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 須磨浦公園は六甲山系西南端を形成する鉢伏山、鉄拐山の斜面やその周辺からなる景勝地だ。桜の名所であり、ハイキングコースも整備されている。


 塩屋から走ってきたわたしは息を整えながら、須磨浦公園駅西の登山口に足を踏み入れた。ほどなくして、少し開けた場所に出る。左手に瀬戸内海が広がる見晴らしのいい場所で、手すりのすぐ内側にベンチがいくつか並んでいた。


 彼女はそこにいた。


「なんで」ヴラディミーラは目を見開きながら言った。ベンチから立ち上がり逃げようとする。しかし、わたしが抱きつく方が早かった。

「むご、むごごご」ヴラディミーラはわたしの胸の中で溺れるような声を漏らした。

「なんでここがわかったのかって?」わたしは言った。「このあたりで日の出を見るとしたらどこがいいかって考えたんだ。前に、もう一度太陽が見たいって言ってたから」


 ヴラディミーラは動きを止めた。本当に溺れてしまったのかもしれない。警戒しながら力を緩めると、ヴラディミーラはわたしの胸から顔を離して言った。


「いや、そんなこと言った記憶がないんじゃが……」


 そう言われるとそんな気がしてきた。


「そうだっけ」わたしは言った。「まあ、いいじゃない。実際、こうして見つかったんだし」

「我にとってはちっともよくないわ!」ヴラディミーラはふたたび激しい抵抗をはじめた。


   ††† †††


 逃げないという約束で、離してあげることにした。


「言っておくが、もう遅いぞ」ヴラディミーラはベンチに座りなおして言った。「館からここまで来るのに何分かかった? 日の出までに帰れると思うか? 我はもう帰れない」

「地図を見たことないね?」わたしはすぐ隣から言う。「ここから館までだって、直線で結べば大した距離じゃないんだよ。須磨と垂水はすぐ隣なんだから」

「無意味な仮定じゃ」ヴラディミーラは山側を振り返って示した。「この山々をいかに横断する?」

「もちろん、空を使うんだよ」わたしは人差し指を立てた。「ここから館まで飛んでいけばいい。そうでしょ?」

「たわけが」ヴラディミーラは胸を張るように言った。「我が高所恐怖症なのを忘れたか」

「とうとう認めたね」わたしは苦笑する。「アルプス席は大丈夫だったのに」

「本物の山とくらべるでないわ」


 わたしたちはしばらく、無言で夜明け前の海を眺めていた。それは覚悟を固めるために必要な時間だった。


「だったら、わたしたちはここでお別れなんだ」

「そういうことじゃな」


 彼女は否定しなかった。否定してほしかった自分に気づいた。俯いた視線の先で、両手が祈るように組まれていた。


「そっか、そうだよね」俯いたまま続ける。言うと決めていたのに、実際に言葉にするには時間がかかった。「じゃあ、わたしを吸血鬼にしてよ。わたしならこの山を越えて行ける」

「たわけ」ヴラディミーラがすかさず返す。「我が何のためにここまで逃げてきたか忘れたか」

「探してほしかったからでしょ」わたしは顔をあげて言った。ヴラディミーラが目を丸くするのを確認しながら続ける。「じゃなかったら、わざわざ電話なんてかけてこないよ。そうでしょ?」


 本当に見つかりたくないのなら、黙って消えればよかったのだ。言いたいことがあるなら手紙でも残せばよかったのだ。電話するにしても夜明けの直前まで待てばよかったのだ。なのに、彼女はそうしなかった。なぜだろう。塩屋の坂を下りながら、わたしは考えた。答えはひとつしか浮かばなかった。


「馬鹿を言うな。我は、我は……」ヴラディミーラは首を振りながら言った。「不義理を重ねたくなかっただけだ。約束を反故にする以上、理由くらいは告げるべきだと思っただけだ」

「それは嘘だよ」

「なぜわかる」

「ミラぽんの目がそう言ってるもん」

「見透かしたようなことを」ヴラディミーラは言いながら、顔を背けた。

「ごまかさないで。わかってる。ミラぽんはそういうとこめんどくさいから」


 ヴラディミーラは顔を真っ赤にして振り返った。


「めんどくさないわ!」


 わたしは思わず吹き出す。どうしてこんなにおかしいのかわからなかった。どうしてこんなに愛おしいのかも。


「馬鹿にしよって」ヴラディミーラはまだ赤みが残る顔で言った。「しかし、何だ……いい顔で笑うようになったな」

「そうかな」

「そうじゃ」彼女は頷いた。「うちに迷い込んできたときは、幽霊が出たのかと思ったぞ」

「だから、あんなに驚いてたの?」

「くどいようじゃが、腰は抜かしとらんからな」

「まだ何も言ってないのに」言いながら、また軽く吹き出す。

「まったく、最後の最後まで我をコケにしよって……」ヴラディミーラはため息をついた。それから、考え込むように腕を組み、やがて決心するように言った。「やめじゃやめ。汝のような者に気を遣うだけ無駄な骨折りというものじゃ」

