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最後の思い出にするつもりだった。「甲子園に行く」という思いつきはやがて二人の約束となり、カレンダーの予定となった。それが、彼女の寿命が尽きる直前になったのは単なる偶然だけれど、二人の思い出を締めくくるのにそれ以上の場所はないように思えた。
甲子園を訪れたのは、九月二八日、スーパームーンの夜だった。追加日程のジャイアンツ戦だ。その二週間くらい前にチケットを取っていたのだけれど雨で試合が流れてしまった。タイガースはその前日、カープに負け優勝の可能性が消滅、一〇年連続のV逸が確定していた。その日はまた、中村GMが逝去してからはじめての甲子園戦だった。試合前には黙祷が捧げられ、両軍のナインが喪章をつけたままグラウンドに立った。タイガースの先発は中村GMの就任後、最初のドラフトで指名された藤浪晋太郎だった。
その日の試合はタイガースが初回に二点を先制したきり両軍とも攻めあぐね、タイガースリードのまま終盤に突入しようとしていた。
ヴラディミーラが話を切り出したのは、六回の裏、二死満塁のチャンスで藤浪が二塁ゴロに倒れた直後のことだった。
「別にかまわないんじゃぞ。我らの歴史は、それは大事なものじゃが、誰かに押しつけなければ存続できないような伝統なら意味はない。我らは、あくまで自らの意思でその歴史を背負うことに決め、今日までその系譜をつないできた。だからこそ価値があるんじゃ」
マウンドで藤浪が投球練習をはじめた。二メートル近い長身がマウンドの上で躍動する様は、スタンドの上段から見ても迫力があった。
「ありがとう」わたしは手を重ねた。「でも、わたしは継ぐよ。ヴラディミーラになる。わたしがしたいからそうするんだ」
「でも、なぜじゃ」とヴラディミーラは問いかける。わたしは膝の上に視線を落とし、iPhoneケースの押し花に目を留めた。「なぜ……か」そしてその理由を話しはじめた。
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タイガース属するセリーグはその年の交流戦でパリーグに大きく負け越し、六月二三日には全チームから貯金が消えるという珍事が起こった。「人気のセ、実力のパ」なんて言葉があるけど、それがここまで如実に表れたのは、交流戦の導入以降はじめてのことだった。さらに七月三日には全チームが借金を背負い、首位から最下位までが五・五ゲーム差の間にひしめき合う大混戦となった。なお、その日のタイガースは球団通算一〇〇〇〇試合目というメモリアルゲームだったが、逆転サヨナラ負けを喫している。
「セ界恐慌だってさ」
「うまいこと言う奴がいるもんじゃな」
前半戦後半、熾烈な上位争いを繰り広げたタイガースだが、勝てば首位ターンが決まる最終戦でカープ相手に零敗を喫し三位に転落した。ちなみに、首位ターンを決めたのは前年五位のベイスターズ。セリーグの混戦ぶりを象徴する出来事だった。
わたしの知識は、その多くをネットに依った。
「ねえ、どんでんってさ」
「じゃから、岡田な」ヴラディミーラはいつも呆れたように訂正する。「現役時代から阪神を支え、八五年の日本一にも寄与した名選手じゃぞ。汝もバックスクリーン三連発くらいは知っておるじゃろう。その年の九月には優勝を一気に引き寄せる二戦連続のサヨナラ安打を――」
「スパイチュ」
「和田じゃ。采配には我も思うところがあるがその呼び方はやめい」
「ヤニ――」
「金本な。もはや言いたいだけじゃろ」
「三三四」
「なんでや! 阪神関係ないやろ!」
これだけはいつも気前よく調子を合わせてくれた。
前半戦を三位で折り返したタイガースは後半戦がはじまってからも首位から三位を行ったり来たりし続け、そのまま死のロードへと突入した。八月からはじまる長期遠征のことだ。その時期、甲子園球場は高校野球大会の会場となるため、タイガースは一か月近くもの間、本拠地から遠ざかることになる。列島を覆う猛暑と、六連戦が続く試合日程の過密さも相俟って、この時期にスタミナ切れを起こす選手も少なくない。まさに正念場だ。ヴラディミーラもよく「中継ぎを酷使してきたツケが回ってこないといいが」と懸念をこぼしていた。タイガースがロード序盤に奪還した首位の座を明け渡すことなく甲子園に戻ってきたのは、彼女にとっても嬉しい誤算だっただろう。
「ふん、他球団が弱いからなんとか逃げきれているだけじゃ」そうぼやいていたが、十年ぶりのリーグ制覇への期待は隠しようもなかった。
