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1

 二〇一五年、四月最初の金曜日だった。その夜、タイガースは宿敵ジャイアンツとのシーズン最初の伝統の一戦を制し、わたしは塩屋の洋館で吸血鬼に出会った。


   ††† †††


「褒めて遣わすぞ。人間」


 薄明の空の下、吸血鬼はこちらを睨めつけながら言った。虹彩が薄い瞳に、死人のように開き切った瞳孔がくっきりと浮かび上がっていた。口元から覗く牙は、薄皮を突き破り血管に達するには十分な長さと鋭さを持っているように見えた。それどころか頸椎まで貫いてもおかしくない。深々と突き立てられたら、命はないように思えた。


の姿を目にして、ずいぶんと落ち着いたものじゃ。その表情。なかなかできることじゃなかろうて。尤も――」彼女はそこで言葉を区切り、わたしの手元を見て満足そうに微笑んだ。「手の震えは抑えようがないようじゃがな」

「わたしをどうするつもりなの?」

「さて、どうしたものか」吸血鬼は勿体つけるようにしてその場を何度か往復した。「この場でその華奢な首をへし折ることもできる、四肢を割き光を奪って殺す、生きたまま心臓をえぐり出して殺す、頸動脈から全身の血を吸い尽くして殺す……くくく、これらはまだ生易しい方だ。生きた血の供給源として地下牢につなぐこともできる」


 その一言を最後に、長い沈黙が訪れた。時が止まったような静けさの中、AMラジオの音声だけが時間の流れを主張していた。


「ふ……くくく……」


 不意に、吸血鬼が笑いはじめた。そして、マントを翻したかと思うと、その背中から巨大な翼が飛び出し、サンルームの空間いっぱいに展開した。


「選ばせてやろう」吸血鬼は言った。「なれはどの地獄がよい?」


   ††† †††


 両親はどこかでこっそり生きているのではないかと考えることがある。もちろん、どうやって死んだかと考えることの方がずっと多い。その日見つけた死体と両親のそれを重ね合わせる夜の方が。


 むかしからよく死体を見つけた。橋桁の下、遊歩道の茂み、公園のゴミ箱、排水溝の中、団地の階段、木の洞、軽トラックの下。行く手にはいつも死が先回りした。


 小学校に上がる少し前だから、たぶん東京の郊外に住んでいたときだと思う。緑地の陰で猫の死体を眺めていると、背中から声をかけられた。しわがれた声の持ち主は腰の曲がった老人で、にっと笑った口元で金歯が輝いていた。その光がやけに眩しくて、その他の印象は霞んでしまった。どこか体を触られた気もするけど、それはどこか後ろ暗いものだったようにも、すべての子供に与えられて然るべきぬくもりだったようにも思える。ただ、金歯の輝きと最初にかけられた言葉だけが心に残った。


「危ないよ、お嬢ちゃん」


 どういう意味だったのだろう。街の死角でうずくまる幼女の背中に何らかの危うさを見て取ったのだろうか。


 たとえば、ヴラディミーラが「寄る辺なき魂」と呼ぶものに似た何かを。

「我らのねぐらはある種の異界じゃ。万人に開かれているわけではない」ヴラディミーラは言った。「寄る辺なき魂だけがその入り口を見つけることができる」


 それは古い伝承であり、おそらくは真実だった。


   ††† †††


 その門扉は白く、薄闇の中でぼんやりと光って見えた。


 瀬戸内海に沈む夕日を見送って間もなくのことだった。塩屋の細い坂道を行ったり来たりしているうちにその門扉を見つけた。

 吸血鬼のねぐらの入り口を。


 緑に覆われた丘の麓だった。門扉の向こうは緑陰に閉ざされてよく見えない。目を凝らしながら近づき、何気なく扉に手をかけると、軋むような音を立ててゆっくりと開いた。まるで手招きするように。一歩足を踏み入れると、少し勾配があり、見上げると茂みの隙間からまだ青みの残る空がわずかに覗いていた。


 引き返すこともできたはずだ。そうしなかったのは、わたしが他ならぬ「寄る辺なき魂」の持ち主だったからかもしれない。


 塩屋は神戸市垂水区の小さな港町だ。瀬戸内海の向こうに淡路島を見渡す絶景の地で、明治の開国以降、多くの外国人が移り住んだ。北野のように観光地化されているわけではないけど、異人館のエキゾチックな佇まいがそこかしこに残っている。ヴラディミーラがこっそり暮らしていたのも、そうした洋館のひとつだった。


 門をくぐると急に冷え込んだ気がした。Tシャツの上に二分袖のパーカーを羽織っているだけでは少し心もとない。不意に首筋の冷たさが実感され、先週切ったばかりの髪が恋しくなった。


