ペンギンの方舟

淡島かりす

彼女の中のペンギン

「これが最後の勧告となります、ミス・クローマ」


 白一色の部屋の中、壁に埋め込まれた液晶に時刻が表示されている。午前十八時二分。正午までにはあと三時間と少し。太陽系で用いられていた六十進数と二十四進数は、もはやここでは大した整合性を持たない。しかしながら新式の時刻表記を受け入れない人間が多いのも確かである。今の時間も新式で示すのならA43-2だが、それを大真面目に提示しているのは行政区に建てられた時計塔ぐらいだった。結局のところ時刻なんていうものは整合性や正確性よりは利便性の方が重視される。

 ジョシュア・エルカがそんなことを考えたのは、相手の視線が時計の方を向いていたからである。少なくとも最終勧告を受けている時に取る態度ではないが、彼女はまるでそのことを気にしていない様子だった。余計な肉が一切ついていない細い体に、ブルネットの長い髪。正直あまり似合っているとはいえない緑色のリップが照明によってヌラヌラと光っている。


「聞いていますか」

「聞いている」


 イーリス・クローマは肉体年齢は十八才。生誕したのは四十五年前である。別にこれは彼女だけの特殊な事情ではない。この惑星に住まう人間の殆どはそうだった。三十年前に全員同時にコールドスリープにつき、宇宙船でこの惑星までやってきたからである。

 ティスリーの悲劇と呼ばれる大災害により、地球の自転が段々と遅くなった。天候は荒れ狂い、季節は乱れ、想定しない気温変動によっていくつもの建築物が崩壊した。ゆっくりと滅んでいく世界で人々は移住先の惑星を見つけ出し、そこへ向かって宇宙船で飛び立った。


「私の中の情報が必要なんだろう?」


 宇宙船「ノア」に詰め込むことが出来たのは人間だけだった。他の生き物はせいぜいサプリメントか薬の形でしか存在を許されなかった。しかし移住後のことを考えると地球の生き物を少しでも多く運ぶ必要がある。移住計画を遂行した機関はノアに乗る人間たちに他の生き物の遺伝子情報を組み込むことを条件とし、それぞれを「方舟」と呼んだ。

 移住後、人々の体から次々と遺伝子情報が抜き取られ、そしてクローンという形ではあるが地球の生き物が復活した。それらを行ったのはジョシュアが属する遺伝子管理機関であり、今二人がいる部屋もその機関の中にある。


「当局は何度も貴女に遺伝子情報を提供するように告げました。しかし貴女は一向に従わなかった。ノア計画の一端を担ったクローマ博士のお嬢さんであることから多少は大目に見ていたが、そろそろ当局の我慢も限界です」

「限界ねぇ」


 イーリスは椅子の背もたれに体重をかけた。合成樹脂の椅子は小さく軋んだ音を出す。


「別にペンギンの遺伝子情報なんてなくてもいいと思うけどね」

「貴女以外は全員遺伝子情報を提供しました。貴女だけ例外にするわけにはいきません」


 彼女に組み込まれたのはペンギンの遺伝子情報だった。彼女の父親は当時まだ研究中だった遺伝子情報の搭載技術を十五才の娘に対して行った。所謂人体実験であるが、滅びゆく世界では倫理が一番早く死ぬ。

 しかし父親は倫理は捨てることが出来ても愛情を捨てることは出来なかった。嫌がる娘をなんとか説き伏せて、好きな動物の遺伝子を入れると言ったらしい。らしい、と伝聞形であるのはすでに当人が故人だからである。宇宙船が飛び立つ前日に、クローマ博士は研究所が崩落して死亡した。