「それって……」

「汝が自ら選んだ地獄じゃ。覚悟はできておるんじゃろうな」


 ヴラディミーラはベンチから立ち上がり、わたしの正面に回った。彼女の小さな体がわたしの上に影を落とす。ちょうどわたしの視線の高さで、彼女の牙がその出番を待っていた。


「どうした。いまさらになって迷いが生まれたか?」

「そう見える?」立ちあがりながら言った。

「いまならまだ帰れるんじゃぞ」

「もう、いいの。ミラぽんのおかげで言うべきことは言えたから」

「そうか」ヴラディミーラはわたしと向かい合ったまま続けた。寝る前に館内のカーテンが閉まっているか確認して回ること。台所の照明が切れかけていて、一日のうちに使いすぎると点かなくなるが、次の日にはまた元に戻るということ。寂しくなったら、猫と戯れればいいということ。よく家電を拾う穴場。書斎の鍵の隠し場所。そして、この手記のこと。

「この半年のことを書け、いむる。我々が出会ってから、今日までのことを。自分のこと、自分が知るヴラディミーラのことを。それが先代への弔いとなり、歴史の新たな一ページとなる。我々はそうやって歴史を紡いできた」

「わかった」

「頼む」言ってすぐ、ヴラディミーラは海を振り返った。「もう、夜明けじゃな」


 それが別れの挨拶であることはすぐわかった。


「あっという間だったね」わたしは振り絞るようにして言った。「夜がずっと続けばいいのに」

「そうもいくまい」ヴラディミーラは子供の我儘を嗜めるように言った。わたしと彼女自身。この時間がいつまでも続くことを願う、困った子供二人に。

「そうだ。最後にミラぽんの本名を教えてよ」

「我の瞳がなんでも教えてくれるんじゃなかったのか?」

「意地悪」

「かかか」ヴラディミーラは勝ち誇った笑みを浮かべた。「悔しくば、館を隅々まで探すがよい」

「何かあるの?」

「さてな」彼女は本当に何も知らないかのように言った。「さあ、もう時間がない」


 そこからの行動は迷いがなかった。彼女はこちらを振り返ったかと思うと、爪先が触れるような距離まで近づき、わたしを見上げるようにして腕を伸ばした。それがまるでおんぶをねだる子供のように見えて、少し可笑しかった。


 わたしは少し背をかがめて、ヴラディミーラが首筋に牙を立てやすいようにした。彼女の背中に腕を回し、おんぶの要領で持ち上げるようにする。ヴラディミーラが最後にためらいを見せたのは、その次の瞬間だ。彼女はわたしの首に腕を回し、そのまま眠ったように静止した。


「ミラぽん?」

「一度しか言わんからな」

「何?」


 ヴラディミーラは一瞬だけ力を入れた後、消えるような声で囁いた。


「ありがとう」


 その言葉を噛みしめるだけの時間を、彼女は与えてくれなかった。


 あれはきっと最後の照れ隠しだったのだろう、彼女は返事を待たずしてわたしの首筋に牙を突き立てた。


   ††† †††


「吸血鬼ってどうやってなるの?」

「それはこう……我が首筋をかぷっとな」

「その牙ってちゃんと使い道があったんだ」

「うるさいぞ……それでじゃ、かぷっとやられた瞬間、魂が抜き取られる。いわば羽化じゃな。吸血鬼はそうやって生まれる」

「体の方はどうなるの?」

「平たく言えば、死ぬ。吸血鬼は霊的な存在じゃ。肉体は元より必要ない……どうじゃ、それでもくーりんぐおふせぬか」

「うん。死ぬのなんてちっとも怖くないよ」


   ††† †††


 胸に去来する感情をかき消すようにして、牙の冷え冷えとした感触が首から全身へと広がっていく。まるで体中の血が凍ったみたいだ。高熱が出たときみたいに頭がボーッとしてくる。視界が明滅し、暗転する。全身を走る悪寒。暗闇――


 やがて悪寒が止んだとき、わたしを虚無が包み込んだ。

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