「ところでいむる」ヴラディミーラがそう切り出したのはロードに入る少し前だったと思う。「吸血鬼になりたくば、ひとつ試練を乗り越えてみよ」
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「逃げるな」ということだった。
「よいか、いむる。我らは誇り高き一族じゃ」
「はじめて聞いたけど」
「茶化すな」ヴラディミーラは淡泊に言った。「よいか、これは矜持の問題じゃ。もしもこのまま自分の問題を放り出すようにして吸血鬼になったとして、汝は胸を張ってヴラディミーラを名乗れるのか?」
「胸を張れなきゃダメなもの?」
「当然じゃ」ヴラディミーラは尤もらしく頷いた。「伝統を背負う、という選択が軽いものであっていいはずがない。逃げであっていいはずがない。悩め。葛藤しろ。然るべき代償を払え。そうしてはじめて選択に重みが生まれる」
「どうすればいいの?」
「優子とやらと話をつけろ」ヴラディミーラは言った。「自分の居場所を手に入れるのじゃ。それを切り捨ててなお吸血鬼になるというなら、もう何の文句も言うまい。汝をヴラディミーラとして認めてやる」
それが方便であることは、当時のわたしにもわかった。ヴラディミーラはいつもわたしの家庭環境を気にかけていて、折に触れて近況を訊き出そうとしていた。改善できるものなら改善したかったのだろう。それがこの試練の真意だ。わかってはいたけど、わたしは黙って頷いた。これ以上、彼女に心配をかけたくなかったから。
††† †††
最初に優子の家に引き取られたのは、小学一年生のときだった。
おばさんたちは家事を手伝ったり、テストの出来がよかったときはちゃんと褒めてくれたし、家族で出かけるときは一緒に連れて行ってくれた。問題は優子だ。彼女だけは決してわたしを受け入れてくれなかった。おばさんたちからわたしを紹介されたときも無言でそっぽを向くだけだった。子供部屋で二人きりになったとき、優子は部屋の金魚に餌をやりながらこう話しかけた。
「うち、頭がおかしなったんかな。部屋に知らん子がおる気がすんねん」
彼女が面と向かって口を利いてくれたことは一度もなかった。わたしに言いたいことがあるときはいつも金魚を使った。
「お父さんもお母さんも、あの子が来てからおかしくなってもうた」「うちやってまだ子供やもん」
「なんで、あの子ばっかり」
「何か悪いことでもしよかな」
「しゃあないやん。そうでもせんとうちのこと見てくれへんねんもん」
「いなくなればいいのに」
実際、その通りになった。
「ごめんなさい。あなたがいると優子が壊れてしまうの」
おばさんのそんな一言を餞別に受け取り、わたしは次の家に引き取られていった。
優子とまともに会話が成立するとは思えない。何か彼女の注意を引く工夫が必要だった。大学の夏休みを待ちながら、その方法を考えた。
「それにしたっていきなり土下座とはな」ヴラディミーラは呆れた様子でわたしの報告を聞いていた。
「ああいうのは相手の度肝を抜いた方が勝ちなんだよ」
††† †††
「お願いします。部屋を使わせてください。足でもなんでも舐めますから」
優子が部屋に入ってくるなり、わたしは頭を下げた。優子は虚を突かれたと思う。いつものように騒ぎはじめるまで、少し長い間があった。
「ちょ……お父さん。お母さん……」
日曜の昼だ。家におばさんたちが揃っていたのも偶然ではないだろう。優子はそういうタイミングを狙って帰ってくるのだ。
元より土下座ひとつで部屋を奪い取れるとは思っていない。わたしは土下座を維持したまま、作戦を次のフェーズに進めた。
「優子ちゃんってさ、かまってちゃんだよね」
ふたたび頭上に沈黙が訪れた。わたしはそのまま優子の悪口を思いつくかぎりまくしたてた。本心から出たものもあれば、そうでないものもあった。すべて優子の関心を引くためだ。怒って反論でもしてくればしめたものだった。夢中だったから何を言ったかはほとんど覚えていない。どのくらい喋っていたのかも。
「むかしから優子ちゃんのことが大嫌いだった。その部屋で寝起きしなきゃならないのが嫌でしょうがなかった。でも、どうかしばらくはこの部屋を使わせてください。わたしもふかふかのベッドで眠りたいんです」
最後にそう頼み込んで頭をあげると、優子はおじさんの胸で号泣していて、おばさんは顔が真っ青になっていた。「哀れな」心底同情したように言って、十字を切るヴラディミーラ。吸血鬼がやることじゃない。「汝は何と言うか、アレぞ……自分の邪悪さを自覚した方がよい」