「でもペンギンが生活できるような場所はこの惑星にまだない」


 イーリスの言葉にジョシュアは首を左右に振った。


「まだ優先事項としては低いだけです。それは別にペンギンだけじゃない。熱帯魚の殆どはまだデータベースに保存されたまま出力されていないし、イルカだって同じだ」

「なら、例えば今日ペンギンの情報を抜き出したとして、それが実物となるのはいつになる?」

「それは未定です」

「話にならないな」


 ジョシュアの回答が不満だったのか、イーリスは鼻の頭に皺を作った。若い女だからこそ出来る表情で、ジョシュアはそれが非常に疎ましいものに思えた。


「そんなところにペンギンを閉じ込めるなんて可哀想だ。だったら私の中に留めておく」

「遺伝子情報を長く体内に留めることは出来ないと、貴女のお父様も言っていたはずですけどね」

「人間の遺伝子情報と融合してしまう、あるいは完全に排他されてしまう可能性があるから」


 彼女はつまらなそうに言った。まるでその言葉は聞き飽きたとでも言いたそうに。


「ペンギンは沢山集まっているのが可愛いんだよ。小さい羽根を、こう水平にして。よちよち歩くのを見るのが好きなんだ」


 ペンギンの真似なのか両手を広げる様子にジョシュアは少し呆気にとられた。しかしイーリスはそのまま話を続ける。


「だからパパに好きな動物を聞かれた時に、真っ先にペンギンのことを口にした。ペンギンだったら入れてもいいかな、って。パパはミミズを勧めてきたけど、それはちょっとね。新しい惑星でまたペンギンが見たかった」

「だったら猶更」

「どうしてそこまで急ぐ?」


 彼女の鋭い眼差しを受けてジョシュアは戸惑った。なぜそのような目で見られるか、全く身に覚えがなかったためである。暫くそうしていると、不意に相手の目元が緩んだ。そして同情するような目に変わる。


「なるほど、何も知らなそうだ」

「な、何の話です」

「あなた方の遺伝子情報の回収はあまりに早すぎる。理由として述べられているのが遺伝子情報の融合だ。でもそれに関するエビデンスは一切ない」

「それは、あくまで可能性の話で。でもそういう研究結果が」

「私が最初の実験台で、すぐに実用化されたんだ。だれがそんな研究をする? パパは宇宙船にすら乗らなかったのに」


 ジョシュアは背筋が寒くなるのを感じた。目の前の女が何を言おうとしているのかさっぱりわからなかった。しかし、何か自分の知らないことが自分の身近で起きているということは辛うじて感じ取ることが出来た。


「ペンギンのデータがないからといって、この惑星は困らない。せいぜい私のようなペンギンフレークが嘆くだけだ。なのにどうして急ぐのか」


 イーリスは短く溜息をついて、そこで漸く両手を下ろした。


「パパは私にペンギンの遺伝子を埋め込むのに細心の注意を払った。恐らく私だけにしか適用されなかった処置がいくつかある。私への埋め込みが上手く行ったあと、パパは必要最低限の処置に切り替えた。その不要とされた処理にあなた方は用事がある」

「俺は知らない。そんなことは何も」

「恐らく主要な動物の遺伝子にエラーが出て、それの修復に必要なんだろう。でもあなた方は私に対してとても……とても穏便に事を運ぼうとしている。私に万一のことがあっては困るからかもしれない」


 あるいは、とイーリスは何かを言いかけたがそこで口を閉ざした。ジョシュアは怪訝に思ったが、彼女の視線が自分の背後を見ていることに気が付いて振り返った。部屋の扉がいつしか開かれていて、そこに上司にあたる女が立っていた。

 腰まで届く金髪を綺麗に巻いていて、黒ぶちの眼鏡をかけている。体のラインが出るショートワンピースを着ているのはいつものことで、しかしいつもと違うのは右手に持っているのがコーヒーの入ったタンブラーではなく、円筒型のスタンガンということだった。


