東風。
えーきち
ゼンマイ仕掛けの季節風
コチ、コチ、コチ……
壁に掛かった古い振り子時計は実際の時間よりも少し遅れて今やっと六時になった。
窓をたたく雨と葦笛のような風が、ゼンマイ仕掛けの不安定なリズムを賑やかに飾る。
障子を開けると、霞む視界の向こう側で、庭の隅にひょろりと生えた二メートルほどの一本の木がゆらりゆらりと大きく円を描くように揺れている。
長野の親戚の家に生えていたまだ十センチにも満たない小さな株を根から掘り起こしもらってきたのは五年……いや、六年前だったと思う。
裏の軒先から道路に飛び出し邪魔なので根本から切ったら爆発的に増えてしまったと親戚は苦笑いを浮かべていたけれども、タラの芽なんてなかなか買う機会はないから、毎年春先になれば当たり前のように食べられる自然の恵みがとてもうらやましかった。
ゴールデンウィーク初めに親戚の家に遊びに行った時、大皿に山盛りになったタラの芽の天ぷらを食べながら、小さな株を根っこから持って帰ればうちの庭でも育つんじゃないかな? と思い立ったのが切っ掛けだ。
それが今や愛知の住宅街の庭でこんなにも大きくなっている。
三月が近くなると毎朝居間の窓から庭を眺め、今年はいつタラの芽の天ぷらが食べられるかそわそわしてている。
コチ、コチ、コチ……
永い冬もいよいよ終わると思った三月の頭から、たまにやんでは一週間も降り続けた雨。天気予報ではなたね梅雨が早まってるなんて言っていたけれども、吹き荒ぶ風でまるで真冬のような寒さだった。
雨どころかこの間は霙が混じっていた。
今年の天気予報ほど当てにならないものはない。
なたね梅雨と言えば、菜の花が咲く頃に降る暖かい長雨のことを言うのに。
肩透かしをくらった。そろそろ暖かくなってくる頃だと思っていたから。
三月になっても家の中まで寒い。
ヒーターもこたつにも、まだまだしばらく現役だ。
春の訪れる気配はまるでない。
タラノ木から芽が出てくる気配も微塵もない。
冷たい雨と冷たい風に曝されて、タラノ木はぶるぶると震えている。
モノクロの庭が色づくにはまだ遠い。
コチ、コチ、コチ……
三寒四温と言うけれども、今年は『温』がやってこない。
年が明けたばかりの方がむしろ暖かかった気さえする。
まったく安定しない天気。三月としては近年稀にみる寒さ。
例年通りなら雨が降るたびに次第に暖かくなってきそうなものなのに、昨日はなんと雪が舞った。
三月も半ばをすぎたのに。
相変わらず最低気温はマイナス、最高気温だってやっと十度を超えるくらい。
庭はまだ真冬から景色を変えていない。変わったことと言えば、少しばかり朝がくるのが早くなったくらい。
遅れてきたゼンマイ仕掛けの振り子時計のせいでそう思うだけではないはずだ。
誰も住まなくなった実家を取り壊す時に、なんとなく持ってきた昭和からある振り子時計は、今やいくらゼンマイを巻き直しても、大きな針と小さな針は時の流れに置いていかれる。
部屋の飾りと癒しのリズムとしての機能しかない。あとは精々懐古趣味か。
不安定な時を刻む時計。
今年の天気はまるで、そんなゼンマイ仕掛けの時計のようだ。
コチ、コチ、コチ……
三月も後半に差し掛かった頃、ネットで天気予報を確認するといよいよ来週から暖かくなってくるようだった。
そんな時、三月最後の土曜日に近所の大公園で町内会主催で開催される花見のお誘いがあった。
また、どこの桜もつぼみだけれども。
でもいよいよそんな時期だ。一週間も暖かい日が続けば、きっと桜だってみんなの期待に答えて一気に咲き誇ってくれるに違いない。
タラの芽だって……庭に出て木を見上げると、トゲトゲの木の真ん中ほどから分かれた枝の先端に小指の先ほどの小さな小さな蕾があった。
芽だ。
タラの芽だ。
直径五センチほどの木をぐるりと見回すと、ここにも、ここにも……あっ、こっちにも。
調べると、タラノ木は木の先から芽が出るだけみたいに書かれているけれども、庭で大きく育っているタラノ木は枝分かれもしているしわき芽もたくさんある。
ネット向こうのタラノ木仲間と情報交換をしていた時にどうやったらそうなったのか聞かれたけれども、親戚の家から持ってきた小さな木を庭の隅に植えただけで、それ以上一切手をかけていないからわからなかった。
本当に何もしていない。植える時に土すら作っていない。
ネットで調べると『こうやって育てましょう』と、色々面倒くさいことがたくさん書いてあって目が滑った。
日当たりが良く水はけの良い所に培養土を入れ耕し一ヶ月ほど寝かせましょうとか、肥料の入れすぎは根腐れや軟弱な木に育つ原因になりますとか。
芽を取る時は一番芽以外を取ったら立ち枯れしますと書いてあったけれども、昨年は芽を取った所から次の芽が出てきたので二番芽も三番芽も、何ならわき芽を採っても未だ元気に育っている。片っ端からわき芽を摘まなければ枯れたりはしない。
この芽が親指よりも大きくなったら根元から摘んで天ぷらにする。
サクサクの衣と旨味の詰まった春のほろ苦さ。
お店で頼めば『たったこれだけ?』と零してしまいそうなほどの天ぷら盛りで、少なくとも七百円は取られる山菜の王様。
ああ、早く食べたい。
コチ、コチ、コチ……
どうなっているのか、天気予報は?
週間天気予報どころか明日の天気――いや、数時間先の天気すら当たらない。一時間ごとに変化していく天気予報は、もはや予報ではなく天気報告だ。
そんなものわざわざ報告されなくとも窓の外を見ればわかる。
来週から暖かくなると予報が出た次の日から一週間の雨。
先週ほどの、刺すような寒さはない。暖かくはなっている気がする。
けれども厚い雲に陽をさえぎられた三月末は、一分咲きほどの桜と、中止になった町内会の花見と、大きくなってこないタラの芽と。
湿った空気が窓から見える世界を暗く塗りつぶす。
でも、これが本当のなたね梅雨だったら、雨が上がった今度こそパンパンに膨らんだ期待が弾けて辺り一面一斉に春色に染まるだろう。
コチ、コチ、コチ……まだかな?
コチ、コチ、コチ……雨、やまないかな?
コチ、コチ、コチ……今日も雨……
コチ、コチ、コチ……今日も、また今日も……
コチ、コチ、コチ……あ、雲が……
コチ。
東風。 えーきち @rockers_eikichi
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