 道はわずかにうねるようにして頂上へと伸びていた。最後に少し大きなカーブを曲がると、開けた場所に出た。


 四方を木々が覆う中、二階建ての瀟洒な洋館が狭い敷地に佇んでいた。白い下目板張りの壁。緑の屋根と縁取り。一階と二階の正面がサンルームになっていて、ガラス越しにオレンジ色の光が見えた。


 彼女はそこにいた。


 たとえるなら季節外れのハロウィンだった。自分の背丈よりも長いマントを羽織った十歳前後の少女が何か怒ったようにひとつの場所で拳を振り上げ、飛び跳ねていた。動作のひとつひとつがいちいち大袈裟で、身動きする度に、その背中でゆるく波打つ長い髪と黒いマントが揺れた。


 ぎょっと息を呑むとか、黙って後ずさりするとか、そういうのはあいにくと柄ではなかった。短く刈られた雑草を踏みしめながらゆっくりと近づいていく。少女が気づく様子はない。彼女のあどけない容貌と、舌足らずな言葉が徐々に輪郭をあらわしはじめた。


「よく見るんじゃぞ、マートン。好球必打でチャンスを広げるんじゃ」

「オッケーオッケー、内野ゴロとはいえ結果オーライじゃ。一死二塁。いいぞいいぞ、これで先制しないで何とする」

「頼むぞ、福留。菅野を打ち砕くんじゃ!」


 軽やかに飛び跳ね、マントを翻す少女。そして、調子っぱずれな歌声で福留の応援歌をがなりたてはじめたかと思うと不意にこちらを振り向いた。


 凍りつく表情。

 ぴたりと止んだ歌声。

 ナイター中継をBGMに、永遠とも思える時間が流れた。


 先に動いたのは、彼女だった。獲物を前にした蛇のように口蓋を目いっぱい開き、長い牙を剥き出しにしてこう叫んだのだ。


「ぎょええええええ! 人間! 人間がいる!」


   ††† †††


 これがヴラディミーラとの初体面ということになる。


 福留孝介が菅野智之の投じた初球を弾き返しチームに先制点をもたらすのはその直後のことだった。


   ††† †††


 腰を抜かした吸血鬼に手を貸すなんて、誰にもでもある経験じゃないだろう。


「近づくな! 人間! 我は高貴なる吸血鬼の系譜、その末裔に連なる者、ヴラディミーラなるぞ!」


 そう言ってわたしの手を払う。しかし、うまく起き上がれない。もう一度手を貸すと今度は素直に手を重ねてきた。


「ふん、ふほーしんにゅうしゃに礼は言わんからな」自称吸血鬼は手近な椅子に座ると、すげなく手を払った。「一刻も早く立ち去るがいい」


 この時点ではまさか、彼女が本物の吸血鬼とは思いもしない。きっと、アニメとか漫画のキャラクターになりきっているのだろう。マントや牙にしたってドンキとかハンズで売ってるコスプレグッズに違いない。そう思った。だから、こんな気安い口を利く。「どうして?」

「説明する義理はない。帰れ。さもないと……」

「さもないと?」


 食い気味に問い返すと、彼女は言葉を詰まらせた。


「皆まで言わせるな。察しろ」

「そう言われても最近の子供は想像力が貧困で」

「カーっ、貴様……じゃなかった。汝、国語の読解ができん奴だなっ! そうだなっ!」

「さもないと?」

「しつこい!」

「もしかして何も考えてなかったとか」

「ば、馬鹿を言うでないわ」目が泳いでいた。「わかった! 十秒だ! いや、五秒! それだけあれば思いつくから」

「やっぱり考えていなかったんだ……」

「黙れ。では数えておれよ」言うや否や、少女はこちらに背を向けマントの中をあさりはじめた。「えーっと、カンペカンペ。人間が迷い込んだときはどのようにもてなす手はずであったか……」

「四、五……」

「タイムタイム……って、ああ、見つけた! じゃあ、読むぞ。ごほん」


 少女はひとつ咳払いすると、無駄にかっこよくマントを払った。


「褒めて遣わすぞ。人間」


 そして件の寸劇がはじまったのだ。


   ††† †††


 あの夜のことは二人の間でよく話に上った。


「くどいようじゃが、腰は抜かしておらんからな」ヴラディミーラはあくまでそう主張した。「ふん、驚いたことは認めてやる。なぜと言って、人間が迷い込むのははじめてだったからの」


 ヴラディミーラは信用ならない吸血鬼だ。見栄や強がり、ときには優しさから虚言を弄し、わたしを惑わしてきた。あの夜だってそうだ。縄張りに迷い込んだわたしを脅かすために、あんな芝居がかった真似をしたりして。