「そうだね」とわたしは認める。「でもちょっとうれしかった。わたし、あの家ではじめて悪い子になれた気がしたから」
「しまった。居直りはじめた……」ヴラディミーラは頭を抱えた。
けっきょく、優子と口を利くことはなかった。彼女はおばさんたちの胸で泣くだけ泣いて、仕返しとばかりにわたしへの愚痴を並べたてた。おばさんたちはそんな優子をありったけの言葉で慰め、夜は彼女が好きな料理で機嫌を取った。優子もそれで満足したのだろう。明くる日、部屋から私物をいくつか持ち出し京都へと戻った。わたしは優子のベッドの上でグーッと伸びをして、そのまま眠ってしまった。
逃げたっていいじゃないかとわたしは思う。逃げられる場所があるなら、逃げるべきなのだ。逃げるために必死になればそれでいい。その人はきっと自分の逃げ場を大切にするはずだ。それの何が悪いのかわからない。
でも、ただ逃げるだけなら、あんなに気持ちよく眠ることはできなかったはずだ。そのことではヴラディミーラに感謝している。
††† †††
どうせなら最初から観戦したかった。ナイターがはじまるのは十八時。夏場はまだ太陽がある時間だ。チケットを取るのは秋以降の試合にした。
「他に何か希望はある?」
「連れていってもらう身で贅沢を言うつもりはない」
ところが、顔が贅沢を言っていた。
「なるほど、巨人戦と……」
試合日程を確認し、九月に予定されている対ジャイアンツ三連戦に目星をつけた。
チケットは外野スタンドから、アルプス、内野の順に値段が高くなる。バックネット裏は年間予約席になっていて、ゲーム単位での販売はされていなかった。
「別に外野でも――」
「そうだね、内野がいいね」
一塁側の内野上段、ブリーズシートが第一希望だ。銀傘の下だから雨でも平気だし、シートの幅もゆったりしている。何よりダイヤモンドの間近だから、選手たちの動きをつぶさに観察できる。
「毎度思うんじゃが、汝の軍資金はどこから湧いてくるんじゃ」
「五百円貯金っていうのがあってね。塵も積もればだよ」
「じゃから、その五百円玉はどこから来るんじゃ!」
「悪いことはしてないよ?」昼食代をそのまま貯蓄に回すのが悪いことでなければ、だけど。「ひとりで使えるお金ってね、けっこう限られてるんだよ」
いい話風に締めくくると、ヴラディミーラは追求を諦めた。
「問題は移動時間じゃな」
電車を使った場合、塩屋の館から甲子園までは一時間近くかかる。九月中旬の日の入りは十八時前。試合開始から一時間はそのまま移動時間に消えることになる。
「一時間くらいなら別に――」
「最初から見たいよね?」
「いや、こればっかりは無理じゃて」
「大丈夫。要は向こうに着くまで日光に当たらなければいいんでしょ?」
「なんじゃろう……なぜかいやな予感がする」
「ミラぽんってちっちゃいでしょ? うちにちょっと大きめのボストンバッグがあるんだけど――」
「やめろ! その先は聞きたくない!」
††† †††
阪神甲子園球場は兵庫県西宮市に位置する。収容人数は四七〇〇〇人。阪神タイガースの本拠地にして、高校野球の聖地としても知られる。外壁をツタが覆った外観は誰しも一度は目にしたことがあるだろう。二〇〇七年にはじまった大改修によっていったん取り除かれたが、その後ふたたび植栽が行われ往時の姿を取り戻しつつある。国内では稀有な天然芝の外野グラウンドを有し、内野スタンド上部には銀傘と呼ばれる屋根がかかっている。ライトスタンドからホーム方向へと吹き抜ける海風は「浜風」と呼ばれ親しまれているが、左打者にとっては引っ張った打球が押し戻される難所でもある。
九月二八日の放課後、わたしはヴラディミーラが入ったボストンバッグを背負い(もちろん、重さは感じなかった)、塩屋駅から元町駅を経由して阪神本線に乗り換え、甲子園駅へと向かった。甲子園が近づくにつれ縦縞の法被やユニフォームが目につくようになり、駅から球場までの道のりはその背中を追えばよかった。混雑しはじめたグッズショップで二人分の応援バットとジェット風船を買い、旧一七号門跡に位置する甲子園歴史館に向かう。屋内に入ったところでヴラディミーラを出してあげて、一緒にグラブやバット、トロフィーといった展示を見て回った。ヴラディミーラは展示のひとつひとつの前で立ち止まり、とにかく写真を撮れと浮かれ騒いだ。閉館時間が近づいてくると、名残惜しむ様子のヴラディミーラを引っ張って出口へと向かい、そのままチケットに記載された入場門から球場の中に入った。時刻は一八時前。すでに日は沈み、シーズン最後の伝統の一戦がはじまろうとしていた。