「主任?」


 ジョシュアは上ずった声で相手の役職を呼称として口にする。女はジョシュアを一瞥したが何も言わずにイーリスへと視線を動かす。


「マドモアゼル。貴女は早急に遺伝子情報を差し出す必要があります。貴女自身のためにも」

「初めましての挨拶がまだのようだけど?」

「緊急事態なんですよ、マドモアゼル。あまり手荒なことはしたくないし、それを望む者もいない。ペンギンの遺伝子情報を提供いただければ、何もしません」

「スタンガン片手じゃなければ、もう少し信憑性がある。残念だよ、マダム。私は貴女の要望には応えたくない」


 女は眉を大仰に持ち上げた。それが「マダム」という呼び方に対するものなのか、あるいは拒絶に対するものなのか、ジョシュアにはわからなかった。


「貴女はもう少し賢いものだと」

「残念なことに親が優秀だから子も優秀なんてことはないんだよ」

「そのようですね。なぜそこまで拒絶を?」

「単純なことだよ。そちらがペンギンを丁重に扱うとはとても思えないから」


 その答えに女は気の抜けたような息を吐いた。根気よく取り組んだクロスワードの答えがあまりに陳腐だった時と同じように。


「貴女は自分の体の中にペンギンよりも重要な情報があることを理解していないようですね」

「理解? あぁ、そうだね。私は貴女の言うところの重要な情報とやらに全く価値を見出していないから」

「非常に残念です、マドモアゼル」

「お互いにね、マダム」


 次の瞬間、突然窓ガラスが音を立てて砕け散った。ジョシュアは反射的にそちらを見はしたが、視界に入ったものを即座に理解出来たわけではなかった。砕けたガラスの破片が宙を舞っているのを見て、漸くそれとわかった程度には理解力が追い付いていなかった。

 しかしそんな理解の遅延はまだ可愛いものだった。窓の外から飛び込んできた黒と白の何かについては理解するどころかまともに認識すら出来ていなかった。それは綺麗な放物線を描くようにしてデスクの上に着地すると、「グエッ」と一声鳴いた。


「ペ、ペンギン……!?」


 女が驚いた声を出す。その反応を待っていたとばかりにデスクの上のペンギンは両羽を広げ、女に向かって勢いよく飛びあがった。突然の出来事によろけた女は、いつも履いているハイヒールで足を滑らせる。その拍子に手に持っていたスタンガンが宙に放り出された。


「ナイスアシストだ、オリーブ」


 イーリスはスタンガンをキャッチしたと思うと、何の迷いもなく先端を女の体に突きつけた。ほぼ同時にスタンガンのスイッチが入り、女はその場に崩れ落ちた。


「主任!」


 ジョシュアは上司に駆け寄ろうとしたが、それを遮ったのはイーリスだった。ジョシュアの首にスタンガンを突きつけ、楽しそうに口角を吊り上げる。


「出口まで案内してくれ」

「な、なんで俺が」

「手近な人間はあなただけだ。実に合理的かつ人道的だと思うが?」


 同意するようにペンギンがデスクの上で跳ねる。ジョシュアはそれを薄気味悪い気持ちで一瞥した。


「なんで此処にペンギンが。というかどうしてこんなことを」

「質問が多い男だな。仕方がない、人道的手段は捨てよう」


 イーリスはそう言うとペンギンを抱き上げてジョシュアの腕の中に押し込んだ。何を、と問い返すより先にペンギンがくちばしを上下に広げる。カシャン、と金属音がしたと同時に白い光線がペンギンの口の中から放たれた。光線は部屋を縦断して壁を照射。この惑星では高価な純正コンクリートを一瞬にしてチョコレートのように溶かす。わずか数秒で壁には大きな穴が開き、人が通るのに十分な幅まで確保された。


「はぁっ!?」


 何が起きたかわからずにいるジョシュアの腕の中で、ペンギンが「任務完了」と鳴く。そこに至って漸くジョシュアはこのペンギンが本物ではなくロボットであることを認識したが、それが今の状況を何か一つでもマシにしてくれるとは思わなかった。

 光線の熱を感知した警報装置がけたたましい音を立て、それに混じって人の足音がいくつも重なって聞こえた。


「なかなか良い反応速度だな。オリーブ、第一形態だ」


 グエッとペンギンが鳴いて羽を広げる。羽の下から金属と樹脂で出来た何かの部品が出てきたと思うと、体の各パーツが分離した。いくつかの部品は変形し、いくつかの部品は裏返り、再度それらが集結した時には大型のレーザーガンへと姿を変えていた。


「ジョシュア・エルカ!」


 部屋まで駆け付けた初老の男が叫ぶように名前を呼ぶ。荒れた部屋と倒れた主任、壁に空いた穴とレーザーガン。誰がどう見てもジョシュアがその惨状を引き起こしたと解釈出来る。それを悟ったジョシュアは慌てて口を開いた。