「仕方ないじゃろ。吸血鬼として舐められるわけにはいかなかったんじゃ」ヴラディミーラはバツが悪そうに言う。「何せ、このナリじゃ。せめて、あと十センチあれば汝のような小娘に侮られることもなかったものを……」

「だから脅かしたの?」わたしは訊く。「吸血鬼の真似事なんてして」

「真似事ちゃうわ! 吸血鬼やもん!」

「地が出てる。地が出てる」


 はっと口を抑えるヴラディミーラ。その口元からは鋭い牙が覗いている。吸血鬼の象徴とも言える部位だけど、彼女にはほとんど無用の長物だった。ヴラディミーラは吸血能力を持たない。また、翼はあっても、高所恐怖症の彼女には地面から数十センチ浮かび上がるのが精々だった。言うなれば飾りだ。


「飾りでも十分なはずじゃったんじゃ。相手が汝でさえなければな」


 ヴラディミーラは忌々しそうに呟く。そうは言っても、年の頃十歳前後の女の子を怖がるのは無理がある。どれだけ道具立てが立派でも、わたしには季節外れのハロウィンにしか見えなかった。


「いーや、汝がおかしい。汝が。あれは普通、絶対ビビる。野良猫相手に練習したときはうまくいったもん」


 夜な夜な出歩いては猫を威嚇し、まだ使えそうな家電や雑誌が落ちていないか探す自称吸血鬼の少女。なんだろう。想像するだけで悲しくなった。


「勝手に悲惨なイメージをつけたすな!」彼女は深々とため息をついた。「こんなところにふらっと迷い込んでくるだけのことはある。末恐ろしい娘じゃよ、汝は」

「そうかな」

「そうじゃ。牙や翼を見ても表情ひとつ変えんかったじゃろ。手が震えて見えたのもすまほが震えていただけじゃったしな……まったく、とんだ恥をかかせよって」

「あれは……恥ずかしかったよね」

「フォローしろ! 多少は!」トーンを落として続ける。「まあ、何より驚いたのはあ毎夜ここに来るようになったことじゃがな……」


 他に居場所がなかったのだと思う。物心ついた頃から親戚の間をたらいまわしにされていた。家ではいつも肩身が狭かったし、すぐに転校してしまうから友達もいなかった。愛想以外で笑ったことはないし、次第にそれもできなくなった。吸血鬼に出くわしても驚いた顔ひとつできなくなった。


「寄る辺なき魂」ヴラディミーラは呟くように言った。「我らのねぐらはある種の異界じゃ。万人に開かれているわけではない。寄る辺なき魂だけがその入り口を見つけることができる」

「何それ」

「古い伝承じゃ」彼女はまたため息をついた。「汝のような者がここに来るのも当然と言えば当然か。普通の女子供を想定してあの台本を書いた我が愚かだったんじゃな」それから急にふんぞり返り、「ふん、寂しい奴め。精々、我に感謝することじゃな。汝のような愛想のないアンファンテリボーの相手をしてくれる大人は周りにはいまい」


 それはお互い様だ、とわたしは思う。


   ††† †††


 あの夜、はじめて向き合ったヴラディミーラの瞳に浮かんでいたものをわたしは忘れない。驚愕と動揺、そしてどこか逡巡するような色が窺えた。わたしを相手に恐ろしい吸血鬼を演じているときもそうだ。彼女の瞳には絶えず寂しげな色が浮かんでいた。親戚たちの顔色を窺って生きてきたわたしにとって、それらのことを読み取るのは造作もないことだった。


 ヴラディミーラは信用ならない吸血鬼だ。見栄っ張りで、素直じゃなくて、物事を何でも大袈裟に言う。でも、その瞳にはいつだって真実が浮かんでいた。「見透かしたようなことを」本人はいつもそう言って、顔を背けたけれど。


 居場所がないのは本当だった。でも、それだけじゃない。わたしはあの瞳に心を動かされたのだ。自分が失って久しいものがそこにあったから。


「またね」あの夜、わたしは別れ際に言った。

「ああ、また……」ヴラディミーラはわたしに手を振りかけて、はっと気づいたように、「って、明日も来るつもりか!?」


 瞳に浮かんだ驚きは、すぐに喜色へと変わった。本当にわかりやすい。だから、少し意地悪をする。


「ああ、そっか」わたしは言った。「春休みの宿題がまだ残ってたんだっけ」

「あ、ああ、そうじゃろ」


 言葉とは裏腹にがっかりしていることが手に取るようにわかった。


「じゃあやっぱり来ようかな」

「じゃあって何!? じゃあって!?」


 もう表情を確認するまでもない。わたしは坂を下って行く。毎日ここに通おうと決めている自分がいた。愛らしい吸血鬼をからかって遊ぶのも悪くないと思ったから。

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