アルプス席はその名の通り、山のように高かった。わたしたちの席はその上段に位置し、チケットが取れた席に腰を下ろすとグラウンドがはるか下に見えた。これは誤算だった。高所恐怖症らしいヴラディミーラにとっては酷な位置取りだったろう。実際、スタンドに入場したときはその場で凍りついたように見えた。「大丈夫?」と声をかけたら「何がじゃ」と自ら席を探しはじめたけれど、シートに腰を下ろしてからもしばらくは虚ろな目をしていて、吸血鬼に顔色なんてないのに真っ青に見えた。「月が大きすぎると逆に調子が悪くなる」と弁解していたけれど、もちろん初耳だった。彼女の目に光が戻るのは、スターティングメンバーの発表まで待たなくてはならなかった。
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「お姉さんと暮らしてた頃のことはよく覚えてないの」
七回表の間、押し花をくれたお姉さんのことをヴラディミーラに話して聞かせた。東京の郊外に住んでいたこと。わたしが損なった花のこと。覚えているのはそのくらいだった。お姉さんの名前、顔、離れ離れになった理由、何も覚えていなかった。気がついたらわたしは違う家にいて、その数か月後にはさらにまた違う家にいた。押し花が入った缶を持って。押し花だけが、お姉さんを思い出すよすがだった。
「わたしはたぶん、いつもみたいに捨てられたんだと思う。でも、なんでかな。認めたくなかった。お姉さんはきっと何かの事故で死んだんだ。あるいは、植物人間になってどこかの病院で眠っているのかもしれない。だから、わたしを手放さざるを得なかったんだ。そんなことをよく考えた。おかしいよね。他の親戚とくらべて、特に優しくされた記憶があるわけでもないのに。ただ、押し花をくれただけなんだよ。それだけなのに、わたしはあの人が忘れられない。思い出す度に胸が締めつけられる。自分でも何でそう感じるのかわからない。それが余計につらかった」
iPhoneケースの押し花を示しながら続ける。
「わたしにはこれくらいしか残らなかった。他には何も受け取れなかった。せめて花の名前くらい訊いとけばっていまでも思う」そこまで言って、わたしはヴラディミーラの顔に視線を移した。「何も知らないまま、受け取れないまま、そういうのはもういやなんだ。だからわたしは知りたい。ミラぽんのこと。吸血鬼のこと。ミラぽんが背負ってきたものをわたしも背負いたい。だから、わたしは吸血鬼になりたい。わかる? わたしも誰かからバトンを受け取りたいんだ」
「いむる……」ヴラディミーラは感激したように言った。
「っていう理由を考えたんだけど、どうかな?」
ヴラディミーラはシートからずり落ちそうになった。「おのれ、この期に及んででまかせか!」
「冗談だよ。半分くらいは本当だから」
「半分は嘘ということじゃろうが!」ヴラディミーラはシートに座りなおして言った。「まったく、本心の読めない奴よ……」
「ミラぽんがわかりやすすぎるんだよ」
「ふん、その煽り方はもう通用せんからな」
マウンドでは藤浪が力投を続けていた。その回の藤浪は巨人のクリーンアップを相手取り、坂本を三振、阿部をセンターフライに打ち取った。スタンドでは、すでにジェット風船の花が咲き乱れている。
「あのね、そんなに難しい話じゃないんだ」わたしは囁くように言った。「大事な人が守ってきたものだから、それが滅びるのをみすみす見過ごしたりしたくないだけ」
ヴラディミーラの顔は見なかった。見られなかった。本当のことを話すのにはいつも勇気がいる。相手の顔を見ながら話すとなるとなおのことだ。
「それより、ほら」わたしはシートの下から鞄を引っ張り出しながら言った。「わたしたちもそろそろ風船を膨らませよう」
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藤浪晋太郎は二〇一二年のドラフトで四球団から一位指名を受けた。競合の結果、タイガースの和田監督がくじを引き当て交渉権を獲得、そのまま入団が決まった。大阪府堺市出身で、高校は強豪の大阪桐蔭だ。生粋の浪速っ子だが、筋金入りのジャイアンツファンとしても知られている。「讀賣に打ち込まれるのもそのせいではないといいが……」とはヴラディミーラの談だ。ミーハーと思われるのを嫌ったのだろう。彼女は藤浪にしばしば辛辣な評を下した。
