらいなら、この場で壊してしまいたいという強い衝動。小動物を絞め殺すように押し花を握りしめたまま長い時間が過ぎ、けっきょくわたしは手を緩めた。押し花をiPhoneケースの飾りに使うことにしたのは、その直後のことだ。自分でもなぜそうしたのかわからない。外の光に晒すことで劣化を早めたかったのかもしれないし、お姉さんを思い出すよすがをすぐ手元に置いておきたかっただけかもしれない。押し花を光からかばうときもあれば、迷いを振り切るようにあえて光に晒すこともあった。自分でもどっちが本当の気持ちなのかわからなかった。それはもしかしたら、ただ壊れるのを待っているよりずっと苦しいことかもしれなかった。
ヴラディミーラの体温に触れるときもそうだった。いつも通り彼女をからかいながら、いっそその場で彼女を損ねてしまいたくなることが何度もあった。傷つけたかった。壊したかった。そんな暗い衝動を知られるのが怖かった。誰よりも深く知ってほしかった。そんな自分でも一緒にいてくれるか尋ねたかった。そして、最後に教えたかった。それが、わたしの寂しさなのだということを。
††† †††
夜ごと、わたしは館を訪れる。ヴラディミーラはいつもナイターを聞いている。日が長くなってくると、ナイターがはじまる時間になっても館の奥から出てこなくなる。わたしたちが出会ってから、夜は短くなる一方だった。そんな当たり前のことが忌まわしい。わたしはだいたい、ナイターが終わる時間までいる。休日はそのまま泊まり込むことも珍しくなかった。ヴラディミーラはお茶を出してくれる。一緒にラジオを聞く。深夜番組でヴラディミーラが吹き出さないように我慢しているのを観察する。やがて、早く寝るように急き立てられる。わたしは不満を言いながらも客室のベッドに横になる。わたしはすぐ寝るふりをして、ヴラディミーラがデスクスタンドの灯りを頼りに本を読んだり書き物をしているところを見ている。ヴラディミーラは不意にこちらに視線を向け、起きていないか確かめる。わたしは目を閉じてやり過ごす。ヴラディミーラが視線を外した瞬間に舌を出す。それに気づいたヴラディミーラがため息をつく。わたしは吹き出す真似をして、ヴラディミーラもつられて笑いはじめる。彼女は何事もなかったかのように早く寝るように言い含め、やがて部屋を出て行く。わたしがマントを掴むと、ヴラディミーラは優しく手を叩いてそっとマントから外す。「出て行かないで」と言えればいいのにと思う。一緒にいてほしい。そばにいたい。言葉にするのはいつも布団の中だ。やがて、朝が来る。ヴラディミーラは寝室に鍵をかけて眠っている。彼女は、わたしが昨日と同じ服のままだと怒る。「一度は家に帰れ」と少し悲しげに呟く。こっそり館の中に私服を隠していることはばれていなかったと思う。お腹が減ってきたら塩屋の商店街で何か適当に見繕って買ってくる。寝室の前でパンにかぶりつきながら、ヴラディミーラが起きるのを待つ。こんな日々がずっと続けばいいと、叶わない願いに胸を焦がしながら。
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