「違います、私は」

「お前も反対派だったか。見破ることが出来なかったのは私のミスだ」


 男は小型のレーザーガンを取り出した。反対派、という言葉の意味もわからぬままにジョシュアは口を開く。


「課長、私はただ……」


 ジョシュアの弁明の言葉は、放たれたレーザーが頬をかすめたことにより行き場を失った。頬に血と一緒に汗が流れ落ちていく。


「彼女をこちらに渡すんだ、エルカ。君の行いについてはそれで不問としよう」


 声は柔らかいものだったが、ジョシュアはそれに応じることが出来なかった。頬の小さな痛みが思考を妨げてしまっていた。それを呆けているとでも思ったのだろう、相手が一歩進み出る。ジョシュアはその時、反射的に手に持ったレーザーガンの銃口を向けてしまった。


「あぁ、最悪だ」


 すぐに後悔して呟くが、取り返しはつかなかった。初老の男は失望したように眉を下げて首を左右に振り、そしてそれが終わると冷たい表情でレーザーガンのトリガに指をかけた。


「オリーブ!」


 イーリスが突如叫んだ。ジョシュアが何もしていないにも関わらず、銃口からレーザーが放たれる。殺傷能力はない、殆ど光っているだけのような出力であったが、初老の男が怯んで後ろに下がった。


「今だ」


 イーリスがジョシュアの袖を引いて壁の穴へと走り出す。ジョシュアは一瞬だけ、此処に留まって弁明を試みるべきか考えたが、すぐに思い直してイーリスの後に続いた。背後から怒声とレーザーガンの音が聞こえたが、どちらも足を止めるほどの効力はなかった。建物の外に敷かれた人工芝の上を駆けながら、前方を行くイーリスに声をかける。


「何がどうなっている!」

「私にも半分ほどはさっぱりわからない。ただペンギンにとって良くないことは自明だ」

「そんなにペンギンが好きか。ロボットなんて作るほど」

「その子はオリーブだ」


 いまいち話が噛み合わなかった。だがここはハイスクールでもなければ面接会場でもない。ジョシュアがいくらここで彼女の応答について文句を言ったところで意味がないことは予測出来た。


「これからどうするつもりだ、ミス・クローマ」

「イーリスでいい。まずは遠くへ逃げる。全ての戦略的撤退の基本だ」

「なら、俺についてこい。職員用のエアスクーターがあっちにある」


 その言葉にイーリスが振り返った。


「随分協力的だな。巻き込んだのは私だぞ」

「あそこまでやったら、どうせクビだ。でも退職金はいただく主義なんだよ」

「素晴らしいな。私のパパには見舞金も出なかった」

「あの状況で出ていたら逆に驚くよ」


 相手が何を考えているかはジョシュアにはわからなかった。勿論、今しがた起きたことも。何か自分の知らないことが起きていて、自分はその渦中にいる。それが単に気に入らなかった。

 方向転換し、今度は自分が先導する形で走り始める。全力で走るのは久しぶりだった。まだ地球にいた頃のことを思い出す。全く楽しい思い出ではなかったが、懐かしさだけはあった。


「昔からそうだ。俺はいつだって無関係で、周りは勝手に進んでいく。そんなのはもううんざりだ」


 吐き捨てるように言った言葉は鳴り響くサイレンの音で掻き消された。ジョシュアは地球にいた最後の日を思い出す。利用されるだけされて、謝罪もなければ嘲笑すらなく忘れ去られる。今ここでイーリスから離れたら、また同じことになるだろう。それだけはどうしても避けたかった。周囲から見ればあまりにちっぽけな自尊心を、それでもどうにか守るために。


「ところであなたはペンギンは好きか?」


 場違いな質問がイーリスから投げかけられる。ジョシュアは走りながらも器用に肩を竦めた。


「さぁね。そっちのプレゼン次第だよ」


 レーザーガンが「グエッ」と鳴く。目的の見えぬ逃避行の門出にはあまりに相応しい鳴き声に、ジョシュアは大きなため息をついた。


END.

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