恵まれた体格の持ち主で、二メートル近い長身から繰り出されるストレートは最速一五八キロを計測している。一年目から先発ローテーションの一角を担い、一〇勝を記録。二〇一五年には三年連続二桁勝利を達成した。いまやタイガースの勝ち頭であり、ローテーションの柱としてなくてはならない存在だ。ヴラディミーラもそれは認めているようで、藤浪が勝ち星を挙げた日にはよく「くじは勝つもんじゃな」としみじみ呟いていた。二八日の予告先発が藤浪と発表されたときも、特に何も言わなかったけれど、その目には喜色が窺えたように思う。
その日の藤浪は、初回先頭打者の立岡にいきなり左中間へと長打コースの当たりを飛ばされた。江越の横っ飛びのファインプレーによって事なきを得たが、その後も片岡、阿部にヒットを許しピンチを招いた。
「あまり調子がよくないようじゃの」初回を何とかしのぎ切った後、ヴラディミーラは呟いた。「今日は荒れるかもしれん。ファン心理が働くのか、もともと讀賣とは相性が良くないしの」
しかし、二回以降は調子を立て直し順調に巨人打線を抑えていった。六回裏、タイガースの攻撃では二死一、二塁というチャンスで藤浪の打順が回ってきたが、和田監督は代打を送らなかった。藤浪の続投が決まった格好だ。結果、藤浪はセカンドゴロに倒れ、試合は後半戦に突入した。スコアは二対〇。ジャイアンツはすでに先発のポレダを下げ、継投に入っていた。
七回以降はピンチの連続だった。藤浪は毎回、得点圏にランナーを背負い、ヴラディミーラも落ち着かない様子で戦況を見守っていた。八回、二死一、二塁のピンチでは、和田監督がマウンドに向かう場面もあった。八回終了時点で球数は一二四球。後に本人が「ウルトラ疲れた」と述べるように相当な疲労がたまっていたはずだ。しかし、その裏、和田監督は二死満塁のチャンスで藤浪をそのまま打席に送る。またも続投だ。守護神の呉が二日前に離脱していたせいもあるのだろう。藤浪は空振り三振を喫し、追加点を得ることなく九回のマウンドに上がることになった。
わたしたちはしばしば無言になり、グラウンドで展開されるプレーのひとつひとつ、選手の一挙手一投足に注目した。満員のスタンドと一体となって声援を送り、バットを叩いた。
九回表、藤浪は先頭打者、阿部を高めの変化球で打ち取ったものの、続く長野にレフトへの二塁打を許し、またもピンチを招いた。逆転優勝を目指すジャイアンツにとっても負けられない試合だ。簡単には勝たせてくれない。
ジャイアンツの粘りは続いた。亀井がサードライナーに倒れ二死となった後、代打高橋由伸がヒットを放ち望みをつなぐと、その代走、鈴木が二盗を決め二死二、三塁とし、長打が出れば同点、ホームランで一気に逆転の局面を作ったのだ。打者は未完の大砲、大田泰示。スタンドは「あと一人」コールの大合唱が続く。ゲームはクライマックスを迎えていた。打つか、抑えるか。この打者との勝負がそのまま試合の結果を決するのだという緊張感が場内にみなぎっていた。気分が悪くなるほどの大音響の中、喉がからからに乾くのを感じながら、わたしはマウンドを見守った。
大田のバットが藤浪のボールを捉えた。ぼてぼてのピッチャーゴロだ。藤浪が一塁へ走りながら送球しスリーアウトとすると、場内は歓喜に沸いた。飛び交うジェット風船。歓声の渦。館では飛んで跳ねて勝利を祝うヴラディミーラだ。どうしているだろうと隣を窺うと、風船を構えたまま固まっていた。
「勝ってよかったね」わたしが声をかけると、ヴラディミーラはびくっとしたように、風船から手を離した。
「そうじゃな」ヴラディミーラは風船を見送りながら静かに言った。「優勝は叶わなかったが、来シーズンにはいくらか期待が持てそうじゃ」
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その夜、館に泊まったわたしはiPhoneの着信音で目覚めた。
『もしもし。いむるか。ああ、公衆電話からかけておる。場所は言わんぞ。ああ、テレフォンカードを何枚か持っておったからな……知らんのか? テレカじゃぞ? ほれ、漫画雑誌の懸賞でもよくあるじゃろ。くおかーど? ああ、たしかに最近はそうじゃった気がしてきた。いや、そんなことはどうでもいいんじゃ。我はもう館には戻らない。ああ、そうじゃ。太陽の下にこの身をさらすことにした。伝承が正しければ、死ぬことになるじゃろうな』
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